イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

バッテリー:第6話『強豪校への挑戦』感想

青春とは自意識をこねた泥の海、腰まで取られて一歩も動けなくても、それでも。
白球追いかけてることが人格まで保証してくれない苦味満載野球アニメ、泥の中を進む第6話です。
どうあっても相容れない展西が野球部を去り、それでも野球をしたい子供と大人がもがいて辿り着いた先で、一つのバッテリーにひびが入るお話でした。
登場人物全員のエゴがゴツゴツとぶつかり合う重たい展開で、やっぱ"バッテリー"はあまり加減をしないなと再確認するような、そんなエピソードでした。

優しさと身勝手さの間で揺れ動く主人公、原田巧。
今回は他人への感心の薄さが最前線に出てきて、なかなかの最悪っぷりに胃が痛かったです。
『お前らは部活仲間でもチームメイトでもなく、俺が野球をやるための装置』と他人の前で明言できてしまうのは、天才ゆえの不遜か、幼さを残した残忍さか。
同級生とかには優しさ……というか、他人が存在していることを尊重できる姿勢も見せるんだけど、それを一切コントロール出来ないのが巧の不器用さで不快さよね。

アバンでお母さんは『息子』を取り戻すべく肩に触れますが、巧は『ピッチャーの肩に触るな』と実の母を拒絶します。
母の中にいる『息子』、当の巧が抱く『ピッチャー』のセルフイメージが食い違ったゆえのすれ違いですが、では『ピッチャー』は他人の好意を無碍にし、いらん挑発でナイーブな部分に上がり込み、土足で気持ちを踏みにじって許される、あまりにも特別な存在なのか。
そうだったとして、『ピッチャー』原田巧は中学生や息子、人間としての原田巧を塗りつぶせるほど大きな存在なのか。
才能さえあれば、繊細な自分を抱え込んだまま一人で生きられるのか。

戸村との痛々しいやり取りも、門脇との対決で豪に投げた球も、その問いかけを変奏したものだと思います。
年齢や立場を一気に乗り越えて、巧は戸村に『あんたも野球がしたいんだろ?』と欲望を投げつける。
それは取り澄ました戸村の大人顔が気に食わなかったと同時に、巧が戸村の中に自分と同じ野球狂、傷ついた少年を見たからだと思います。
『自分の最高の球さえ投げられれば、それでいい』と思える(思いたい)純粋な野球少年の時代を、確かに戸村は経験しそこに整理がつけられていない。
戸村の中の巧が青春を始末しきれず呻いているから、戸村は巧の祖父に恨み言も言いに行くし、校長という『大人』に楯突いてまで練習試合を成立させんとあがきます。

戸村が巧という子供を押さえつける構図が、次のシーンでは校長に釘を差される側に変化しているのは、『部活は生徒のためのものではなく、学校の都合のためにある』という理不尽を効果的に見せると同時に、『大人』なはずの戸村もまた頭を押さえつけられ、触られたくもない肩を撫でられる『子供』の部分を持っている、ということでもあります。
今回最悪に近い形で巧が見せた、周囲の気遣いへの共感の無さは『子供』の悪癖であり、あれだけの事件があっても高圧的に巧を操ろうとする乙村の『大人』のいやらしさの奥には、未だ殺しきれない『子供』がいる。
それを感じ取ったからこそ、もしくは戸村にも自分と同じ『子供』でいて欲しいという願望があったからこそ、今回巧は戸村を挑発し、共犯者に引きずり込もうと(おそらくは無意識に)画策したのでしょう。
戸村の感情を撃発させ、『大人』を装う余裕を剥ぎとった巧の卑俗な笑みには、凄く嫌な気分にさせられて、良い絵だなと思いました。


戸村を嫌悪しつつ信頼したからこそ踏み込んだのに対し、女房役であるはずの豪には失望と不信を見せ、抜いた球をホームランにされる。
前回沢口に見せた優しさと同時に、一番自分を理解し受け止めてくれるはずの『キャッチャー』に泥を投げつけてしまう巧の(あえて言うけど)邪悪さが、今回のエピソードには満ち溢れていました。
140キロの隠し玉を投げたのは、『あいつなら、俺の本気を受け止めてくれるだろう』という信頼(もしくは甘え)の現れだろうし、それを取りこぼした後『本気の球』ではなく『受け止められる球』を投げたのは、その信頼が削られた現れだと思います。

巧は『ピッチャー』として、思春期の子供として、色んなモノを信頼しては(勝手に)裏切られた(と感じた)経験が多くあったのだと思います。
天賦の才をむき出しにすれば同じレベルでついていける奴はそうそういないし、大人はダブルスタンダードを振り回して自分を抑えこみ、気持ちをわかってはくれない。
その裏側には自分と同じ傷つきやすい心と、痛みを抑えこんで踏み込んでくれる勇気があることを想像もせず、『ああ、お前らはこの程度か』『なら、俺もお前らを拒絶するし、お前らを理解しようとはしない』と割りきってしまう傲慢と愚鈍。
それをもう一人の天才に打ち砕かれるのが、あのホームランなのだとしたら、原田巧の人間が変わっていくのはあの打席から、ということにもなるでしょう。

本当にそうなのかはこれから先の物語が見せてくれるわけですが、このお話物語としての収まりの良さ、キャラクターが『いいやつ』になってくれる読者の快楽/都合よりも、キャラクターが本来どういう人間でそれをどう貫いていくのかって真実の方に、興味が強くあるからな。
不快で身勝手で最悪な主人公が、今回見せた未熟さと残酷さを乗りこなすことが出来るのか。
『お約束』としては『目を覚まし』てキラキラした目で人生の真実に目覚めるところとですが、展西という『野球の魔力に狂うことが出来なかった凡人』を理解/和解させなかったこのアニメには、一切の油断は許されません。


140キロの直球という、巧の才能を受け止められなかった豪もまた、展西と同じように巧の人生に背中を向け、脱落していってもおかしくない立場にいます。
というか、勝手に期待して甘えて、受け止められなかったら切り捨てる巧が最悪すぎる……。
しかし展西が『俺はこいつが嫌いです!』と堂々と宣言し去っていったのに対し、『キャッチャー』であり巧に惚れ込んでしまった豪は、早々簡単にマウンドから降りる訳にはいかない。
思春期の最悪の部分をパッチワークしたような巧と向かい合い、彼の凶猛な才能を受け止める技量がなければ、巧を『失望』させた数多のエキストラと同じように勝手に見切りをつけられ、切り捨てられてしまう。
そういう残酷さは、巧の球を受けた豪が一番良く分かっているでしょう。

社会性動物として必要な協調性と、人間がより善く生きるために大切な優しさを切り捨てても、結果を出し生き延びる資格を与えられる『ピッチャー』と、人に優しく人間として優れていても、球を受け止めきれず『俺の最高の球』を投げさせられない『キャッチャー』。
今回140キロのボールを後逸することで、『豪が未熟な巧を引っ張り成長させていく』というこれまでの"バッテリー"は一気に内破してしまいました。
現状『俺の最高の球』を投げさせる実力がない豪は、母の手を無情に払った『ピッチャー』になることで巧と並び合うのか、はたまたその美質である人徳を維持したまま強くなれるのか。
巧が鼻っ柱をへし折られたように、豪にとっても人生の分水嶺となる大きなイニングだったと思います。

人間性と競技力のバランスという意味では、ややこしい交渉を見事にこなしてイニングを作った海音寺や、己の才能に縛られすぎずノビノビと野球をコントロールしているように見える信西は、バッテリーの先にいる存在といえます。
いろいろ苦労しただろう海音寺先輩の愚痴を『興味ないです』で切り捨ててしまう辺りに、『一人で野球はできないですから』が口だけの寝言でしかない巧の最悪さがミッシリ詰まっていますが、そこら辺も飲み込んで部長は試合実現のために動く。
『敵』であるはずの門脇とも会話のキャッチボールをして、ナイーブな心を抱え込んだ人間の集合体たる社会の中で、ともすれば『大人』である戸村よりもスマートに泳いで見せる。
展西が無防備に暴露し、しかし戸村には届かなかった真心を拾い上げて、チームメイトとして彼の離脱にショックを受けていた海音寺の姿は、今回カメラに写った誰よりも『大人』だったと思います。

展西から暴力というメッセージを叩きつけられても、それを受け取る姿勢を一切見せなかった巧ですが、『野球を奪われれば何も無くなってしまう』人間未満として、野球で否定されるのは一番こたえるでしょう。
そういう意味で、門脇は大人たちの言葉も、豪の歩み寄りも崩せなかった巧の拒絶に『ピッチャー』のルールで踏み込んだ、初めての挑戦者だといえます。
ひとでなしであることでしか『ピッチャー』でい続けられない巧に対して、三年生の門脇は野球も人間であることも巧く両立した、バランスの良い人格者という印象を受けます。
しかし見た目の印象の奥にとんでもない感情の泥を秘めているのがこのアニメのキャラクターであり、門脇もまた都合のいい物語奉仕用のお人形ではなく、身勝手な欲望を人間関係の隙間で暴れさせる、思春期の怪物なのでしょう。
『そつがない』豪の物語に今回ヒビが入ったように、門脇の優等生の仮面もまたひびが入る……彼が『バッター』である以上『バッテリー』がひびを入れ、その奥にあるものを引きずり出せるかどうかは、このイニングの後の物語です。
僕は様々なものが入り混じった思春期の泥が、不都合に暴れまわるさまが面白くてこのアニメ見ている部分があるので、門脇の中の怪物も思う存分暴れさせて欲しいもんですね。


そして、一人の怪物が物語の舞台から立ち去って行きました。
展西が部を辞めるシーンは『主人公が悪役を倒した』カタルシスなど一個もなく、むしろ巧と同じ『傷つきやすい中学生』が己を理解されないまま一つの社会に背中を向ける、痛くてやるせない場面として演出されていました。
この作品における『野球』が人生の万能薬ではない以上、そしてそのルールを展西が体現している以上、彼の尊厳と愚かさに最大に気を配った描き方をしてくれたことは、僕は嬉しい。

展西が『我慢をして』野球をやっていたこと、野球が好きではなかったことは、野球をテーマにするこのお話の中ではあまり褒められたものではありません。
だがしかし、では『野球さえできれば、俺さえいれば他人は一切いりません』と断言してしまう『ピッチャー』を全面肯定するのかといえば、けしてそんなことはない。
そこには様々な好悪美醜が入り混じり、誰が正しく誰が正しくないのか一切定かではない、不可解な人生の一幕があるだけです。

今回アニメとしてまとめられることで、展西が巧の歪んだ鏡であることは、凄くクリアに見えるようになったと思います。
同じように『俺を解ってくれ』と叫んでも、『お前を判るつもりはないが、俺は分かれ』と叩きつける思春期の怪物として描かれつつ、戸村は巧の才能を愛して手元に残し、展西には『逃げるのか!』というあまりにもずれた、それこそ巧と同レベルの共感性の無さを暴露する言葉しかかけれない。
巧が戸村に対して憎悪と期待を込めて踏み込んだように、展西も『大人』へのなけなしの期待を込めて『俺を解ってくれ』と叫んだのに、巧の才能は受け止められ展西の非才は拒絶される。
『エゴが思う存分充満される、孤独で身勝手な夢』を(部分的に)認める資格を審査するのに、このアニメは手ひどく残忍です。

何度も繰り返される『俺はお前を認めない。才能だけあれば、社会に同調せず我慢もせず、自分のエゴだけを他人に押し付ける自由を認めない』という展西の訴えは、暴力というひどくいびつな形で発露したけれども、やっぱり一縷の論理性を伴った真摯な直訴だと思います。
物語が主人公を必要とする以上、巧は一番目立つ場所にいるけれども、彼の最悪さは幾度も描写されるし、その行動が無条件に受け入れられるわけではなく、それに振り回され傷つく人たちも、振り回して傷ついてしまう巧自身も、巧妙な演出で切り取られています。
今回展西の訴えに秘められた正当性をしっかり描写していたのは、思春期の光と闇に切り込みその真実を描く物語に必要な真摯さを担保する上で、凄く大事なシーンだったように思います。

巧にしても戸村にしても、野球に引きつけられるあまり人間の大事な部分を取りこぼした『ピッチャー=人でなし』たちは、展西に共感はしない。
実際に暴力を叩きつけられた巧が展西を拒絶するのはある意味当然といえますが、『大人』の立場であり『チームワークと協調性』を押し付ける側だったのに、才能によるダブルスタンダードを持ちだして態度を変え、それによって傷ついた子供の訴えも受け止められない戸村は、無責任で無様な存在としてしっかり演出されていました。
戸村が巧の才能に引き寄せられ、彼を特別扱いする過程はこれまでの物語でもじっくり蓄積されていたわけで、今回展西がそれを指弾するロジックには、けして否定し得ない真理の色があります。

しかし戸村はその訴えを無視して(というか、それを受け入れる受容体が精神の中にない)、『逃げる/逃げない』というずれた論理で野球部を維持するために展西を引き留めようとする。
傷ついた少年が求めているのは、それこそ巧と同じように『自分をわかってもらうこと』なのに、教師であるはずの戸村がそれを見つけられない理不尽(もしくは無能)が、あのやり取りで浮き彫りになります。
それは巧の鼻っ柱がホームランでへし折られたように、訂正を期待される明確な欠点であり、今後の物語でどう転んでいくかは確言出来なくとも、より良い方向に充足されて欲しいと願う欠落でもあります。
というか、少しでもまともになってくれなきゃ、展西が浮かばれないでしょこんなん。

『大人』と『子供』が拾わなかった展西の一欠片の真心を、『大人っぽい子供』である海音寺がしっかり拾ってくれたのも含めて、展西の退場は丁寧にやってくれたと思います。
『楽しいこともあった』と呟いたのは多分嘘じゃないし、同時にあまりに冷たい場所で、あまりに邪悪な暴力をふるったことも事実だし、展西という少年の描き方には、"バッテリー"の持つ(もしかしたら人生の物語が持つ、とまで言って良いかもしれない)割り切れなさとやるせなさ、複雑さが詰まっていたと思います。
『悪役』に秘められた条理、『主人公』が抱え込んだ理不尽から逃げず、全部込みで思春期を、人間を描こうとするこのアニメのスタイル、やっぱ僕は好きです。


こうして一つの局面が終わり、もう一つの局面が始まりました。
野球を好きになれなかった凡人が血を流しながら退場する中で、生存者達はどうしようもなく野球にしがみつきながら、己の無様さと未熟さを無加工でぶつけあう。
その先に収まりの良い結末が待っているか、はたまた不器用な精神を削り続ける未来が控えているのか。
原作を読んでしまっている僕はその先を知っているとも言えるし、未完なんだから知らないともいえるし、アニメはアニメなので見えないモノが待っているともいえるわけですが、ただやはり、このアニメが青春の血肉をえぐりとるエッジはよく切れていて、残酷な鮮烈さが不快で楽しいとは、言えると思います。

『ピッチャー』の不遜な領域に、ホームランという答えで乗り込んできた『バッター』と、受け止めきれなかった『キャッチャー』。
そして各々の思春期とカルマを抱えたまま、彼らのイニングを己の欲望込みで成立させようと蠢く『大人』と『大人っぽい子供』たち。
彼らがこれからどこに落ちていくのか、はたまた上がっていくのか。
先はさっぱり読めませんが、俺は小のあに目がすごく好きだってのは、実感を込めて言える。