イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

忍者と極道:第8話『第四章 幼狂死亡遊戯 STAGE2』感想ツイートまとめ

 忍者と極道 第8話を見る。
 前回しっかり整えた因縁のレールに乗っけて、加害者も被害者もたいそう悲惨なまま血みどろに突っ走る、極彩色の殺戮絵図である。
 全体的に超加速されたアニメの語り口に乗っかって、ドキプリオマージュの仲間たちが超減ってるなどのドライヴ感もありつつ、凄い速度で首相官邸が地獄になっていった。

 

 心の底から忍者に笑ってもらいたくて、誠心誠意晴れの場を用意した愛多総理とか、憎まれ口叩きつつも世界に割られた子ども達を繋げてあげた惨蔵と並べることで、極道さんのぶっ壊れ方が際立ってたと思う。
 殺人児童に漂う悲壮感と並べると、あまりに人非人なんだが、一見共感を跳ね除けるような冷たさが、彼自身”割られた”子どもだった過去を鑑みると、一方的に断罪して良いもんか悩ましくもなる。

 さんざん好き勝手殺戮ぶっこいた挙げ句、死に際…つうか首跳ね飛ばされた後のみ人間的な事情を吐き出せる、戻る道がない罪人たち。
 最後の一人になるまで潰し合う地獄のコロシアムの中で、極道さんがどんな悲しみを背負い、これだけの大殺戮を成し遂げたのかは、最後の最後まで不明なままなのだろう。
 そういう意味では、派手に飛び散るチャンスを貰って、命と引換えにやるせない胸の内だの、傷だらけの過去だと吐き出せてる現役世代のほうが、ちょっと”楽”かもしれない。

 

 …って言葉でまとめるには、壊されてもう生きていけないひび割れを、狂気と殺戮で繋いで、イカれたゲームに興じることでまだ自分たちに何かが満ちているのだと思い込んでるガキどもの末路は、あんまりにも重たく血腥い。
 竹本組のヤクザも、聖羅天のボンクラどもも、クズなり自分たちらしく輝く時間がある程度あった上で、腐れ外道やり過ぎて打首に処されてる。
 そこには大人がケジメつけさせられてる自業自得感が少しだけあるけど、”割れた子供達”は選択の余地のない狭い場所で殴られ壊され、生きるために伸ばした手が凶器を掴んじゃった否応なさが、どうしても滲む。

 そらー殺されて当然のクソ外道ばっかだけども、どうにかならなかったのかと過去を睨む視線と、どうにもならなかったなと惨状を睨みつける目線が同居して、常軌を逸した殺し合いがなんとも冷たい。
 その嘲笑えなさが、本来幸せになるべく生まれてきたはずの存在がどうにもならないどん底に叩き落され、割られっぱなしの被害者でいられないから殺し返す、業のどん詰まりには大事なんだと思う。

 

 「グングニルは無敵だ!」と、ぶっ放す殺戮技芸の派手さに反して幼い言葉が二人を繋ぐの見てると、俺は本当に悲しい気持ちになった。
 そんな自己実現ガキどもが望んでいるはずないのに、そういう場所に自分たちを投げ込んで、忍者ところし殺されするくらいしか、可能性がもうない。

 そういう人倫の荒野を前にして、一体何が出来るのか。
 忍者は鍛えた異能の限りを尽くしてぶっ殺し、無力な政治家は逃げ惑う。
 極道さんはかつての自分の鏡のような哀れなガキに、インスタントな優しさを手渡して必要な情報を引っ張り出して、あっさり殺して「響かない」と独りごちる。
 そうなってしまってる自分に一番絶望しているのは、多分極道さんなんだろうなと思う回だった。

 

 

 その絶望の底の底まで、潜り切るだけのチャンスはもうないと腹決めてるからこそ、このスピード感でアニメは突っ走ってるんだろう。
 色々言いたいことはあるけども、そのなりふり構わない必死さ、俺は好きだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

画像は”忍者と極道”第8話より引用

 というわけで大人の善意が眩しく溢れる晴れの舞台から、ガキの絶望が赤く滲む殺戮へと、忙しく舞台が移り変わる。
 果たしてガムテの乱入がなかった場合、忍者はマジのガチであらゆる人が笑顔で生きられる未来を信じてる大人が用意してくれた、優しい場所で笑えたのかとても気になる。

 そういう人生の答えみてーな場所を眼前にして、最悪の血みどろに追いつかれてしまうのが、田仲忍者という少年の宿命だとは思うが、それにしたって悲しすぎる。
 あるいはだからこそ、牙亡き人の祈りを背負って、忍者は闘う定めにあるのだろうか?

 

 四人分の切なさをぎゅっと圧縮した、バーコード頭のキュアダイヤモンドの末期。
 実は今まで、名前と顔と人生があるけどなんの力もねぇ、極道にぶっ殺されるだけの一般人側の物語って、描かれるチャンスがなかった。
 だからどカリッカリに圧縮したとしても、菱…聖川官房長官血みどろのの純情は、すごく大事だと思う。
 どんだけ重たい過去背負ってようが、極道の悪行を正当化出来ねぇ理由が蘆花ちゃんの涙には宿っていて、それを賞状とスポットライトの代わりに受け取って、忍者は地獄をひた走る。
 彼自身、かつて蘆花が貫きたいと思った正義が守るべき、割れかけの子供なのに。
 関わる人全てが悲壮で、やっぱ悲しい話だ。

 こんだけ悪趣味な大虐殺ゲームが横行する中で、忍者の優先順位が人命救助>極道を倒すなのが、似通った境遇に引かれた一線って感じがする。
 でも忍者くん自身も彼を描く筆も、正しさに足場を置けている自分がこれから殺す相手より”上”って意識はなく、ベタついた共感もまたなく、ひたすら真っすぐに己を刃に変えて、裁くべきを裁いていく。
 殺し殺される間柄だからこそ公平な、捻れて裏返った絆が、正義が悪と闘う首相官邸には渦巻いている。
 そして蘆花の末期を聞き届けることで、忍者と無力な犠牲者たちの間にも、揺るがぬ絆が紡がれていく。
 情に流されれば死ぬ世界で、忍者は共感のチャンネルを閉じない。

 

 これに対して、偉大くんを舌先三寸コロッと転がし、必要な情報手に入れたら即座に首切る(物理)極道さんは、自覚のとおり他人と響き合えない。
 グラチルOBだってんなら、割れる(それを不格好にガムテで補修する)背景もある程度以上共有しているはずなのだが、ガムテと現役世代のように、”同病相憐れむ”とはならない。
 あるいはそういう湿った共鳴なしでも、割れたまま生きれてしまう怪物だから、こんだけ反倫理的な挑戦の先頭に立てる…つう話なのかもしれないが。

 「この冷徹が”便所”で行われているのは、本当に凄まじいなぁ」と、アニメで描かれ直されてより強く感じる。
 とにかく”偉大”になることを夢見たクズの泣き言は、汚物として床に投げ捨てられて然るべきだという冷たさが、この場面にはどうしても滲む。
 その冷たさがガムテのエディプス・コンプレックスを刺激し、世界で唯一血を熱くしてくれる(かもしれない)と見込んだ、忍者への嫉妬を煽りもする。
 お互い死力を尽くしての殺し合いの果て、魂の傷口を抉って広げハラワタ引きずり出しきった先にしか、極道さんの冷たさがどっから来てるかは見えないのだろう。

 そんな極限に至るための贄として、ガムテと仲間たちは凄い速度で、己の人生を疾走っていく。
 聖羅天のピーター・パンどもが黄金期と思い返した視線とは真逆の、暗黒の季節すぎる幼い時を。
 あるいはそのギラツキと響き合う、確かになりたい夢がそこに在った血の池を。

 

 

 

 

 

 

 

画像は”忍者と極道”第8話より引用

 血みどろの鏡に、ひび割れた世界と極道さんが切り取られているカットは、舌を噛みちぎって殺しを前に気合を入れる「いつもの」やんなきゃ、ぶっ飛べないガムテとの近似を語っているように思う。

 スーツと冷酷に身を包んだ大人は、分かりやすいアイコン≒聖痕として割れた魂をガムテープで包むことはない。
 しかし虚像が捉えたその世界は血とヒビに満ちていて、全てを奪われ死を撒き散らしながら、それでも背中に誰かを感じていたかった子ども達と、似通った匂いが漂ってる…ように思う。
 八極道、それぞれ極道さんと通じる部分を持ったシャドウなんだろうなぁ…。

 頑張らないと狂えないし、頑張って狂った自分に引っ張られて死んでった仲間のことも忘れられないガムテは、素敵な女の子とキスする”普通”を自分に許さない。
 痛みと血の味だけが、今自分が立っている場所、皆をガムテで繋ぎ止めてしまったミニ救世主として、為すべきことを思い出させる。
 その血みどろの背伸びは、ようやく笑えそうな所で地獄に叩き落され、自分の為すべきことを思い出した宿敵に似てて、ガムテは主人公のシャドウでもあると思う。

 

 鏡合わせ似た者同士、分かり合うより殺し合う。
 そういう道に四百年身を置いてなお、神賽惨蔵は極道になるしかなかった子どもの骸、蹴り飛ばす前に瞑目して情を喰む。

 逢魔賀戦もそうだったけど、惨蔵は忍者の体現として苛烈な言葉で極道への憎悪をがなり立てつつ、眼の前の間違えきった一人間が最後に人の証を吐き出せるよう、かなり甘い殺しを仕掛けている。
 並の忍者だったらそれが命取りなんだろうけど、それでも生き延びれてしまうのが最強というもので、それがこの血みどろの荒野では、微かな救いにもなっている。

 

生み出した死体、踏みつけにした哀しみを鑑みれば、とても許してはおけない過ち。
 そこに滲む涙と哀しみを、未だ感じ取る窓を閉じていないからこそ、弟子である忍者も蘆花の遺言を聞き届け、牙亡き人の刃として走るのだろう。

 攻手と司令、天使と毒、舞踏鳥とガムテ。
 ”割れた子供達”がコンビで闘うのは、バトルに横幅を持たせる面白さ以上に、誰かがいてくれないと立てない子どもの脆さを際立たせる。
 二人だから生き延びて、二人だから間違えて、二人で死んでいく。
 満たされているようでいて寂しい、誰かに魂を割られちまった子ども達の旅は、ここまで至っちまったら首たたっ斬られて、何の救いもない無明で終わるしかない。
 …はずなのに、惨蔵は悪逆をうそぶきながら子どもの生首を蹴り飛ばし、最後までお互いを感じられる距離へと導く。
 そこで共感の証を流してしまえば、忍者の体現ではいられなくなるけど、閉じた瞳の奥に涙がある。

 

 それがこの、無力な一般人も調子くれた殺戮キッズ達も、それを裁く正義の戦士も悲しいばっかりなお話しに、微かに許された光明だと思う。
 んなもんが差し込んだ所で、タカヒロとヒデユキが割られた現実も、ガムテでそれを取り繕って、殺す側に立つことで殺されない自分を信じようとした愚かさも、消えてなくなるわけじゃない。
 同じようにかけがえない誰かを信じて、命がけで誰かを守った蘆花にだって、おんなじ様に大事な物語があった。

 そういう、大事にされるべき物語がぶっ壊された当事者が、誰かの物語をぶっ壊し返すことでしか、話が転がっていかない、異様に人間臭い修羅の巷。
 そこにまた、色んな奴らの屍が積み上がっていく。
 そういう赤い渦の中からしか湧き上がってこない結晶が、一体何を照らすのか。

 

 「まー”次”はねぇンだろうな…」と思わされる速度感でブッ千切る物語は、作中アナウンスされたように最初の転換点へと、思いっきり突っ走っていく。
 こんだけ血生臭く狂ってて、切実で悲しい話を描かなきゃいけなかった”熱”みたいなものを、不格好ながら確かに継いでいるアニメ化だと、俺はやっぱり思う。
 次回も楽しみ…っていうには、やっぱ死んだり殺したりする連中の姿見るのが哀しくはあるけど。
 それでも、次回も楽しみです。