イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

KING OF PRISM -PRIDE the HERO-感想

"プリティーリズム・レインボーライブ"の男子スピンオフ劇場版"KING OF PRISM by PrettyRhythm"の続編、"KING OF PRISM -PRIDE the HERO-"を見てきました。
ネタバレ全開で感想を書きますので、未見の方は注意してください。

 

というわけで、まさかの夢実現、キンプリの続編である。
前作の終わりに希望を込めて描かれた嘘予告が、燎原の火のごとく広がったキンプリフィーバーの後押しを受けて形になったわけだが、様々な意味で前作のとおりであり、前作とは大きく異なった作りともなっている。
放送されなかったTVアニメの総集編を見ているような、問答無用の圧縮感はそのままだが、キャラ紹介と回想シーンが減った分、後半は怒涛のプリズムライブでラッシュをしかけてきて、一気に脳髄を持っていかれる。
複数キャラクターのドラマを同時並列で展開し、70分の尺にやりたいことをパンク寸前(というかパンクしている。そこが良い)までぶち込んだ過剰さ。
『俺にはやりたいことが山ほどあるんだ!』と、画面に映る一秒一秒が吠えてくるような熱気は、増してこそあれ薄れてはいない。
そういう情熱で脳みそを焼き払われる経験こそが、キンプラを見終わった後の疲労感、満足感に繋がっている気がする。


さて今回のお話は、主筋としてはヒロの話である。
サブタイトルにある通り、"PRIDE"を魂の歌とするHeroがいかにしてKingになるかの過程を追いかけた物語であり、キンプリで新登場したキャラクターたちはあくまで脇役に徹する。
異常な濃度の物語の中で、それなり以上の存在感は在るものの、決戦での勝者と勇者、そして王者がだれであったを考えると、軸足がどこに在るかは明白だ。
RL1年間の積み重ねのあるなしはやはり大きくて、オーバー・ザ・レインボー結成から更に踏み込み、母との捻れた関係性、コウジとの甘え含みの距離感という題材を扱えるのは、そこに踏み込む前の『キモくて嫌なヒロ』をちゃんと描けた結果だと言える。

名曲"PRIDE"剥奪から始まるヒロの物語は、ハリウッドへ渡ったコウジのもとへまるで恋人のように『来ちゃった……』したあとボッコボコにされ、さんざん凹んだ後母親に向かい合い、脇腹抑えて走り、カレーを食って号泣し、最終的に王になる。
こうしてまとめてみると、確実に頭がオカシクなったとしか思えないが事実なのでしょうがない。
それはコウジの付属物でしかないヒロ(恋人であるいとちゃんですら、自分の人生を自力で歩いているのに、ヒロはコウジに会いに行ってしまうのだ。もたれかかるかのように)を厳しく突き放し、"PRIDE"のほんとうの意味を確認する物語だ。

Prideには複数の意味があるが、『一番うまく歌える』と自惚れていたTV序盤においては『高慢』を、カズキのバーニングソードブレイカーで真っ二つにされた後は『自負』を、そいsて今回奪われ再び獲得した後は『自尊』を、それぞれ意味していたように思う。
ヒロのPrideは過剰に膨れ上がって不正を行わせ、カズキによって真正面から叩き潰された後再生した。
それは健全な友情の歩みなのだが、同時にヒロが自力で立ち上がるタフさを奪い、鈍らせる甘い毒でもあったのだろう。
エーデルローズが法月に追い込まれ、"PRIDE"を剥奪される厳しい状況の中で、ヒロはかつてのようにハングリーに状況に食らいつくのではなく、男に甘える。

そのヌルい態度を、共に歩む戦友としてコウジは認める訳にはいかない。
だからハリウッドでは、得意の女性的なジャンプを全て封印し、真正面から殴り潰すようなハードなバトルを仕掛け、ヒロを叩き潰す。
コウジは今回ヒロが迷う大人への階段を、RLとキンプリで既に走りきっているので、今回は厳しい試練を課し成長を促す脇役に徹し、ヒロの成長を信じて待ち続ける。
そういう成長と愛も、人生にはある。

かつてカズキが歪んだ『高慢』を真っ二つにしたように、本気のバトルには魂を洗い直し、生きる姿勢をシャンとさせる作用がある。
それはすぐさま理解されるわけではなく、ダメージを受けて街を放浪し(RL本編でもPR IDEされたあとはさまよってた)、港町で母と向かい合う経験、腹を抑えて自分のダメさを思い知る経験、かつて海辺で食べた『勇者のカレー』をもう一度味わい直す経験を経て、ようやく走り直せる道だ。

ヒロと母親の関係は、RL本編でなんとか修復し、新しい道の予感までたどり着いた大きな問題だった。
『ネグレクトと貧困と許し』を話のど真ん中に持ってくる女児アニがプリリズなわけだが、オーバー・ザ・レインボーのその先を描いたように、母とヒロがもう一度向かい合い、空白の父について話し合い、許し合う展開が待っている。
ヒロが根本的なところで甘えん坊なのも、母の不在が大きく関わっている。
同じく父の不在を抱え込んだコウジがボッコボコにしたのは、欠けたものを共有する戦友として、生き方を変えてほしかったからかもしれない。
母と話し合うのが『海の見える港町』なのも、思い出を載せた船で未来に漕ぎ出していく物語の暗喩として、なかなかに鋭い。


『踊る太陽王』として正しい自尊心を取り戻し、それを圧倒的パフォーマンスで証明したヒロは、神崎そなたの姿をした女神に祝福され、冠を受け取る。(なので、連続ジャンプのベースにルイ14世、太陽神アポロのモティーフがあるのは、文脈的にありえないほど正しい)
ADにおいてそなたが常に『失われた母』で会ったことを考えると、ヒロが王になるまでの道のりは母とコウジから離れ、自己(Pride)を確立し、再び母と出会うまでの物語だったのかもしれない。
自分の内なる母をコウジに重ねてしまう気持ちを乗り越えることで、ヒロはオーバー・ザ・レインボーとの適切な距離を再発見し、彼らを下座に置くことを決意する。
『NO1は俺だ』という猛烈な自負があればこそ、ユニットの仲間にすら負けないという闘争心があればこそ、キングとしてプリズムダンス全てを背負い、最強の表現者として立ち上がることが可能になる。

そのギラギラした姿は、やはりRL序盤の『キモくてイヤな悪役』にどこか通じるものが在る。
だが、その姿は誰かを踏みつけにしてのし上がる卑しさではなく、自分が競技とファンを背負い、世界の中心として全てを照らし出す難事に挑む決意に満ちている。
ハリウッドで決定的に打ちのめされた時、ヒロはグランドクラスにとらわれる。
長い旅路を経て、彼は自分を縛っていた惑星を操る太陽となり、コウジが親友に課した試練を乗り越えてみせるのだ。
ヒロは"PRIDE"を奪われることで、キンプリにたどり着くまでの満ち足りた世界で失ってしまっていた王者の資質を取り戻し、よりよい形で発露する方法を覚えたのだ。

プリリズ史上初の男子3Dショーにおいて、ヒロは自己を分裂させ、三人で踊る。
今回のショーでも彼は『増える』わけだが、それは孤独の反映としての自己増殖ではなく、本気で向かい合い、ときに戦うことすら在る戦友を隣において、孤独を乗り越える踊りだ。
あのオーバー・ザ・レインボーは幻影などではなく、ヒロが超圧縮された道のりを脇腹抑えながら駆け抜け、母と癒着した少年期を克服したからこそ可能な、他者との距離感を表現している。
そういう仲間がいてくれたからこそヒロは高みに登ったし、そういう仲間から離れることでしか、ヒロは王にはなれない。
"PRIDE"を取り戻すことが出来ない。

自尊、自負、独尊。
"PRIDE"には必ず狭い『自分』がつきまとうわけだが、それを突き詰めるためには必ず仲間の助けがいるし、そうやって極限化した"PRIDE"は『自分』を超え、他者を飲み込んで高みに押し上げる玉座にもなる。
全てを背負う王がいればこそ、若人は安心して高みを目指し、憧れに向かって駆け出すことも出来る。
ヒロが戴冠することで、かつて彼が聖に憧れてジャンプを志したように、彼の"PRIDE"を目指して空をかけるイカロス達が生まれる。
それは新しい時代の幕開けであり、とても前向きな変化……青春からの卒業の物語なのだろう。
そういうものをギュッと詰め込んだこの映画は、正しく『PRIDE of HERO』なのだ。


かくして『王者』の物語は太陽の歩みのように、沈んで再び登るわけだが、これとは違う『勇者』の道を選んだキャラクターが居る。
仁科カズキである。
もともと『ストリートのカリスマ』としてプリズムスタァの王道から離れた場所にいる彼は、点数化可能な競技から離れた場所を自ら選び取り、独自の修行と選択を積み重ね、男子ホビーアニメの文法に喉元までどっぷり浸かって、『王者』にも負けない結果を出す。
オーバー・ザ・トップ(ヒロ)-フルマーク(ルヰ)-評価外(カズキ)』という並びは当然、ADでのクイーンカップ最終決戦におけるMARsの文脈を踏まえたものだ。
あいらがオーロラライジングドリームですべての人を自由な境地に連れて行ったように、りずむが競技よりも大切なもののためにオーロラライジングファイナルを飛んだように、カズキは『プリズムジャンプは自由で、楽しく、みんなのために在る』という信念を、プリズムジャンプとプリズムスターの未来を守るために飛ぶ。

それは全てを背負い『王者』となることを選んだヒロとは、根本から異なる選択肢だ。
しかしアレクの暴走も、タイガの若々しい我武者羅さも、両方を包み込みその先にあるものを見せる姿勢、破壊された競技場を再生し、競技自体を続行可能にするカズキの働きがなければ、その先に在るヒロの戴冠も、またなかった。(それを表現するために、物理的に競技場壊して物理的に再生しちゃうところが凄いわけだが)
カズキは点数では評価されないショーをやりきることで、プリズムジャンプという競技の価値、皆が集まり競い合うことの意味自体を守ったのだ。

カズキが守っているものは非常に横幅が広く、力強い。
アレクの腹筋爆撃機(なんとヒドい言霊だ)は『仁科カズキと戦えさえすればいい。ファンも競技もどうでもいい』という、自閉的で破壊的な姿勢の現れだ。
他者と向かい合う場所、他者を尊重する姿勢をアレクは自ら振り捨て、ファンに精一杯の演技を見せる行為を『媚びている』と切り捨てる。
しかしそれは、肥大した"PRIDE"に自ら飲み込まれ、他人と自分を破壊していく道なのだ。
誰かと語り合うことで変わる可能性を捨ててしまう、寂しい道でもある。

それすらも受け止め、アレクが巻き起こした破壊をカズキは癒やしていく。
破壊だけではなく、守護と再生の力を使いこなすところにカズキのHERO性がある(これはキンプリラストのショーで、シンが女たちの涙を拭い、傷を癒やしたのと呼応している)わけだが、その萌芽がタイガにあることは非常に好ましい。
タイガは4クールの物語を貰っていないので、アレクの暴挙を前に適切な言葉を見つけられない。
何故自分が立ち向かうのか、自分の武器がなんなのか、自分が何を守りたいかをを言葉に出来ないまま、ただ前に出て、評価など気にしないまま何かを守ろうとする。
その姿勢は未熟で未完成だが、その時タイガが守りたかったのは自分の"PRIDE"、その延長線上に在るカズキ先輩への愛情(だけ)ではなかったはずだ。

破壊される競技場に込められているのは、『みんながそこにいる』という価値そのものだ。
気に食わないライバルも、憧れの先輩も、厳しくて優しいファンたちも、色んな可能性が渦を巻いてうねっている『場』そのものを、アレクは破壊しようとする。
そういう大きなものにアクセスする機会を、尺の都合で与えられなかったタイガは、自分が守っているものが『公平性』『他者性』『競技と人間の尊厳』だとは言えない。
そこがタイガの未熟であり、カズキをすら超えてより大きなものにたどり着けるかもしれない可能性でもある。


ストリート系のルール無用なぶつかり合いを、その後展開される『数字の比べ合い』の前に終えてしまって、一つのクライマックスとして完成させたのは、凄く良かったと思う。
少年ホビーアニメの文法を極限化したジャンプの数々は、とにかくインパクトがあってウケる。
しかしその方向のまま突っ走り続けると、ただただ表現の過激さだけがインフレしていき、そこに込められた思想性が置いてけぼりにされてしまう危険性もある。
『憎悪を込めた腹筋爆撃で、競技場を破壊する』『聖剣が天を割り、滅びたものが再生する』という『マジで意味わかんねぇ』ジャンプの極限を事前にやってしまうことで、インパクトの比べ合いを一旦燃やし尽くし、表現を別の軸に写すことが可能になったと思う。

まぁネタばっかに見えるストリート系の技の打ち合いには当然、少年たちの熱い思いが込められているし、その後に続くスタァ達のジャンプも、インパクト十分のネタ力はある。
笑いと感動が同時に脳みそを勢い良く殴りつけてくる異化作用がプリズムジャンプにはあって、その両方が大事ではあるのだ。
しかしまぁ、どっちが主でどっちが副かという違いは(一応)あるし、『勇者カズキの誕生』で一つの区切りをつけたのは、勝負の上がり下がりをつける上で妙手だったと思う。

しかしまぁ、『暴君』って感じのアレクの新衣装から始まり、会場全体を巻き込む凶悪な技の応酬、それらすべてを飲み込むカズキの覚醒と、少年ホビーアニメの『熱さ』を煮込んだようなストリート系の戦いは、最高に良かった。
全く意味は分からないが、とにかく楽しいし、楽しんでいるうちに意味が脳みそに焼き付けられていく。
こういう超言語的な圧力があればこそ、70分という尺でここまでの圧縮が可能なのだろう。
散々ファンを罵倒しつつ、いざ曲がかかると表現者の笑顔』をつくってしまえるアレクが、かわいくて好きです。
『色々言いつつ、カズキ先輩と競い合うのと同じくらい、ジャンプ自体が好きなんだろうなコイツ』って思う。


カズキが復活させた競技場では、タイガの若い精神のほとばしりとしての白虎も、アレクの暴力性の象徴としての黒竜も、共に存在している。
タイガは何もわからないまま、他者を爆撃するアレクの腹筋に立ち向かうしかなかったが、カズキは暴力も守護の意志も両方を受け止め、『色んなやつが真剣で、だからプリズムジャンプは面白い!』と肯定する。
RL時代から人間力が高く、優しくて強い男だったが、ここに来て個人よりもっと大きなものを受け入れられる、器の大きな人間に仕上がった感じを受けた。
ヒロの成長が『先頭に立ち、全てを背負う背中を見せることで導く王者』だとしたら、カズキの成長は『あらゆる可能性を肯定し、それを守るためにはルールの外側にすら出る勇者』なのだろう。

アレクの黒い龍は、彼の中であまりに大きなものを占める仁科カズキへの思い、そのものでも在る。
それはいろんなものをぶっ壊す(カメラレンズ含む!)はた迷惑な暴力なのだが、純粋でひねくれたラブコールでもある。
カズキが黒竜を『お前は間違ってる。この競技場から出て行け!』と断罪せず、『お前の思いも、俺が受け止めてやる。本気でかかってこい!』と受け止めたのは、アレクの今後にとってとても良かったのではないか。
ヒロだって、カズキがリスペクトを込めて本気で打ち下ろしたバーニングソードブレイカーで"PRIDE"を切除されたからこそ、適切に悩み、迷い、様々な人を幸せにする『王者』として降臨できたのだ。
そういう道をアレクの前に広げてあげたカズキは、優しい男だなぁと思う。

EDでアレクは、どう見ても創界山な修行場に足を踏み入れ、カズキが歩んだ道を追いかける。
タイガもまた、後輩というポジションを適度に守って、カズキの後ろをついていく。
『勇者』という自分の道を、競技としては評価されないが、それゆえに競技の価値を守った選択でこれ以上ないほど示したカズキの物語は、一つの終りを迎えた。
彼の大きな背中に憧れたストリートの少年たちが、どんな自分の道を歩くのか。
僕は凄く見てみたい。


先を見たいと言えば、ルヰとシンの物語は大量の伏線をぶっこみつつ、未だ炸裂を知らなかった。
ヒロとカズキが辿り着いた場所を見せつつ、時空を超えた転生純愛物語をやりきるには70分という尺は足らなかったし、シンのステージはヒロやカズキ、ルイに比べて積み上げた説得力に欠けるものだったとも思う。
未だ発展途中、人間として友と触れ合い、仲間の大切さを胸いっぱいに感じる素直さがシンの持ち味なのだから、そこで『やりきっていない』のはむしろ演出プラン通りなのだと思うが。

ルヰの回想とステージングにより、二人がりんねやジュネのようなプリズムの使者であり、人間世界に介入してはいけない定めを持っていることが示された。
RL43話でのジュネ&りんねのショーと同じように、地面に倒れ伏した状態から始まり、RL32話のジュネのように、伝説級のジャンプを軽々飛びこなしてみせるルヰ。(更に言うと、AD最終決戦のみおんのように己自身を生み直しもする)
短い時間の中で彼の超越性を説明するために、過去のジャンプをノーモーションで引用し、叩きつけてくる辺り、キンプラはキンプリよりも遥かに過去作への依存度が高いし、観客に要求される知識のハードルは高い。
それでもおそらく画面に引き込んで、『文脈は分からないが、演出の意味は分かる』あたりまで引き上げる豪腕が、この歪な映画を力技で成立させている。

圧倒的な力を持ったプリズムの使者でありながら、プリズムのきらめきを自ら教えようとするシンの前世。
それはりんね(の声と姿を持った誰か)が指摘するように、プリズムジャンプが持つ多様性を魔的なカリスマで塗りつぶし、多様性を略奪してしまう行為だ。
これを守るためにヒロやカズキが飛んだジャンプを考えると、心中してでも止めなければならないというのは分かる。
まぁジュネ様見ても分かる通り、プリズムの使者の恋は常に命がけなので、その伝統に則った結果だとも言えるが。

少年と少女、大人と子供の中間点で危うく踊る細やかなルヰの肉体、それを見事にショーアップする純白にしてエロティックな衣装、そしてまさかのポールダンス。
『別格』の存在としてルヰを際立たせる意味でも、彼のステージは強い説得力に満ちていたと思う。
ルヰが背負う少年愛の危うい魅力を茶化さず、ど真ん中で扱う姿勢は、シンとのキスシーンをごまかさずちゃんと描いたことからも感じ取れる。
ルヰの恋心は時間も空間も宿命すらも超える超シリアスなものなのだから、その表現であるキスには、製作者も観客も本気で向き合ったほうがいいと思うし、この映画はちゃんとそうしてくれた。

だからこそ、二人の恋があくまでほのめかされるにとどまり、本腰を入れて描写されないのはとても残念だ。
ルヰとシンの恋は、『男同士だから純粋だ/不純だ』という人間の価値観をあっという間に飛び越え、美しい男の姿をした存在2つが向き合い、ぶつかり合い、ともすれば殺し合う真剣さを秘めていると思う。
それは本気で描いたらとても面白いものになるだろうし、そういう微細で熱いものを描く時プリズムショーにどれ程のことが出来るのかを、この映画は証明してもいる。

ルヰが見ているのはシンだけなので、人間の『王者』を決め、『勇者』の生き様を刻むこの戦いには、言葉の真実の意味で本気にはなれない。
あれだけのポテンシャルを見せてなお、ルヰが本気で踊るのは愛のためだけなのだ。(そこら辺、アニムスであるジュネ様そっくりである)
そして話の軸が『オーバー・ザ・レインボーの総決算』『プリティーリズムの総決算』『菱田正和の総決算』に置かれた今回は、ルヰとシンの愛の物語を睨みつつ、真ん中には据えなかった。
シンがエーデルローズの中で何を学び取ったかもそうであるが、『TVシリーズで描けていたなら、もっと……!』という無念(もしかすると怨念)が、盛り過ぎな題材の中からにじみ出てくるようなフィルムでもある。


しかし限られた尺の中でも、ルヰとシンの愛が暖かで、実りに満ちたものなのだと思わせる中盤のショーがあったのは、とても良かった。
コウジとヒロが愛でしばきあうハリウッド・バトルと並列だからこそ、出会ったばかりの恋人たちが柔らかく触れ合い、笑い合うステージは爽やかだ。
普段着で自由に滑り、『二人一緒』であることを心から楽しむシンの素直さが全面に出ていて、あのステージはとても好きである。
つーかコウジとヒロが行き着くところまで行ってしまっただけかもしんねーけども。
男と男の関係が発酵しすぎると、『愛を確認するためには、愛する人を全力で殴り倒さないといけない』って段階まで行ってしまうわけで、出会ったばかりの二人はそこまで行ってないのだよ。

とは言うものの、二人の関係は忘却に閉じ込められた宿命であり、ありえないほどの時間と感情が閉じ込められている。
真っ白なライティングはあっという間に血の赤に染まり、キスと心中に彩られた美しい悪夢に変わる。
そういう危険性を含みつつも、ルヰとシンが持っている『出会った瞬間の瑞々しさ』は特別いいものだし、それを巧くステージに込められたかな、とも思った。
ここらへんはDMF副監督にして、ラブライブで3Dステージの新表現に飛び込んだ京極尚彦の面目躍如と言ったところか。

今回はステージングに込められたメッセージの密度、組み立て、個別のフレッシュな表現が非常に優れていて、圧縮率の高い映画を巧く支えていた。
エロティックと特別さ、清廉な誘惑を秘めたポールダンスが出色だが、他のダンスもキャラクターの個性がよく圧縮されていて、『こいつはこういうやつなんだ!』というメッセージを身体表現で伝えられていたと思う。
修行シーンにしても途中のバトルにしても、4つくらい同時進行するので非常に息苦しいはずなのだが、少年たちの複雑な感情を巧くステージが代弁することで、ギリギリ飲み込めるくらいの表現になっていたと思う。
……いや飲み込めないのかもしれねぇけども、『ワケワカンなくても、とにかく食える。食ってしまえる』ってのがキンプリの強みなのだ。


ともあれ、法定重量を余裕でぶっちぎって過積載な物語の中で、シンとルヰの物語は『続く』であり、始まりの予感を感じさせつつ走りきってはいない。
これはエーデルローズのメンバーみんなに言えることで、タイガはカズキ先輩の後をがむしゃらに追いかけるばかりだし、他のメンバーも個別の物語を与えられはしない。
経済戦を制圧し物語のコンフリクトをほぼ一人で勝ちきったカケルとか、何も言わないままヒロに『あの時のカレー』を食わせ変化の決定打を与えるミナトの包容力とか、短い時間で最善手は打っているのだが。
ユキ様の家庭の事情とか、シンがジャンプできなくなって再び飛ぶまでとか、レオのシンへの淡い恋心とか、ユウのキモいベルヲタっぷりとそれ故のヒロへの反発心とか、思いっきり広げて見せてほしい部分が多すぎる(そしてそれを切り捨てて、お行儀のいいフィルムに収められないスタッフの愛情)のは、このアニメの良いところでもあり、悪いところでもあろう。

生まれでてしまったキャラクターの物語を、どんなに無茶だろうと片っ端から乗せていくスタイル。
それがこの映画を『原作を知らなくてもなんとなく理解できる、少年たちの青春ストーリー』とはちょっと外れたところに持ってきている。
これはキンプリと比べたときに顕著で、今回はとにかくプリリズシリーズ全体、菱田正和監督作品とその周辺(エヴァとかガンダムとかラブライブとか)からの引用が無茶苦茶に多い。
前回はシルエットだけだった女の子たちが、顔と声を持って2年分の成長した姿で出てきて、ちゃんと喋って自分を主張するのも、そういう路線に乗っかっている。

それは過剰な思い入れの暴走なんだが、そこら辺が『解って』しまうプリリズファンとしては、あまりにもありがたい姿勢でもある。
続くとは思っていなかった物語の中で、主軸を冷静に選別して出番の格差を割り振りつつも、狂った圧縮率でなんとか隙間を作り、生み出したキャラクターの『その後』『これから』をあらゆる場所に埋め込んでくれること。
それが彼らに魅了されて、彼らにもう一度会いたいと思って劇場に足を運んだ僕にとってどれだけ嬉しかったかは、どれだけ強調しても足りないことだと思う。
そういう一種のノスタルジーに奉仕しつつも、問答無用で脳髄の物語野を殴りつける努力を怠らず、ステゴロで初見を殴り倒せるパワーをあらゆる場所にぶっ込むのを怠けないことが、更に『その後』『これから』の勢いを増す。
そういう異形で幸せな物語生成が、プリズムの輝きの中にはあると思う。

そういう流れの中で、山田さんの過去まで掘り起こされ、聖と仁とジュネの三角関係が高速で展開する。
過去作を把握し、二人の兄弟とジュネ様がどういう存在なのか理解していないと、否、たとえ理解していたとしても、仁がジュネを(そして彼女を所有する聖)を求める心とか、ジュネ様が仁に一旦寄る気持ちとかは、なかなか飲み込みにくいと思う。
でもこのチャンスで語り切る以外に、スタッフに選択肢はなかったのだ。
その歪な愛情が、頼もしくも愛おしいと思ってしまう程度には、俺はこの映画もプリリズも好きだ。

聖も仁もまた、プリリズの伝統に従って父、もしくは母と巧く折り合えない大人-子供である。
母を取り戻したヒロに屈服させられ、母になってくれるかもしれなかったジュネを再度略奪された仁は、性別を超越して愛してくれるルヰという母を手に入れる。
『菱田監督はホント、初代ガンダム好きすぎるな』と思わざるをえないが、ジュネ様が仁の頬にキスをしたのは、彼の肥大化した"PRIDE"を人間の宿命として、難からず思っていたからだろう。
そして聖から離れることで、失われた母、それを取り戻すための行為としてのプリズムジャンプとの関係を、自力で再考してほしかったのだと思う。
ここらへんは、ヒロを殴りつけたコウジにも繋がる部分だ。

そんなジュネの愛ある離脱を、聖は巧く踊りきれなかった感じもある。
それは『俺は飛べない』という決定的な事実、ある種のインポテンスが生み出す欲求不満を、巧く乗りこなせなかった結果だと思う。
彼はかつて『王者』に近い場所にいて、夢見る季節を過ぎても王冠の感触を忘れられない。
後ろ髪を撫でる仕草が幾度も描かれるのは、文字通り過去に『後ろ髪を引かれ』ているからだし、母の豊かな胸から切り離された代償行為として指を舐める幼い仕草を、別の形で演じてもいる。

そんな彼が年下のヒロに頼り、『兄を取り戻してくれ! 過去を巻き戻してくれ!!』と願うのは、身勝手で無様で、必死で美しくすらある。
逆に言うと、母親との関係を上手く踊れない聖の姿を事前に見ておくことで、ヒロは母との再接触を適切に乗り切り、親離れを果たせたのかもしれない。
(追記:ここら辺のしがみつき方はADの阿世知コーチが『アタシの青春のために飛んでよ!』とあいらに頼んだことと繋がってるし、ヒロへの熱血ハードコア指導はKコーチがりずむを扱いたシーンと呼応している気がする。)
いや実際、ヒロとしては『そんなこと言われてもなぁ……自分でやってほしいけど、この人けが人だしなぁ……』としか思えねぇよ、あの懇願。

ヒロやカズキが『グッバイ青春』したこの映画で、聖は自発的に変わり切ることが出来ず、ピーターパンのままだ。
そんな永遠の少年を『しょがないわねぇ』と包容し、親愛の頬ではなく愛情の唇にキスをする。
そんなジュネ様のイタズラな愛情にも、ちゃんと目を向けた映画だったなと思う。


様々なものを秘めた映画の感想なので、長く、千々に乱れたものとなってしまった。
自分が見つけたものを書ききれた自信はないし、見落としたものもたくさんあるだろう。
しかし、こういうものを書かせる圧力と温度がこの映画にはあると、少しでも示せた手応えはある。

後がない一発勝負故に、キンプリに宿ったある種のスマートさは、この映画からは消えている。
あるのはとにかく『これまで積み上げてきたもの、全てをやりきる』という気概だ。
前作であるキンプリ、直接の原作であるプリティーリズムRL、そのシリーズ作であるADとDMF、制作に関わったワタル、グランゾートクラッシュギアTURBO陰陽大戦記、影響を受けた諸作品。
菱田正和としての全てを塗り込め、今できる全てを70分に載せる』という過剰な情熱が、観客に要求するハードルは正直大きい。

しかしそれが空回りしているとは、僕は感じなかった。
自分の中に積もった思いと物語に嘘をつかず、その上でどう観客に分かってもらうのか。
アニメとして何を表現し、時間と予算をどう使うか。
必死の工夫がそこかしこにあり、複雑な引用の織物が組み上げられ、その複雑さをぶち壊すようなシンプルな熱量があふれかえる。
そういう映画だと思う。

そして、『総決算のその先』がとても見たくなる映画でもある。
自分を出し切り、燃やし切ることは終わりであると同時に、それ自体が新しい表現だ。
シンとルヰの秘められた歴史、タイガとアレクが歩く新しい勇者の道。
今回示唆された『これから』は、それを強く強く見たくなるきらめきに満ちている。
菱田正和の『これから』に期待を高め、『KING OF PRISM』のキャラクターを徹底的に真ん中に据えた三作目が絶対に見たくなる、そういう『その先』に続いた作品でもあると思う。

いい映画なので、みんなぜひ見てください。