イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

映画『機動戦士ガンダムNT』感想

映画『機動戦士ガンダムNT』を見てきました。
90分の時間の中に激しいMSアクション、むせ返るような感情と哀切、神話が終わった後の時代を生きるしかない子供たちのあがきがみっしりと詰まっていて、とても楽しかったです。
時間が短いことが逆に間延びを防ぎ、独特のテンポを産んでいたのが、見やすい理由かなと思いました。
濃厚な物語体験、”ガンダム”をアタマから浴びる快楽を堪能できる作品であり、オススメです。

……と書きつつ、僕はこの作品を見るのに二の足を踏んできました。
Web越しに強めの推しを貰わなかったら、多分見なかったと思います。
それは作品の出来不出来とか個人的好悪ではなく、なんとなくの”ガンダム”へのイメージ、こっちが勝手に積んでいる敷居の高さに由来します。
TV版の放送以来そろそろ40年、アニメーションを飛び越しポップメディアの金字塔となったガンダムは、お商売の都合とか、その物語的残影の長さとか、色んなものが噛み合って非常に複雑に見えます。
僕にとって"ガンダム"というのは自分が内側に入って、インサイダーとして物語を引き受ける対象というより、アウトサイダーとして恐る恐る見つめ、敬して遠ざける対象に、気づけば(というか、F91が"初めてのガンダム"だった世代としてはその端緒から)なっていました。

満を持しての27年ぶり、UC舞台の劇場完全新作。
"UC NexT 0100 第一作"なる巨大な金看板を引っさげた物語は、ある種の"ガンダム信心"のない自分にはどこか遠く、恐ろしく感じられました。
この映画が、果たしてガンダムの人生を向けていない自分のアニメとなってくれるのか。
歴史的前提知識、ジャンル的お約束を内輪の信仰のイコンとして要求され、疎外感を味わうことにはならないか。
そういう畏れが、僕の足を止めたわけです。

しかしこのアニメは、むしろそういう"信心"のない門外漢にこそ開かれた、そう思われてしまう"ガンダム"をよく見据え、物語と噛み合わせた映画でした。
後にネタバレバリバリで色々いいますけども、ガンダムを好きな人も、好きだからこそ嫌いな人も、好きだと思うけど信じきれない人も、この作品の中には登場します。
巨大な……IIネオ・ジオングめいた巨魁な偉容故に、もうその総体が定義できない("ガンダム"を始動させた富野由悠季安彦良和の"ガンダム"ですら、一つのバリエーションとして相対化されてしまうほどに)巨大なガンダム
それに信心を抱くfanaticなファンだけでなく、その魅力に引き寄せられ、恐れて引力の外側にいる僕の視点をも、しっかり自覚的な映画だと感じました。

そしてその冷静な視座はただの分析では終わらず、奇跡の子供たちの哀しくも力強い生き様、偽物の偽物の偽物のコピーとして傷ついたもうひとりの子供との激戦を、しっかり見据えます。
"戦争"が終わった後も平和が訪れない、シャアの反乱以降のUC。
そこで発生してしまうこじんまりとした"衝突"の惨めさ、歴史からの冷たい切断を生きるしかない子供たちの無念を、この映画はとてもしっかり伝えてきました。
色の濃い関係性があり、重たい感情の実感がある。
MSアクションだけでなく、人間ドラマが面白い。
そういう映画となっておりました。

"ガンダム"が良くわからない人こそ、今見るべき映画なのかな、と思います。
他でもない僕自身が、そういう立場で映画館に入っていて、相変わらず"ガンダム"が分からないまま、少し"ガンダム"が好きに、面白いと思えるようになって出てきました。
何しろ、主人公のヨナからしてそういう混迷に身を置いて物語が始まり、終わるのですから、多分この感覚はそこまで間違いではないような気がします。
オススメです。

 

 

 

つうわけで、ネタバレアリアリで感想を書いていきます。
というわけで、逆シャアで終わったはずの"ガンダム"の続きを書いた外伝小説をアニメ化し、そこで盛り込まれたラスボスMSが『なぜ小説版では登場しなかったのか』を解説するための外伝の外伝小説を、原作者本人が脚色して劇場アニメ化という、今のガンダムビジネスを象徴するようなややこしさの映画を見てきました。
後付の後の後付、屋上屋に天井裏を架すような創作の九龍城からでなければ、絶対に生まれなかっただろう非嫡出子。
そんな複雑さ、オリジナルからのどうしようもない遠さを、しっかり見据えてそこから始めようという気概に満ちた、野心作であり立派なエンターテインメント作品でした。

本物がどこにもない、という意識。
この作品が、けして真っ当に"ガンダム的"なる幻想を背負いきれないという自負。
それは様々な場所で顔を見せ、MSのデザインから作品の形態まで、全てが外付けの装置によって補強されたまがい物であることを強調してきます。

TVシリーズのなりそこないとしての、90分の劇場版。
『案外痩せっぽち』と作中で揶揄される、外付け強化型MSであるナラティブ。
モコモコのサイコ・スーツで補助され、紐付きのインコムを使うことでしか戦えない"痩せっぽち"のヨナ。
生存のためにNTという虚構を背負い、道術という外付けのオカルトでエスパーを装ってきたミシェル。
赤い彗星のなりそこないのミスコピー』として、ジオン傍流であり政治力学の関数としてしか存在を許されない袖付きですら、邪険に扱われるゾルタン。
いかにもラスボスっぽく登場しつつ、尻軽に主人公機と接合し、その意味を書き換えられてしまう白いネオジオング

様々なものが、自分では獲得できなかった"本物"の名残を不格好に身にまとい、なんとか"ガンダム"を演じようとする。
そもそもNTというタイトルからして、堂々と『ガンダムニュータイプ』と名乗って良さそうなものを、サイコマシンですらないインコム搭載機は『ナラティブ』と、神話の残滓を背負って、どこか卑屈にしている。
全てにおいて借り物で、ちっぽけで、納得なんてかけらもしていないのに、色んな圧力に押し流されて状況が進んでいってしまう、どこかの誰かの"ガンダム"。

そのスケール感はこの作品を取り巻くリアルと共鳴しつつ、視聴者と作者の中にある疎外感を、痛みを込めて作品に塗り込めていきます。
『鳥になりたい』とうそぶいた"本物のニュータイプ"は、おぞましくも下らない現世主義の官吏に切り刻まれ、もはやこの世界には最初からいない。
自由に空を飛ぶ"本物のガンダム"にはしかし、もうパイロットはおらず、魂の残響を記憶したミネラルが操るがらんどうの鎧でしかない。
一度手放してしまった"本物"として、ヨナやミシェル、ゾルタンが追い求めるフェネクス(であり、ミラであり、地球でもあるのでしょう)もまた、状況を左右する決定権を持たない物語。

奇跡の子供を"奇跡"にした一年戦争も、ミラを殺したティターンズの権力も、作品世界の"現在"では遠い過去であり、一戦士のあがきが大局を揺るがすような時代は、遠くに去っています。
これが共産主義革命とスピリチュアリズムへの幻想華やかなりし79年から、そういう夢とその後に来た数多の夢を消費し尽くし、それでも"ガンダム"を見に来る18年との距離感に投影されているかは、なんとも言えないところです。
そういう現実への視座が盛り込まれているにせよ、いないにせよ。
ヨナとミシェルとゾルタン、生き残ってしまった惨めな子供たちを取り巻く無力感は、(作品としての尺、紛争としてのスケール両面で)ひどくちっぽけな物語の中で、嘘がなく生々しい。

"ガンダム"の端緒たるアムロの物語からして、戦争という巨大な装置に巻き込まれつつ、その才によって装置を動かす決定的な歯車となりうる少年の物語でした。
可能性を背負っていた主人公はしかし、立派な大人にも、組織と人類を変革しうる偉人にもなりえないまま、アクシズに消えていった。
そんな彼が戦いの終わりにたどり着いた『帰るところがある』という幸福すら、不死鳥を捕まえられず、不死鳥と同じ場所に連れて行ってもらうことも出来なかったヨナにはない。
それでも。
無力感と空疎さの上に、『とりあえず生きてしまっている』現実の言い訳しようのない事実をコーティングしたような『それでも』をつぶやくことしか、ヨナにもバナージにも道はありません。


しかしバナージが背負っていた『僕らが為れなかった、いいガンダム主人公』『120点満点の青臭さで、正解を言い続ける人身御供』感は、ヨナからは薄いと感じました。
僕がバナージを、この作品の全景であるUCをどう思っているかは上のタグからたどって欲しいところですが、福井先生の拗れた意識といろいろヒネた製作事情が噛み合った結果、バナージはどうも"呪いとしてのガンダム"を解除する無垢なる少年的なイメージを、望まず背負わされ果たした感じがある。
彼自身の物語というよりも、巨大な"ガンダム"の神話に取り込まれ、歯車になりきることも出来ないややこしいファン(もはやガンダム製作者がガンダムファンでない状況を想起できない以上、製作者も含む)の救済を、流し雛的に自動的に背負って、それを自分の物語だと納得してしまった/させられたような違和感を、僕はバナージ・リンクスの物語を楽しみつつ感じていました。

ヨナは『それでも』とは言わない。
自分では抵抗できない巨大なモノ(軍組織、コロニー落とし、本物のニュータイプ、暴力)に押し流され、しかしそれと同化することも出来ないまま、傷ついた心を抱えて自分を探し続ける。
あの砂浜で手放してしまったリタの手、絶対に手放してはいけなかった自分の片割れを奪われ、どこにも行けなくなっている。
その中途半端な、誰かに自分を預けるしかないのに、そこに自分はいないアンバランスな状況に、彼はむっつりした顔でちゃんと自覚的です。

とてもシンプルな感情を、素直に叫ぶことが出来ない不自由さが、『それでも』と堂々吠えられない苦しさが、ヨナを(そしてミシェルを、ゾルタンを、死人故にもう声を持たないリタを)貫いています。
大好きだった女の子がアウシュビッツの犠牲者のように金髪を狩られ、自分の身代わりに虐殺され、死んでなおフェネクスという兵器にとらわれている現状に、我慢がならない。
時間を巻き戻してでも、僕たちを不幸にした戦争の道具の一部になっても、もう一度あの浜辺にたどり着いて、会いたい。
そういう抑圧され、出口を見つけられないがゆえに強い感情は、ヨナ……だけでなく子供たち全てに共通です。


実験により片目を失ったゾルタンは、体中にメスを入れられ、当たり前のように『足、切りましょうか? 実験に支障はないですよ』と言い捨てられる"奇跡の子供たち"と、同じ立場にいます。
奇跡の偽物であり、崇め奉られつつも実際は蔑ろにされている姿も、シャアのミスコピーのミスコピーでしかない、お飾り大尉の立場と呼応している。
確かに、ゾルタンとヨナ、ネオ・ジオングフェネクスは兄弟のように似ているわけです。
奇跡のように綺麗な人格を保ち、誰を恨むでもなく希望を持ち続けたリタのような天使性も、コピーであるシャアのようなカリスマ性も持たないゾルタンは、典型的なぶっ壊れ強化人間として登場しつつ、その悲哀をだんだん強めていく。

(この、『まーたヒャッハーいうだけの、キチガイ人造エスパーかよ……何度目よこういうの……』といううんざり感を逆手に取って、その悪辣さ、凶暴さを否定しないまま肩入れしてしまう人間味を持たせられたのは、非常に強いキャラ造形でした。
あの涙見ると、『ヒドイこと言ってごめんな、ゾルタン……』てなるわけよ。
そしてその反応は製作者の狙い通りなわけよ。
巧いわけよ悪魔的に)

主人公/ライバル的な叫び声の代わりに、ヘリウム3を核融合させて禍々しい神となるしかなかったゾルタンにとって、あの男根めいた燃料ロケットは自分なりの抗議であり、流れ着いてしまった暴力的自己実現なわけです。
たとえ何人死のうが、俺の痛みを世界に知らしめてやる。
叫んでやる。
コロニー落として運命狂った"奇跡の子供"の同類が、同じくコロニー落としを繰り返す輪廻は悲しすぎて肯定できないし、第三の太陽を生み出す強すぎる力は、死せる守護天使たるリタが言うように確かに封じないといけません。
しかし彼が傷ついた自分を、傷つけた世界に叫びたいという願いはこの作品の(そして作品の外側全ての)子供たちの願いであり、彼に対峙するヨナとフェネクスと、全く同じなものです。

そういう鏡合わせの子供たちが、クソみたいな戦争と社会の犠牲になって、地球の外で殺し合う。
実験動物にされた挙げ句死んだリタと、赤い彗星の再来を願う妄執に弄ばれたゾルタンの、何が違うというのか。
父母を失い、戦争の道具にされ、それでも(時に死してすら)人間として生きたいと願う思いを、誰もすくい上げてやれないのか。
そういう哀切と虚無感が随所に滲んでいることが、"ガンダム"世界が掘り下げてしまった現実の似姿、物語的にスッキリ終わりきれない構造を、面白く照らしていたとも思います。
『それでも』と言い続けることしか許されない、"人間"や"国家"や"社会"という巨大なシステムを改変する見込みが既に確定した年表によって否定されてしまっているUCの無情さを、NTはひっくり返せないし、最初からそういうお話ではないわけです。


この無力感はミシェルも同じで、怜悧な現実主義者の仮面をかぶりつつ、現世での救済を諦めニュータイプ的なものに幻想を載せ、失った友情と愛情を取り戻す一縷の望みを抱きしめるしかない、非常に弱々しいキャラです。
アゴ隊長が適切に突っ込むように、死の概念をニュータイプが書き換えるとしても、生を蔑ろにしていいわけじゃない。
人間のちっぽけな意識はあまりに根が深くて、宇宙に上がって百年程度で変わるわけじゃない。
改革を望む気持ちすら、全てを許し肯定するニュータイプ的な解脱から、最も遠い感情ですらある。
そういう愛憎のカルマを、ラオ商会の企業の論理に乗っけて、銭金の長い手で人を殴り飛ばすことでしか表現/実現出来ない。
カンビュセスの籤であたりを引いて、"勝ち組"になったように見える彼女もまた、自分を吠えることができない不自由な子供です。

その特権的な地位を維持するために、ミシェルがタオに接近していくのは非常に面白かった。
彼女が言うとおり道術とは莫大な学問であり、才覚とセンスでしっかり身につけるものです。
そういう意味では、天性のセンスが全てと言えるニュータイプから最も離れたもので、彼女はニュータイプを演じる仮面を作っていたわけです。

太極は両儀に、両儀四象に、四象八卦に、八卦は六十四卦に。
バラバラに分散していくその世界認識は、実は逆向きに一つの場所へと集約していく運動も内包していてる。
あまりにお互いの心が別れきってお互い絶滅させるしか無くなった人類が、ニュータイプに統合の人格を託し、カルマも生き死にの宿命も全て乗り越えれると夢を見る。
ニューエイジ的超常幻想が破綻し、"ニュータイプ"を支えていたオカルティックな夢が(誠実にも)破局しきった後の世界でもなお、ミシェルはサイコフレームに夢を載せた。
命を命とも思わない、いかにも"ガンダム"的な独善にしか、己の個人的な未練を託せなかった。
その哀しさも、戦場は飲み込んで散らしていってしまいます。


そんなミシェルが追い求める不死鳥、フェネクス=リタ。
彼女は"本物のNT"であり、未来の破滅を読んで人々を助け、あまりにひどい死を迎えてなお人類に絶望しない、天使のような存在です。
しかしカルマから超越してしまった彼女は、カルマまみれのⅡネオジオングを止められない。
実際に歴史を動かす吠え声の権利を、与えられていない。
生身のパイロットであり、生者であり、戦争の道具に組み込まれつつその使いみちを選べる(ことは、冒頭の不死鳥狩りでハイメガキャノンではなく、リタを傷つけないサイコキャプチャーにこだわることから既に判る)ヨナだけが、その特権を持ちうる。
地べたを這いずる無力な人間と同じように、浮世を超越してしまった天使にも決定的発言権を与えないのが、不自由な自分に徹底して自覚的なこの作品らしいな、と思います。

冒頭から示唆されつつ、しかしその実態がなかなか明らかにならない運命の浜辺。
ヨナとミシェル、生の岸に取り残されてしまった敗残者達が必死に追い求める金髪の少女が、一体どんな存在なのか。
人知を超えた巨大な領域に接続して人間をやめてしまっているのか、それともたしかに瞳を持ち人の体温を持った人間なのか。
グルトップに牽引されるラスボス機体がなかなか姿を表さないように、リタの瞳はずっと描かれず、その奥に彼女がどんな思いを、叫びを抱えているかは不明なままです。

お話はコロニー・メーティスでの対峙を経て、リタの眼もネオ・ジオングの姿も露わにされて、後半戦へと折り返していきます。
"痩せっぽち"なナラティブとヨナの同時解体シーンでもそうですが、災厄の根源でありヨナを助ける力にもなるネオ・ジオングと、ヨナを縛り付ける後ろめたさと愛の根源であるリタの"顔"を、同時に暴露する重ね方は、短い時間を巧みに使いこなし、意味の奥行きを広げる見事な演出でした。
見据えている感情の熱量、ドラマの骨格が強いだけでなく、それを表現形態にしっかり定着させる技量が高いのは、この映画の優れたところでしょう。
ココでオープンになったリタの人間性、健気な純粋さは、今度は後半を引っ張る『なぜ、こんないい子が死ななきゃならなかったのか?』というミステリを生むわけで、情報を出すタイミング、見せ方が非常に巧い映画ですね。


声なき子供たちがお互い愛し、憎み、離れ離れになってもなおもう一度会いたいと願う物語の中で、"鳥"と"紐"のモチーフは幾度も顔を出します。
リタがセリフで明言する"鳥"は、例えばばらばらになったヨナのペンダントであり、ナラティブから飛び出したコアファイターであり、"不死鳥"であるフェネクスそのものでもあります。
冒頭、薄汚い政治と経済の道具として、重力の井戸の底でヨタヨタ立ち回るディジェと、加齢に不可思議に捕縛の網を逃れるフェネクスの超自然的飛行を対比させていたのは、MSアクションにドラマを乗せる見事な運びでした。

死人の魂を乗せて、鳥は高く高く、空を飛ぶ。
ヨナは暴走気味にインコムを引きちぎり、"本物の鳥"のようにファンネルを舞わせます。
あるいはナラティブ最後のご奉公とばかりに、コアファイターで自由を手に入れて、待ちに待ったリタと合流する。
しかしそれはあくまで一時的な自由であり、真実カルマから自由に空を飛ぶ特権は、死人だけのものなのです。
(死人である女と"鳥"の結びつきは、男を支配しつつカルマから特権的に自由な"逆シャア"でのララァ・スンが、白鳥とともに現れるイメージを踏襲している気もしますね。
女であるミシェル、ゲイであり女の属性を持つ(必然があったかは議論の余地あり)ブリックも、死んで"鳥"になっちゃうわけで)

例えば、死んでしまったミシェルはフェネクスの中で、リタと一緒に永遠を舞い続けるでしょう。
でも置いてけぼりにされたヨナは、帰るべき場所も見つけられないまま、やっぱり地面に縛り付けられる。
物語が終りを迎えても、彼は鳥にはなれないわけです。
一度奇跡のように蘇った父の形見も、やっぱり魔法が解けてバラバラになり、去っていってしまう。
人と鳥は、同じ場所には暮らせないわけです。

しかしそれでも、一度会えたこと、結びついたことに意味がないというのは、あまりに寂しすぎる。
ゾルタンが暗黒の太陽神へと変じ、己の絶望に世界を巻き込もうとしたのは、そういう出会いがなかったからかもしれません。
出会ったことが裏切りを生み、嘘が子供たちを一生傷つけもするし、それを取り戻すべくミシェルはたくさんの命を使ってしまったわけだけども。
それでもやっぱり、あの浜辺には綺麗なものがあった。
それが、ヨナのたどり着ける『それでも』なのかなと思います。

ヨナは銃を撃つ代わりにワイヤーを伸ばして、ファネクスを捕まえ、リタと話そうとする。
戦争に日常を奪われ、戦争の道具として使い潰されそうになって、大好きな女の子を生贄に生き延びてしまった。
それでも、銃弾よりは対話を、誰かを殺してエゴを満たすより、苦しいまま言葉の出口を探す。
そういうヨナの痩せっぽちな善性が、僕には凄く眩しく、身近に思えたわけです。
彼が最後の最後で、自分の言葉を見つけて、それもまた鳥が遠くに持っていってしまう無情には、なんとも嘘がなく、少しだけだけど救いと祈りがあるな、と思ったわけです。


そんな彼を見守り、導く"大人"たるイアゴ隊長。
彼はアクシズ落としの現場にオールドタイプとして遭遇し、宇宙にかかる虹を希望として心に刻めた、数少ない人類です。
あるいは一瞬の夢として消費し、あるいはその奇跡に心を支配され世界を歪めた、サイコフレーム由来の奇跡。
それを当たり前の現実として受け止め、ニュータイプ的な救済に夢を乗せるでもなく、長い長い退屈な人生を一歩ずつ生き続ける、楽観的な大人。
悲観的な子供であるヨナとの対比は、福井先生の"Twelve YO""亡国のイージス"などで描かれた『暗い少年兵士と、明るい現場の大人』の関係を思わせます。
楽観を背負わされたバナージと、悲観に食われたジンネマンとは逆の繋がり方ですけども、やっぱこっちのほうが無理なく、いい塩梅な気がするなぁ……。

これは作品内部を離れた読みになるんですが、"逆シャア"のメッセージを素直に受け取り、軍という組織でそれなりの地位と人生観を気づいたイアゴ隊長は、"良いガノタ"なのかもしれません。
他ならぬ"ガンダム"に人生ズタズタにされ、その巨大な神話性を憎みつつ求め、押し潰されそうになっているゾルタンは、イアゴ隊長の真っ当な希望を『オッサンはうざい』と切り捨てます。
そこにガンダム神話に上手くコミットできず、かといって無視もできない"悪いガノタ"を見ると、男たちの壮大なロボットバトルは、卑近なクソオタクの生々しい世代間、あるいは同世代闘争に重なってくる気もします。

ヨナはルオ商会の横車で"ガンダムパイロット"となりますが、その実力は中の上。
与えられた愛機も思いを力に変えるスーパーな機体ではなく、ガンダムが持つ神話性をあえて剥奪したかのような"痩せっぽちな機体"です。
ガンダムのど真ん中で主役を張っているのに、全然"ガンダム"っぽくない主人公(であることが、いかにも"ガンダム"っぽいわけですが)は、"ガノタであることが良くわからないガノタ"と言えるでしょうか。

それでも運命と世界は"ガンダム"を僕らの前に連れてきて、どうしようもなく引きつける。
金色の機体には世界を変える軍事力や、人類を変革するデカすぎるオカルトだけでなく、身を切るほどに切実な後悔、なんとしても取り戻し対話したい愛と真実がある。
だから、不死鳥を捕まえたい。
僕個人は、ヨナの立場に一番シンパシーを覚えました……イアゴ隊長の真っ当さも、ゾルタンのコンプレックスも、ようよう判るんだけども。

隊長は"ガンダム"の装備を借り受け、しかしあくまで”量産機"に乗って騎兵隊のようにかっこよく駆けつけ、主役のピンチを救います。
アムロが守ってくれた世界、人間が人間として生き、死に、回避不能なカルマに悩む世界は、そう悪いもんじゃない。
こっから先10年もきっついパイロット仕事が続くけど、多分楽しいこともそれなりにあって、諦めず戦い続ければ、『それでも』が現実を連れてくる。
あの時見た虹の先へと一歩ずつつ進む、アムロにはなれないけども”良いおっさん”にはなれた隊長の『いっけー! ガンダム!!』という言葉は、彼自身の言葉であると同時に、僕(もしかしたら”僕たち”)がヨナに、"ガンダム"にかけてあげたい言葉でもあったと思います。

こういうメタな構図はヒネた観察眼からしか生まれないと思いますが、同時にそういう目線に溺れきるわけでも、構図を見つけた事自体に満足するでもなく、作中で必死にもがくヨナが少しでも前に進めるよう、物語にフィットするように形を整え、グリップさせ暖気させて使う心遣いが、とても良かったです。
発見したメタ構造が、作中で激しくスウィングする人生にしっかり噛み合い、ドラマが加速する燃料になっている、というか。
現実は現実、虚構は虚構と冷静に切り離しつつ、どうしても二つを繋げる橋の存在、それがあればこそ生まれる共感と情熱をちゃんと大事にして、作中の"ガンダム"も、自分自身が位置づけられる作外の"ガンダム"も、しっかりお話を完走させる。
良いものを創って、そこに今眼の前で駆動している実感、様々な人達が織りなす情勢を埋め込む。
そういう冷静さと情熱が同居し、お互いをしっかり温めていることが、このコンパクトで不自由な話を嘘のない、今だからこその"ガンダム"に押し上げていたと、僕は思います。


この生っぽい感覚は、例えばコロニー落としの時の押し寄せる水のリアリズム(おそらく、3.11由来)とか、核災害が大地を汚染する緊迫感とか、アウシュビッツダッハウの景色をリタと一瞬重ねたりとか、三次元への巧みな目配せからも生まれている気がします。
リタが"奇跡の子供"から引き剥がされ、髪の毛を切り取られ、体中に傷を刻まれるシーンのおぞましさ、哀しさは、本当に耐えきれるものではありませんでした。
マジヒドイよ……ジオンも連邦もみんな最悪だよ……。
『俺たちこのままだと、戦争犯罪人だぞ』と言われて初めて焦るところとか、ホント悪の凡庸さが焼き付けられたシーンだった……恐ろしい……。
あの一瞬の衝撃が目に焼き付けばこそ、後に顕になるゾルタンの地獄もよく刺さるし、同じ立場なのに救済者と破壊者に別れた二人の不可思議も、巧く強調される。
短い時間にどういう劇的地雷を埋め込み、どう連鎖爆裂させるかを徹底的に考え抜いた栄華でしたね。

大人になった(リタの犠牲故に大人になれてしまった)ヨナとミシェルには、『大人用の声優』が用意されているのに対し、時間を止められてしまったリタはずーっと松浦愛弓さんが演じているのも、彼女の不変の哀しさを強調して、良い演出だった。
刻を超越した死人はもう恨むことも変わることもなくて、鳥のように自由に奇跡に接続できるけども、同時に生きて喜びに出会うこと、少しでも変わっていける可能性からも遠ざけられる。
その純粋さと哀しさが、巧くにじむキャスティングでした。

まがい物でしかないキャラクター、戦争、放送形態。
その取り返しのつかない嘘っぽさと、何を犠牲にしてももう一度"本当"と出会いたい哀切を、『嘘つき!』という叫びにしっかり込めた、いいアニメでした。
メタ的な状況と自分たちが作る物語がしっかり噛み合い、その上で重ね合わせた現実の冷たい事情より、熱量を込めて作り上げた虚構のドラマのほうが、少しだけ上を行く。
自分たちが創っている物語にとっても本気なそのバランスが、非常に良かったです。

一企業と、連邦軍の一特殊部隊と、"袖付き"のおまけ。
全世界を揺るがす大事件(に、最終的にはなるわけだけど)とは程遠い、ちっぽけな僕らのちっぽけな戦争。
しかしそこに確かにある、本当の悲しみと少しの喜び、どうしようもないカルマと確かな『それでも』を、"ガンダム"という巨大なカンバスに必死に叩きつけ『ガンダムNT、今ここにあり』と思い切り叫ぶような。
そういうアニメでした。
とても面白かったので、見ていない方にこそ、"ガンダム"との距離感がよくわからない方にこそ、オススメです。