イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

機動戦士ガンダムUC RE:0096:第6話『その仮面の下に』感想

革命の時代が終わったとしても人間は生きていかなきゃいけないアニメ、今週は喋りっぱなしの24分。
テロ組織の首魁、その構成員たち、自分に疑いを抱く学生。
様々な人々と対話しつつ、バナージとミネバは世界を知り成長してく……というお話でした。
対話の状況の象徴性を高めることで、主人公二人だけではなく、対話の相手の内面も見えてくる(もしくは見えてこない)のが面白い回だったのぅ。

と言うわけで、ヒロインのごとくさらわれたバナージ君は、まず悪の大ボス&その側近と対話。
仮面を外したとはいえ、個人的な体温を感じさせないフル・フロンタルとの対話は、やっぱり気持ちが悪かったです。
一見バナージの立場を尊重するように見せて、アンジェロの暴走は一切止めない辺りに、口から出てくる題目を信じ切れない感じがよく出ている。

『棄民としてのスペースノイドの立場を確保し、連邦帝国からの一方的搾取を、テロリズムによって止める』というフルの主張は、UCジオンの系譜に連なる主張であるし、一見パワーもある。
過去にこれを主張していたシャアなりハマーンなりデラーズなりは、あまりに過剰な自我を抱え込みきれず暴走させてはいるものの、そこには強い実感と体温があった。
しかし今回のフル・フロンタルは、『仮面を外す』という政治的パフォーマンスをバナージに対して行いつつ、個人的な体験(もしくは歴史)を公開することもないし、バナージと紅茶を飲み交わすこともない。
いみじくも自分で口にしたように『シャアに似た器』『箱』でしかない彼には、公開するべき個人的感情がないということなのかもしれないし、体温を対手に悟られるということは政治家としては弱い態度だと考えているのかもしれない。

加えて言うと、連邦やアナハイムと癒着し利益を共犯することでしか存続を許されない『袖付き』は、暴力を行使する政治集団としてはあまりに柔弱であり、フルの掲げる大義はUC全体の潮流の中ではもはやナイーブな幻想でしかない。
その幻想にしがみつき、体を張って自分が死に相手を殺す形でしか生き延びる方法を知らない存在が、たとえ少数派でもあり続けるということは今回も描かれていたが、思想に手を伸ばす個人的思いの切実さとと、政治集団としての堅牢性は当然比例しない。
『袖付き』に最後の望みを託すスペースノイドのリアリティと、フルが口にする理念の空疎さと無力さは相反するものだし、そこにフル・フロンタルの暴力的政治行動者としての限界点を感じもする。
後半示される『袖付き』構成員の普通の、しかしそれ故切実な暮らしと願いを、執務室のフル・フロンタルは抱えきれていないように、僕には思えたのだ。

どちらにしろ、応接室の椅子に座り相手の出した紅茶を飲んだバナージに対し、フルは仮面を外しつつその素顔を本当の意味では見せず、アンジェロがバナージに対し暴力を行使することを止めもしない。
得体のしれないブラックボックスなれど、己の政治的立場を推進する大きな力足りえる『箱』の秘密を暴くためには、政治化された暴力の行使を躊躇わないのは、『袖付き』の首魁としては立派な態度だ。
私的領域と公的領域で、行動の規範が変わっていないということなのだから。
しかしそれは内面的空疎さ(≒私的領域の欠如)の反映かも知れず、とすれば、『ラプラスの箱』が実態のない文字通りの『箱』かも知れないという疑問に行き着く知恵も、フルの空疎さの裏側なのかもしれない。


その上で、バナージはフルの空疎な言説を、しっかり受け止めなければいけない立場にいる。
ミネバ・ザビという政治的存在を常にオードリー・バーンと言い直し続ける彼は、フル・フロンタルとは真逆に、私的領域が公的領域を過剰に侵犯することを許される、ある意味気楽な立場の主人公だ。
ユニコーンを託した父も、ビスト家の果たすべき役割やその歴史、己自身の政治的渇望を一切譲り渡すことなく、一青年として宇宙を駆け、一つの答えにたどり着くことを望んだ。
公人『バナージ・ビスト』ではなく私人『バナージ・リンクス』として行動する自由が彼にはあり、それはミネバやフル、ダグザやオットー艦長といった、組織対立の中で否応なく政治的にならざるをえない存在とは、大きく異なっている。

人間として正しい生き方をし、おかしくない死に方をする。
人間が人間である以上否定出来ない、素朴で大事なヒューマニズムを真っ直ぐ口にできる自由さこそが、彼を主人公たらしめているわけだが、しかしその事実を政治的人間は理解していないわけではない。
いかにフルの口から漏れた『スペースノイド棄民論』に重さがなかろうと、それに苦しめられた人達がいて、他者を害してても迫害に講義し存在を証明する必要があるのだと、強く感じた歴史を否定することは出来ないだろう。
(フルを例外として)私的な痛みこそが政治的・公的行動の源泉にはあるわけで、少年らしい朴訥さで政治的身体を『嘘』だとして否定しすぎれば、その背景にある私的領域もまた損なうことになる。
単純に『おかしいですよ!』とだけ言っていれば、無垢な特権者としてユニコーンに乗れるわけでも、世界が変わるわけでもないのだ。(後追いの外伝としてこの作品が作られている関係上、バナージとミネバの行動がそこまで歴史を捻じ曲げることが許されていないのは、なかなか難しい問題だ)

極限的に政治的な存在と対面し、フル・フロンタルの偽造された『仮面の下』を覗き込んだバナージにとって今後重要になるのは、私的存在として人間らしさを実現しようとすればするほど、複数の私的領域がぶつかり合って公的対立へと発展する人間存在のままならなさであり、いかに適切な形で公的であるのかを学ぶことだろう。
彼が強く影響を与えているミネバ・ザビが全てを捨てて、オードリー・バーンとはならないのは、どれだけ不自然さをはらむとしても公的存在もまた人間存在の半分なのであり、無条件に否定すれば無責任さと混乱がつきまとう、『正しくない』行動だからだ。
バナージがミネバに私的領域の存在を教えたように、私的な存在であるバナージもまた、いかにして適切に公的な言動を発揮するかを経験から学んでいって欲しいと、僕は思う。
そのために必要な暴力は、彼だけしか操縦できないユニコーンガンダムという形で、既に与えられているわけだから。
ザビ家やシャアの仮面といった外的要件が、適切な公的存在であることを保証しないというのは、逆に言えばバナージ・ビストではなくあくまでバナージ・リンクスとして、適切に公的言動を発露し世界を変えていく希望でもあるはずなのだ。
これから様々な試練がバナージの前に立ちふさがるのだろうが、ミネバだけに公私の難しいバランスを取らせるのではなく、バナージもまた試練に学んで、己を良い方向に前進させていって欲しいものだが……さてはてどうなるのかな。


執務室での会談が空疎に終わった後、バナージは『袖付き』の私的な領域に深く踏み込んでいく。
美麗で威圧的な執務室とは異なり、同じ目線で同じ食卓を囲み、温かい飯を同時に食べるという、個人的な経験。
子どもたちが各々勝手に行動し、自然にやりたいことを楽しむ、人間らしい空間が『敵』の中にも存在しているという、当たり前だが戦争中には目を背けがちな事実。
そこでバナージが感じたのは、彼の行動の源泉となっているインドストリアル7の虐殺、その犠牲者と同じ血潮が、『敵』のはずの『袖付き』にも流れているという真実だ。
それは自動的に、自衛のためとはいえ『袖付き』を殺してしまった自分への疑問に繋がり、彼は目の前の相手と視線を合わせることなく、自問自答に陥っていく。

そういう個人的な痛みを、アンジェロのように殴りつけず優しく受け止めるマリーダさんは、このアニメの他の大人のように物分りがよく賢い。
戦士として『袖付き』に身を投じている以上、彼女もまた個人的な痛みを政治的行動に繋げた存在だとは思うのだが、バナージという悩める若人を前に、彼女は己自身のエゴを収めて導き手に回る。
フル・フロンタルの空疎な言動では納得できなかった『スペースノイドはなぜ、ジオン=オードリーを求めるのか?』というバナージの疑問を、古い礼拝堂に舞台を移し、自分の言葉で丁寧に応える。(オレンジを軸にした温かい色彩が、あの場に必要なムードをしっかり作っていた)
自衛的殺人という戦士の宿命に関しても、戦場での経験をおそらくは多分に有する先達として、混乱を収めるに足りる鋭いアドバイスを与える。

望まず巻き込まえれたにせよ、ユニコーンガンダムという暴力を独占するバナージはこの状況の一つの主体であり、事態は正しさとは無関係に展開するという、シビアでクリティカルな認識。
それは同時に、未だ自我が確立せず状況に悩む青年バナージの尊厳をちゃんと認め、一緒に食事をする対等な存在として遇する、マリーダさんの成熟の証明でもある。
過剰に私的なバナージは現状、権利を求める公的存在に課せられる義務もまた『嘘』として否定してしまう傾向にあるが、マリーダさんは一私人として柔らかな対応をバナージに示すことで、『敵』の中に流れる温かい血潮を認識させ、彼女が背負った立場や歴史をバナージに認識させた。
自分に優しくしてくれる私人『マリーダ・クルス』は、同時に『袖付き』に所属し暴力を行使する公人『マリーダ・クルス』と、分裂していたイメージを融合・定着させたわけだ。
これは極限的に公的存在であるフル・フロンタルには、けして出来なかったことである。

インドストリアル7の虐殺を引き起こした『袖付き』の公的行動には、マリーダや兵士家族に代表されるような私的な血潮が流れている。
『正しい戦争』は存在しないが『戦争』は存在し、その余波がパラオにやってくれば、『人間らしからぬ死に方』をするのは、一緒に飯を食った子供だ。
マリーダが与えた世界認識はバナージをジレンマに突き落とし、悩める生年はさらに悩む。
彼が『敵』と『味方』に悩んでいても、大義と私欲は来週すぐさまパラオに押し寄せ、戦闘が始まって人が死ぬだろう。
インダストリアル7の虐殺とは異なり、ユニコーンガンダムという力を手に入れているバナージは、この二度目の問いかけにどのような答えを出すのか。
来週彼が下す決断は、同時に一青年としてバナージを見初め意味とぬくもりのある言葉を託したマリーダの価値にも関わってくるわけで、良い反応を期待したい。
……僕が今週のエピソードで、一気にマリーダさん好きになったのが良く分かるな……赤ちゃんをむんずと掴んで、優しく戻す動きが最高に良かった……ああいう芝居があるの、マジ強い。


一方ネェル・アーガマでは複数の利害が対立しつつ、事態はパラオ襲撃へと突き進んでいた。
アナハイムという私益を代表するアルベルト、その影響を苦々しく思いつつ跳ね除けられないオットー艦長、アルベルトの走狗とおもいきや思いの外ヒューマニズム溢れるダグザさん。
大人の思惑を他所に、やらかし番長リディ少尉が個人的な情に押し流され、ミネバを脱出させようと大奮闘であった……惚れちゃったならしょうがねぇな、リディ少尉。

ユニコーンを回収し、ビスト財団の存続を含めた私益を満足させようと蠢くアルベルトに対し、物分りのいい大人代表ダグザさんは『パラオ襲撃は、バナージという人間を救出する作戦である』と言う。
特殊部隊という軍務の極限に位置する彼は、アルベルトの私欲からも、オットー艦長が絡め取られている連邦軍の組織的しがらみからも、比較的自由な立場にあり、彼個人の理念としても自由であろうとする。
腐敗した連邦軍の中で消え去ろうとしている、『守るべきものを守り、返すべき恩を返す』というごく普通の理想を、ダグザさんは利害の合間を巧妙に泳いで、なんとか実現しようと頑張っているようだ。

ダグザさんの提案で、パラオ襲撃はインダストリアル7のような公私/軍民の区別がない無差別戦闘ではなく、軍港をターゲットとする限定的で『正しい』戦争に整えられつつある。
しかし助けられる当のバナージが『正しい戦争なんてない』と言っている状況で、ダグザさんが健気に実現しようとする作戦が私的領域にはみ出さないとは、けして断言できない。
可能であれば彼のまともで誠実な願いが実を結んで欲しいとは思うし、正直民間人の虐殺は一回見れば十分なショックではあるのだが、物語的圧力がそれを許してくれるか、否か。
ここら辺は、来週どうなるか楽しみなところである。


ミネバとリディは脱出行をミコットに見咎められていたけど、自分をさらけ出したミネバの説得で事なきを得ていた。
先週バナージが言っていた『そういう言葉遣いはダメだよ、自分も相手も追い込んでしまう』という言葉を即座に現場で実行する辺り、姫様はバナージのこと好き過ぎだしリディ少尉にはマジで勝ち目がない。
ミネバ・ザビという仮面を被ってリディ少尉と語らった先週に比べ、今週オードリーがミコットに使った言葉は平易であけすけで、威圧感が弱いくて率直だ。
己を仮面で隠さない、率直な歩み寄りこそが他者の心を開くのだという描き方は、マリーダさんとバナージの繋がり合いに通じるものがある。

生まれた時から『ミネバ・ザビ』であることを強いられてきた彼女にとっては、実は今回使ったような私的言説のほうが扱い慣れていないのだろう。
しかし『ミネバ・ザビ』としての『自分も相手も追い込んでしまう』言葉では、バナージがフルに心を開かなかったように、ミコットを説得して窮地を脱することは出来なかったように思う。
勇気を以って言説を改め、公的身体に私的身体を近づけることで、オードリーはミネバの政治的目標を達成しうる、大きな成果を手に入れたわけだ。

バナージとの出会いによって、公人『ミネバ・ザビ』は私人『オードリー・バーン』との和解を始め、それはより良い結果を一つ産んだわけだけど、ミコットとのやり取りはあくまで小さな成果の一つでしかない。
地球降下が上手くいくのか、降りた後彼女はどんな光景を見るのか、それらの試練は彼女に何を与えるのか。
説得力を持って私的個人と公的象徴、同時並列するミネバの成長が描けると最高に面白いと思うので、これから姫様が辿る物語には強く注目したい……MS戦闘にリキ入れてるから、ここら辺はどうなるかなぁ……。

リディ少尉は完全にトチ狂ってたが、まぁ連邦は冷たいパウチ飯しか出さない膠着した組織だし、檻から一旦出すのはお話の進行という意味でも大事だ。
食事に注目することで、『袖付き』がバナージに与えたものと、連邦がオードリーに差し出したものを比べてみると、それぞれの組織や場所がどういう特色を持っているのか、二人が何と出会い何を考えたのか、よく見えるなぁ……。
それはさておき、リディ少尉のリビドー剥き出しの行動はヤバすぎだと思うので、来週以降どう立ちまわるのかも気になる……いきなり銃殺とかはねぇと思うけども。


と言うわけで、少年と少女が様々な試練と出会い、人と話し合い、疑問に立ち向かうエピソードでした。
作画カロリー満タンのMS戦も楽しんでいるけど、個人的には公私の領域で行ったり来たりする人間のドラマを見ているのが、とにかく面白いな。
しかしそれも戦闘の緊張感と圧力があって、初めて説得力と切迫感を宿すものだと思うわけで、来週起こるであろうドンパチにも、やはり期待大です。
……ダグザさんとマリーダさんはいい大人過ぎて、早晩死んでしまう気がして恐ろしい……。