割れてしまった僕たちが、最期に見る夢の色は。
さらば極悪の華……ガムテ散華の、忍者と極道最終話である。
もはや”割れた子供達”も最後の一人、長い因縁に終止符を打つべく本気の本気で、歪んだ鏡に写ったもう一人の自分に挑む忍者とガムテ。
「ここまで描き切りたかったから、アレがあーなったりソレがそーなったりしたんだなぁ…」と、勝手に納得などする渾身の最終回であった。
振り返ってみればグラチル編だけで半分、かなりアンバランスなアニメ化となったが…噛み締めてみるとやはり、この章に”忍者と極道”のエッセンスは濃い。
散る以外にもはや道がない歪な華と、喉笛に牙突き刺し、もつれ合いながら落ちていく。
末期の夢に栄光でも勝利でもなく”普通”を望んだ、誰かに割られ怪物になってしまった子供達を嘲笑わず、許さず、対等にぶっ殺しぶっ殺される道をひた走る、血まみれの聖者たち。
半歩間違えれば被害者意識で心の痛みを麻痺させた怪物になり、少し運命が微笑めば正しく生きることも出来ただろう、似た者同士の宿敵たち。
紙のように薄く、鋼のように堅牢な善悪を隔てる一線を赤いインクで描くために、ガムテは忍者と極道、両方に濃厚な因縁と感情を抱え、しっかり事前準備を整えてこの決戦に、道を整えてくれた。
殺意と怨念と狂気に満ちた、殺し殺されの旅の果て、ガムテも忍者くんもお互いの強さを認める。
認めたうえでその手は結ばれることなく、お互い強者であるがゆえの隙を伺いながら、お互い散っていった仲間の魂を乗せて、本気で殺し合う。
そうなってしまうしかない定めのやるせなさと、その果てで最後に絞り出した呪いの痛さが、クライマックスにしっかり刺さるのは、やっぱそうなるようにアニメ化してここまで綴ってくれた結果だと思う。
舞踏鳥が末期に託した、殺しの王子様最大の悪意。
その暴露が何を引きずり出し、何を打ち砕き、何を揺るがぬ真実として暴くのか。
原作も全然終わっていないので、それを描かずの幕であるが…その輪郭は墨痕力強く、なんとなく理解できる終わり方であったと思う。
聖羅天のピーター・パンどもが、背中を向けて最後の暴走に突き進んだ、死ぬほどつまらない大人の「普通」。
それを死ぬほどに求めて届かず、殺さなきゃ殺されちまう土壇場で死ぬほどもがいて、必死に走って、そのまま死んじまったガキ共の無念と輝き。
死闘の中山盛りそれぞれの過去を回想し、彼らの長であるガムテがそれを全て背負う流れの中で、あれだけ憎たらしかった若き…若すぎる極道が、それでも”人間”だった事実が、切なく胸に刺さる。
それを迎え撃つ忍者たちも、絶対の正義と奢ることなく、同情と非情両方を携えて、死ぬことでしかもう終われない現世の餓鬼に、誠実で苛烈な引導を渡してきた。
その全てがどうしようもなく切なくて、こうなるしかない苦さに満ちて、なんとも言い難い特別な味わいに満ちている。
善悪正誤の判断は混濁に飲み込まれ、笑えるほどに死にまくる地獄絵図の中に、目を開けていられないほどに眩しい”人間”が立っている、美しいカオス。
色々な難しさと取っ組み合いながら、そんな作品の心臓を素手でえぐり出し、こちらに突き出してくるようなアニメ化だったかなと思う。
そういう所まで狂うかのように突っ走ってくれて、とてもありがたかったです。
アニメ化までこぎつけたのが色々奇跡なお話だったとは思いますが、それでも二期、心から待っています。




というわけで最終話でも気合い入りまくりモード継続!
アクションも止め絵もバリッバリにキレてる作画のまま、忍者くんとガムテの最終決戦は、燃え尽きるほどの熱を帯びていく。
自分がこれ以上ひび割れないための防具であり、死んだ連中の重荷に押しつぶされないための拘束具でもあったガムテが剥がされると、その素顔は哀しく切ない。
同時に濃厚な殺意を凶暴に迸らせてもいて、その全部が”ガムテ”だったのだろう。
禁断の”地獄への回数券”二度打ちによって、約束された死と理外の強さを得たガムテの闘いは、これまでで一番迫力があり、同じくらい悲痛だ。
泣くほどに”父”を求めるその顔が切ないほど…そこまで求める男が宿敵だけが笑わせられる哀しみが刺さるほど、極道さんの冷酷な無表情に、新たな意味合いが浮かび上がってくる。
アレだけ社会的擬態が上手かった男が、血の繋がらぬ息子相手には己を一切偽らず、真っ直ぐな暴力と冷たい無感情で答えていた、不器用な誠実さ。
”父”を求め、血を吐くような叫びを上げるガムテに照らされることで、かつて忍者くんの涙を受け止めた極道さんもまた、「もう笑えない男」の悲しさを背負っている事が解ってくる。
泣けぬことは哭くほどに悲しいのだと、この最終話に忍者と極道、それぞれの立場を入れ替えて描かれたのは、たいへん良かった。
異様な熱量で燃え上がるキャラクターの、暗黒性の輝きが別のキャラを照らす関係性は、お互い殺しても殺し足りない憎悪を抱えた、二人の少年も繋げている。
この相互照応の関係を強調するべく、ガムテと忍者くんは顔つき合わせたフェイスオフな場面が多かったのかなぁ…などとも思うが。
ドスの刃先に乗っかるものが重くなるほど、戯けた狂気の芝居が剥げるほど、割れてしまった器を満たしてくれる全部を持ってる(ように思える)宿敵に、ガムテが向ける感情の強さが顕になってもくる。
そうするほど、そこから逃げない忍者の潔さも輝く。
お互いの心臓を狙い合う極限の闘いだからこそ、ガムテ引っ剥がされて剥き出しになった感情が伝わり、相手のことを理解ってしまう。
その上で怪物が吠える「なんでこんな事になって、どうすりゃ良いんだよ!」という慟哭に、同情して一緒に堕ちるのではなく、揺るがぬ正しさを暗刃に込めて、本気でぶっ殺すことを答に選ぶ。
もう自分では殺しを止められず、狂った遊戯に仲間と突っ込むことしか出来なかった暴走特急を、己の全霊と仲間との絆でせき止める。
多仲忍者のヒロイズムはそういう、悲愴で揺るがぬ色合いを帯びていることが、人外の激闘に鮮烈になるのが、大変よかった。
凄惨な殺し合いをわざわざ描く理由が、最終決戦に一番鮮明である。
人外の膂力で壁ぶち抜き、官邸内を移動しながらの闘いは、ここで何が起こったのかを改めて確認できて、大変いい。
無力な民衆も、狂った襲撃者たちも、山程死んだ屍の山。
そこに転がる首無し死体には確かに、狂うだけの傷とそれを仲間に受け止めてもらった喜びが、死んでなお宿っている。
”割れた子供達”の極道技巧を己に引き受け、強者たる忍者くんに立ち向かうガムテの姿は、血の繋がらぬ”父”に良く似ていて、しかし二人ともそんなロマンティシズムで許されぬ罪を、山程抱えている。
友情無罪と放免するには、ちと積み上げた死体の量が多すぎる。
それでも悪にだって友情はあり、怪物にだって夢はあった。
そんな事実を厳しく見つめながら、ここまで来ちまったのならもうそうなるしかない死闘は、甘っちょろい感傷を振りちぎるように激しく、お互いの限界を試していく。
闘争を扱った創作だと、だいたい正しい側の武器になる「仲間の遺志」で極道サイドを武装させているのは、人間の証たる絆を奴らにも持たせる優しさと、だからといってそれだけで”人間”になれるわけではない峻厳を、同時に果たしてる描写だと思う。
忍者も極道も、とても尊く切ないものを凶器に込めて戦っているのだから、それだけで正しさが担保されるわけではない。
でも、たしかにそれは眩しい夢なのだ。




お互い死力を絞り尽くす激闘の果て、ガムテは笑ってではなく泣きながら死ぬ。
前半戦ではあんだけ狂って憎らしかったクソガキが、余計な荷物背負ってちゃ相手にもならない強敵を前にして、鋭く美しい素顔をさらけ出すのも、それに応えるように忍者くんが戦士のかんばせ凛々しいのも、大変良い。
憎しみも怨念も消えず抱えたまま、それを超えて相手の純粋な強さを認め、それ故に決着が訪れる闘いのカタルシスは、異様な友情の火花すら宿して眩しい。
そして少年たちのその熱から、哀しき怪物の冷たさはあくまで遠い。
ガムテが死ぬほどに求めていた笑顔は、極道さんには生まれない。
結局最後の最後、アレだけ憎んで遠ざけていた(だからこそベッタリと魂に張り付いて剥がれない)”父”との絆を武器に選んで、忍者くん相手に立派に闘い切るのは、刃とボコリをプレゼントにするしかなかった極道さんの、誰よりも”割れた”心の形を示していて、なんとも苦しい。
ガムテと極道親子の歪さは、お互いの胸の中だけでは人間らしい感情を素直に吐き出せる、忍者くんとの関係の鏡だ。
自分がずっと求めて届かず、だからこそ狂うほどに焦がれるモノが、自分によく似た他人の中にある。
そこで諦めて一歩引いて、正しい繋がりを祝福できるのならば、”割れた子供達”になんてなってないのだ。
同時に憎悪でも殺意でもなく、”父”の笑顔をずっと求めてしまう彼の普通さが際立ってもいて、そこに狂える母が手渡した愛の形が、今更ながら突き刺さる。
グラチルみんなそうだけども、欠片も望まない最悪をフルスイングされて人生ひび割れ、狂って殺して許されなくても、”人間”の形を保っていたかった。
完全に狂い果てた人非人になりきれないまま、人間には許されない量の悪行を背負って、行き着いた道の果て。
そこに血しぶきと涙があるのは、彼らを突き動かしたもの、壊れてなお進んできたものに背中を向けない、凄惨な誠実さだと思う。
まぁ、こうなるしかなかったのだ。




その上で、ずっとたどり着きたかった美しい夢に終わっていくことを許すのは、果たして優しいのか、甘いのか…。
悲惨すぎる過去を山盛り食べたおかげで、異様な盛り上がりがグラチル編に宿ったのも事実ではあるので、あり得たかもしれない夢を彼らに許すのは、ある意味正しい労いという感じもある。
現世に取り残されたものは、殺しの王子様最後の呪いによって優しい夢を引っ剥がされ、「しのはときわみ」ではなく「にんじゃとごくどう」として、武器を携えて向き合う。
修羅たちの激突を置き去りに、闘いを終えた子供達は美しい夢を見る。
普通に生きて、誰も殺さない夢だ。
ガムテの夢の中、割れず殺しもしなかったから出会ってもいない仲間たちが皆、十全なハッピーエンドを迎えていないところが好きだ。
仕事がうまく行かなかったり、夢が潰えそうになったり、デカかかったりデブだったり、色々当たり前に難しいことはあっても、それで致命的に人生へし折れるわけでなく、靭やかな回復力を保ったまま、子供達は普通の大人になった。
そんな当たり前が遠く潰えて、人殺しのバケモノに成り果てるしかなかった連中が、「殺す私たち」として使っていたいつかの夢は、そこでは叶いきっていない。
負けても傷ついても、夢が叶うまでのの途中なんだと思える、人間当たり前の強さを、殺戮者は末期に夢見た。
そのあんまりに普通な風景が、犠牲者としての極道の色を最後に強めて、「…嫌でもアイツラ、マジで被害者面しすぎだろ。何が弱者だッ!」という正気に立ち戻りもする。
極道さんが最後に吠えたように、「地獄への回数券」が命を対価に約束するのは、どうしようもなく世界に殺され叩き潰され、それでもなお殺しによって己を叫ぶしかない弱虫が、命を担保に正しさを相手取る闘いだ。
忍者はそのドス黒い方向を受け止め、時にブッ殺されたりしながら、正しくも強くもない”人間”末期のあがきを、世界で唯一受け止める。
…血みどろにボコられながら、真正面から受け止めようとした日本国最高権力者とかも、まぁ世界にはいるんだけども。
叶うことなら普通に”人間”でいたかったのに、狂わされ殺すしか無くなっちまったハミダシモノの全部を受け止めるには、言葉だけじゃ弱すぎる。
冗談みたいに首が刎ね跳び、死体が積み重なる地獄に眩しく明滅する、死闘の閃光だけが照らせるものが、確かにあるのだ。
ガムテ最後の叫びは、そういう作品のスポットライトを、美しい嘘の中に逃げ込もうとしていた「忍者と極道」に照射する。
ということは、ここで壊されて初めて、忍者くんと極道さんはお互いに嘘なく向き合うスタートラインに立った…とも言えるだろう。
ここら辺、忍者の素顔晒してなお「ダチではないか!」と吠えてくれた、愛多総理との対比が響くね…。
死闘四番を終えて、お互い三人欠けて五対五。
忍者と極道の決戦は、グラチル編で濃厚に悪なる者に宿った切なさを描いたからこそ、その先を見届けたくなる。
しかしアニメはここで幕…こんだけ暴力的で、悲愴で不謹慎な物語に続きがあるかは、サッパリ解らない。
だが間違いなく、続きが見たくなるアニメ化だったと僕は思う。
前半戦はかーなり作画ヘロヘロしてたし、尺の都合でカットされたりヤバすぎて放送できなかったり、色んな変更が山盛り積み重なった。
しかしそういう捻れを経てなお、作品の心臓を脈打たたせているエッセンスを、どうにかアニメに焼き付けようとなりふり構わず、必死にあがいてくれた。
このときに不格好で凶暴なあがきは、”忍者と極道”という作品が異形の表現を選び取り、だからこそ伝えたいと震える姿に、良く似ているのではないか。
首がぶっ飛び血が溢れ、迸る詩情と異様な力みが混ざりあったカクテルを直接脳みそに流し込んでくる、笑っていいんだか泣きゃいいのか、サッパリ解んない気持ちになる怪作と、裸一貫四つに組んで、このアニメでやれることをやり切ろうとした。
そういう熱は、確かに感じられるアニメ化だった。
美麗で破綻がない作画とか、バズ間違い無しのヒットソングとか、気づけばすっかりメインカルチャーの仲間入りした”深夜アニメ”で、自分が一番感じたいものが、確かにそこにはあった。
それが、とても嬉しかったです。
僕は原作のファンである以上に、渡部監督の前作”黄昏アウトフォーカス”に満ちていた美しさと切なさが、この異形のエレジーをどう描くのかを楽しみにしていました。
ネタ方面の火力がピックアップされがちだけど、豊かな詩情と燃え盛る思いが根底にある、本気の殺戮劇にどう挑むのか。
期待し不安でもありましたが、見事に応えてくれたと思います。
アニメ”忍者と極道”、たいへん面白かったです。
何しろエネルギーに満ちた物語なので、見てるこっちも取っ組み合って疲れましたが、それ以上に見届けられて良かった。
お疲れ様でした、ありがとう!!!