イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

アイドルタイムプリパラ:第41話『しゅうかとガァララ』感想

愛ゆえに人は傷つかねばならぬ……夢ゆえに人は悲しまねばならぬッ!
主役とは違う所で、夢の一つの形を追い求めてきた華園しゅうかと、夜の宿命に囚われた残酷なる幼子ガァララ。
二人の運命が交錯し、育まれた温もりが必定の破綻へと突き進んでいくエピソードでした。
しゅうガァラの濃厚な感情、その中で変化していくしゅうか、それを見守る周囲の人々、運命のステージと離別。
愛憎様々な感情が渦を巻くエピソードを濃厚にやりつつ、主役サイドの呑気なメガネ探しを巧く息抜きに使い、マスコットたちの献身と歪みまでしっかり捉える、内容ギッシリ感情爆裂のエピソードでした。

というわけで色んなことが起きてるアイドルタイムですが、軸にいるのはしゅうかとガァララ。
ゆめ率いるアイドル開拓団がお話を進めている隙間で、あるいは第30話のようにぶっといメインを貰って描かれてきた、彼女たちの人格と宿命。
それが混じり合い、想いが生まれ、それがどうしようもなくすれ違っていく様子を、非常に濃厚に描いていました。
この分厚い感情描写こそが、やっぱりプリパラを支える柱なのだなぁと再確信できる、アツくて濃いお話でした。

しゅうかはガァララと一緒にアイドル活動をすることで、これまで切り捨ててきた友情の意味を知り、マネー・リアリズムに満ちたこれまでのスタイルから変化していきます。
それは喜びと不安に満ちた歩みであり、知らなかった感情へのときめきが心を弾ませる、新しい体験。
朝比奈丸佳さんの好演、また友情を知る前の描写が良かったこともあって、彼女の変化は非常に鮮明に描けていました。

ゆいから、あるいはミミ子から。
しゅうかはこれまでも『友情』に接近されていたわけですが、そのアプローチは彼女のスタイルを決定的に変えるほどではなく、あくまで『アイドルタイム・イズ・マネー』を信条に、友情を惰弱と切り捨てる考えは崩れなかった。
しかしガァララと過ごす日々は特別で、この人しかいないのだ! とという強い思いがあればこそ、彼女は胸の中に生まれた新しい(けど、実はいつでもそこに在った)感情と向かい合い、新しい自分を受け入れていきます。

この『特別な出会いだけが、古い自分を変えていける』というのはなかなか残酷で、例えばしゅうかの特訓に寄り添ったミミ子や、ずっと夜の宿命を共有してきたパックには、変化を生み出すだけのパワーがなかった、とも取れる。
しかし周囲の人々の静かな助けがあってこそ、自分と世界を変えてしまう特別な瞬間が生まれることは、今週のみあの描写を見ていても判る。
『友情』という新しい価値に戸惑う妹を、時に茶化しつつ見守り、それは悪いことではないのだと諭してあげる彼女がいることで、しゅうかは戸惑いつつ自分の感情、新しい自分へと飛び込むことが出来た。
しゅうか自身が気づけなくても、そういう存在が彼女の周囲にはいて、それがより善い変化への足場になっていることを、アイドルタイムは過去のエピソードでも、今回のお話でも、ミミ子とガァルルが手を差し伸べた次回予告でも、見失っていません。
濃厚な感情を描きつつ、こういう横幅広い社会の描写がしっかりある所は、本当に強い。


新しい自分になるのは怖いものだし、過去の自分が踏みつけにしていたものを拠り所にするのは、論理的な危うさも含んでいます。
マネーに代表される現実的で硬い価値だけが意味を持っていて、言葉だけの夢や友情なんて無意味。
それは色んなプリパラを渡り歩きながら、ストイックにアイドルとして勝ち続けた……その過程で心折れ、夢を手放し、友情を言い訳に使う『弱いアイドル』を見てきただろうしゅうかにとって、一つの世界観だったのだと思います。

しゅうかにとって、自分の中に芽生えた友情を受け止め、愛を言葉と態度に出していくのは、そういう世界を一旦壊し、価値無しと断じていたものに自分を預ける勇気が必要な行為だった。
そういう震えと、それを飲み込んで広がっていく世界の大きさ、暖かさを短い時間でちゃんと描けているエピソードだったと思います。
あれだけゼニにこだわってた彼女が、友情なんて形のないもののために身銭を切ってガァララの初ステージを祝福する描写は、彼女の変化をうまく示していました。

ガァララの存在が夢を貪ることでしか成立しない状況も、これまで見てきた『弱いアイドル』の延長線上として理解していた感じがあります。
それはあくまで自分との戦いで、夢を形にできない弱い自分を厳しく鍛え上げ、理想を現実に変換する努力がなければ、勝者にはなれない。
そのリアリズムは間違っていないし、自分の意志で自分の夢を手放すのであれば、それは自己責任の範疇でしょう。

しかしガァララは条理を離れた超自然の存在であり、彼女の闇マイクがゆめを略奪する行為は、人間の自由意志を大きく超えた強制力です。
それはにのやみちるが、自分の夢を取り戻し、あるいは夢こそが自分だったことを思い出すエピソードの中で、しっかり語られている。
主役たちが向かい合ったガァララの意図せざる邪悪さ、『起きていたい、楽しみたい、アイドルでいたい』という願いのために、強制的に他人の夢を食いつぶしてしまう悍ましさは、彼女の想像の範疇を超えていた。


自分が夢をすり潰す片棒を担がされていた……あまつさえ自分の手でサインをした大事な『顧客(これがただの金づるではないことは、これまでの彼女のビジネスへの熱意を見れば分かります)』を絞め殺していた事実。
『ゴミ箱に投げ捨てられるハッピ』という、コミカルで残酷な絵面で巧く表現されたショックは、しゅうかにはとても大きいものです。
しゅうか様、ファララを軸にする夢っぽいファンタジー設定に、あんま踏み込んでなかったしなぁ。
ここら辺、自分の夢に耽溺しファンタジー耐性のあったゆめとの対比で、結構面白いところですね。

現実をシビアに見据え、他者をまずライバルと顧客に分けるしゅうかにとっても、強制的に夢を吸い上げ、すり潰すガァララの所業は受け入れがたい。
個人主義のリアリズムに染まっているように見えて、彼女が他者への気遣いと敬意をちゃんと持っているキャラクターだということは、例えば第29話でのミミ子への対応を見ても分かります。
ゆめやらぁらの『みんなトモダチ』とは違う形でも、しゅうかは自分なりに他者への敬意を持っていて、それを形にも出来る。
自分の歌が自分を慕ってくれる親衛隊の夢を奪い、せっかく繋がった心を形にとどめたハッピを投げ捨てさせてしまったことにショックを受けるのは、彼女のそういう視野の広さ、公平さへの意識故だと思います。

とは言うものの、リアリストでエゴイストな華園しゅうかにとって、社会的な公平性は行動を決める第一因ではありません。
なによりも、ガァララの行動が自分との友情を裏切っているから。
せっかく出会えた綺麗なものを、無茶苦茶にしてしまうような行いだから。
初めて友達に見せた、柔らかな感受性に胸を弾ませる『弱い』華園しゅうかが、とても深く傷ついたから。
だから彼女は、闇マイクを投げ捨てたわけです。

それは一少女……一人間として当然の反応だし、ガァララの事情を斟酌して堪えられるほど冷静なキャラではないことは、甘やかな友情の中で前半、丁寧に描かれています。
リアリストでありながら夢想家、冷めているようで感情のうねりに鋭敏なしゅうかの描き方は、ここまでずっと徹底されてきたし、それが彼女を魅力的に見せる土台にもなっていました。
勝ち続けるために作った『強さ』の外殻が思いの外脆く、その奥にナイーブな感性を秘めていることは、第37話で『友情』に敗北した後引き釣り続けている描写からも見て取れる。
自分が犠牲にしたものの重さをちゃんと見据える描写と合わせて、これまで描いてきた華園しゅうかに嘘のない描き方だと思いました。


一方、しゅうかを無自覚に陥れる形になったガァララ。
夜に閉じ込められてきた彼女にとって、誰かと夢を共有できることは大きな喜び……なんですが、それを実現するためには現状、他人の夢を略奪してボーボー燃やすしかない。
ここら辺の矛盾を解決するべく、主役たちはメガネ探しコントに勤しみ、システム改変のための鍵を求めているわけです。
ガァララ自身は、自分の夢のために他人の夢を食い物にするエゴイズム、他人の夢を燃やしては自分の夢も成り立たない矛盾に気づいていない所がミソですな。

ガァララは身勝手さも純粋さも、思い込んだら周囲を気にかけず飛び込んでしまえる危ういパワーも、非常に子供っぽいです。
そんな子供に道を示すのは、みあが見せたように周囲の大人、あるいは友人の仕事なんですが、時の精霊の宿命により社会と引き裂かれてしまったガァララは、規範を学ぶ機会がない。
しゅうかが幸運にして見据えることが出来た他者や社会、倫理という外部の尺度が、孤独なガァララには生まれつき無い(与えられていない)。
人間が当たり前に甘受している、常識的な価値基準の共有は、超自然存在であるガァララの世界には存在し得ない価値なのです。

知らないということが罪なのか、教えないということが罪なのか。
なかなか難しい問題ですが、ガァララが自分の中の身勝手な楽しさ(これ自体は、虹色夢目のゆめを筆頭にこの作品の全キャラクターが持っている大事な物です)だけに向かい合い、結果様々なものを踏みつけにしているのは事実です。
彼女が昼の側に立ち続け、夢をかなえるために足場にしているものは、名もなきモブたちの夢(それは必ずしも『アイドルになる』という形を取らないが、尊重するべき大事な夢である)であり、自分が『大好き!』と抱きしめたしゅうかの愛情でもあります。
自分が振り回す夢の武器が、どれだけ凶暴に他者を傷つけうるか。
そこへの反省が一切育っていないガァララの無邪気さは、無垢であるがゆえに強力で、凶暴でもあります。

今回しゅうかが、自分と向き合いあるいは姉の助けを借りて歩いたような、新しい価値観との対話と変化。
ガァララも幼さから少し抜け出して、大事な『トモダチ』と同じ歩みに進むべき時が来ているのですが、昼と共存できない夜の宿命、人間の道理を誰も教えられなかった過去が、かなり重たく横たわっています。
しゅうかと喜びを共有した日々が、彼女の中で楽しさであるなら、それを奪ってしまう自分の行為は良くないことなのだと学び取れる気もするけど……まだそういう賢さとは遠い存在だということは、拙い言葉で精一杯自分の気持ちを伝えようとする最後の言い合いから見れるか。
あの幼くて悲壮な感じは、流石黒沢ともよという感じだった。


他者の存在を教えられなかった孤独なガァララは、はたして自分以外が存在する世界に目を向けられるのか。
かなり難しい問題なんですが、今回ガァララが『アイドルタイム』を貯めえたのは、一つの希望だとも思います。
最近じゃあすっかり名目化してますが、『アイドルタイム』は自分以外の誰かの喜びを満たした時達成される、倫理的な規範です。
少なくとも、しゅうかと心通わせるガァララの行いは、『アイドルタイム』を蓄積しうる善なのだと、システムは判別したわけです。

夢川ゆいは自分の身勝手な妄想を『アイドルタイム』に変えることで、パパラ宿にアイドルを復活させ、『アイドルは男の子のもの!』という固定観念を打破し、多くの女の子の夢が叶うステージを実体化してきました。
『アイドルタイム』は虹色の個人的な妄想が、共有可能な夢に変わりうる変換装置として機能してきたし、今回ガァララがそこにアプローチできたということは、『まだ道は残っているよ』という作品からのサインかな、とも思うわけです。
ガァララの『起きていたい、楽しみたい、アイドルでいたい』という願い自体は、あらゆる存在が持ってしかるべき尊い思いだしねぇ。

そしてゆいは、別に善を為そうと思って『アイドルタイム』を使ってきたわけではない。
ただただアイドルが好きで、その思いを真っ直ぐに走らせつつ、持ち前の(そしてショウゴを筆頭とする周囲の手助けによって形成されてきた)善意によって、結果として他者と接合できた様子を、僕らは見てきました。
身勝手なエゴイズムは世界を変えるほどのパワーを持っているし、もしかしたらそれだけが何かを動かしうる。

そしてそれは、適切に導かれれば誰かの幸福になり、夢を守り、叶える奇跡を生み出せる。
ゆいのアイドル開拓史はそういう、エゴイズムと公平性のバランスを見据えながらずっと進んできたわけで、幼い自己中心主義に支配されているガァララもまた、そういう物語の中にいる。
ならば、彼女が今回たどり着いた『アイドルタイム』はやっぱり、個人の思いが持つ凶暴さ、狭量さを和らげ、他者の幸福と繋げる変換装置……少なくともその可能性として、機能しているのではないか。
ガァララの辛い宿命に何処か救いがあって欲しいなと思う視聴者としては、そう思いたいわけです。


ガァララが他者を引き付け、繋がる資格のある存在だということは、新曲"すた〜らいとカーニバル☆"からも強く感じ取れます。
最初『ファララのそっくりさん』と見られていた彼女は、自分だけにしか歌えない歌、『夜』という個性を魅力的に発揮したステージにより、世界に唯一他でもないガァララ・ス・リープとして、観客に刻み込んでいました。
その悪行を知ってる立場なのに、ゆいが虹色アイでトリップしてるのはちょっと面白かった……お前ホントに可愛いもの大好きな。

月光の反射のように、暗闇をしたから照らすライティングが印象的な、"すた〜らいとカーニバル☆"。
振り付けや曲調、歌詞がファララの"サンシャイン・ベル"と対になってる部分が散見され、今後の展開を色々読ませる曲でした。
そういう予感だけでなく、『夜』というガァララの個性がけして悪いものでなく、非常に独特の魅力を持っていることを、見事に示してもいました。
ドラマの運び方や台詞だけでなく、こういうステージでキャラの魅力を見せれるのは、アイドルものの強い所だ。
言葉に頼らない総合芸術な分、肌で強制的に『理解らされる』強さがある、というか。

そしてステージが印象的であればあるほど、それを支えるファンの夢を食いつぶして自分を存在させているガァララの邪悪さ、無情さが強調されます。
彼女が心から喜んでいる夢のステージは、彼女が悪意なく食い殺している誰かの声援によってしか成り立たないのに、その痛みを理解できないまま暴走する幼い暴君。
ここら辺、自分の親衛隊が的にかけられた瞬間、自分の行為の意味を悟れるしゅうかと面白い対比です。
他のアイドルのように、ガァララのステージも夢を食いつぶすのではなく、夢を育む方向に歩ければ良いんだけどなぁ……。


そこら辺ひっくり返すために、主役たちはメガネ探しをしとるわけですが!
愛の喜びにしろ離別の痛みにしろ、しゅうガァラの間に流れる感情がとにかく巨大かつ濃厚なので、アホバカ小学生がのんきに宝探ししている絵面は、良い空気穴になってくれました。
ミーチルの濃口キャラは、ホントコメディシーンだといい仕事するなぁ……ネタに火力がある。

ゆいはあくまでファララに寄り添う側なので、ガァララの問題もファララのフィルターを通して自分に引き寄せている描写があったのは、なかなか面白かったです。
誰かが誰かの特別になる、あるいはなれない。
それは素敵なことだけど残酷でもあって、世界全てを塗り替えてしまうほど特別な『この人』には、どうやってもなれない時がある。
そういう出会いの不思議さ、残忍さを、アイドルタイムはポップな形だけどちゃんと見据えているなぁと感じます。
ガァララ←→しゅうか→ファララ←→ゆいという感情の導線から弾き出されつつ、しゅうかに献身的に→出してるミミ子の高潔とかマジ……マジな。

唯一の存在だったはずなのに、気づけば離れていく違和感、嫉妬。
しゅうかにガァララを取られる形になったパックの、細かい反応からはそういう感情が透けて見えます。
夜の宿命に支配された主のために、献身的に少女の夢を噛み砕いてきたパックにしてみれば、そら面白くもないよな……。
ここで女の子の巨大感情だけではなく、それに置いてけぼりにされる不思議生物の感情もしっかり描いてきたのは、無印一期におけるユニコン、あるいは体を張ってにのに道を示したチュッペを思い出して、マスコット好きな視聴者としては嬉しい。

アイドルタイムのマスコットは全体的に可愛くて、ちっぽけなりに自分の出来ることを必死にやってて、凄く巧いバランスで存在感を出してると思います。
しゅうかが見落としている犠牲を、必死に伝えようとするポワンの描写も、彼女の無力さと必死さ、健気さが感じ取れて、とても良かったです。
アイドル食わない程度に抑えつつ、でも消えないように主張させる。
サブキャラクターの使い方が巧いのは、プリパラ強いところだよなぁ……。


というわけで、少女と少女の心が触れ合い、高鳴り、そして破滅的に別れていくエピソードでした。
愛すればこそ変わっていく自分に震え、それを受け止め、裏切られたと涙する。
しゅうかとガァララを繋げる思い、それを切り離してしまう視界の違いが丁寧に描写され、非常に劇的でした。
んーむ、圧倒的にエモい、強い、素晴らしい。

かくして結ばれた縁は無垢なる裏切りにより解けてしまったわけですが、これまで二人を見守っていた他者がすぐさま手を差し伸べ、関係修復に動く所が素晴らしい。
ハードな展開のストレスを細かくケアしているし、キャラクターの献身を無碍にもしないし、最の高。
選ばれたメインキャラクターの濃厚な運命と感情をしっかり描きつつ、それを支えてきたサブキャラクターが表舞台に上がってくる流れ、やっぱ高まるなぁ……素晴らしい。

自分が心を閉ざした過去を持つから、しゅうかの気持ちを理解できるミミ子。
システムに押し付けられた宿命を、愛と努力で乗り越えた経験を持つガァララ。
ちゃらんぽらんなようで、愛を以て妹を見守ってきたみあ。
彼女たちの献身と優しさは、ここまで細かく丁寧に描写されてきました。
愛憎のどん詰まりに追い込まれてしまった少女たちの狭い世界を、どっかーんとぶち壊してくれるだろう来週が、非常に楽しみです。