日常も友情も、壊れるまではその脆さに気づかない。
真っ逆さまに落ちて壊れる前の、居心地の悪い浮遊感が画面を満たす、ジークアクス第6話である。
ここまで5話、常時MSバトルを画面に満たして鋼鉄の興奮を作り上げてきたこのアニメだが、今回はバトルを一旦止めて物語の潮目が変わる瞬間を、相変わらず超ギッチリな情報量で描いてきた。
僕は体内にアクション分解要素が薄いので、正直この陰鬱で重くて痛い手触りのほうが、舌と胃には馴染む。
違約金一発で破滅できる、黒も真っ黒な非合法ギャンブルが序盤宿していた、奇妙に爽やかなスポーツ味…平凡な閉塞感を打破し、ここではないどこかに飛べるキラキラな期待。
それはシイコと黒い二連星の血でどっかにぶっ飛び、今回コロニーに政治の季節と戦争の匂いが近づいてくることで、もう一つ様相を変えつつある。
前回母親が寄り添ってくれない(と、子どもは感じている)マチュの青春に歩調を合わせ、屋上で同じ景色を見てくれたように思えたアンキーは、ジークアクスに爆弾を仕掛け、情報を売ってアジトを引き払う算段を今回つける。
クランバトルで荒稼ぎして、苦しいまんまの現実を突破できそうな幻影は、キシリア来訪を触媒に一気に政治と戦争の色に染まるコロニーの中で、急激に醒めていく。
劇場先行版でクランバトルに感じていた”ルールのある闘争”という幻が、第4話で吹き飛んだように。
それはあの時、シイコの鮮血をペンキにシュウジに暗い影が伸びたのと同じく、既にそこに在って視聴者の目に止まらぬよう、巧妙に隠蔽された影だったのだと思う。
MSが人殺しの道具でしかないことも、ジオンが勝手な政治の季節が続いていることも、停戦してなお人類全体を巻き込む絶滅戦争の火種がチリつくことも、1クールでは知り切るために異様な速度と密度に押し込められた物語の中、確かに示唆されていた。
マチュがそれに包まれ守られながらも、だからこそ忌避する”普通”が、黒い悪魔の襲来によって紅蓮に燃え盛りかねない終わりの気配も、思えば強襲揚陸艦がコロニーの空を占拠した時から、静かに鎮座していたのだ。
同時にマチュのありふれて贅沢で、普遍的な思春期の棘がガンダムとキラキラに出会ってしまったことで、なにか答えを得ていくのではないかという予感(期待?)も、嘘になってはしまわない。
人すら殺せる特別さに酩酊し、特別な輝きと特別な少年の隣を約束してくれるドレスに身を包んで、当たり前に幸せな不幸を飛び越えていけるかもしれないという、ピュアな胸の高鳴り。
それは確かにあって、既に不幸と非日常に慣れている…慣されてしまっているニャアンの方が、そのフラジャイルな手触りを慈しんでいる感じも受ける。
次回色んなものがメガ粒子砲の光に崩れて、当たり前だと思っていたものを壊され奪われて、ようやっとマチュがニャアンと対等な”友達”になれるってんなら、ひどく悪趣味で残酷ながら、公平で適切な話運びだなとも思う。
政府の中枢で必死に働き、中立と平和を維持するべく彼女なりの戦いを続けている母に、マチュはフツーの高校生らしく共感を寄せない。
解ってくれない大人に、優しくしてくれない身内に、反発しつつ甘え、どこにでもある言葉足らずなすれ違いに擦過傷を受けて、特別になれるどこかへ身を投げていく。
しかし情勢が変わり、サイド6が複雑怪奇な戦後(あるいは一時的な戦争停止状況)の焦点となったことで、彼女をガンダムで戦わせてくれる状況も変貌していく。
…あるいは、日常も非日常も素顔を晒す。
「軍のスペシャルなプロトタイプを、少年少女が盗み出して青春の自己実現の助けとする」という、奇妙に歪なロボット・ジュブナイルの類型。
そこに「本来的に存在するシビアな政治と暴力の力学が、全部ぶち壊しにするくらいの圧力で軋みだした余波は、マチュが願うほどMSはどっかへ飛び出していける魔法の箒ではなく、人殺し出来る特権は彼女が知らなかった場所において、ひどくありふれた特権(ともすれば束縛)でしかないと暴いていく。
唐突に空から降って湧いたジェットパックおじさんに殺された、軍警の死体は複雑な政治装置に処理されて、何事もなかったかのように透明にされていく。
可能ならば殺さず死なないほうが当たり前に善くて、その当たり前を必死に守るために、タマキ・ユズリハはフツーの仕事を頑張ってきた。
そんな常識、花のJKには当然実感できるはずもなく、適正あるガキを熟練兵以上の戦闘マシーンに変えてしまう呪いのツールに魅せられ、謎めいて素敵なガンダムの妖精に恋して、殺せる私を目指して突っ走ってきた。
それが特別だと信じたから、ニャアンに奪われて(奪われたと思い込んで)思春期の棘で刺すわけだが、ニャアンがマチュとの日々を大事に思うように、マチュもまたニャアンを憎むべき泥棒猫とだけ、感じているわけでもなかろう。
自分が身を預けていた犬のねぐらが、どんだけドス黒く生臭い、アングラ人殺し賭博に首突っ込むなら”フツー”でもある渇きで満ちていたかも、盗み聞きに思い知らされたわけだし。
マチュとニャアンがそれぞれ抱え込んだ思春期の懊悩を薪に、オメガサイコミュは良く燃える。
それはいつアースノイドとの軋轢…あるいは戦勝国内部にくすぶる勢力争いに火がついてもおかしくない、戦争を前提とした日常を睨みつけながら開発された。
いつか使うからこそ作ったのであり、それはサイコガンダムとその心臓をひっそり作り上げていた、連邦超タカ派も同じなのだろう。
かつてエグザべくんがシャリアを遠目で見ながら訝しんでいた、終わったはずの戦時に捕らわれ続けている違和感。
イズマにムラサメの子どもが来ている事自体が、シャリア・ブルの終わらない戦争こそが正しく世界を見ていたことを、証明もしている……のかなぁ?
平和を装いつつも世界は発火寸前で、中立コロニー内部に捏造された日常はいつでも壊れてしまえて、常識から逸脱した激ヤバ競技に見えたクランバトルも、本物の暴力装置が効率的に政治を始めるまでの遊戯にすぎない。
そういうシビアなリアルが近づく中で、マチュは極めてありふれて幸せな思春期の身悶えに苦しみ、人殺しの道具に突破口を求める。
とはいえ人を殺したいわけではなく、キラキラがもっと見たいだけなわけだが…。(ここら辺、シュウジのニュータイプなヴィジョンが、スプレーアートとして世界に刻まれてるのと共鳴してる印象)
たとえ血塗られた戦争の遺児として作り上げられたとしても、ガンダムに乗ればマチュは特別なキラキラを見れるし、特別な男の子とMAVでいられる。
それが青春にのぼせた幻でしかないことを、シイコを貫いたサーベルとニャアンにも着れたドレスが教えつつあるが、それでもマチュはすねた顔で塾をサボり、進路調査票を白紙で提出し、そのSOSを母親が(自分の望む形で)受け止めてくれることを、ずっと望んでいる。
この極めてフツーな思春期姿を、甘えてんな…と感じると同時に、ひどく切実で痛みに満ちた、普遍的なアドゥレセンスの味だなとも思わされている。
正しくも賢くもないからこそ、ゴリッと甘苦く懐かしい味がするのだ。
このマチュの身悶えが、いつか答えをゆっくり得ていくフツーの青春では終わらない火種が、今回一気にコロニーに流し込まれた。
キシリア派とギレン派の対立に翻弄されるエグザべくん、迫りくる暴威にパニックになっていくイズマ行政、悪徳を煮詰めた廃墟に光る赤いゴーグル。
確実に何かが終わる気配は、今までコロニーの外で展開していたクランバトルが人々の生息域に侵襲し、「死にたいやつは死んでろよ」ではすまない災厄を撒き散らすのだと告げる、次回予告に結晶化していく。
しかしそれはまた一つ、予断と欺瞞が引っ剥がされるに過ぎない。
ジオンが勝ってしまったUC0085も、サイコミュを積むべく肥大化したMSも、
当たり前の平穏に微睡んでいられるフツーの場所ではなく、少年少女の自己実現をキラキラ助けてくれる鋼鉄の妖精ではなかった。
残酷だが公平だ。
同時にそんな場所にも当たり前な思春期の懊悩があり、微かに燃える恋と憧れがあり、ここではないどこかに飛び立てるという期待と活力が、確かにある。
それは紙一つ隔てて、一応は満たされた日常を謳歌できる僕の現実なるものと、元々異常だったしそれこそが平常でもあった、血塗られた時代を近づけていく共鳴具だ。
マチュの甘えてありふれた青春と、ニャアンの擦り傷まみれで無様な思春期が、確かにあの改札で運命に惹かれてぶつかり、どこかへ動き出した律動。
そこにシュウジとガンダムがどう関わるのか、相変わらず(それがあるとして)本心ってのを見せない彼からは読み切れないが、しかしすれ違いと衝突と余裕のない拒絶もひっくるめて、彼女たちの日々は甘酸っぱく懐かしい。
皆にそういう時代があり、僕はなんとか生き延びそれなりの傷を帯びてここまで流れ着いてきた以上、”懐かしい”という距離感で身を寄せるしかないけども。
確かに眼の前五センチの狭い視界で、焼き付くような”今”に息苦しく追い立てられ、特別な何者かになりたいと切望しつつ、フツーでしかない自分の影に怯えていた時代は、僕にあった。
今もその残響に囚われて、抜け出せていない気配は濃いけどさ。
ともあれトゲトゲな口喧嘩と健気な餃子パーティーで、凸凹素敵な青春を送れるための揺りかご(タマキが大人として政府関係者として、夜遅くまで働いて守りたいもの)は、次回壊れるほどに揺すぶられそうである。
そうやって窒息するほど甘ったるかった”フツー”というおしゃぶりを外されて、自律呼吸を余儀なくされた時、マチュは何を失い何を手に入れるのか。
なかなかに怖いが、なにしろ1クールしかねぇんだからこの速度でもって、自分が身を投げた青春が自由への飛翔などではなく、真っ逆さまに落ちている途中なのだと思い知ってもらわなきゃ、墜落地点も見えてこない。
落ちてなお生きれるかは…まぁ成り行き次第だわな。
初のコロニー内戦闘をサイコ”ガンダム”とムラサメの子どもが担うのが、良い象徴の使い方だなと思う。
あまりにも分厚いガンダム文脈の中、特別の代名詞である主役ロボがマチュに約束してくれた、圧倒的な暴力と自由への御者は、同じドレスを着込んだニャアンにも動かせた。
なら”ガンダム”が敵にもなって、サイコミュが軍警のスラム潰しよりもっと苛烈な暴力を連れてきて、自分が特別になれると思っていた手立てがどんだけ血みどろなのか、同じ子どもが教えるのがスジではあろう。
機械の心臓となることで己を満たす、マン・マシンインターフェースの完成形は、サイコミュに囚われたマチュの未来図なのか。 そこら辺にも切り込んでくれそうで、次回市街戦に展開するだろう壮絶には、暗い期待が高まる。
竹デザインやらハッピーなEDやらに高められた、「ガンダムで青春ど真ん中!」な期待感は見事に裏切られた…っていうより、そうなりたかった/そうあるべきだった夢の残照として、結構大事かなと改めて思っている。
今回描かれたニャアンの本棚に垣間見えた、地に足をつけてどん底からフツーの幸せを見上げる視線に、既にフツーに満たされている(からこそ反発する)マチュは共鳴できない。
そんな断絶は人間の当たり前で、それでも二人は確かに、一緒にいて幸せだったのだ。
一緒に何処かへ行きたいと、奈落に身を投げたのだ。
自業自得というには、運命だの政治だの暴力の装置だの、あまりにも自分の外側にある大きな車輪に引きずり回されている、少女たちの青春。
巨大にすぎるサイコミュ・ガンダムでキシリアという駒を盤面から排除し、敗戦からの捲土重来を狙う連邦タカ派の暴走が、そこにどれだけ深い傷をつけるのか。
生まれた時から”フツー”なんて無かっただろうドゥー・ムラサメが、見つめるキラキラはどんな色なのか。
それを見つめ見届けなければ、マチュたちのジュブナイルがどこに行き着くか、一緒に走ることはもう出来ない。
まぁ、最初からそういう話だったんだろう。
そうならなければ良いなと、僕も甘ったるく思っていたんだけどさ。




というわけで雨中の激しい衝突に関わらず、ニャアンはマチュと楽しい時間が続くよう餃子を不器用に作り、シュウジは彼女の香りに鼻を近づける。
そこにセックスの気配を感じるのは、やっぱマチュの脳内がそれでパンパンだからこそだと思うわけだが。
エアロックの向こう側の自然な色彩へと、極彩色の闇に囚われた彼女は、混ざることが出来ない。
置き去りにしたりんごは知恵と罪の象徴…とか、あんま過剰な読みを投げ込まないほうがこのアニメ、素直に食える感じもあるけど。
確かにそこに友だちがいて、でも自分の側には入ってくれなかった名残を、ニャアンは見つめている。
ここでりんごを置いていって、己の存在を感づかれてしまうのがマチュの幼さだなぁ、と思ったりもするが。
パイロットスーツとキャップでドレスアップし、幼名を名乗って自由だった子ども時代へ帰還できる、ピータパン・シンドロームの具現としてのガンダムに惹かれるのも、納得の甘さと熟れ切らなさではある。
「大人になれ」というフツーの外圧を鬱陶しく感じながら、自分の願うままに何もかもぶっ壊せる特別な力を手に入れる。
それに相応しい複雑怪奇な責任は回避して、大人でありながら子どもでもある/大人でも子どもでないキュマイラへ、都合よく自分を保ってくれる、鋼鉄の子宮。
ガンダムとオメガサイコミュは、それを可能にしてくれる魔法の場所に思えるが、魔法は12時には解けるしものだし、生まれ得なかった胎児は死んでいくしかない。
あるいはしっかり大人になれなかった人殺しが、社会と他人巻き込んでドッタンバッタン大騒ぎする一連を描いた”ガンダム”最新鋭の舳先に立つ存在として、幼名に立ち返って人殺しの現場に立つマチュのグロテスクは、極めて的確な批評的営為なのかもしれない。
どっちにしても、マチュはシュウジとニャアンがイチャコラしてる(と思い込んだ)現場に、エアロックこじ開けて踏み込むことは出来ないし、そこから完全に背中を向け、りんごも残さず立ち去ることも出来ない。
境界線上で揺らめく、大して綺麗でもない青春の生身と影が、いい色と臭いしてるなと思う。




(自分の過去を鏡に照らされてるようで)ひどく苛立つマチュの宙ぶらりんが、削り出されるのに呼応するように、ニャアンの私的領域もまた今回、深く潜行されていく。
闇バイト斡旋してくるおじさんが、フツーに家族持って可哀想な末端にそれなりの同情を寄せてる様子とか。
狭苦しいアパートにそれでもある本棚に、どん底でもなお上を見て”フツー”を掴もう(あるいは取り戻そう?)としている姿とか。
便座の隣、狭っ苦しい風呂に暗く身を沈めて、それでも考えるのはマチュとシュウジのことだったり。
ひじょうに切ない、清廉な体温のある描写だった。
マチュが気にかけているほどニャアンは己の裸身…そこに接続されるかもしれない異性の身体を、特別ななにかだと感じてない気配がある。
これは後に極めてグロテスクな裸を晒す、ムラサメの子どもも同じなんだろうけど、フツーの幸せをフツーだからこそ持て余すマチュが、当たり前に興味津々な「セックスするかもしれない私」てのが、戦争に噛みつかれてる子どもたちには、あんまリアルではない…のかもしれない。
ここら辺、自己決定権とアイデンティティにまつわるかなり大きな要素なので、勝手に推察するのも良くないが。
マチュが脅威に思うほど、ニャアンはシュウジを抱ける己の可能性を、大きく見てない感じで描かれてる気がする。
アザになるほど誰かに殴られ、制服が都市迷彩でしかない”フツー”の剥奪は、ニャアンに色んなものを諦めさせていると思う。
それでも今回描かれた彼女の私室は、どん底に叩き落されても消えてくれない自己尊厳の眩さと、そうやって見上げる空は誰かの地面でしかない、コロニー時代の閉塞感を同時に語る。
シュウジとのセックスを人生の一大事だと思えない/思わない、ニャアンにとっての事実を、劣情のどピンクと嫉妬の真紅に頭塗りつぶされたマチュは見れない。
ニャアンがどういう場所で生き延びて、閉じた空を見上げているかを知るのは、僕らだけなのだ。
そこが埋まれば、全部が解決する、って話でもないのがなぁ…。




落ち着いた…落ち着くしかなくなってるニャアンの”フツー”を遠巻きに、ジークアクス本来の持ち主はパイロットの頭越しに飼い主に接触し、マチュはひどく息苦しい”フツー”からの脱出を、犬のねぐらに求める。
自分を解ってくれない母の代用品/超越品を求めているマチュの主観に色づけられ、物わかり良くサバサバした理想の大人にも感じれたアンキーが、戦争の気配にあぶられて素顔を晒す。
というより、世間知らず戦争知らずのお嬢さんには死角になっていたものが、状況の変化によって可視化された…つう話か。
金庫いっぱいの金と秘密が、心地よく生臭い。
ジークアクスに爆弾積んでいることを、アンキーはもちろん手駒に告げていないだろう。(つうか、機密保持のための自爆機構を逆手に取って、交渉を優位に運ぼうとした…つう話か?)
あるいはシャリアとの交渉を優位に進めるためのフェイクなのかもしれないが、この接触を経て極めて現実的な情報交換を果たし、得たヤバさの実感に賢く身を引く…仲間だと勝手に思いもいこんだガキを売ることに、ためらいはないように見える。
非合法ビジネスの担い手としては、極めて全うで現実的な判断だと思うし、そういう場所でマチュはキラキラに包まれてきた。
凄い勢いとスピードで魔法が引っ剥がされてきて、幻滅するより納得し興奮している。
そういう場所でも、銭と暴力と不正義に眉をしかめ、アリバイ作りのように子どもを気遣う…あるいは気遣ってる自分を最悪でも保ちたい、一匹の人間もそこにはいる。
真実マチュを思っての忠告ならば、判断をガキに預けるでなく安全圏へ縛り付ければいいわけで、ナブの言葉はやっぱ地獄の底でも”いい人”でいたい欺瞞を、多分に含んでいると思う。
そこで取り繕うのをやめて、己の願いに極めて素直に突っ走っているのが、うっかり殺しすらやっちゃうシャリアおじさんなんだとも思うけど。
あの人の読みきれなさはどっかシュウジと似てて、解らないからこそマチュがシュウジを見つめ惹かれる視線と、エグザべくんがおじさんに振り回されてるのは、狙った重ね合わせなんだろう。
劇しい光に脳を焼かれたからこその躊躇わなさが、カッコよく思える時もあるよね…。
ここでアンキーの賢い立ち回りを盗み聞きすることで、マチュは自分を特別にしてくれるワクワクアングラバトルの、ハラワタの臭気を嗅いだ。
シイコとの邂逅以来、 「思ってたんと違う~」の連続でフラストレーションも貯まるが、クラゲ少女の”思ってたの”がメチャクチャ不鮮明であることは、既に描かれてもいる。
こういうキッツい現実学習を通してしか、マチュが自分を突き動かす願いの本当の形を掴めないとしても、サイコガンダムに街焼かれるのが最終問題ってのは、中々にハードコアが過ぎる…とも、言えないか。
マチュが飽き果てた中立と平和と日常は、ずっと煮え立った戦争のスープに包囲されていたのだ。
シャリアが把握していない、アマラカマラのきな臭さを手渡すことで、アンキーはジークアクス本来の持ち主…いつでもねぐらにビームぶち込める暴力の所有者に、適切に恩を売る。
犯罪者にも道理あり、利害で繋がるからこそクレバーな公平さってのは大事だが、そこら辺だけで宇宙が回るなら、地球にコロニーは落ちていない。
フツーの計算を大量殺戮でぶっ飛ばし、秩序の天秤をひっくり返したからこそこの”ジオンの戦後”があるわけで、そしてそのハチャメチャはジオンだけの専売特許ではない。
戦争はずっと人類の頭をおかしくしてきたし、ニュータイプとサイコミュはそれを加速させていく。
ダイクンの理想、もはや遥か悠くに在り。




全てに裏切られて不安と不満まみれのマチュは、胎児の姿勢でジークアクスのコクピットに身を預ける。
そのハッチがまだ開いていることにかすかな希望を遺しつつ、中立コロニーに既に深く食い込んでいた、連邦超タカ派のアジトはこの世の終わりみたいな色合いをしている。
この荒廃、持ち主の精神を見事に物質化してて、ホント素晴らしいよ…。
”人間味”なるものを全く感じない場所から放たれた指令で、街ごと敵性国家の有力者を焼く任務を背負うのは、子どもの形をした機械の心臓。
サイコミュに感応しガンダム乗れる子どもは、やっぱお前以外にいっぱいいるなマチュ!
サイコガンダムに繋がれていない平時を疎み、戦争の機械と一体化する瞬間こそ己であると嘯く、ドゥーのグロテスク。
それはキラキラに魅入られ、人殺しの道具に乗ることを望むマチュの欲望と、鮮明に呼応しているように思う。
マチュが選んで投げ捨てようとしているものを、最初から与えられる余地すらなかった強化人間もまた、ガンダムに乗るとキラキラを見る。
それは一人間の悲惨と醜悪に終わらず、設計意図通り政治的な暴力として機能することを期待/強要されて、クランバトルの取り繕った外装を引っ剥がす。
死にぞこないの最終処分場、戦後の憂さの捨てどころ。
そんなんで収まるほど、MSという火種は大人しくない。
僕はやっぱ、劇場先行版と順序を入れ替え、マチュとガンダムが爽やかに出会った後、一年戦争の血生臭さが臭う構成になったのが、凄く印象的だ。
あの第2話からクランバトル初戦に戻り、シャアが生き生きと人殺しの才能を開花させ、救国の英雄に上り詰めていった景色との違和感が、4話以降どんっどん取り戻されていってる感じがある。
それは「かっけぇロボ」が凄く悲惨でどうしようもない、死しか産まない悪魔の道具である事実と、だからこそ異様に人間を惹きつけてしまう引力を、改めて語り直す筆だ。
それが新たに描くムラサメの子どもは、無垢だからこそ醜悪で、幼気だからこそ悍ましい。
素晴らしい描き方だ。
最初からマシーンの一部になるように強化された人間を、便利に使わなければ政治が動かない、連邦タカ派の愚かしさ。
ジオンが勝ってもスペースノイドは苦しいまんまであるが、んじゃあ連邦様が勝ってりゃフツーの政治が行われていたかと問われると、そうじゃねぇなと改めて思う。
クランバトルを隠れ蓑に、サイコガンダムのテストとキシリア暗殺を敢行出来るクソボケテロ屋。
バスクが野放しにならざるを得ない、ジオン戦後のほつれが垣間見えるシーンでもある。
敗戦後の連邦がどんなもんかさっぱり分かんねぇんで、ヤツの立場と主張もまぁ不鮮明ではあるが…どう考えてもロクデモナイのは、間違いなかろう。




かくして様々な思惑と勢力が渦を巻く中で、少年少女の青春は不気味な発火を続け、追い詰められた平穏の担い手たちは戦勝国の凶弾に倒れる。
親にも犬にも裏切られ、満たされない心を抱えたままもう一度、出会ったあの場所に戻ったマチュは、ニャアンに何を委ねるのか。
キラキラの形を白く塗りつぶし、改めて描くシュウジの心象は、相変わらず読みきれない。
その不鮮明は戦中派らしく殺人上等な、緑のジェットパック乱入野郎にも伸びていて、エグザべくんはスパイ対象でもある上司を信じたものか疑ったものか、疑念の眼差しを向ける。
デカい政治の視点で見ても、個人的な人間関係の発火で見ても、非常に複雑かつ切実なものがチリチリ、きな臭い発火を始めている今回。
次回サイコガンダムが放つ光芒に、その不鮮明が一気に照らされるのだとは思うが、その薪になるのは街とそこにある命であり、なんとか戦争を生き延びた人たちが必死こいて紡いだフツーであろう。
マチュが守られ反発する故郷の平穏が、己の望みを追って外壁ぶち破った時にぶっ壊れていたことを、多分シャリアは良く知っている。
その上で、「だから何だ」と跳ね除けれる狂った一心不乱を、赤い彗星に心臓打ち抜かれてしまったまま、戦争に取り残された男は保ち続けているんだと思う。
キシリアかギレンか、どっちについて利を貪るかという、(例えばフラナガンが身を置いている)フツーの算数から多分シャリアは脱落していて、それが彼の読めなさに繋がっているんだと思う。
僕らはシャアに見出され、置いてけぼりにされた彼の個人史を垣間見ているから少しは推察も出来るが、エグザべくん筆頭に周囲の人達は、シャリアがどんだけ純情かを測りかねている。
あくまで個人的な衝動に突き動かされながら、暴力と政治を巧く泳げる知性を兼ね備えているところが、優秀な野獣って感じでセクシーだ。
その猛進に巻き込まれて、故郷と日常ぶっ壊される側はたまったもんじゃないけど、ジオンも連邦もそこら辺は「だから何だ」なんだろうね。
イズマが燃えれば、よるべなくそこに流れ着きいつ家を引っ剥がされても文句が言えないよそ者と、殴る側が同じ立場になる…つう、意地の悪い見方もできる。
それはマチュとニャアンの距離を、最悪の形に地ならしして近づけうるけど、そんなんより不格好な餃子で、フツーに仲直りしたかったわけよニャアンは!
マチュだっておんなじフツーさをまだ保ってるから、りんご手渡そうとして出来なくて、でもSOSとして暗い通路に置き去りにもしたわけじゃない。
この物語において殺しが、どんだけ引き返せないカインの聖痕なのかはまだ解んないけども、全てが奈落に落ちても、瞬いた光全部が嘘になるわけでもねぇだろ…。
ここら辺の輪郭線を引き直す意味でも、次回連邦タカ派がぶっ放すテロルは大事かな、と思う。
クランバトルという”比較的制御された戦争”が幕引きを匂わせ、地球という”ここではない何処か”にたどり着ける/安全に落下していけるスペースグライダーの購入資金も、次回勝利すれば貯まる。
そして何かが終わると折り返しに示されてるってことは、つまり何も終わらないってことだ。
それでも沸騰する政治の体温に引きずられて、真っ白に塗りつぶされて何かが壊れ、終わり、その残骸から始まるだろう。
ひどく醜悪で残酷なものが描かれると思うが、まぁ最初からそういう話である。
好みの温度と手触りだ。
次回も楽しみ。