九龍ジェネリックロマンス 第7話を見る。
次第に暴かれていく幽霊都市の謎と、反比例するように深まる因縁。
鯨井Bの死が輪郭を得ていくほどに、九龍という街の異常性が暴かれ、そこと深く繋がった地縛霊のような令子の異質性が見えてくるのは、中々特異な質感のビルドゥングロマンスで面白い。
おそらくこの蜃気楼が生まれる特異点となった鯨井Bの、(幾度目かだろう)命日が迫る中で、工藤はどんどん無防備な脆さを見せてきて、逆に安心する。
戯けた態度の奥、愛する人との離別を抱え込み続けた彼の心は、令子や僕らが想像するよりずっとボロボロで、このミステリはそんな生存者の悲哀に一歩ずつ近づいていく旅でもあろう。
僕はこのアニメ、弔意がうっすらと作品全体に…しかし明瞭に張り巡らされているところが好きだ。
令子はオリジナルである鯨井Bを羨まず、愛する人を縛る悪霊がどんな存在だったかを、一個ずつ知ろうとする。
それはジェネリックでしかない自分を健全に知っていく歩みでもあるし、愛着に近すぎて街も女も、その全体像が見えない工藤の代わりの客観獲得でもある。
令子が街と鯨井B…そのアマルガムたる己を知っていくことで、工藤は自力では抜け出せない愛と死の鎖から解き放たれ、恋人の思い出が詰まった九龍の残骸から出ていくことが出来るのだろう。
その時、令子はどうなるのか。
不穏な空気も漂うが、愛は永遠と信じたい。
まぁ金剛不壊なるダイヤモンドであっても、それを模したジルコニアであっても、たった一つの思いが込められた貴石には代わりがない。
幾度目か終わってしまった九龍への、もはや巻き戻らない時へのノスタルジーに陶酔しつつ、どこか冷徹にそれが終わってしまった事実を見据えて、それでも諦められない人間の業を抱きしめながら、どうすれば思い出の外側へと己を…あるいはその胸の中へ閉じ込めてしまった愛を、解き放つことが出来るのか。
そんな問い掛けへの一つの答えとして、適切に悼むことで新たに進み出す道を、このお話はずっと見つめている。
それは喪われた過去がどんなものか、真っ直ぐ見つめることから始まる。
楊明は整形する前の自分を母の名残とともに思い出すことで、暗い部屋の中に閉じ込められた。
消えてくれない自己認識が己の形を引き戻す中で、令子は令子に楊明が見せてくれた嘘っぱちが、自分をどう変えた本物であったかを伝え、その友情があるべき/なりたい自分を取り戻させる。
そうして過去に呪われた亡霊ではなく、未来へ進み出せる生者へと戻った彼女は九龍の外へと進み出せるが、死者の後発品たる令子はそうではないと、今回のラストは告げる。
九龍という箱の中に閉じ込められた令子を、誰が観測するかは難しい問題だが、そらーまぁ彼女が愛し、見つめてほしいと思っている男以外にはなかろう。
みゆきちゃんもだんだん過去が見えてきて、初期のケンが取れてきたけども、亡き母への複雑な感情だとか、グエンくんへの愛だとか、蛇鎖の奥に熱く燃えている思いが、彼もまた迷い己を見つけるべき九龍の子どもだと語る。
客人たる工藤たちと異なり、九龍で生まれ九龍を捨てた(蛇沼の子として故郷を殺しすらした)みゆきちゃんは、ただ素敵な異郷としてあの街を見てはいない。
深い影と強い後悔を宿し、それでもなお惹かれてしまう夢の残骸から、復讐の道具足り得る何かをすくい上げようと街に迷って、ふと捨てたはずの自分が見える。
そういう場面が、今回みゆきちゃんに多かった。
グエンくん…早く復縁して、傍で支えな?(一番支えたいのはグエンくん本人定期)
母と蛇沼の関係、九龍への思いをストイックなみゆきちゃんは語らないが、そうして覆い隠したものにこそ本当の思いは宿っていると思う。
さんざん傷つけられた(証が、体に刻まれた蛇の刺青だろう)みゆきちゃんが、これ以上傷つかないために身に着けた悪辣の鎧は、工藤がシリアスに恋人の死を…それを飲み込んで繰り返す異常な状況を考えないように、演じている軽薄と良く似ている。
そうやって浮かれたふりをしていれば、終わってしまったものの終わりと向き合わなくてすむ。
空に浮かぶジェネリック・テラも、そういう弱くてどうしようもない、極めて人間らしい業の結晶なんだろうか?
人は終わってしまったものを諦めきれないからこそ、そのコピーを作りオリジナルを蘇らせようとする。
でも生まれてしまうものは独自の性質と美点をもった後発品であり、どれだけ偽物と蔑まれようとも、生まれてしまった思いを支えにたったひとり、”本当の自分”でいたいと願う本能を持つ。
何も持たぬからこそ、幼く純粋な令子にそんなジェネリック・ロマンスは色濃いけども、だんだんみゆきちゃんの過去が見えてきて、あの人もまた何かの代用品として生まれ、そんな自分を振りちぎるべく色んなモノを利用しようとして、悪辣になりきれない幼子なのだと思えてきた。
蛇の仮面を被った赤子…好みの味だぜぇ!!
喪われてしまった自分たちの原点が、そこに宿った愛がどんなものであったかを、ちゃんと見つめなければ殯は終わらず、生者が死者の国から出ることはない。
夏は盂蘭盆の季節でもあり、出口のない九龍に鯨井Bの亡霊を閉じ込めた工藤にとっても、故郷の思い出を裏切りつつ惹かれるみゆきちゃんにとっても、終わってしまったものを見つめる強さが、今必要なのだろう。
彼ら自身にとってだけでなく、彼らを愛し、後ろめたさに支配されていない真っ直ぐな瞳で、”本当の自分”を見つめてほしいと願う、恋人たちにとっても。
同時に死者と思い出が生者を見つめ返し、縛り付ける愛着の重たさと強さも、このお話はしっかり描く。
というか令子やグエンくんが恋人を求める生に満ちた視線は、鯨井Bや亡き母が工藤やみゆきちゃんを引っ張る死者からの/死者への視線と対立するものではなく、それを理解し融和するまでの歩みを、業への愛しさ込めて綴ってる感じもある。
終わってしまったものを綺麗サッパリ忘れ去って、前向きに進んでいくのが人として正しいとしても、あまりにそれは寂しい。
忘れ去らず、残り香に涙しつつも、胸の中受け取って抱きしめて(閉じ込めるのではなく!)、思い出とともに生きていくという、難しい道へどう進んでいけば良いのか。
悩み多き青年たちと一緒に、物語も身を捩りながら九龍迷宮を歩んでくれている感じが好きだ。
死者が自分を忘れぬようひまわりの呪をかけ、じっとこちらを見つめているというのは、やはり過去の顔をちゃんと見れない弱さの反射なのだろう。
そこには大きすぎる離別の悲哀が宿るから、工藤は喪われた夏を蘇らせ前に進まず死者の共寝をし続けているわけだが、他でもない鯨井令子が一緒に外へ出て、前へ進もうとしている。
それは後発品特有の変質というわけではなく、始まりも終わりもない永遠を望んだ(と、工藤には思えた)鯨井Bが秘めていた、もう一つの可能性の発露だと、僕には思える。
不思議な後発を通じて、「もっと私と貴方を良く知って!」と、死者が語りかけてきた…とも言えるか。
ミステリアスで退廃的な鯨井令子の影が、終わらない夏を刻む九龍の蜃気楼にも反射している感じだけど、それは工藤が知ってる/捕らわれている鯨井Bの顔なんだろう。
街の外では存在できない己の限界を思い知らされた令子が、その衝撃にも歩みを止めず進むだろう先で、彼女は己を知り、つまりは先発品である鯨井Bを、後悔に囚われた工藤よりもクリアに知っていく。
それは無垢で無知であるがゆえの奇跡で、エデンの林檎が作中重要なモチーフに選ばれていることに、新たな納得を加えもするが。
そうして暗い影の幻想を剥がされた、ジェネリック九龍とその亡霊の素顔は、結構ピュアな普通の色合いなんじゃないかと思っている。
令子がイヴだとすると九龍城は追放されることを約束された楽園で、そこから苦難に満ちた世界へと進み出すことで、人間の歴史が始まっても行く。
既に終わってしまっているエデンの檻にしか生きられない令子を、どう九龍の外でも活かすのかという難問が、新たに浮上したが、死者と適切に付き合う方法をずっと探っているこの物語、蜃気楼の中確かに”本当の自分”を瞬かせていた令子という存在を、嘘にしない道を必ず掴んでくれるだろう。
それはこのお話独自の答えとなるはずで、それを見届けるために見続けている部分は大きい。
令子と彼女を愛する人達が、どこにたどり着くか。
白紙の記憶に刻まれた、たった一つの恋を追う、このジェネリック・ロマンスの終着点は、やっぱりそこにある。
令子が九龍に縛られた迷宮の申し子であると明らかにされ、みゆきちゃんがそこを一度捨てた(そして戻ってきた)九龍の子どもだと解ったことで、群像を繋ぐ鎖がより鮮明になった感じはある。
工藤も鯨井Bへの愛とその死がどんなものか、適切に喪に服させてくれない異常状況に、相当参っている素顔を晒してきた。
段々と、皆似た者同士ででも見えているものが違うし、だからこそ繋がって大事なものを手渡し会える関係が鮮明になってきて、さぁここからどうなるのか。
僕はとても楽しみだ。
みんな、幸せな結末を迎えて欲しい。




段々と真相の輪郭が見えてきた物語、かすかな光が男たちのかんばせを照らし、陰影を深くしていく。
光と闇を一般的なイメージで使わず、影の中にいればこそ見えるものとか、白々しい光に宿る脅迫性とか、複雑な色合いで九龍を照らしているところが好きだ。
恋人時代に幸せな終わりを告げ、家族となるはずだった夏の終わりを共有している工藤とグエンは、街を出て新たな恋に出会った者と、愛に呪われて光の中に囚われた者とで、一端明暗に離れていく。
どう考えても停滞する側の工藤が、光の中にいるのが面白い。
そこは終わらない夏、死のない国だ。(つまりは思い出と死しかない冥界でもある)
工藤が街の外の現実、自分を取り囲む異常事態に気づきつつ、何事もないフリをして令子のいる九龍に立ち続ける隣で、グエンくんは瓦礫を追い出されて恋人と出会った。
故郷を己の手で殺した切なさに耐えかねて、酒に癒やされようとするみゆきちゃんと彼が出会えたのは、幸せな偶然だったのだろう。
男でもなく女でもないと己を蔑むみゆきちゃんが、もし男でもあり女でもある豊かさを感じられる瞬間があったとしたら、それは性別を超えてみゆきちゃんを求めてくれる、グエンくんの純情に抱かれる時なのだろう。
うう…恋の真実が暴かれるほどに、無理して悪辣してる痛ましさが募る…。
あるいはグエンくんといると、何も飾らない自分になってしまうからこそ、復讐の大詰めに入ったこのタイミングで遠ざけた…ということなのかもしれない。
実子の思い出に呪われ、ジェネリックテラでの再演を望む”お父様”に、形だけ同じな偽物を手渡し絶望を与える。
そんな捻じくれた計画に身を投げつつも、みゆきちゃんは自分の目で故郷の亡霊をちゃんと確かめ、そこに宿る熱気にうなされてみる、開けた目をまだ持っている。
そういう感性を殺せないままに、復讐に取り憑かれた悪霊であろうとするのは、相当に苦しいことだと思う。
でもそういう自分じゃなきゃ、母からの愛に報いれないと思い詰めてんだろうな…。




みゆきちゃんは偽物なはずの九龍で、自分を助けてくれた裏路地の舞姫たちに、母の面影を見る。
工藤が足を踏み入れることのない、性と嘘が渦を巻く九龍のハラワタは、生粋の九龍っ子であるみゆきちゃんにとっては慣れ親しんだ故郷である。
日本人が九龍を見つめる時結像する、ノスタルジックな猥雑テーマパークではない、土の匂いのするその表情を見れるようになったのは、みゆきちゃんが主人公の一人として己の内面、過去、心情を晒してくれるようになったから…って感じだ。
蛇の仮面を剥いでみると、復讐者やるにはピュア過ぎるこの人…。
無垢なるイヴたる令子に、楽園の外からいらない知恵を授ける蛇沼みゆき。
…という構図は、狂った夢が壊れてくれない”楽園”として九龍を見ている工藤の視点から描かれたもので、令子自身は己を知り、認めてもらい、九龍の外に出ることを望んでいる。
この活きた瞬きが鯨井Bにもあったものなのか、無いからこそ彼女は婚礼直前の自裁を選んだのか。
謎は深まるばかりだが、みゆきちゃんは令子に格別の思い入れのない他人だからこそ、素直に彼女の”今”を見る。
復讐計画に使える便利で特別な道具では、もう無くなってしまったその意思を見つめてもしまう。
ここら辺、最初は両腕構えて頑なだったのに、楊明を仲立ちにその地金を見つめて、活きた別人だと認めてしまったみゆきちゃんの恋人とそっくりなんだけども。
目の前にいる生きた人間を、その属性や思い出ではなく、あるがまま認め受け入れる尊重は、自分自身を大事にして他人と関係を気づいていく、最も基本的な足場でもある。
復讐に焦がれているようでいて、みゆきちゃんが令子の”今”をずっと見ている(逆説的に、一番見て欲しい工藤が全く見れない)のは、あの人が持つある種の健全さを浮き彫りにして面白い。
爛れたセックスしているようでいて、蓋開けたら超ラブラブ純愛だしなぁ…。
工藤ではなくみゆきちゃんが教え、開けてくれる令子の”今”は、同時に九龍という水槽に閉じ込められた不自由なモノで、既に終わってしまっている現実に包囲されてもいる。
”水槽の中の金魚”というモチーフを、亡霊都市の申し子の象徴として選んだ鋭さがいよいよ活きても来ているが、令子はそんな自分の現状をこの段階では知らない。
しかし楊明やグエンくん、みゆきちゃんといった、工藤との関係の外側にいる人達と触れ合う中で、否応なく己の限界と歪みを知っていってしまう。
己を知らなければ、世界の形も見えてはこないし、他人の姿も解らない。
それこそが、彼女が水槽を飛び出していくために必要な試練なのだ。
ここでみゆきちゃんが、ジェネリックな令子の現状を一端肯定するような甘言を手渡しているのが、”蛇”らしくて大変良かった。
工藤さんが好きで、それこそが”本当の自分”の核にあると、一端の人間みたいな悟りを得た令子は、しかしこの異様な都市に縛られ、外で生きていく自由もない、未熟で歪な存在だ。
その本質に向き合い、未だ不鮮明な真実を全て知らなければ、令子がどういう存在であるのか、解ることは出来ない。
みゆきちゃんの優しい現状肯定は、ミステリを掘り下げる中否定されること前提の問いかけで、極めて正統はキリスト教神学的な意味合いで”悪魔的”だ。
この問がなければ、生者は己を見つけられないのだ。




工藤はもはや、幾度目かの命日に疲れ果てた表情を隠すこともなく、これを目の当たりにしてしまった令子は一度は決意した”明日”への歩みを、一端引き戻す。
八月の終わり、愛の命日。
鯨井Bの死が一つの楔となって、ピザ屋には瓦礫にしか見えない亡霊都市を成立させているのは間違いないっぽいが、では「鯨井令子は死んだ」と認識してしまっている工藤の目は、流れる時を、自分を取り巻く九龍を、どう認識しているのか。
「それは異常だ」と、己の幼年期と照らし合わせて指弾するポジションに、もう一人の九龍の子どもであるみゆきちゃんが座ったのが面白い。
令子は九龍の中と外を隔てる境界線を、渡ることが出来ない。
それは過去と未来、死と生を隔てる境目であり、この河を渡れるものはつまり、現在に満足して後悔がない…ということなのだろう。
後ろめたさがないやつは亡霊を見ないし、ひまわりが自分を見つめているとは感じないのだ。
しかし後悔とノスタルジー(これを隔てる境界線は、もしかしたら無いのかもしれないが)が結晶化し、正体定かならぬ不可思議を生み出しているこの蜃気楼都市では、死者が闊歩し時が巻き戻る。
この不条理を祓うべきなのか、そうするとしてどうやって解決するのか。
謎はまだまだ残り、疑問は深まる。
令子が九龍の幻影にしか生きられない存在だとしたら、復讐だの愛着だのに縛られた生者が正しく九龍にお別れを告げた時、このままだと彼女は消えてしまう。
「亡霊祓いはそういうもんだ」という見方もあるだろうけど、どんな形であれ確かに生きていた彼女を見てきた自分としては、どうにか都合に良い奇跡が彼女を九龍の外に、生者が歩む未来に連れて行ってほしいと、望んでしまう。
時限爆弾の起爆装置のように、幾度も切り取られるレトロな時計は、鯨井Bが死んだ瞬間を冷静にカウントダウンしている。
運命のゼロ地点であろう”その日”がやってきた時、一体何が起こるのか。
怖くもあるし、待ち遠しくもある。
足踏みしたり先延ばししたり、愛と死の定めを無かったことにしたり。
そういう留保に優しい視線を投げつつも、どこから抜け出していってしまう魂の色合い、止まらない時の定めにきわめてシビアなのも、このお話の特徴だ。
だから何かが決定的に終わってしまう時は、同時に何かが始まる瞬間でもあろう。
あるいは鯨井令子への愛が彼女の自死によって終わった時に、この物語が始まったのか。
それを確かめる意味でも、お話しは八月三十一日へ進まなければいけないし、令子は境目を越えられない街の亡霊たる己を、怜悧に見つめなければいけない。
そこから、全ては始まるのだ。
次回も楽しみ。