イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

映画けいおん! 上映当時の感想

つーわけで、けいおん!!の映画でございます。
時間軸的には卒業直前、入試も終わってだらーぐでーっとしてたらロンドンに旅行にいくことになった、というお話。
ロンドン編は準備含めて一時間ぐらいで終わって、後は延々中野にラブソング(二期24話で流れた「天使にふれたよ」)を書く過程が描写されるわけです。
つまり、一時間のTVスペシャルを二本つなげた感じ、といえるでしょうか。

トータルで見ると、角を取ることに徹底的に気を使った印象を受けました。
いつものけいおん、TVで見て馴染んでるけいおんの発展型に作画の方向性や演出を落としこみ、違和感を極力なくす努力をしていると感じます。
後述しますが、今回の映画はTV放送最後の瑕疵を埋めるものなので、切断面を意識させないことはとても大事だったんじゃないでしょうか。

無論作画方面の異常な努力は山盛りあって、目につくのはロンドンの背景ですが、個人的には横向きの目を極力球で描いてたのが気になりました。
あと、兎にも角にもみんな可愛い。私服とか超可愛い。
ロンドンで買ってもらった真っ白なラバーソール、中野超似合ってた。

みんな可愛いんですが、お話の主役であることもあってか、中野CATちゃんは可愛い罪で即座に全国指名手配レベルで可愛かった。
むちむちしてるし、仕草は小動物見てーだし、やべーわ。
あと京アニの足フェチ率の高さと、総作監堀口渾身の赤ちゃん作画に要注目って感じ。


会話の芝居が細かくて、発言の終わりを確認する→聞く構えを解く→自分のアクションを起こすという動きが目立つ会話ではだいたい入ってた印象。
唯が突拍子もなく喋ることが多く、中野が上の過程を何回もやってるのを見て「全然気が休まらないだろうな」とか思った。
エレベーター内での動きや、ホテルの部屋でのリラックスの仕方なんかも気合入った日常加減で、「本気でゆる系やるってのも大変なんだぜ」という制作サイドの殺気見たいのを感じる。

コメディとしても、萌えに逃げない粘り腰の笑いを取ってきてて、会場内でも細かい笑いが浮かんでました。
転んだり揺れたりする、不安定な体から笑いにつなげるのが多かったかな。
とりあえず「ヨーロッパ」が卑怯。ガチ卑怯。

音楽映画としての本番はロンドン編で、唯の天才性の描写が上手くて感心した。
ギターを握ってる状態での集中力、場の盛り上がりへのセンス、舞台度胸。
集団としてのHTTは律が扇の要なんですが、バンドとしては圧倒的に平沢唯が真ん中にある、と感じさせる。
舞台が舞台だけに、ビートルズパロディが多かったかな。法被とか。
つうか、ライブ作画四本はガチ狂気だと思う。

 

 

日本にいる間は基本的に、中野に何がしてやれるのか、ということを四人がずっと考える展開。
つまりこの映画は、二時間に渡る中野梓への詫び状なのだと、僕は思った。
さっき行ったTV版けいおん!!の傷ってのはまぁこれで、中野がけいおん部を愛したようにけいおん部は中野を愛しているのか、という疑問へのアンサーとして、僕はこの映画を受け取ったわけです。
結論から言えば、けいおん部は中野梓を愛していた、といえます。


高校時代の一年の差、というのものががっちり横たわっているのがけいおん終盤の展開でして、4-1の構図が冬になると目立ち始めます。
HTTは5人なんだけど、どうやっても4-1に割れるしかない構造は、画面の中に山盛り出てきて今回の映画でも数えきれないくれー中野のワントップ体勢が強調されます。
この構図の多用はまあ、5が4-1に別れてしまう残酷に、スタッフは嘘を付くつもりがなかった、ということだと思います。

けいおんが多重人格的なアニメだ、という話を僕は何回か身内にしていて、それはつまり、想定外に売れに売れて二期が決定し、自由裁量と販売責任が同時に発生したあたりからの話です。
スタッフはこの話をどうしようもないほど青春の話だと考えていて、つまりは有限で儚くて、いつでも蒸発してしまうような現象の物語として認識していたんじゃないか、ということです。
同時に萌えはスタティックで永遠に変わらない楽園を要求するので、ベストな萌えキャラは死人です。
そして、死人は青春を楽しまない。(もしくは、死人に楽しめる青春は、その瑞々しさを損なってしまっている)

この作品の登場人物たちはみんな、この素敵な時間が終わって欲しくないと作中で口にします。
地球が逆さに回って過去に遡れればという唯の発言は、彼女の無邪気さと天才性の表現であると同時に、身を切られるような寂しさでもあるとぼくは思うわけです。
唯は中野が可愛い。異常なほど可愛い可愛いでしょうがない。
そら当たり前で、あんな綺麗で自分を尊敬してくれて健気で責任感がある少女を可愛く思わないわけがない。
天使ってのもあながちメルヘンな表現じゃないと思います。
そんな梓と別れるのは、まぁ辛い。

しかし同時に同じタイミングで彼女は、メールが未来にも届くかもしれないつう発想に至るわけです。
この指摘で言いたいことちゅうか作中で言ってることはそれこそ、今回のテーマソングである「天使にふれたよ」の歌詞で全部言ってるのでいいでしょう。
そこらへん、健全な時間意識だなと思います。
(それでもなおかつ、その健全な意識を中野に強要することはけ、して許されない、という問題はあり、かつ中野が持つHTTへの尊敬と愛情がそれを受容させている、つうか受容させるに至った理由を今回の映画でさらに説明するわけですが)
別れることが否定でないなら、何かを残してやりたいと思うのは人情で、それが歌だ、というのは音楽映画としても青春映画としても好みの展開です。


なにゆえ四人は中野の後輩をつくろうとしなかったか、に関してはまぁ色々あって、スタッフの原作を踏み越えることを嫌ったつう言い回しで擁護させてもらう感じですけども、しかしながらそこら辺の事情に中野を放り込んで孤独に苛ませたのは事実なわけです。
その事への切々とした罪悪感と、取り返しの付かないミスの取り返しという側面は、正直この映画に伸びた影です。
つうかけいおんのアニメにはいろんな乖離を感じ取ってしまって、そこらへんを多重人格的だと表現しとるわけですが。

まぁ正直な表現をするなら「いまさらそんなことしても、お前ら(そして僕は)中野に顔向けできんぞ」という感情が、僕にはあったわけです。
しこうして今回、四人とスタッフと僕らが感じている罪悪感に発して、すさまじいクオリティと愛情と注意を払って作られた詫び状。
それがこの映画だと思います。


結果、学園祭でもなかず、卒業旅行でも「私がしっかりしなきゃ」だった中野は、最後の最後で「離れ離れになりたくない」と言うわけです。(そこを映画では省略したのは凄く良かった)
中野がその境涯に至った原因たる、四人の至誠の証みたいのが、今回の卒業旅行とラブソングであり、それがこの形、この映像、このお話で出来上がってくるのであれば、僕のもやもやしてた気持ちも、ようやく出口を見つけられたのかな、と感じました。
憑物落とし、ありがたい事です。


つうか中野は唯好きすぎ。
「そういうんじゃないです」と言い訳するにはあまりにも危険領域だった気もするが、尊敬とも友愛とも恋慕ともどうにも名前が付かない、唯と中野の距離感の曖昧さと結びつきの強さは、よく表現された映画だったと思います。
一度でいいから中野をベロンベロンに酔わせて、たまってるものを全部吐き出させたい。

延々中野について語った気もしますが、実質中野梓の映画であり、それは秋口あたりからのTV版もそうだったので、まぁ形式準拠ではないかと思います。
唯がクローズアップされるのも、中野にとっての想い人が彼女であるから、という側面が強いと感じるし。
とまれ、いい映画でした。
そして中野はやっぱりいい。素晴らしい女の子だ。