二つの銃と、幾つかの自由(あるいは不自由)。
超絶最悪ゼクノヴァ兵器によって、爆速でジオンの戦後が瓦解していく、ジークアクス第10話である。
シャロンの薔薇が引き上げられ、イオマグヌッソが完成するまでの数ヶ月…そこで構築されただろう信頼関係を超速でぶっ飛ばし、キシリアのギレン毒殺、イオマグヌッソとジフレドによるア・バオア・クー壊滅まで、一気に情勢が動いた。
人類未曾有の大虐殺の真ん中に立つ少女は、”嫌な匂い”を嗅ぎ取ったらすぐさま他人をぶっ殺せる大きな身体を手に入れて、それに振り回され溺れ…それだけではない悦楽と充足を感じているように思える。
ニャアン…これで良かったんかねキミは。
…という問い掛けも、画面の向こう側に座り込み、軍警に殴られることも狂った暴力装置が急に故郷をぶっ飛ばすこともない、安全圏からのそよ風なのかもしれないが。
薔薇の介入により歪んだ歴史は、サイコミュ兵器開発の歴史を加速しジオンを勝利させ、大量殺戮パビリオンたる宇宙世紀にも類を見ない、独創的な虐殺を可能にするイオマグヌッソを生み出した。
ギレンが押しつぶされた(と、キシリアは断じる)コロニー落としをも上回る…あるいはだからこそ、人間を怪物にしてしまうコンプレックスを満足させる、重たすぎる大罪。
そらー、毒ケーキ先輩もディアボロを人間でいさせるために、事前に殺そうとするわなぁ…。
キシリアからニャアン、シャリアからマチュへの疑似親子関係が、対照的に描かれる今回。
共にシュウジに惹かれ、大量死の現場に流れ着いてしまった”子”だけでなく、”親”であるキシリアとシャリアも、シャアという存在を見て真逆の未来を描いた。
胸の中に抱えたものが思いの外ピュアだったシャリアは、どこか別の場所で綴られたアズナブル・サーガにおいて、(ララァ以外)誰も受け止めてくれなかった、虚無的でだからこそ自由であるべきで、しかし色んなモノに縛られてしまっている青年を見た。
木星行きのどん詰まり、灰色の死が埋め尽くす極限から帰り来て、何も無い自分の鏡像を、シャリアはそこに見つけたのだ。
他方キシリアはグラナダ決戦において、死の運命を仇であるはずのシャアに救われ、ゼクノヴァを間近に見た。
ここではない何処かへと人を解き放つ(結果、五年間シャアは自由な立場で好き勝手絶頂ぶっこんだ)超常現象を、キシリアは己の野心を叶えジオンと地球を打ち砕く、巨大な暴力として受け止め、イオマグヌッソを完成させた。
Beginningでの内幕を知らない限り、シャアは恩讐を捨て去ってその身を捧げ、ジオンとグラナダを守った無私の英雄で、キシリアなりそれが響いている様子も過去には見られた。
しかし彼女は父殺しの兄への恨みを捨てぬまま、ニャアンを使って宇宙と地球に致死毒をまく道に進んだ。
かつてアンキーに向けて発砲し、命をえぐることも運命の扉を開けることもできなかった、銃というフェティッシュ。
それが今回再び、マチュとニャアンの人生に顔を出して、撃てる自由と撃たない決断を照らす鏡になるのは、なかなか面白い。
それは自決にも使える結構多目的なツールなわけだが、シャリアは絶望の果てこめかみに銃口を押し当てた上で、偶然か運命か定かならぬものに導かれて、死なないことを選んだ。
空っぽのまま戻ってきたこの地球で、彼は自分によく似たシャアに出会い、何も無いからこそ嘘ではない自分の中の本当を見つけた。
ニュータイプが人殺しの道具になるのは忍びないし、人として生きれる世界の方が良い。
そんな凄く全うで人道的な答えを掴むために、刑事たちも暗殺者もぶっ殺せる覚悟…というとキレイすぎるものが、彼の視線を支えつつ、同時に揺らがせてもいる。
ギレンがすがる社会的ダーウィニズムを否定しつつ、生存による力(あるいは正しさ)の証明に突き進むキシリアと、彼女が手ずから薔薇の香水を濡れ髪に施す愛子は、もう揺らがない…ように思える。
個人的な動揺が殺戮者の顔の奥にあったとしても、あまりに殺せすぎるイオマグヌッソを作り出し、起動させてしまったことで、それが尊重される立場から彼女たちは、自分ではみ出してしまった感じもする。
”人間らしさ”を問うたり叫んだりするには、キシリアとその愛子は、あまりに殺しすぎた。
そういう重たい事実すら「どうだっていい」と、マチュやシュウジとの個人的な青春の決算に力点をおいて物語が決着していくのか、それとも何らか、バランスがいい(と僕が感じる)ケジメが付くのか。
もうキシリアがどう悲惨な死に方しようが、ニャアンがどんだけ惨めな目にあおうが、砕かれたジオンの国体(つまりは元々不安定な戦後の安定)とクーデーターにすり潰された命を、贖うには足らないとは思うが、まぁそういうアンバランスもまた現実の一部…なのだろうか?
この作品が見据えているリアリティの手触りを、今更ながら喪失している感じがあるな…。
まぁそこら辺は最後まで見届けなきゃ分かんないし、そもそも状況をここまで引っ張った引力たるシュウジがどんな存在なのか、全然分かんないまんまでもあるんだけど。
マチュもニャアンもシュウちゃんとの再開を求めて、キラキラの彼方へと己を投げ出していくわけだが、「そうするだけの男なのォ?」つうのが、現状素直な感想ではある。
彼の影響力は例えば、彼が見るキラキラがストリートアートとして己の外部に投射され、マチュがそれに魅入られた描写とかから、自分なり感じてはいるんだけど。
もうちょいズパッと、少女二人とそれに巻き込まれての世界が、狂うに足りる引力を教えてほしい気持ちである。
むしろ前回一話使って、シャロンの薔薇の真ん中に眠る少女への共感を高めていたことのほうが、マチュがラストバトルに突っ込むブースターとしては納得できるなぁ…つう感じ。
恵まれた立場がオートマティックに与えてくれる正しさや、優しいけどフツーな母が手渡す当たり前な温もりじゃあ、己が納得できる答えを掴めなかったマチュにとって、牢屋や戦場こそが人生の教室であり、敵とも味方ともつかないヒゲマンの方が、大事なものを教えてくれる。
迷い道にこそ真理を見出す、生粋のロックンローラーにとって、己の眼と手と足で感じ取ることはとても大事だ。
前回マチュはララァと地球を、間近に見た。
その体験があったればこそ、ヒゲマンやコモリンと間合いを縮め、”人間らしい”信頼でお互いを繋ぐ変化も生まれたんだとは思う。
「んじゃあ話数使ってそれ具体的に描いておけよッ! マジ面白そうなんだしッ!!」とも思うが、それが出来ない辛さに一番身悶えしてるのは、鶴巻監督以下制作陣ではあろう。
天下御免のお尋ね者として牢屋に繋がれつつ、マチュはキケロガとともに訓練し(灰色の亡霊の新たなるMAV?)、コモリにお礼が言える自分を取り戻していく。
ニャアンやらジークアクスやらシュウジやら、クランバトルやら。
楽しくて素敵で人生を捻じ曲げまくる、大変よろしくないものと出会ってしまって、お仕着せの正しさじゃ満足できない自分を思い知らされたマチュが、数奇な運命とちっぽけな己のエゴに翻弄されて流れ着いた場所で、確かに彼女は何かを学んでいる。
そのために傷つけたり蔑ろにしたものは山盛り沢山あって、そんな彼女に共感できない視聴者も多数いるんだろうけど、自分は興味深い珍獣を見るように、あるいは青春一つのスケッチを見るように、ある程度距離を取りつつマチュの遍歴を、結構楽しく見てはいる。
バランスの取れた応報…それを可能にする正気の社会を想定しても、ジオンが勝ってしまった世界も、彼女を取り巻く小世界も、そんなルールで動いてはいないのだと、いつからかある意味諦めてしまった…のだろう。
巨大な社会が押し付けてくるルールを、イオマグヌッソが放つ銀河規模の超暴力で跳ね返し、キシリア個人のエゴで世界全部を毒殺できてしまえる、捻じれて逆立ちした世界。
そこで描かれる個人の青春も、そらまー尋常ではない歪みを宿すだろうなぁと、ある意味納得して飲み込むことで、いつか望んだジークアクスと眼の前で展開している物語とのズレを、ゲホゲホむせながら消化している感じだ。
「随分と歪な畢竟に流されているなぁ…」とは感じるけど、そうなってしまう狂い方が、個人にも世界にも運命にもあって、それは思いの外、人間が人間であることの根っこに繋がってる歪みなんじゃないかなとも、今は思っている。
なのでマチュにもニャアンにも、キシリアにもシャリアにも、作品独自のディストーションをその身で体現するに足りる、全速力の好き勝手絶頂をぶっこんで欲しいわけだが。
この歪なエゴエゴ人間共のハチャメチャを強調するべく、エグザべくんは不自然に白く清潔でいれてしまう、猛烈漂白の”いい人”なのかなぁ…などとも思った。
かつての同輩が自分と他人の命を捧げて、どうにか止めようとした、人類史上最悪の兵器。
それが生み出した惨劇を見ても、”軍事作戦”に従事し自分をフックアップしてくれたキシリアへの恩を返す、揺らがぬフツーさを彼は保つ。
どんなときでも正気すぎて、下手すっと作中一番狂ってんなと思う。
そんな彼の白々しさに、手製のカオマンガイを作らない道をニャアンは選んだ。
手作りのアップルパイに含まれた、即座に命を奪う毒が慈悲とすら思えるような歪みを飲み干して、己の生存証明のためには世界すら殺す怪物の、小さなコピーになることで己を満たした。
それもまあ、ニャアンという人の行き着くべき必然なのだろう。
シュウジと赤いガンダムが、全てを振り捨ててただ逃げようとすがってきたあの子を受け止められたら、また別の道もあったのだろうか?
キシリア→ジフレド→イオマグヌッソと、肥大化し拡大されていく殺意の心臓になってる今を、心のどっかで疑ってるから、シュウちゃんをもう一度取り戻したいのか?
莫大なガンダム文脈を背後に起き、空中分解寸前の加速度と圧縮率で突っ走っていくこの物語は、描写を探ってもイマイチキャラの芯を掴み取れない、ヌルリスカリとした質感を随所に宿している。
その空隙こそがあらゆる情報が3日で消費されつくされる、バズな世代の速度感と噛み合っている…つう話なんだろうが、本当に空っぽで何も無いと断じるには、描写にコクがありすぎ、叩きつけられ絵が美しすぎる。
噛めば噛むほど味があるようで、しかしそれは自分が感じたいキャラ性、求めている物語を、白紙に重ねているような後ろめたさを常に伴う。
ここら辺の虚無感と充足感の不思議な共犯は、シャア・アズナブルという存在を前にした人々が感じるものと、多分似ている。
個人としての満たされなさと、カリスマとしての引力をアンバランスに兼ね備え、誰もが『私が見たいシャア』を投影してそこに己の充足を見出してきた男。
イオマグヌッソの心臓近くにひっそり潜み、ジフレドが死を叩きつける寸前で軽やかに身を翻した今の彼は、はたして”自由”なのか。
グラナダでのゼクノヴァをどう受け止め、なんで五年間ヒゲマンを待ちぼうけさせる未来を選んだのか、アイツが自分の口で語るかどうかは、まー分かんねぇけど。
勝手にこっちが推測し期待した、百の顔を持つ英雄の虚像をはるかに飛び越える、ジークアクスだけのシャア・アズナブルを見たいなぁとは思う。
それはシンプルに楽しいだろう(実際、Beginningでの活写は素晴らしかった)し、陰鬱にひたむきに虚しい星を追いかけ続けたシャリアの方を、少しは気持ちが向いてるのか向いてないのか、確かめてみたい気持ちもある。
こっちが想定していたより、灰色の亡霊は赤い彗星に呪われておらず、そのバランス感覚によって、マチュが求めていた教えを手渡せた感じもあった。
そのイカれたフツーさは、一つ間違えると人殺しの偶像になってしまう人間にとって、結構大事なバランサーじゃなかろうか。
こうして「僕が見たいシャア」を、結構ガッチリした手触りで自分なり考えられるのは、それこそララァが幻視する数多の世界のシャア達が、ジークアクスの外側に鎮座ましましているからだ。
赤い彗星が身にまとう、分厚い文脈がシュウジにはなくて、作中描かれたものだけが彼の全て…なはずだ。
それは作品としてキャラクターとして健全な痩せっぽちであるけど、まー少女たちを引っ張り回す重力源としては弱く感じられ、既にたっぷり人が死んでいる状況でそれでも、彼を求める感情一本で奔ることに納得するのは、ちと難しい状況である。
「青春とか恋とかって、そういう理由がないものなんだ」と言われたら、まぁそうよねって感じだけど。
でもシュウジを完全に解った上でこの局面に立つと、他人への根本的な解らなさ故に迷い、ニュータイプという幻想に祈り、分かり合おうとちったぁ足掻いて少しは繋がれた物語を、裏切ることにもなるとは思う。
キラキラが見えようが青春を共有しようが、自分が行き着くべき場所も本当の望みも分かんねぇまま、片や全世界指名手配の大悪人、片や大量虐殺兵器の心臓に、少女たちは流れ着いてしまった。
そんな双凶星(ふたごぼし)を振り回す中心が、イマイチ全体像が掴めない空疎な少年なのは、シャリアから見たシャアの虚無性…そこにこそ踏み出し満たし満たされようとした思いを今回知ると、ちょっと面白い構造だと思う。
シャアに再会できたら”優しく”しようと、五年追い続けたシャリア。
彼がフツーでマトモな大人かと言われれば、全然そんな事はないと思う。
彼自身自分が勝手に見て取った(ニュータイプだから、その精度は常人よりかはちったぁ高いんだろうけど)幻像を、己の虚無を満たすべくシャアに投げかけているし、シャリアはその事に自覚的でもあろう。
自分の望みを叶えるためには、人も殺せる自分に流れ着き、選び取ってしまったことには、恥も後悔もないと思う。
その上で、彼は自由の象徴としてマチュに銃を手渡し、いつどこで引き金を引くか…あるいは引かないのかの決断を任せた。
そこには眼の前の虚しさを自分色で塗りきらない尊重が、少しだけある。
シュウちゃんがあの時受け止めけてくれなかったニャアンの虚しさを、キシリアはガッツリ抱きとめて、香油で聖別する。
何も持ってない野良犬に、慈悲深く餌を与えているように見えて、そこには透明な野望のレールと、それに役立てばこそ愛を手渡す実益主義があると、僕は感じる。
あるいは個人として抱え震えた虚しさや恐れを、ニャアンと触れ合う中でキシリアも満たしていたのかもしれないが、手ずから撒き散らす毒の犠牲が多すぎて、そこら辺を配慮するのはちと厳しい。
個人レベルでどんだけ”いい人”だろうが、キシリアは殺し過ぎだし、ニャアンはその心臓として機能しすぎている。
ここら辺、自分で未来を選び取った真のニュータイプ…サイコミュ兵器の心臓としての自我を喧伝してたわりに、あっさり爆発四散したムラサメの子どもの、完成形を見る気持ちでもあるのだが。
ニャアンはキシリアが望む野心で、宇宙を引き裂ける巨大な身体のコアパーツとして、ぼんやりさんのまんま大虐殺のトリガーを引く。
手渡された銃は、もう撃たれているのだ。
そんな状況に対し、まだ人を殺していない/殺せていないマチュは何を見出し、選ぶのか。
やっぱそこかなぁ、と今は思うし、それを問いただすための物語の足場はギリギリ(ほんとギリギリ)存在しているかと、僕は感じる。
さて、どうなることかね。




というわけで何ヶ月だかしらねぇ空白の間に、マチュは地球で受け取った実感を牢屋の中と外に広げて、不自由なはずのそこを自分の居場所に変えつつあった。
凄いスピードでアマテさんに籠絡されていくコモリも見ものであったが、もしかすっと作中一番カロリー使って己の内面、自分を惹きつける星との距離をマチュに語る、シャリアの描写がやはり目を引く。
コックピットでのお肌のふれあい通信、私室での虚飾のない対話、不自由なはずの牢屋での述懐。
スペースノイドらしく様々に…もしかすると”自由”に場所を飛び越えながら、年の離れた二人のニュータイプは、虚しさと絶望と自由について語りあう。
一つの会話を様々な場所にジャンプしながら紡いでいく演出は、彼らが重力に縛られた旧人類とはちょっと違う軽やかさで繋がっているのだと、印象付けてくれてとても良かった。
元々マチュが一つ所に縛り付けられ、窒息していくことに耐えられない多動型ニュータイプだったので、ここで過去と現在、そして未来を同時に睨みつけながら、機動性の高い語らいが為されているのは、フツーの言葉が全く染み込まない彼女に、シャリアの本音がちゃんと届いたんだろうなという、不思議な納得があった。
二人きりの訓練の日々(疑似MAV!)が距離を縮めたのか、シャリアはソドンクルーにも見せていないだろう灰色の地金を、年下のバカに率直に示す。
栄光と期待に背中を押され、たどり着いた木星で全てを奪われ、無力と絶望ゆえ感じた自由。
その足取りは、今まさに寄る辺なく青春を元気に漂流しているマチュの”先輩”として、一つのテストケースを彼女に食わせるものだったと思う。
本来なら忌避されるべき絶望と死が、何もかも食い尽くしてなお消え去らない己を教え、奇縁に導かれて帰り来たジオンで、赤い星と出会う。
そんな血なまぐさいお伽噺は、着地点を探してきたマチュの凶暴で独り善がりな想像力を、ふわりと受け止める。
白紙の子どもが己を世界に定位するためには、飲み干し消化できる物語が必要だろう。
母が手渡してくれるフツーの幸せも、学校と塾が押し付けるフツーの未来も、どれも自分を導く物語得なかったからこそ、マチュはクランバトルとシュウジに惹かれ、ここではない何処かへの脱出口を見出した。
それは現実的政治…以前の、ショッボイ犯罪経済に飲み込まれてしまう、もう一つのフツーだったわけだが、そこで人生の苦さと己の小ささを思い知ったからこそ、今のマチュもある。
地上でララァと出会い、「こんなもんか」な憧れの実像を体験して、地ならしが済んだ心。
そこふと降り立つ、似てて違う自分の鏡像が語る、あり得たかもしれない未来/既に終わってしまった過去。
そこでシャリアは自分のコピーを作ろうとはしないし、自分の頭を結局ぶっ飛ば為さなかった銃を、どう使うか…あるいは使わないかの選択をマチュに委ねる。
その仮託自体がある種の誘導でもあるのだが、意図なき透明なコミュニケーションを望んでも、ニュータイプにすらそれは叶わない。
不確かな他者像と、不鮮明な己の糸を撚り合わせて、どうにか不格好なタペストリーを編むことぐらいしか、バベルの塔が崩れた後の世界を生きてる我々には許されていないのだ。
そんな世界の中で率直に己を語り、虚しく足りてない誰かの内側を少しだけ満たそうとするのは、優しい行為だなと思った。
その優しさが、怖くもあるんだがね…。
マチュはもうプールにも入れない牢屋の中、コロニーに逆立ちしてたときより今、自由だと思う。
あるいは理由もわからぬままシュウジとキラキラを追いかけたり、軍警の横暴に憤ってニャアンの手を取ったりしたときより、自由なのかもしれない。
それが何を為しうるかは、次回決戦の果てに見えてくるんだろうけど、少なくとも盲目のまま突っ走っていた時代よりは、ちったぁ世界の輪郭と他人の顔、自分の願いに向き合う腰が落ちてはいる。
これは地球の引力と、ララァお姉様のブランコが縫い留めてくれた足場でもあって、ララマチュ大好き人間としては結構嬉しい描写でもある。




一方ジオンを二分する権力者に見初められ、人類史上最悪の殺戮兵器の心臓となったニャアンは、メシも移動も自由にやれる恵まれた環境の中で、極めて不自由に縛り付けられている…ように、俺には見える。
そこを牢獄と考えるか楽園と受け取るかは、結局ニャアンが決めることなんで、俺の感傷なんてどーでもいいんだけど。
でも超出オチであっさり死に倒したギレンの、無様な死相を見ていると、「あんまいい場所じゃあねぇよなぁ…」とはしみじみ思う。
せっかく幾度か見つけた”いい場所”に滑り込めなかった結果、ここにいるわけだが。
キシリアが唾棄するギレンの罪悪感が真実なのか、この後イオマグヌッソで人類の半分以上殺す気満々なキシリアの内面反射なのかは、いまいち分かんねぇけど。
別荘に引っ込んで秘書と乳繰り合ってる、田舎の土建屋みたいな閉じて腐った空気の中で自分を守ろうとした猜疑と小心は、ここでぶっ放せば確実にジオンが壊れるタイミングでなお、私心に突き動かされて兄貴を殺っちゃうキシリアの性根を思えば、まったく正しかった。
キシリアのマスクを小心と罵る連中こそが、彼女が撒き散らした擬態に引きずり込まれ、生身で毒を吸うところまで引っ張られたわけだが、さて、仮面は本当に目的のための擬態でしかなかったのか?
そこら辺のゆらぎは、超圧縮率で解釈の余地を投げつけてくるお話の、狙って生み出した隙間に吸い込まれてしまう。
重要なのは実際描かれたものであり、そこで生まれる行動の中に軋む感情と関係…その結果積み上がっていく死体の重たさだと、僕は思うようにしている。
一年戦争終盤の成功体験が、過剰なMA至上主義にギレン派をツッコませ、国傾けるほどの予算をぶち込んで生まれたビグザム軍団は、実体槍を主武装とするギャンにメタられて爆発四散していく。
ここでも既にたくさん死んでるが、それ以上の殺戮がこの後ア・バオア・クーで…もしかすると地球で、山盛り積み上がるんだなぁ…。
ホント最悪だよ!
ギレン派がイオマグヌッソのことを、ビグザムと同じ砲艦外交の道具と誤認しているのが、不思議に興味深かった。
ニュータイプの可能性を信じない彼らにとって、重要なのはどれだけの仮想の死を兵器が連想させ、政治を動かすかというリアルだ。
んじゃあサイコミュ技術を独占してたキシリアが、人殺し以外のニュータイプの可能性を睨んでいたかというと、彼女だって政治の道具…実際にぶっ放して人を殺せる毒としてしか、超能力を見ていない。
むしろ新人類の間近に、味方の顔して寄り添えばこそ、その可能性を殺しの道具に使わないという、フツーで平和な祈りを積極的にすり潰してもいく。
やっぱグラナダでのゼクノヴァを目の当たりにして、「オヤジ殺した兄貴を殺そう! この現象はクズ人類を皆殺しにして、野心を叶えるのにマジ使えるので全額ぶっこもう!」って思えるの、ホント凄いなと思うけど。
ここら辺、アクシズショックを目の当たりにしても変わることなく、地球を食いつぶし社会を腐らせてどん詰まりまで行った逆シャア以降の宇宙世紀を、時間軸逆行して再現してる感じもあり味がある。
そこに人間的/個人的な虚無と輝きを見出したシャリアが、強い覚悟を滲ませつつ手段は選んで望みを果たそうとしたのを、ブレーキ何もないキシリアは最高速で突っ走り、最悪のタイミングでジオンを割るのだ。
そのかけがえない共犯として、ニャアンは選ばれしディアボロとなり、キシリアの銃を受け取った。
それは手渡されているようでいて縛り付けられていて、いつ誰に撃つ/あるいは撃たないという選択の自由は、髪を撫でる暖かな感触に反して、全く与えられていない。(ここら辺の閉じた感覚が『イオマグヌッソ”閉鎖”』というサブタイトルに、猛烈に反射しているのはとても好き)
この家族主義的な温もりでもって、傷ついた虚しさを囲い込んで自主的に人間を道具化していくやり口。
政府中枢からご家庭の地獄まで、洋の東西過去現在を問わず人間が生きている場所には顔を出す最悪なので、大変いい感じの吐き気だった。
キシリアが撒き散らす、「個人スケールではなんかいい感じに温かいけど、社会レベルに拡大されると大量虐殺な地獄」の感触、めっちゃ古典的かつ同時代的な”悪”の匂いがしてて、かなり最悪で好きだ。
「ほんっと人間こうなっちゃいけないなぁ」という戒めと、「絡め取られたら抜けられないだろうなぁ」という粘り気を同時に感じられて、ニャアンがどんどん自分を手放す(あるいは最初から自分など無かったと、マチュと感じたキラキラを諦める)姿に、納得もしてしまう。
今ニャアンは自分で何も考えず、決めず、誰よりも奴隷的/道具的/機械的だからこそ、心安らいで自由だと思う。
他でもないキシリアのギレンに家を潰された野良犬は、薔薇の匂いがする首輪で運命を縛ってもらうことで、ようやく安らぎを得たのだ。
めっちゃハンナ・アーレントっぽい~。




ニャアンはキシリアの望みのまま…あるいはそれに乗っかることでもう一度シュウジと出会うことを夢見て、イオマグヌッソのコントロールを奪う。
ジフレドの顔からケーブル伸ばして接続するの、本来コミュニケーションの中核に座るべき”貌”が異質ななにかに変質してる感じが強くて、大変良かった。
この顔の悪さはパイロットの引き写しで、嫌な匂いを感じ取ったら即座に殺せてしまう、力と自由(あるいは不自由)を得たニャアンの表情は、大変良くない。
でもま、こういう顔に己を染めないまま、大量殺戮なんて出来ないよね!
実際何処かへ飛び出していけるかはさておき(あとその中心に在る人間の思惑は横において)、ゼクノヴァはジオン壊滅の未来を書き換え、シャアを軍服を着ない立場へと解き放った。
なによりその中心に在る少女の祈りは、時に呪いとなって現実を縛るほどに、残酷な運命から何かを解き放つことを、幼く真っ直ぐ望み続けている。
だからこそ生まれるエネルギーを、自分の虚しさを満たす”巣”に寄ってきた野良犬を中核に、中途にぶち壊して沢山人を殺す道具にするイオマグヌッソは、極大のスケールでも極小の視点でも、冒涜的だなぁと思う。
つーかシンプルに死に過ぎなんだよなぁ…これで前座だろ?
イオマグヌッソがア・バオア・クーを喰う時、潜水艦の圧壊音とか、クジラの鳴き声みたいな音が聞こえるのは、このお話を海への潜航として受け取ってきた自分にとって、面白い表現だった。
あのキラキラがニュータイプの素養のある人にだけ見え、異様な軋みが聞こえているのか、ここもいまいち確信が持てないんだけど。
MSや戦艦と対比することでその異常な巨大さが感じ取れる、戦後ジオン平和への祈りの結晶…という外装を剥いだら、ソーラ・レイよりなお悪い宇宙世紀最悪兵器が、人類史を最悪の泥沼に引きずり込む描写として、あの毒々しい眩さ、不可視のドロっとした水しぶきと渦潮は、キモくて良かった。
俺はジークアクスのキモい所が結構好きだ。
人間が身に宿してはいけない異質で過剰な力が、MSや巨大兵器に宿っていることを、ヴィジュアルに感じさせてくれるデザインが、ずーっと元気でありがたい。
シュウジが見せたキラキラが、微笑ましい青春の光なんぞではなく、犯罪や殺人や大虐殺に繋がっていく、極めて危険な爆弾であるとは、既に幾度か示されていたけど。
今回イオマグヌッソが解き放った、極彩色の破滅はその極限として、大変説得力があった。
ニャアンはこの凶暴な美しさを、どう使うべきか考える権利を放棄したし、要塞サイズまで肥大化した虚しいエゴで、世界を飲み干すのにためらいもなかろう。
飼い主が結構エイヤ! と気合を入れて、自己暗示を繰り返しながら兄殺し、同胞殺し、人類殺しの英断に飛び込まなければいけないのに対し、クランバトルで殺しのトリガーを開放されたニャアンは、動物めいたスムーズさで、後ろを振り返らずに殺す。
それは覚悟ゆえではなく覚悟の不在ゆえの滑らかさだが、意を決して殺そうが誰かの道具になって殺そうが、死体は死体である。
…そうじゃなきゃいけないはずだけど、物語の始まりからしてそういう人間算数をぶっ飛ばし、コロニー落として始まってる世界に、ニャアンは凄く上手く適応できた子なんだと思う。
それが俺には苦しいし、とても寂しい。




殺してでも止めてくれる人を、バッタバッタと皆殺しにすることで、キシリアはこの大虐殺(まだ半分)までたどり着いた。
その背中に乗っかって手作りのアップルパイと、手作りのカオマンガイを交換しながら、ニャアンは強化人間よりもずっと完成された機械の心臓、殺しの奴隷として、この愁嘆場へと流れ着く/生み出す。
山ほど死んだ人間の思念を浴びて、吐き気一つですませれる当たり、ホント進化したニュータイプだよ…。(こんな当てこすり、かわいいニャアンに使いたくなかった…)
マチュはその中枢に、道を分かった友が立っていることを知らぬまま、ララァの苦しみを悲嘆の渦の中に感じる。
歪んだ歴史の中キシリアがサイコミュ技術を独占し、異常進化させた結果、ニュータイプは戦中よりも遥かに残酷に、殺しの道具と化した。
その意志なき虚しさは、MSが殺しの道具でしか無いと結構な頻度とエグさで書き続けてきた、このアニメらしい悪辣だなと思う。
シャリアはそれを跳ね除けたくて、若きニュータイプの道を体を張って開いたが…さてエグザべくんとの対峙は、どういう決着を得るのか。
それはさておき、イオマグヌッソ中枢に降りていくジフレドが、あんまりにもカヲルくんに導かれる弐号機過ぎたり。
ジークアクスを取り囲む親衛隊のギャンが、あんまりにも量産型エヴァ過ぎたりして、ひとしきり笑ったぜ。
偶然と運命と意思がもつれ合う、大きな流れに飛び込み潜り溺れ、たどり着いた幾度目かの対峙。
ニャアンとマチュの間にある、認識の非対称性がどう転がっていくか…そうして発火した意思が何を燃やし、何を生み出すかは、見届けなければ分かりません。
「オメーが回収すんのかよ!」と思わず突っ込む、”もうどうなってもいい”と思えるような絶望と虚無の、その先。
灰色に燃え尽きればこそ見えてくる、キラキラの向こう側。
いい加減帰ってくるだろうシュウジが、薔薇を求める理由も含めて、ゴロゴロ凄いスピードで突っ走っていった星たちの行く末を、なんだかんだ楽しみにしています。
キャスバルくんも、5年分のケジメしっかり付けなきゃアカンよ…。