神撃のバハムートVSを見る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
さよなら日常、さよなら無邪気でいられた日々。運命のパレードは爆破点に差し掛かり、計画は破綻する。勝って食らう人間と、負けて屍を晒す悪魔。そことは無関係に存在するニーナの能天気。
ダークヒーローとして、第1クールを引っ張ってきたアザゼルが破綻する回。
開幕、いきなり情け容赦なき絶滅描写をぶっ込んでくるわけだが、本編はそこに至るまでの過程の話。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
不確定要素に頼りすぎたアザゼルの計画は当然のように破綻し、悪魔はそのツケを払う。自業自得と言ってもいいが、それは賭けに打って出るしかなかった悪魔の絶望を軽く見すぎた一言だろう。
自分のイケメン力に頼りすぎたアザゼルの間抜けさが、とんでもない虐殺を呼び込んでしまったのは間違いない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
道化というか当て馬というか、ニーナを恋の相手ではなく、便利に使える竜型爆弾としてしか扱わない態度が、シリアスで洒落にならない死体を呼び込む。
コメディと惨劇は一見断絶しているのだけども、そこに共通しているのは『相手の顔を見ない』ということだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
暴力を押し付けてくる人間相手に、悪魔たちは対話というオプションを失い、テロルに走るしかなかった。ニーナを道具として扱ってでも、成功の目がある賭けを捏造し、希望にすがるしかなかった
同じ人間であるカイザルの意見すら、皇帝は鷹揚に聞き入れつつも拒絶する。裸を見せつつ、衝立が心を阻む。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
そういう頑なさを前に、悪魔たちにテロル以外の道はあったのだろうか。問答無用の悪徳は、これまで散々見せられた。『相手の顔を見る』ことの無力さは、カイザルがよく担当してくれている。
八方塞がりの地獄の中で、悪魔たちも夢を見た。温かい日常の灯火。可愛い服とうまい飯。当たり前の、かつてあった幸せ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
アザゼルの無様な計画とその末路は、そういう灯が踏みにじられた結果だ。幸せでいたかったけども、そうはなれなかったもの達の道化歌。嗤ってもいいが、笑えない。
シャリオスは暖かな日常が暴力を持って獲得するものであり、略奪の結果与えられる残酷な恩寵だと知っている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
人間に限定した優しさと寛大さを振る舞い、人間だけの顔を見ながら、敵を根絶やしにする強さ。幸せでい続けたいために、誰かを不幸せにする決断が、シャリオスの中にはある。
ニーナは普通にラブ・コメできる幸せが、誰かの屍の上に成り立っていることを知らない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
そういう真実がむき出しになるテロルの現場に赴かなかったからこそ、悪魔たちは皆殺しにされる。無邪気な日常と、血まみれの非日常は地続きなのだが、ニーナは無邪気に無責任に、その顔を見ない。
先週展開されたロマンスの強度があって、ニーナは己の中の龍を少し制御する。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
『真実の恋を知ったから、龍にはならない』
彼女が茶化して言う言葉は、真実をえぐっている。だが彼女はあくまでコメディと日常にとどまり、恋の相手の正体も、自分の運命も直視はしない。
対してシャリオスは、日常と戦場、連続しつつ2つの顔を持つ世界に、自我を分裂させることで対応しているようにみえる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
ニーナに見せる強い理解力は、皇帝の衣をまとった瞬間に消え去る。
敵は殺す。対話はしない。理解もしない。でなければ、人間に幸福を与えることは出来ないと強く決意している。
テロルと平和の間にある亀裂に、気づかない女と、橋をかけない男。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
ニーナ側で展開するコメディと、悪魔と人間の決戦の落差は、主役とヒロインの立場の違いを鮮明にする。
だとすれば、今後物語はニーナがこの亀裂に気づくことで進展するのだろう。というか、してもらわないと困る。
優れた作画に支えられて、このアニメの残酷さの表現は非常に重たい。シンでいく悪魔たちの遺骸はショッキングで、感情を揺さぶる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
埃がかった黄色の世界に、大量の血が流れる。それが世界の全てではないにしても、世界の一面ではあるだろう。そういう重さが、あの虐殺にはある。
ニーナは黄色い世界、赤い世界を見ない。先週印象的だったぬくもりのある恋心のオレンジ、天まで抜けるような透明なパレードの青。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
色彩選択による演出力、それをキャラクターに背負わせる巧さは見事であるが、もうそろそろ限界ではある。ニーナは埃と血に塗れた世界に、足を踏み入れなければいけない
ドラゴンの姿を取れば、ニーナは破壊を行える。暴力の支配する世界への通行手形を手に入れられる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
しかしそこには、ニーナの主体性と責任はない。なんだかわけがわからない内に暴れまわって、壊してしまうだけだ。恋に浮かれてシャリオスとデートした時と同じ、夢現の浮遊感覚。あるいは絶頂。
恋も暴力も、忘我を伴うという意味では同じなのかもしれない。しかし、悪魔たちの屍は『私には関係ないし』で見逃せるほど、軽いものではない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
どのような答えを選ぶにしても、まず問題を見ることから始まる。事態が切迫しきった今こそ、ニーナは子供であることをやめ、世界の顔を見るタイミングだ。
暴力に対しての盲目性が、恋に対しても及んでいるのは面白い。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
ニーナは王様のパレードには間に合わないし、興味もない。あの時踊ったのがシャリオスだと気づく見識がないのは、悪魔の死骸を己の問題と想像できない無邪気さと背中合わせだ。
そこを埋めていくのがVSだと思うが、どうかなぁ。
主役たちがテロルの現場でむき出しの現実に直面し、あるいは恋の裏路地でそこから保護されている中、オッサンは理想と現実の間で苦悩していた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
バッカスがムガロを売り飛ばすか、守るか逡巡する描写は、無様なコメディの中に彼の真剣さが宿っていて、非常にいいシーンだった。
『神だからといって道徳的な存在ではない』というバハ世界のルールは、他でもないろくでなしゴッド・バッカスが証明している。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
赤ら顔で飲んだくれ、口調は荒いし優しくもない。暴力的な三枚目。
しかしだからこそ、ムガロやニーナの父親役として不器用に気を回す姿が、不思議と輝いて見える。
物言わぬムガロの顔を見て、心に近寄っていくバッカスの優しさが、残酷に過ぎる今日のお話の中ではあまりに嬉しかった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
そういう歩み寄りを積み重ねれば、血で血を洗うルール以外の解決策が見つかるかもしれない。見つけなければいけない。理想論だが、そう思わないと虚無感に押しつぶされてしまう。
復帰と栄達という現実に背中を向け、自分の目で表情を確かめた少女を守ったバッカスは、現実から保護/逃避されているわけでも、理想と己を切り離しているわけでもない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
汗塗れで無様に悩みつつ、それでも背中にムガロを庇うことを選び取った彼は、実は一番早く必要な答えを出したのかもしれない。
殺すためではなく、捕らえるために皇帝にテロ計画を進言し、自分の足でそれを防ごうとあがくカイザルも、同じ立場にいる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
戦場のシビアさと、日常の暖かさ。両立不可能に思える問題に向き合い、対立者の顔を見ながら答えを探している。
苦しい、勇者の道だ。簡単に結果なんてでない、無駄な歩みだ。
アザゼルが負け、シャリオスが勝った『相手の顔を見ない』戦い。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
有無を言わさぬ弱肉強食の世界に、小さな声でそれでもと言い続ける青年とオッサン。
それぞれの激しさと弱さ、脆さと強さが見える回だったし、その中間点で選択しない/できないニーナの立場もクリアになった。
無自覚なまま、アザゼルが望むがまま『赤い竜』という暴力装置に変じることを拒絶し、その結果たくさんの悪魔が死んだ今回。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
ニーナに責があるともないとも言える道徳的断崖を前にして、主人公は何を見つけ(あるいは見つけず)何を選ぶ(あるいは選ばない)のか。
来週は、非常に大事だと思う
追記。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
『顔を見ない』争いの象徴として、パレードという公開性の行事と、悪魔のフードが印象的に使われていたのは面白い。
『勝利の日』の当事者である人間は、白日のもとに堂々と顔を晒し、敗者である悪魔は影の中で顔を隠し続ける。己の存在を世界に叫ぶことは、暴力と抑圧によって許されていない
悪魔が顔を見せるのは、死ぬ直前だけだ。光に問い詰められ、追い込まれ、やけっぱちの反撃に出るときだけ、彼らは己を晒す。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
その無理解の源泉が、悪魔がフードをかぶって対話を拒否したことだけにあるとは、当然このアニメは描かない。フードで自分を守るしか無い状況を、人間が生み出しているのだ。
お天道さまに恥じることなく、己は尊い、生きる勝ちがあるんだと叫ぶ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
ニーナはその権利を甘受してラブ・コメし、悪魔たちはそれを略奪されてテロルに向かう。
悪魔が勝者だった場合、確実に人間がフードを被ることになっていただろうこと含め、顔が見える/見えないことの意味は大きい。
追記
アザゼルは超調子のった悪魔の幹部として存分に暴れ、没落し、コメディリリーフをやった。独善的で邪悪でおかしかった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
VSになり状況が変わり、悪魔は奴隷以下の存在として虐げられた。良い気になってる余裕なぞなく、テロリストとして人間を殺しまくった。
蟷螂の斧を振り回し、それでも追い込まれ、女を軽んじた一発逆転の賭けに出る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
それは悪党であり、他者への共感能力を持たないまま物語を終えた彼にとって、一貫性のある行動であり、破滅だったと思う。
滅ぶべくして滅び、無様であるわけだが、それを笑う気にはならない。
不器用なまま、不自由なまま、己の業に押し流されて必死に生きる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
活劇の中でそういう顔を見せてくれるからこそ、神バハは面白いと思えるし、VSでのアザゼルの一連の行動は、その哲学に裏打ちされたものだ。
こうなるしかないから、こうなる。キャラクター性に伴う展開とは、そういうものだろう。
己の間抜けさで同朋を死地に追い込み、守りたかった何かを踏みにじられる。アザゼルにとっては、生き残ってしまったことは死ぬより辛い。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
己を囮に仲間を救おうという安楽な救いが、あっという間に否定されるのがしんどい所だ。あそこで死ねたら、どんなに楽だったろうな。
だがアザゼルは生きてしまった。ニーナがおそらく来週暴力と出会うように、アザゼルは敗北と間抜けさ、共感の不足に直面することになる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
そこでどう打ちのめされ、そして立ち上がるか。ここも期待が高まる所だ。ここら辺の起伏は、VSのじっくり調子が生きてくる部分だと思う。
『共感能力のない悪党から、日常と恋と試練を経て一人の人物へ』という変化は、一期でファバロが歩いた道なんだよなぁ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年5月19日
アザゼルが今回の苦渋で『いい人』に変わるか、相変わらずアザゼルなのかは解らんけども、重なるにしてもそれるにしても、これまでの道を大事にしてくれると嬉しい。