イマワノキワ

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『神道・儒教・仏教(森和也、ちくま新書)』感想ツイートまとめ

森和也『神道儒教・仏教(ちくま新書)』読了。
サブタイトルは『江戸思想史の中の三教』であり、江戸時代の各宗教、そこで育まれた多彩な智がいかに呼応し、あるいは対立し、当時の、そして現代の世界認識や倫理、行動を引き出していったかを考える野心作。

とにもかくにも力作である。
幕府の成立からその終わりまで約350年、海外からの経済的・軍事的・思想的影響から遮断された(と思われがちだが、この本は蘭学キリスト教の影響も細密かつ大胆に掘り下げる)日本。
そこにおいて『智』を積み上げてきた三学の担い手達が、一体どのように生きたか。

時間的にもジャンル的に、思い切って高いところに飛び上がり相互の影響、各宗門内部での刷新と変化を追うこの本には、個別の議論を細密に追う研究とはまた別の、熱量とダイナミズムがある。
莫大な知を溜め込んで、静止しつつうねる『江戸時代』に、知の巨人たちは何を思ったか。何を見据えていたのか

三学の相互的影響(それは廃仏論のようなネガティブなものも、相互融和的なものもすべて含む)を主題に据えることで、静止した物質としてではなく、呼吸し時に喧嘩すらする生物としての思想史が、血の滲みを残して浮かび上がってくる。
その体温こそが、この書物最大の特徴だろう。

生きている限り、生きていればこそ、他人の研究を精査し、論難し、あるいは受容して変貌する。
ともすれば『』付きの『江戸時代』という固定イメージに閉じ込めてしまいがちな350年が、様々な躍動と継承に満ちた活発なる時代だったのだと感じられる筆の勢いは、非常に小気味良い。

縦横無尽、融通無碍に飛び跳ねる筆は教理だけでなく、聖俗や理論と実際といった領域にも、積極的に及ぶ。
『葬式仏教』と蔑される江戸期の仏教が、宗門制度として政治行政に組み込まれている様子。
そこに挑戦する国学神道
あるいは統治の理論としての儒学

人の思考や行動を規定し、勢力争いを繰り返す政治勢力としての宗門思想。
宗教的ヴィジョンが世界観の根幹にあり、倫理や行動規範に強く食い込んでいた時代特有の生臭さ、決死さが伝わることで、その熱量が実は現代にも及んでいる事実に気付かされる。

微生物の複雑な生体を、顕微鏡で覗き込むような昂奮は、当然博覧強記によって支えられている。
10年代最新の研究を積極的に取り入れ、複雑怪奇な相互作用を明瞭に捉える筆者の知力あってこそ、この活況を説得力を込めて描き出すことが、可能になっている。

その分『ついていけぬのなら置いていく』とばかりに、莫大な量の人物、その思想や業績、影響があまり説明なくぶっ込まれるのは、読書負荷がちと高いところである。
しかし書かれているものがとにかく面白いので、『こなくそ、ついていくぞ』という気にはされる。

大所からダイナミックに総体を見る本だけに、精密微細な調査に抜けがあるのは、筆者も序章で述べているとおりである。
それを補う巻末のブックガイドが、適切にして誠実なのもとても良い。読後の発展にまでレールを引いてくれる親切さが、みっしりと分厚い。

『知の怪物』と言うべきトップエリートが、丁々発止の大闘争を繰り広げる様が目立つ作品だが、『俗』の部分の記述もしっかり目配させされている。
当時の滑稽本や小説を見ることで、三学の倫理が庶民にどの程度行き渡っていたか(あるいはいなかったか)を確認したり、その温度差を確かめたり。

地べたに足のついたところまでしっかり掘り下げることで、三学の隣接、聖俗の相対とはまた別の、実感のある奥行きのようなものが論に生まれている。
偉そうなことをいう人の言葉が、一体どこまで、どのような形で染み渡ったのか。
筆休めのようなパートが、独特の質感を生む。

終盤は近世から近代へ、また近代から現代へ移り変わる時代の中で、『江戸思想史の中の三教』がいかなる基盤となったかも考察されている。
歴史も思想も血のない物体でなく、うねり流れる一つの生物であり、かつ個別の人格や行動、言説や影響を持っている。

その複雑怪奇な相互作用、それが生み出したものが後世に引き継がれ、変質し、あるいは忘却される様を、434ページどっしり戦いきった書物である。
『江戸時代』『思想史』と的を絞ることで、逆にスウィングする史的生物としての人間を確かに感じられる快著であった。
とても面白かった。