イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

アニメ感想日記 14/09/11

 

・ アイカツ!
最終決戦前編ということで、WMの始末を付けた回。
大体の想像通り、みくるから別れを切り出したという形で落ち着きました。
まぁそうするしかねぇよな……。
アイカツ世界の天上としての美月の価値を下げず、トライスターの二の舞いを避けるためには、この形で落とすしかなかったという感じでした。

尺の使い方としては美月さんとみくるちゃんの心のつながり重点というか、最後の最後滑り込みで絆値稼ぎまくったというか。
WMは細かくコンビの距離感を描いてはいたんですが、微妙に食い足りないところがあって、そこを押し込むキマくりな展開。
さすがナツコ先生やで……。
「解散寸前まで相方褒めない美月さん」とか、「めげなかったことを褒めるってことは、普通はめげると思ってたということ」とか、合間合間に美月さんのスパルタン過ぎる価値観が出てたけどね。


WMはお互いを尊重し高め合うという、良い意味でビジネスライクなコンビだったと思います。
そんな二人だったからこそ、控室に引いてからの流れは良かった。
他人に対して弱みも努力も見せない、見せられる他人がいないという美月さんが、初めて涙を一滴見せたあのシーンは、モンスターで在り続けることを話の都合で半ば強要された二期の美月さんが、ようやく人間に戻れたシーンだった気がするわけです。

みくるちゃんに抱擁された時に、完全に慮外であるかのように棒立ちで硬直する姿もひっくるめてね。
何かというとハグしまくってる他の女の子に比べ、非常に異質な反応なわけですけども、抱きつかれたことも抱きついたこともない、そういう人間関係を選択し維持してきたアイカツ界最強の女、神崎美月の人生があの五秒間の棒立ちに表れていた。
僕はそう思います。
いや、みくるちゃん突っ伏してるのに美月さん椅子座らないとか、最後まで気を抜かない強キャラ描写もあったけどさぁ。

こうしてみくるちゃんの旅立ちを突きつけられるととても寂しく、少ない手番でキャラを上手く掘り下げたなぁと再確認できます。
さて、みくるちゃんの倍の時間を貰っていたはずの音城セイラ、一年間の集大成が来週やって来ます。
一体どうなるんでしょうかね、とても楽しみです。

 

・ Free!(10話)
『山崎宗介の純情とプライド、もしくは死に至る悪ふざけ』という塩梅の回。
一話丸々宗介くんに回して、彼が何を考え何を思い、どうしたかを語るお話でした。
彼の行動の是非はさておくとして、一期で物語的推進剤をかなり使い切っていたFree! という物語を再始動させるため、新たに投下されたキャラクターに一話回してくれるのは優しい。
当然といえば当然ですけどね。

さて、宗介くんの行動はすべて松岡凛という天才を信じ、愛した結果であり、面倒くさいことになるのかなぁと思わせておいて、全ての矛盾点は彼の中で全て解決された状態にありました。
松岡凛が松岡凛であるというだけで、あれだけの献身と愛情を捧げられるのはまさしく純愛(もしくは信仰)としか言いようがなく、自分で自分の神様に決着を付けた真琴との対比という意味でも、なかなか面白い回だった。
無論それは、真琴には二三話かけて"遥離れ(もしくは神殺し)"を達成するだけの余裕を振り分けられた、という実際的な違いが生み出しているのですけどね。
物語の経済学の話をすれば、いまさら宗介というキャラクターが抱えている問題を表面化し、他者の介入によって変化させ、その成果を回収する尺はなく、素地造りもしていないわけですから、『彼が転入してきた三年春の段階で既に彼の問題は発生し、葛藤し、解決していた』という今回のスムーズな解決以外に、宗介くんのクエストを解消(もしくは、解消の暴露)する手段はなかった。

だから、たとえ宗介が鮫柄が二期で持っていたドラマツルギーの発生・展開・解消に深く寄与し、そしてその寄与に十分な尺を与えられない"便利なキャラクター"にしか見えないとしても、この話の使い方は巧いと思うし、好きでもあります。
こういう物語経済をはっきり抑えた尺の振り分けができることはFree! というアニメの強みだし、同時に展開させたい物語のためにキャラクターに対し露骨に貧富の差を付け、それを隠すことが出来なかったのは常にFree! の瑕疵としてつきまとっていると思いますね。
それにしたって宗介の肩は、もう少し早い段階で匂わして良かったとは思う。


さておき、宗介くんは二期が始まった段階で『もう水泳が出来ない』存在だった、ということが今回明らかになりました。
これは『鮫柄の連中がリレーに引き込んだせいで、宗介の水泳人生は潰れた』という糾弾を回避する巧いセットなのですが、それとは別に重要なのは、「『もう水泳が出来ない』宗介の姿は未来の遥、真琴、凛の姿である」ということです。
二期は三年生という主要登場人物の年齢設定もあり、青春という季節の終わりが大きなテーマとして設定されています。
いつまでも皆水(≒幼年期)の中で泳ぎ続け、楽しみ続けることは出来ず、凛のように才能を担保に見ずに居る資格を手に入れ続けるか、真琴のように的確な分別を以って水から(もしくは自ら)上がるか。
どちらにしても、迫り来るタイムリミットに対し主要メンバー(残酷ながら、宗介はその中には入らない!)とは別の答えを出す存在として、『続ける』でも『止める』でもなく『出来ない』という立場に物語開始時から追い込まれていた宗介の存在は、唯一答えを出していない遥に対する鏡になります。
それは、これから先物語を終局させる、重要な結論になるのでしょう。

それを先取りして、今回の宗介の処遇を見ると、やっぱり首をひねらざるを得ない。
肩の故障が表に出るタイミングの唐突さや、物語の途中で凛が何も出来ない自己完結っぷりを差っ引くとしても、宗介の自己犠牲とそれを美談のように仕上げてしまう周囲の対応には、確かな歪みが見えます。
その歪みこそが情念であり、おそらくはFree! を動かしている心臓なんでしょうが、どうしても僕はその歪さに乗りきれない。

「正しい」もしくは「健全な」対応としては、早い段階で事情を話し凛を泣かせて問題を解決するか、最悪でもリレーを棄権させる選択肢を考えるべきだったと思います。
「泣かせたくなかった」と宗介くんは健気に言いますが、結果として事態は明るみに出て凛は泣いている(そしてそれを受け入れ、一応の解決に導く度量もある)わけで、早めに告白しても結果は変わらなかったと思います。
それを言い出せない自負、それを言い出したくない愛情。
そういう感情を切り取る切断面の見事さは確かにFree! の武器だし、人生の問題全てを100天満点で切り抜けるお話を見たいわけでもないので、宗介くんの面倒くさいところそれ自体はOKだと思います。

ただ、地区大会決勝というもう引き返せないところでこれが表に出るズルさだとか、今までそうだったように今回も隠しきって泳ぎ終わった後壊れちゃいましたとなった時、松岡凛と山崎宗介の人間関係は修復可能なのかとか、そういう種々の問題点を塗隠するように自分たちのリレーを神話化する百太郎の言説であるとか、ただ「ああ、純愛だね、健気だね、美談だね」で済ませるには巨大に過ぎる歪さが、やっぱり今回の宗介にはあった。
そしてそれは、Free! というアニメが常に抱え込んでいる歪み方で、それが作品の魅力やそれを生み出す心臓に癒着しているからこそ、容易には解決されない歪みなんだろうなと思うわけです。

一期での(二期でもそうですが)怜の扱いもそうなんですが、遥・真琴・凛の三角関係を成立させ、発展させ、解消させるために配置されたキャラクターが、「憧れ」を口にしながら物語的に都合の良い存在にならざるを得ない構図。
それは「憧れ(もしくは愛情)」という個人的でポジティブな、ともすれば"聖域"と言っても良いナイーブな情動を原動力にしているからこそ、情動的人質を使った脅迫めいてすらいると、僕は感じます。

宗介は凛に憧れているから、勝手に頑張って、勝手に壊れて、勝手に隠して、勝手に納得して、勝手にリレーに参加して、勝手に自分の物語を終える。
怜は遥に憧れているから、勝手に身を引いて、勝手に励まして、勝手に必要なセリフを言う。
溢れかえる"勝手"をうっかり幻視してしまうほどに、彼らは主役三人とのぶつかり合いも、利己的な葛藤なしに正解にたどり着き、物語を進展させてくれます。
女の腐ったような(性差別的な発言であることは理解していますが、色々意味を込めてあえてこの表現を使います)ことをキャラクター全てが喚き立てていては、有限の尺の中で物語は完成しませんので、このようなキャラクターの動きは必要かつ巧妙だと思います。
そして、その巧さとズルさこそが、僕がFree! というアニメにこれだけ惹かれつつ乗りきれない、大きな原因なのでしょう。


さて、二期において非常に大きな尺を取ってきた『社会的動物としての松岡凛の発達』に関しては、今回一区切りついたと思います。
全体の構造の中での歪みを横に置けば、熱意と満足を持って鮫柄の四人が泳ぐことが出来た今回のリレーは、部長・松岡凛の物語のクライマックスとして、とても良かったと僕は思います。
ニトリやモモもしっかり自分の言葉で感情を発露していて、やっぱ鮫柄は開放性あるなぁと再確認できたし。

『個的動物としての松岡凛の発達』に関しては、一期丸々使ってやってきたわけで、これで凛の物語はだいたい解決し、その為に二期途中から参加した宗介の物語も、一つの区切りを迎えたわけです。
じっくりと大人になった真琴もいいとして、残りは遥。
さて、どうなるのでしょうね。
あ、遥の途中棄権に一切触れられない展開は流石Free! だと思いました、すげー悪い意味で。

 

・ Free!(11話)
「天才の責務、もしくは包囲網」という回。
作中の人物で唯一、クエストを達成していないどころかその端緒にすら付いていない遥を、徹底的に追い込む回でした。
Free! という作品の歪みを解消するまでは行かないまでも、その存在に自己言及し問題解決の俎上に上げたのは、自分の中で大きかったです。

大筋としては遥の持ってる天才に引き寄せられてしまった人々が、順繰りに遥に詰め寄るという展開。
凛&宗介という物分かりのいい子二台巨頭が、グイグイ一番槍を取りに行ったのは面白かった。
宗介が献身っぷりを一切隠そうともしないで詰め寄ってて、ほんまこの子は……と思ったよ。
同時に、凛が自分の思いそのままにぶつかって行ったり、渚の成長がちょろっと描写されたり、二期で積み重ねたものにも目を向けてくれた構成は気持ちが良かった。

いつも大事なことをさが喜たてつづけていた"他人"である二人だけではなく、今回は真琴も踏み込んだ言葉を口にしました。
それはじっくりと時間をかけて大人になった成果と言え、(自分でも口にしていましたが)臆病さと同義語の優しさで遥との距離を守り続けた日々を、壊しにかかる決意だとも言えます。
彼らの関係性が持っている不健康さ、不完全さは二期の不協和音として丁寧に挿入され続けたわけですが、それが実った結果の激突であり、劇作上必然も言える展開がやって来て、正直僕は嬉しかったです。
それはつまり、Free! 製作陣は浅瀬でパチャパチャ身内ごっこ「だけ」を続けさせるつもりがない、ということですから。

遥が一人小学六年生のリレーに取り憑かれたまま、どこにも行けない子供で在り続けているということ。
一期で狭い社会性を手に入れ、自由形よりもリレーを選択する(というか、自由形を放棄する選択をする)変化を見せたことは、作中で怜が言及したとおりです。
己の中の天才性・幼児性を振り回し、ただただ一人で泳ぐ一期開始時の遥は、仲間とだけ泳ぎ続けたい遥へと軽い変化を遂げ、しかしその本質は変わっていない。
水泳に天才があるのに勝敗のつく競技を嫌っているのは、かつて凛を負けさせて道を歪ませた負目があるから、かなぁ。

遥は作中の人物の中で随一子供であり、それでもなお他者を感動させ惹きつけるパフォーマンスが可能な天才です。
しかしながらその天才性を発揮できる水泳という競技は、部活という枠組み、プールという場所、競技者という人間、大会という組織……要するに他者と社会の中に組み込まれ、無軌道・奔放という意味合いではけして自由ではない。
それは、人間の営為全てがそうであり、恐らく人生という物語の基本ルールなのでしょう。

と同時に、今回特に強調されていたように遥は天才なので、凡人と違って己の望むままに水泳し、それによって他者を感動させる権限と能力を持っています。
宗介が言ったように「お前は凄い能力があるんだから、踏み出せ」という、自由と束縛の止揚の可能性は、既に提示されているわけです。
凛が目指しているようにオリンピッククラスの競技者になってもいいし、そこに到達できなくても競技レベルの水泳を続ける実力は、遥に(岩鳶においては遥にだけ)備わっている。
自由でいつづける特権を、遥は既に有しているわけです。

しかしその特権を、遥と凛以外は有していない。
宗介は肩の故障で、真琴は遥との直接対決の結果、「俺は此処までだ」と自分に見限りをつけ、凡人たる自分、いつまでも子供のように泳ぎ続けることが出来ない自分を受け入れたわけです。
才能と成熟が残酷に突きつけてくる"生き方の選別"によって、かつて友だった者達と離れていく恐怖。
今週遥が見せた頑是ない行動には、その影が強く伸びていたように思います。


では、"選ばれた存在"と"選ばれなかった存在"はその一点で別れ、けして交わらないのか。
この夏遥が直面している別れは、永遠の別離とイコールなのか。
無論そんな訳はないし、そのことは作中で幾度も言及されています。
一番わかり易いのは百太郎の「永遠の夏」に関する発言ですが、他にも宗介が言外に見せた「天才を見つめ続け、憧れ続ける存在」としての在り方だとか、高校を卒業してからも要所要所で重要な仕事をしている御子柴兄の存在もあります。
高校三年の夏に経験した離別が、けして人生を両断しないものだということ(これは恐らく、遥が今後迷いの果てにたどり着くべき止揚だと思うわけですが)は、既に先取りで提示されているわけです。
ココらへんの答えの先取りの手際、解決策を先に暗示(今回はすごく分かりやすい形で繰り返されたので、最早明示ですけども)する劇作の巧みさは、Free!(と言うか京アニ作品かなぁ)の強さとして強調されて良いと思います。

遥は難しい問題を解決する能力に少し欠けた、人格的成熟の遅い子供です。
その言動は手前勝手だし、夢見すぎだし、無様ですらあるガキです。
でも、同じように吠えていたガキを受け止め、夢を叶え、道を正してやった優しい子供でもあるわけです。
(そのために行った行為の正否は、何度作中で是認されようと視聴者一人ひとりに委ねられるべきだし、俺は根本的に否だと思いますが、それを引っ張ってきたキャラクターの心根それ自体は、否定されるべきだとは思いません)

そうして道を正してもらった凛が、今回まるでリレーのバトンのように遥に襲いかかった成熟への促し、その最後を担当するようです。
既に社会との、もしくは世界との折り合いを付ける形でキャラクターのクエストを解消している二期の展開を考えれば、一期と同じ落とし所には行けないし、三年の夏という作中時間を考えても、それは出来ないと僕は感じました。
さてはて、Free! 二期は僕に、あの一期の終わり方とは「違う景色」を見せてくれるのでしょうか?