イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

リトルウィッチアカデミア:第25話『言の葉の樹』感想

かくして世界樹は復活し、新しい魔法の時代が始まる。
リトルウィッチアカデミア、ついに最終回です。
ロケットをぶち上げ、世界中の思いを束ね、超絶作画の空中アクションが唸りを上げる。
クライマックスに相応しい興奮と同時に、過去自分たちが積み上げてきたものを的確に引用し、物語の樹を高く高く伸ばす努力が、随所に見られました。
当然描ききれなかったものはありますが、それよりもこのアニメが成し遂げたもの、語りきったテーマ、描ききったキャラクターたちの輝きを、胸いっぱいに吸い込めるような。
25話分の変化と不変が、画面の端々までみっしり詰まった最終回に、まずはありがとうと言いたいです。


さて、いつも以上に色んなキャラクターが色んなことしている今回。
事件は主に4つの舞台で起こっています。
一つは"オネアミスの翼"以来のGAINAX=TRIGGER伝家の宝刀、ロケットぶち上げでハイテンションに直接対決に向かう魔女の子供たち。
二つ目は彼女たちを後押ししつつ、青春を取り戻すかのように手を取り合うシャリオとクロワ。
三つ目は魔女たちの超常的な戦場から遠い政治の場で、大人に混じって自分の意見を言い続けるアンドリュー。
そして最後に、全世界中継で繋がった名前も顔も魔力もない、ただの人間たちの領域です。

これまでこのアニメは、一つ目の『子供の魔女の領域』と二つ目『かつて少女だった大人の領域』がお互いに照らし合いながら進んできました。
ここに決着が付いたのが先週のエピソードだと思うのですが、魔法の古臭いルールは個別に成立するのではなく、常に『現実』と接してきました。
例えば第5話でファフニールが、外部の経済性と魔法を必要としない世界のシビアさを代表したように。
もしくは『男で一般人』というアンドリューが、アッコと触れ合う中で魔女を隣人として認め、自分自身の清廉な願いに向き合ったように。
『魔法学園』が持つ内向きのベクトルを掘り下げると同時に、そことは離れた場所の視点や価値をエピソードに取り込み、描写し、魔女たちに学習させてきたわけです。

最終回が複数の舞台を繋ぎながら進行するのは、『それらは別物でありつつ切れていない、接点がある場所なのだ』というメッセージを感じます。
アッコは『自分の行動で人を変えること』を諦めていないからこそ、一番最初にミサイルに挑むことを提案する。
誰が考えても無謀な挑戦に最初に飛び込んでいくバカは、これまでの冒険の中で様々な人に出会い、触れ合い、小さな変化を起こしてきました。
それは上手く行くこともあれば、手ひどく失敗することもあったけども、アッコの主人公としての特質であるパワフルさ、積極性があってこそ、様々な扉が開け、道が繋がった。
そういうものを世界レベルに拡大するために、ICBM発射という世界規模の危機が必要だった気もしますね。

魔法黄金時代は過ぎ去り、だれも魔法など必要としていない時代。
第4のステージにいる人々にとって、魔法は『あってもなくてもどうでもいいもの』でしかありませんでした。
『魔法は素晴らしい、価値がある特別なものだ』という価値観がルーナノヴァ内部でしか共有されず、社会との調整に失敗しているという描写は、例えば第5話(経済性と魔法学校)、第10話(社交の場では異物でしかない魔女)、第18話(ワイルドハントをイベントとしか見ない一般人)などで、幾度も描かれたものです。
そういう冷たい世界が最後の希望を魔女に託す展開は、アツい物語のノリと勢いでルールを書き換えているようにも感じられます。

が、僕はここに一つのロジックがあるんじゃないかな、と思いました。
先週アッコが七つ目の言の葉とともに発動させた、世界改変魔法・グラントリスケル。
その効果はアルクトゥルスの森を回春させるだけではなく、より広い領域に広がり、『魔女のことをちょっとは信じてもいいかな』と思えるルールを、一瞬現実化させていたのではないか。
ブラックウェル大臣が試みる『大人の対応』……情報隠蔽で政治的アドバンテージを狙う戦略を覆す情報拡大は、魔法という『子供のルール』に後押しされて発生していたのではないか、と。

クライマックス二話は非常に沢山のものを詰め込むために、かなりの部分が読者の読解力、これまで積み上げてきたものの引用で編まれています。
それは分かりにくさでもあるんですが、同時に『ここまで見てくれたあなた達なら、読んでくれるよな』という信頼(あるいは挑戦)でもある気がします。
書かれているモノ以上を読みたくなるのは、足らない部分を勝手に埋めてしまうファンゆえの過剰な熱意であるし、これまで作品が与えてくれたものへの視聴者なりの恩返しでもあるでしょう。

『グラントリスケルとは何だったのか』という問に、作品は明確に答えません。
僕はそれは無責任や描写力不足ではなく、余韻を生み出す良いクライマックスだな、と感じました。
アッコやダイアナ、そしてアーシュラやクロワや他の魔女たちの願いをすくい上げるように、世界が優しくなって事態が解決したのは、主人公が言の葉を集め、皆の力を集めた奇跡の副産物。
そう考えると、なんだかとてもいい気分になるのです。


魔女物語のクライマックスにしては、今回はアンドリューの描写が非常に多かったです。
僕が彼の大ファンなのはすっかりバレていると思いますが、個人的好意を抜きにしても、彼がブリッジとなって『魔法』という価値が『現実』に繋がっていく様子を、最終話に埋め込めたのは良かったと思います。
アンドリューは世間の大抵の人がそうであるように、『魔法』は無価値な夢だと思っている状態から、物語に登場しました。
アッコと冒険をともにし、その中で押さえつけていた『子供』の自分を再発見する中で、彼は自分を見つける手助けをしてくれた同志に強く感謝し、魔女の存在意義を再び見つける。
最終話で世界全体が行う『魔女の再発見』を、アンドリューは先取りしていたわけです。

そんなアンドリューは、常に父親と対立する存在として描かれていました。
公平さと現実的利益、果たすべき責務を強調するハンブリッジ伯爵にとって、ピアノという政治以外の領域に情熱を懐き、魔女などという信頼できない輩と付き合い、幼い理想主義を振りかざす息子は、到底認められない存在です。
最終話までは、政治的現実の重たさ、それを背負い押し付けてくる父の『正しさ』に沈黙していたアンドリューですが、アッコの勇姿を受けて、ようやく真っ直ぐ父に向かい合うことになります。
先週は目の前で閉じられる扉をただ見ていることしか出来なかった少年は、第23話でアッコに言った『本当に叶うなら何よりも素晴らしい理想主義』を胸に、堂々と戦う。

魔法には価値がある、魔女は信じることが出来ると、あの密室で発言できるのはアンドリューだけです。
彼が国家間戦争の危機という、これ以上ないほどむき出しな『現実』を前に、歯を食いしばって夢を語ってくれたからこそ、魔女たちのミサイル迎撃は完遂できた。
そしてそのことが、『大人』になろうと背伸びしていたアンドリューがただあるがまま、気づけば『大人』となり、父に対等に意見を求められる存在になった結果にもつながっています。

そしてそれは、アッコがただひたむきに、楽しく自分の青春を歩いてきた結果でもあるわけです。
アッコはアンドリューを『正しく』しようとして、言葉をかけたわけではありません。
ただアンドリューというすまし顔でハンサムで、とても素敵な同年代の少年が面白いやつだから、一緒に道を歩いただけ。
心を許し合える友だからこそ、自分が感じた真実を素直に伝え、『魔法使いではなく、女の子でもない』アンドリューの生き方から様々なものを学んできた。
そういう相互作用が大きな奇跡に、あるいは子供たちの小さな変化に結びついているのは、やっぱ素晴らしいなと思います。

他のすべてのキャラクターがそうであるように、25話分の物語を背負って、アンドリューはまだまだ自分の物語を続けていきます。
父への敬意と家の責務を健全に受け止めて政治家になるのか、はたまた音楽への情熱を炸裂させてピアニストになるのか。
未来は無限に広がっていますが、素敵な魔女たちと友達になったこと、冒険の中で真実の自分を見出したこと、見つけ出した強さで父と正面から向かい合えたことは、どれも大きな力となることでしょう。
そうやって、エピソードの中で積み上げてきたものの意味をしっかり確認し、それ以上の広がりを夢想できる終わりをあのハンサムな少年に与えてくれたこと。
感謝することの多い最終回ですが、やっぱこれは一等嬉しいことですね。


クライマックスに相応しく、物理的にぶち上がっていく最終決戦。
『己らはこの、いかにもガイナの後継者TRIGGERっぽい爆発作画とか! 画面ぐるぐる回るアクションとか! スピード感ある空中戦とかみたかったんじゃろうが! トップ2とか劇エヴァとかグレンラガンとかキルラキルとか好きじゃろうが!!!』と言わんばかりの、カロリーのあるアクションに大満足でした。
いや見たかったよマジ、やっぱ横幅バー取って、ビームが横薙ぎにした後一瞬ラグあってドパパパーって爆発起こるアニメ、二億回見ても最高。(アニメ伝統芸能大好き人間)

しかし今回のアクション、TRIGGERらしいオマージュだけではなく、リトルウィッチアカデミアというアニメが何を書いてきたかへの内省と証明に満ちた、非常に『活きた』アクションだったと思います。
切り離し作業と仲間たちの後押しを重ねるシーンはエモかった(だけに、ヤスミンカだけ個別会がないのが惜しい)し、ダイアコ世界中継は見たいもんがど真ん中に猛スピードでぶち当たりすぎて、死ぬかと思った。
過去エピソードを想起させる懐かしい面々が大集合したり、第3話以来の流星号の再登場など、直接的に過去と響き合うシーンも感情を揺さぶりますが、より大きくて抽象的なものが、たっぷり詰まった見せ場だったなぁと思います。

いろんなものがあるんですが、一つは『直接的暴力による問題解決の回避』です。
アッコはミサイルに追いついた時『ミサイルを壊そう』とは言わず、『安全なものに変えられない』と言います。
彼女の得意は変身魔法なので、自分の得手を活かそうとした発言でもあるんですが、ここには作品全体が『魔法少女の物語』として守ってきた、太い一線を感じます。
第1話で世界を革命する力を手に入れた時、アッコはそれでコカトリスを撃つのではなく、レイラインをこじ開けて新しい道を開くことを選びました。
今回ダイアナとアッコが目指す戦いも、ミサイルが撒き散らす暴力を『安全なものに変える』戦いであり、より良い結果のために『悪いこと』を手段とはしないこれまでの歩みに忠実なものです。
構図としてはガイナロボアニメでよく見た爆発なのに、火薬が炸裂する代わりにファンシーなものに変化していく『絵』が、このアニメがどういうジャンルにあって、その中で何を大事に描いてきたかを巧く証明したなぁ、と感じました。

変身魔法は『絵が動き、変化する』アニメーションの力をアッコに宿し、またアッコの可変性を象徴もしてきました。
迫り来る暴力から身を守る武器としてだけではなく、自由に変化することで危機を乗り越えていくタフな防御法にも、変身魔法はなります。
スピーディなアクションの中で、攻防両面に大活躍するアッコの変身魔法……『魔女』としての到達点が存分に味わえたのは、非常に良かったです。

ICBMはクロワ曰く『憎悪の集積体、自己破壊の極限』なわけですが、アッコはそれを誰も傷つけない奇跡、みんなを笑顔にするエンタテインメントに変質させます。
溜め込んだ憎悪から対象を開放し、より平和な方向に歩き直させるために全力を尽くす姿は、第13話のバハロワを思い出しました。
誰もが『対話不能な呪いの塊』と見ていたバハロワの心にアッコが踏み入り、彼女の憎悪を解きほぐして開放したエピソードを再演するように、アッコはクロワが『無理よ』と諦めたミサイルに向かい合い、そこに込められた怨念を安全化する。
誰とでも物怖じせずに語り合えるアッコのフランクさは、作中幾度も描写された彼女の強みなわけですが、それは暴力を構えて対峙する『敵』が相手でも変わりがないわけです。

『敵は打ち倒すもの、誠実に向かい合うなどもってのほか』という『大人の理屈』を、ブラックウェル大臣が背負ってくれているのも、アッコのスタンスが見えやくなる照明だと言えます。
これにアッコの影響を強く受けたアンドリューが『悪いことはするべきじゃない。警告はするべきです』と反論することは、アッコがミサイルを『倒す』のではなく『変える』戦いと、基を同じにしています。
ここら辺最後までブレなかった……というか最後のアクションで非常に太くなったのが、凄く好きですね。

七つの言の葉を開放したクラウ・ソラスは、名前の通り『輝く剣』の形を取り戻します。
しかしアッコはその柄ではなく、刃を持つ。
暴力装置として剣を扱うのなら間違った握り方ですが、アッコにとってそれは魔法の杖であり、みんなを笑顔にするためのデバイスです。
誰かの身体を傷つけるためではなく、みんなが笑顔になる不思議な魔法の絵筆として、アッコのクラウ・ソラスはある。
だから、この作品の主人公たるアッコにとって、あの握り方こそが正しいのです。


そんな感じでファンシーに展開する最終決戦は、全世界に広がっています。
先程も述べましたが、このアニメは『魔法』と『現実』を対照させつつも、そこに橋がかかりよりよい未来が生まれる可能性を、常に捉えてきました。
全世界の人々の思いが形のない世界樹となり、奇跡を起こす今回の決着は、これまで閉鎖的価値観に支配されてきた魔法界が、より広い場所に(半ば強制的に)接合されていく、価値観的変容でもあります。

閉じていたものが開ける大きな変容は、アッコ個人の変化でもあります。
魔法界のアウトサイダー、何も出来ない劣等魔女として爪弾きにされていたアッコは、それでもめげずに青春を走り、友と師を増やし、彼らから学び、また影響を与えてきました。
そうやってたどり着いた世界の頂点で、アッコの願いは全世界に拡散され、共有される。
アウトサイダーだったアッコが、魔法界全体を背負い、より開放的なルールを『魔法の世界』に、そしてその外側にある『現実の世界』に拡大していくわけです。

その瞬間、アッコは『魔法界のルールが分かっていないアウトサイダー』ではなく、『全世界的に新しいルールを制定する魔女そのもの』『世界最大のインサイダー』に変化しているわけです。
むしろこの物語は、閉じた世界のルールに適合できないアウトサイダーだからこそ、外部との接合点となり、新しい活力や価値観を入れ込み、変化を促しうる可能性を、常にアッコに託してきた。
なので、アッコの起こした軌跡が魔法のあり方を変え、今後の世界のスタンダードになっていく結末は、綺麗にテーマを拾いきったなぁと思います。
それが出来たのも、アッコの可能性を虚心坦懐に受け止め、支えようとしたシャリオやダイアナ、学友たちのおかげなわけですが。

魔法の全世界的拡大を受けて、アッコの『魔法』もまた、大きな跳躍を見せる。
クロワが最初に見つけ出し、見失ってしまった『信じる心が、貴方の魔法』という言の葉は、冴えない教師に身をやつしたシャリオに継承され、アッコにとっての魔法ともなりました。
そして世界中の力を借り受け奇跡を成し得た時、アッコは『信じる心が、みんなの魔法』と唱える。
序盤あんだけ自分のことしか見えず、身勝手に突っ走り迷惑をかけてばかりだった少女は、世界改変魔法と仲間たちの支えでより広い場所に立ち、『わたし』から『みんな』への価値観拡大を、外部からの強制ではなく自発的にやってのけました。

『貴方』から『みんな』への変質もまた、アンドリューに対してそうであったように、アッコがあっこらしく進んだ先にあります。
『良いことをしよう』という外部からのアプローチは、ダイアナのように高潔な生き方を導くこともあるし、手段を目的化してしまったクロワのように生き様を歪めることもあります。
『自分のしたいことをしよう』という内部からのアプローチもまた、月に星を刻んだシャリオの暴走にも繋がるし、アッコの新しい奇跡にたどり着きもする。
新旧2つの世代を対比的に使うことで、夢が持っている祝福と呪い、自発性と外的規律の意味合いをシャープに描けていたのは、このアニメがたくさん持つ強さの一つでしょう。


高空を行く現役世代に比べて、過去の因縁を整理したかつての少女たちはイマイチ地味です。
杖に選ばれ、派手な冒険を駆け抜けるシャリオとクロワの物語は、お話が始まった時点で失敗した過去。
なのですが、TRIGGER作画で良いアクションすることだけが人生の輝きではなく、むしろ地べたを這いつつ後押しするからこそ見えてくるものも、たくさんありました。

先週因縁の乗った殴り合いを制し、体を張って親友への衰えぬ愛を確認した二人は、最終話に至ってようやく、『二人』で何かを成し遂げます。
かつて杖に選ばれたシャリオに何も告げず、ドリームフューエルスピリッツと少女たちの未来を略奪してしまった過去を取り返すかのように、みんなの笑顔を、教え子の決断を守るために、自分の力を使う。
それは"シンデレラ"のフェアリー・ゴッドマザーのように決戦用のドレスを整えるだけではなく、先週ダイアナとアッコが見せた共同魔法を再演するだけでもなく、もっと地道でコンパクトな、しかし彼女たちにしか出来ない戦いです。

クロワとシャリオの戦いは、かつて使い方を間違えてしまった彼女たちの武器を、より正しく使いこなす戦いになります。
世界中に張り巡らせた情報ネットワーク、先端技術への習熟、フューエルスピリッツへの高い学識。
これまでクロワの陰謀を支えてきた技術は、今回アッコの活躍を世界中に伝え、世界中からの想いをアッコに集めるためのテクノロジーへと、表情を変えるわけです。
それは急に善いものに『変質』したわけではなく、面倒くさい感情の回り道を経てようやく自分の中に真実にたどり着いたからこそ、自分が手に入れたもののもう一つの顔が見えるようになった『変化』なのでしょう。

シャリオもまた、エンターテイナーとして人々の気持ちをくすぐる話術を使って、アッコの世界改変魔法を方向づけていきます。
ここら辺は"魔法じかけのパレード"での展開をセルフオマージュしている感じもありますが、あの時は描かれなかったシャリオの過去と罪を背負い、また別の表情を持っていました。
知らずのうちに子供の可能性、未来の笑顔を奪ってしまっていた自分の言葉を、今度は本来の目的に使う。
否定していた『エンターテイナーとしてのシャイニー・シャリオ』の能力で、アッコの道を手助けできたことは、教師アーシュラ・カリスティスとしても、シャリオ・デューノル一個人としても、善いことだったと思います。

アッコが起こした奇跡が、シャリオとクロワがかつて目指し、間違えてしまった方法と重なり合っていることも、非常に良い。
『感情のエネルギーこそが魔法であり、それを操ることで大きな奇跡が起こる』という、クロワの発見。
『魔法をエンターテイメントとして使い、より多くの人の笑顔を生み出す』という、シャリオの願い。
それは二つとも無残に間違え、ねじ曲がってしまった願いだけども、全てが否定されるものではなかった。
時間を飛び越え、『教師失格』な二人の教え子達が起こした奇跡は、過去の過ちを受け継ぎ、あるいは精算するかのように、その理念と方法論を背負って炸裂します。


自分たちは間違っていたが、全てが間違いだったわけではなかった。
少女たちが今まさに起こす奇跡が、かつて少女だった女たちの過去を救い、既に飛べなくなってしまった現在の自分たちが可能な精一杯が、それを後押しする。
地上に残ったクロワとシャリオの戦いは、これまでと同じように、アッコ達輝く現役世代では切り取りきれない世知辛さと、少し寂しい世界の真実を巧く切り取ってくれました。

僕はやっぱり、二期クロワ先生とシャリオが大きく前に出てきて、お話は良くなったと思っています。
アッコが凸凹道を歩きつつ、圧倒的に正しい答えにたどり着く物語はとても尊く、綺麗です。
その輝きを認めつつも、既に間違えてしまった面倒くさい大人たちが、正しい行いを心の何処かでは知りつつ行えないねじれ道があったからこそ、メインテーマが飲みやすくなった。

判っちゃいるけどやめられない、愛しているけど憎らしい。
そういうジレンマとカルマをたっぷり詰め込み、拗れた感情と嘘と真実に揉まれまくった二人の旅路が、あの時取り合えなかった腕を取り、夢破れた後の人生経験を詰め込んで、答えにたどり着く。
主役たちが歩いた王道とはまた違う、薄暗くてかっこ悪くて、親しみの持てる迷い路があったからこそ、ど真ん中で輝く奇跡は輝きを増したし、その輝きに気後れせずに住んだと思います。

これは先週からまたいだ演出なんですが、女たちの『髪』が心情の変化に伴い、大きく崩れていきます。
クロワは大きく上げた髪の毛が前にかぶさって、ナードだった時代を思わせるシャイなスタイルに。
アーシュラ先生はシャリオだった過去を肯定する心情を映して、赤い髪の毛を隠すことがなくなります。
夢破れた後自分を守るために作り上げてきた一番身近な鎧を、過去を受け入れ、若い世代が失った夢を別の形で達成してくれることで外せるようになるまで。
クロワとシャリオの物語は、そういうお話だったんじゃないでしょうか。

あんだけのことをしでかしたので、クロワ先生はドーリン大臣に連れられ、投獄のような印象を受ける退場をしていきます。
その時クロワは、『ワガンディアの呪いを、シャリオのために解く』という、新しい夢を口にする。
それは『シャリオになりたい』という呪いがクロワから解けたこと、『魔法界のために』という公益性への視線をねじ曲がらせてしまった彼女が、一個人への思いを素直に受け止められるようになったことの、一つの証明だと思います。

アッコの魔法が『わたしからみんなへ』という公益性への飛躍を果たしたことと、クロワがアーシュラ個人への想いを露わにしたこと。
これは公益性と個人の思いという、一見相反するものを結び合わせ、その両方があって初めて物語が、人間存在が、あるべき社会が可能となるバランスを、見事に表現したと思います。
どっちかだけが答えになっちゃうと、どうにもバランス悪い問題だからねここら辺……説教臭くならず、キャラクターの生き方に見事にシンクロさせて語りきれたのは、パワーが有ると思う。

そんな彼女を待つシャリオは、もう青春をそのままの形で演じ直すことにも、輝いていた思い出にフタをすることもない。
ただ、新しい生き方を見つけた親友が罪を贖い、再び戻ってくることを、赤髪の教師として待ち続けます。
それもまた、仮初のものだった『アーシュラ先生』を本物として向かい入れた、シャイニー・シャリオの結末なのでしょう。
良い終わり方だったと思います。


そして白い装束に身を包み、遥かな高みへと駆け抜けていくアッコとダイアナ。
お互いにかけている魂の輝きを認めつつ、だからこそ巧く交流できなかった劣等生と優等生は、冒険を経て友情を育み、お互いを支え合う親友となりました。
魔法が使えないアッコをダイアナの箒操縦技術(第3話の華麗なライダーっぷりを思い出そう!)で補い、杖に選ばれなかったダイアナの代わりにアッコが力を振るう。
息の合ったバディ・コンバットには血湧き肉躍る興奮と、二人がようやくここまで来てくれたのだという感慨があって、凄く嬉しいものでした。

色々と良いところのある最終話だったのですが、シャリオに憧れ、世界を救いたいと願いつつ杖には選ばれなかったダイアナが、アッコと手を取ってシャイニーアルクを撃ったのが、いっとう胸に迫りました。
彼女もまた、アッコと同じようにシャリオに夢を見て、その背中を追いかけ、能力剥奪の呪いを受け取った少女。
天運(とお話の都合)はアッコに剣を抜かせましたが、生まれついての貴族たるダイアナは選ばれなかった事実を受け入れ、『私は私』という真理に自力でたどり着き、道は違えませんでした。

しかしだからといって、特別な運命に選ばれ、世界を救い変えていく主人公になりたくないわけがない。
箱の中にレアカードと一緒に子供時代を閉じ込めていた女の子が、最後の最後で親友の手を取り、憧れていた白い衣装で奇跡を起こす勇者となる。
そういうシーンがあったこと、あの時ダイアナの瞳にも、アッコと同じようにシャリオの星が宿っていたことが、彼女に肩入れしていたキモイオッサンとしては、とんでもなく有難かったです。
クロワが最強に拗らせた劣等感を、あのシーンが昇華するという意味合いもあるしね。
選ばれなかったものの無念も引っくるめて、全て背負えるからこそ最後の奇跡、というか。

過去の因縁をより良い方向に消化しているのは、アーシュラ先生の教え子であり、シャリオに魂を焼かれた後継者でもあるアッコも同じことです。
シャリオのショーは夢と可能性を略奪する悪夢でもあったわけですが、今回アッコが思いを束ねて演じたショーは、何も奪わない。
借り物の力を子供たちに返し、笑顔と思い出を産んでフッと消える。
それはかつてシャリオが夢見た、『みんなを笑顔にする魔法』の完成形なのでしょう。

あの時アッコとダイアナ(と、彼女たちになり損なった100万の魔女候補)がそうであったように、アッコが起こした奇跡を胸に、新しい魔女候補生がルーナノヴァの門を叩くのでしょう。
アッコが杖に選ばれて起こした奇跡は、『現実』と『魔法』という大きなものも変えましたが、もっと個人的で感情的な『一人ひとりの笑顔』にアプローチし、衰退の未来を書き換えたのです。
それもまた、シャリオやクロワが杖に願い、果たせなかった……というか、一部では果たしていたがそれを認めきれなかった過去の再演です。

エンターテイナーとしてのアッコのステージングが、第13話から言の葉探しを経て今回、大きく変化しているのも面白い。
魔法祭段階ではシャリオの影響とスケールを越えてはいなかったアッコの『魔法』は、かつて見たシャリオの奇跡を今回大きく飛び越え、全世界規模で人々を楽しませます。
それは月に傷をつけるだけに終わったシャリオの戦いとは違い、『現実』と『魔法』を融和させ、衰退する魔法界に活気を呼び込むこと間違い無しの、力強い奇跡になった。
第23話でアンドリューが投げかけた『君は君だ。シャリオの真似事ではなく、自分の夢を形にするべきだ』という問いかけに、アッコはこれ以上ないほど見事に答えたわけです。
こういう部分でも、まさに集大成という回だなぁホント。

二人はただただ自分の信じる道を突き進み、その後に巨大な思いの世界樹が伸びていきます。
それは感情を物質化し弄んだクロワの方法論、彼女が求めただろう『古い魔女世界の復活』とは全く別の、枝から伸びていく樹です。
形のある巨大な樹を登るのではなく、そこを歩む過程、生まれる感情こそが追い求めるべきユグドラシルなのだということは、第21話で暗示されていた部分でもあります。
サブタイトルになっている『言の葉の樹』とは、具象性を超越した精神の輝きであり、これまで積み上げてきた物語が結集する今回のお話、リトルウィッチアカデミアという物語それ自体なのかもしれません。
ともあれ、世界は巨大な樹木が天に伸びる過去の姿そのままではなく、より抽象的で儚い思いが、緑色の輝きを放って天に伸びていく奇跡として、魔法世界を復活……少なくともその可能性と兆しを見せました。

それもまた、アッコがやろうと思ってたどり着いた結末ではありません。
他のすべての善き行いがそうであったように、アッコは常に自分の心に素直に、やりたいことを貫いた。
想いの果てに結果がついてくるのであって、結果それ自体を求めても奇跡は起き得ない。
『奇跡など起きない』と己の経験を踏まえて呟くクロワに、『アッコは奇跡は信じていない。自分自身を信じているの』と答えたアーシュラ先生の言葉が、そんなまっすぐな道の正しさを、巧く補っていると感じました。


かくして七つの言の葉を巡る物語、アッコの冒険は一つの結末を迎えます。
これまで冒険を支えてくれたクラウ・ソラスが、世界復活というクエストを終えて空に帰るのを、アッコは寂しそうに、しかし誇らしげに見送る。
『必要な時に、最も愛おしいものの手を話すことが出来る勇気』は先週、アーシュラ先生との対話の中で示されましたが、『シャイニーロッド』との別れもまた、過剰な執着ではなく旅立ちへの祝福を宿し、爽やかに終わりました。
数あるアッコの美質の中でも、この離れの良さは一番かも知れんね。

エピローグはシンプルで小さなものでしたが、これまで積み上げてきた物語の分厚さ、新しい可能性に満ちた、幸福なものでした。
アッコの起こした軌跡が、シャリオとクロワの過去を巧く引き受け、魔法界の閉塞感を可能性に書き換える、希望に満ちたものだったのも大きいでしょう。
かつてシャリオに憧れ、天に届いたアッコの勇姿は、新しい魔女を必ず呼び込む。
そういう確信を以てエンドマークを迎えられるのは、とんでもなく気持ちが良いものです。

最後の絵は意図的に『二人』で組を作り、アッコの冒険が作り上げた最も大きな奇跡を輝かせる仕上がりでした。
いつもの劣等生グループだけではなく、すっかり馴染んだダイアナ、そして彼女の友であるハンナとバーバラも輪に加わり、友となる可能性。
青春と友情の物語である以上、世界を救うのも大事だけども、やっぱ『新しい友達が出来た』という喜ばしさで終わるのが、凄く良いですよね。
ナイトフォールオタクの繋がりを匂わせた第4話を受けて、バーバラとロッテが同じ本を見ていること、その表紙にアッコの軌跡を思わせる『世界樹』が書かれているところとか、ホンマ完璧です。

そしてアッコの物語は、小さく空を飛んで終わる。
魔女と聞いてみんなが思い浮かべる、最もパブリックな能力を獲得する第一歩を見せて物語が終わるのは、常にアウトサイダーであること、世界から切り離される孤独に悩んできた女の子のお話として、非常に誠実だと思います。
ダイアナがクラウ・ソラスを振るいたかったように、アッコもまた、魔女のオーソドックスな方法で空を飛んでみたかった。
『みんな』と同じになってみたかった。
そういう下らない、人間臭い、だからこそ切実でありえないほど大切な願いを叶えてちゃんと終わるの、凄く良いなと思います。

そこには『みんな』がいる。
学校が始まってすぐに仲良くなった仲間もいるし、気に入らなかったけど冒険を経て仲良くなった女の子たちもいる。
うっかり置き忘れた魔女の証……三角帽子を持って、学園の外からアンドリューも来てくれた。
自分の過ちで可能性を奪ってしまった過去が、今目の前で克服され救済されている先生もいる。
魔法界の未来を引き寄せ、剣を抜いた勇者としての責務を果たした女の子が手に入れた一番の宝物からカメラが上がって、復活した緑の光が月を照らす。
良いアニメで、良いエンドマークでした。


というわけで、リトルウィッチアカデミアは終わりました。
どういうアニメだったかは、過去大量に書いた感想の中にたっぷりと詰め込んだつもりです。
いいアニメでした。

ど真ん中のジュブナイルをこのタイミングでやりきる意味とか、TRIGGER作品につきまとっていた過去の文脈への目配せと『普通のお話』をやりきることへの照れの克服とか、色んな意味合いのある作品だと思います。
表に出てこない部分で大量に参照、研究された文学と神話、オカルトへの視線は、個人的な琴線をビンッビンに震わせます。
そういう隠微な力を強く認めつつ、やっぱとっても面白くて、元気で、素直で清潔な物語であった事自体が、この作品最大のパワーだったのかなと、僕は思いました。

半年の間、凄くまっすぐな少女達のお話を見せてくれたこと。
それを最大化するべく、閉じるのではなく開く方向に物語を進ませ、色んなお話をやったこと。
現在と響き合う過去、成功の陰となる失敗とカルマを、二人の女に背負わせ濃厚に描いたこと。
選び取った表現に、ありがとうとしか言えない。

本当いいアニメでした。
好きだからこそ、未だ見たかった物語、未だ書かれていないだろ! と言いたくなり妄念が名残ます。
でも、それを一旦胸に押し込めて、まずは感謝と祝福を。
最後までありがとうございました、お疲れ様でした、いいアニメでした。