プロセカイベスト”空白のキャンバスに描く私は”を読む。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
痛みを越え、進化していく仲間たちの表現。
置いていかれる恐怖に突き動かされ、絵名は二年前逃げ出した絵画教室に再び足を進める。
過去の思い出と未来への恐怖、客観と主観が錯綜する吐き気を堪えながら、握った絵筆が描くのは…
そんな感じの、東雲絵名の血みどろ青春闘争スケッチである。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
ニーゴらしくずっしりと、挫折と再起、惨めさと決意を描くエピソードであった。
とりあえず言いたい。
マジで偉ぇ…。
逃げ出してしまった自分も、焦ってる自分も、投げ出したい弱い自分も、震えつつ見つめる絵名は本当に偉い。
毎回イベントタイトルが絶妙なプロセカであるが、今回も多層的な意味合いが込められていて、大変面白い。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
”空白のキャンバスに描く私は”というタイトルを、作中の描写と重ねて読むと、そこには事故を客観視する自己と、制御できない自意識に苦しむ自己の二重影が見えてくる。
絵名の描く絵画は、客観視が足らないと評される。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
自己愛と承認欲求、借り物のセルフイメージをベリベリと引っ剥がし、自分と他者と世界を遠くから見つめる視点。
それが欠落し、自分が自分に近すぎたからこそ、絵名は傷つき絵画から逃げた。
ニーゴでの切実な身悶えと関係構築を経て、絵名は癒着していた自分と自分を少し切り離し、しかし切り離しきれず、吐き気を堪えている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
何をしなきゃいけないかは客観的に解っていても、それを自分に引き受ける時、惨めさは傷を生み出して耐え難い。
しかし、もう一度逃げることも苦しい。
出口が見えないどん詰まりの中で、絵名は『ニーゴである東雲絵名』に必死に指をかけて、なんとか自分を前に進めていく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
二年前…あるいはユニスト開始時は『愛されるべき自分』という虚像(当事者にとっては実像)似合った足場は、集団、あるいは他者に移っている。
ニーゴとして、絵画を通じて表現をする自分。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
一緒に凄いと思える作品を作ったり、日常を共有して笑い合ったりする自分。
絵名は尊敬できる友人たちに引きずられる形で、自分以外の誰かが見ている自分と、自分がこうであると考える自分の間に距離を作り、成熟した客観視力を、ちょっとずつ獲得してきた
その視界から見えるのは、二年間のブランクで錆びついた自分の現状であり、描きたいものが形にならない苦しさであり、対等な創作者であるからこそ繋がり合える、ニーゴという異質で特別な場所だ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
大事な仲間に誇れる自分でありたいと願うからこそ、絵名は二度目の逃走から逃走する。
吐き気を堪え、フラフラになりながら絵画教室に通い、惨めさに打ちのめされながらも、その状況を客観視する。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
あるいは、客観視しようと務める。
とても辛くて、しかし求める自分になりたいのならば立ち続けなければいけない場所に、必死でしがみつく。
偉い。本当に立派だと思う。
言葉にすれば惨めさや弱さが際立ち…ある種の客観化を避けられない現状を、絵名は『瑞希にあんなこと言っちゃったんだし』で、仲間に向かってさらけ出す。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
ここでも、人生にポジティブな結果をもたらすとわかりつつ、辛くて選びにくい選択肢に踏み込むきっかけは、仲間に反射する自分…その理想だ。
一緒にい続けたいと思える、才能と優しさに溢れた仲間たち。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
惨めで弱い自分を変えなければ、そうすることで創作者として脱皮し続けなければ、置いていかれ離れていってしまう拠り所。
そこに繋がるために、絵名は必死に踏ん張る。
そこに視野の狭い自己愛は…あるけど、支配的ではない。
ニーゴでいることが、絵名の承認欲求を満たす大事な足場であり、誰かに認められる自分を守るためのエゴイスティックな繋がりは、当然絆に宿っているだろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
だがその打算を包むように、仲間に誇れる自分でありたい気持ち、そうあることで仲間を助けたい気持ちも、確かに存在している。
とても綺麗で、おぞましく汚れた魂をグチャ混ぜに抱えたまま、絵名は客観と主観の入り混じった視界で、自分を探し続ける。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
タイトルに在る”私”は、東雲絵名の現在地をスケッチする自分であり、そうして観測される自分自身でもある。
観察される客体でありながら、制御困難な感情を持つ主体でもある”私”
この複雑な距離感に、納得と覚悟とやけっぱちの入り混じった楔を打ち込んで、『今、ここから、いつかへ』という一歩目を踏み出すまでが、今回のエピソードとなる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
絵は人を写す。
真っ直ぐに手の素描をした双葉の自画像を、”らしい”と評したように…
客体としての自分を他人に伝わるよう描ききれない、拙くアンバランスな背中こそが、東雲絵名が客体として観測し、主体として感覚する”東雲絵名”だ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
そこに嘘がないから、先生は率直で嘘のない評価を返し、未来の可能性を届けたのだろう。
傷まみれの客観視は時間軸にも及んでいて、絵名は二年前の自分と、それを追い込んだ(と、当時は主観していた)周囲の人々を、二年分の距離を開けて観測することになる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
そこに間近な痛みは薄れつつも残っていて、後悔と惨めさが常に付きまとうが、しかし絵名は真っ直ぐに己の過去と未来を見据える。
思い返してみれば、自分は真実ではないものを己だと思い込もうとし、投げかけられた冷厳な評価に感情の傷を混ぜ合わせ、素直に受け取れなかった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
その結果として二年間の迷走があり、ニーゴとの出会いがあり、今こうして、自分と世界に向き合おうとする”東雲絵名”がある。
例えば冬弥のように精妙に、自分と他者、過去と現在の適切な距離を探り当てて、より効率的に未来へ進み出す器用さは、絵名にはない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
制御不能な主観と、客観を冷静に受け止める成熟は複雑に絡み、整理しきれない想いに押し流されつつも、色んな人の助けを飲み下して、前に進むと決めていく。
その不器用なグチャグチャが、やはり嘘のないセルフポートレートとして、ニーゴの一人らしい仕上がりだった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
そんな風に惨めさと痛みに塗れながらも、誰かに誇れる自分であろうと必死にもがいて、惨めさを噛み砕きながら進んでいくのが、ニーゴの物語なのだと思う。
胃からせり上がる精神の泥を飲み下しながら、それでも作らざるを得ない切実さは、例えば奏によく似ている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
何がどうあろうと、ここにしがみつくしかない。
奏にとっては救済という呪いがそれであり、絵名が自覚しだしたアーティストである足場は、”ニーゴであること”だ。
父に惨めさと向き合い続ける覚悟を問われて、絵名は答えに詰まる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
それは一度逃げ出し、今も強くはない自分を客観的に把握できているからであり、主観で見れば未来は五里霧中だからだ。
自分の可能性を信じたいけど、一度折れ曲がった自意識は簡単に、自分を信じさせてくれない。
その時誰が魂のギブスになってくれるかと言えば、一緒に進んできた仲間であり、ニーゴで二年自分なり、必死にやってきた自分自身でもある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
奏がニーゴである東雲絵名を…絵名が一番大事にしたいものを思い出させる鏡として、凄く優しく鋭い光を投げかけていたのが、印象的だった。
絵名が善い自画像を描くために必要な客観は、自分と密着した自分に拘泥していては手に入らない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
暗い思い出の中にも楽しいことはあって、泥まみれでもがいていても何かが形になったのだと、思い出させてくれるのはいつでも他人だ。
そうさせてくれるから、絵名はニーゴであることに拘るのだと思う。
ここでリンちゃんが、苦しんでる絵名になにかしてあげたいと、電子の海から歌を届けてセカイへの道を開くのが、あんまりに”プロジェクトセカイ”であり”VOCALOID”で、少し泣けてしまった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
本当に優しい子であり、その優しさはあやとりや塗り絵を教えてくれた絵名自身の光の、確かな反射なのだろう。
まふゆの家庭問題や、瑞希のアイデンティティと同じように、絵名と絵画の関わり合いも今回では解決しない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
二年という時間は嘘をつかず、技量は錆付き差は開く。
しかしそんな現実を噛み締めてなお、絵名は惨めな現在地を誠実にスケッチし、『ここから』を決意する。
それが着実に、かつて逃げ出した夢の方向へと続いていることを僕は祈っているし、ニーゴの物語は曲がりくねりながらもそういう方角へ進むのだと信じてもいる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
自分が天才ではなく、愛されるに足りる存在ではない空白だと自覚してなお、そこに何かを描こうとする決意…あるいは執着と執念。
自分が”それ”だけは譲れないのだと客観視出来たから、絵名はリスタートラインへと自分を進められた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
何度も言うが、それは本当に立派なことだ。
進み始めたら、今度はうまく自分を導ける。
そんな保証は何処にもないが、それでも『ここから』なのだ。
二年の時を経て、絵名はそう思えるようになった。
絵名自身は、ニーゴが凄い好きで、だからこそそれに相応しい自分でありたいと願う”東雲絵名”の優しさと尊さを、あんま自覚していないと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
錆だらけの惨めな負け犬で、ナイトコードに巣食う才能とは全く並べてなくて、弱くてダサくて…でも、それでも”それ”を諦められない。
そういう自己認識にベッタリと癒着されて苦しみながら、それでもいつか、とても優しくて強い…色んな人とセカイとのふれあいの中で、そういう自分を手繰り寄せている東雲絵名を、客観的に認めてあげれたら良いな、と思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
そんな風に、描く私と描かれる私が重なった時、絵名の思春期は終わるのだろう
あるいはその客体と主体がズレ続けるから、生きることは苦しいのかもしれないが。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
それでも、誰かに反射し誰かを求める己が、世界に満ちた音楽と重なり合う瞬間が確かにあるのだと、ニーゴの薄暗い物語は語り、探し、求め続けるように思う。
その一員として、とても絵名らしく、ニーゴらしい話だった。
厳しくも公平に、客体としての自分をスケッチしてくれる場所へ、絵名が決意を込めて進みだしたこと。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
ナイトコード以外に、自分を認め反射してくれる誰かと繋がり直せたこと。
それがどんな意味を持ってくるかは、ゼロ地点から転がっていく未来の中で、また描かれるだろう。
震えながらもタブレットに向き合う背中。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
絵名が描いた拙い現在地から回り込んで、誰かに見られ、誰かに見せている”東雲絵名”の顔を、彼女が見据える瞬間を、僕は待っている。
それが善いものだともう知っているから、無明にかすかな光を探す物語を、僕は待てるのだ。
自己の適切な客観視と、それを受け止めて唯一の当事者として、自分の人生を前に進めていくことが出来たなら、もう”大人”だろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
絵名は確かに今回、その一歩目を踏み出した。
痛みは消えず、吐き気は止まらず、思いは乱れる。
それでも不定形の自分に押し流されるのではなく、確かな意思を込めて…
そう出来ること、出来たことは、何度も言うがやっぱり偉い。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
その偉さが、報われてくれると良いなぁと想いながら、次なる物語を待つことにする。
絵名が空白のキャンバスに描いた”私”と同じく、ニーゴのお話は痛くて拙くて、嘘がないなぁ、と思った。
とても良いことだ。
追記
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年3月21日
率直に過ぎる先生や父の言葉に、それなりに客観視してなんとか受け身が取れるようになったのは、葉に衣着せる事を知らないまふゆと付き合い、『ハァ!?』言いつつも客観の理を自分に引き寄せてきたのが、結構影響してんのかなー、とか思う。
えななん、相当雪好きだからな…。