イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

チェンソーマン:第1話『犬とチェンソー』感想まとめ

 鬼才、藤本タツキによるダークヒーロー青春黙示録を、MAPPAが満を持してアニメ化。当方原作既読。
 放送前から宣伝モリモリ、大変な気合が全方位ダダ漏れだったが、蓋を開けてみるとまー期待通りの凄い仕上がりで、大変良かった。
 原作の持つゴア&グロな血みどろ悪趣味要素と、静謐で詩的な雰囲気の同居を見事にアニメ化していて、計算しつくされた混沌と汚濁が、初手から良く暴れる第1話となった。
 背景、音楽、作画、演出。
 アニメーションの全領域で異様なクオリティとテェンションを維持するこのお話が、製作委員会方式ではなくMAPPA単独出資で回っているのが、一番驚くべきところかもしれない。

 

 お話はデンジくんの数奇な運命、そのスタートを勢い良く、しかし焦った所なく語っていく。
 彼とチェンソーマンの原点であり、一番大事な心臓たるポチタとの日々にしっかり時間を取って、切なさと美しさのある血まみれな旅立ちを味あわせてくれた。
 デンジくんはパンにジャムを塗って食べれる程度の”まともな生活”を求めつつ、臓器や片目を売り飛ばし、減らない借金に縛られ、犬扱いされタバコを食わされる日々を生きている。
 ヤクザ共は彼から不当に奪うばかりだが、デンジくんは死にかけのポチタに己の血を分け与え、『俺はお前を助け、お前は俺を助ける』というあり得ないほどフェアで純粋な”契約”で、傷だらけの魂を結びあわせる。
 

画像は”チェンソーマン”第1話から引用

 

 ポチタと出会い共にいるだけで幸せな、光と植物に満ちた柔らかな世界。
 それは夢の中でしか思い出せず(輝きに満ちた世界で、デンジくんの片目がまだ健在なのはあまりに悲惨だ)、今の二人は薄汚れた闇の中、ギリギリなんとか生きている。
 デンジくんがこの世の果てで生きれるのは、ヤクザが自分を道具として利用しているからでも、そのことで不当に削られた糧を得ているからでもなく、ポチタと共にいるからだ。
 その温もりは彼が奪われたものを補ってくれるし、フェアで温かい契約を果たせる自分であることを、強く思い出させる。
 ポチタを抱き/抱かれること、約束でお互いをつなぎ合うことで彼は、腐りきった世の中でも人間としての輪郭を失わず、腎臓や金玉を売り飛ばしてなお、どこかに尊厳を維持できるのだ。

 

 画像は”チェンソーマン”第1話より引用
 

 

 しかし現実はあまりに厳しく、暗く、何もかもがさかしまに転倒している。
 まともな飯も与えられず、それどころか暇つぶしにタバコを食わされ、デビルハンターとして雇われているはずなのに悪魔と契約したヤクザに騙され殺され……”フェア”なんてもんはどこにもない。
 そこからの非常口を求めて這いずっても届かず殺されて、殺されることでデンジくんと物語は始まり、ポチタはその心臓となって沈黙する。
 全てが逆さまに転がった世界なのだから、生まれ直すためには死ななければならず、生きるためには殺さねばならず、”まともな暮らし”を目指すスタート地点は死体の詰まったゴミ溜めである。
 それさえあれば何もかも満たされていたような、それでもだからこそ一緒に夢を見てしまうような。
 己の半分が失われ、奪われた心臓の代わりをするところから物語が始まるのも、デンジくんを捉えた転倒の一環と言えるだろう。
 哀しくも運命的な暗黒の英雄誕生を、衝撃的かつ詩的に刻みつけるスタートだ。

 

画像は”チェンソーマン”第1話から引用

 ポチタの命を譲り受け、あまりに綺麗で哀しい契約……約束をチェンソーの悪魔と果たす前、デンジくんはポチタとの失われた日々を思い出す。
 そこではポチタは木を切り倒す”チェンソー”本来の仕事を少年と一緒に果たし、信義も愛も未来も、何も転倒はしていない。
 世界は光に満ち、日々は幸福に過ぎ、そしてそれは永遠ではない。
 デンジくんは譲り受けたチェンソーでゾンビ共をなぎ倒し、血みどろに殺すことで未来へ……ポチタと約束した”夢”への道を切り開いていく。
 悪魔が実在し、非現実的な血糊に満ちた作品なのに、彼の貧困と困窮、世界に満ちた不公平と理不尽は異様なまでにナマっぽい。

 大事な”相棒(チェンソー)”で木を切り倒してるだけじゃ、不当な借金も理不尽な暴力も跳ね返せず、女抱いてうまいメシを喰うというあまりに小市民的……というか動物的ですらある夢も叶わない、そんな当たり前にクソな世界。
 そこを、チェンソーを殺戮兵器ではなくチェンソーとして使う”まともな暮らし”では切り開けないから、デンジくんはポチタを心臓に宿してチェンソーマンになっていく。
 これから進む狂いきった宿命の最初に、しかしチェンソーチェンソーとして使い、愛と愛のまま抱き合えた優しい時間が確かにあったことを、覚えておいていいと思う。

 非現実的な超暴力に身を置きつつ、デンジくんの戦いはどこかバタバタした、未熟なティーンエイジャー必死のあがきとしての生々しさを残して描かれる。
 その実在の手触りが異様な物語に重力を与えて、地に足をつけさせ視聴者の心に足跡を刻む。
 同時に、どんだけぶっ飛んだ暴力と悪趣味ぶん回してなお、『これは少年が生きていく物語だ』という手触りを残す。
 俺達の夢と未来を邪魔するものを全部叩き切って、逆立ちした運命を”まとも”にしていく戦いはあまりに超常的で、悲惨で、残酷であるけども、同時にめちゃくちゃフツーの少年が、メチャクチャフツーの夢を抱いて、一歩ずつ進んでいく物語でもあるのだ。
 その舞台がどんな色合いをしているか、撮影と美術が……過剰なクオリティをどう配置してどういう空気を出すか、乱雑にぶっ飛んでいるようでかなり慎重に考え抜いた演出が、巧く伝えるスタートだったと思う。

 

 

画像は”チェンソーマン”第1話から引用

 ポチタ亡き後、デンジくんの愛となり恋となり、食事を与え抱きしめ導いてくれるマキマの登場も、絵画めいて擦り切れた美しい汚濁の中で、慎重に切り取られる。
 錆びついた蛇口に水滴が宿り、血まみれな運命が始動する瞬間、マキマの目はポチタとの生活に満ちていた柔らかな光とは全く違う、瞬きなしの鉱物的冷たさで切り取られていく。
 マキマは喪失された(≒約束を通じ、デンジくんがこの血みどろを戦っていくための特別な力、生きて鼓動する心臓の代理として一体化した)ポチタの変わりに、デンジくんを抱く。
 ポチタと一緒にいたときより”まともな”飯を用意してくれ、夢に見た女の手触りをデンジくんに教えてくれる。
 しかしそのピエタめいた抱擁が行われるのは、生誕を祝うべき安楽な光ではなく、ゾンビの死体に汚れた深い闇の中だ。

 ジャムはおろかバターと牛乳、あまつさえデザートまで付けてくれる”まとも”さを差し出しつつも、マキマがデンジくんを抱いて連れて行く此処から先の物語には、ヤクザに搾取されていた時代よりなおヒドい転倒が待ち構えている。
 そこは凄惨で混沌としていて、しかし奇妙に美しく残酷な場所だ。
 その最初のスケッチとして、マキマ登場以降の美術とレイアウトはとても良い仕事をしていた。

 デンジくんは目の前の小さな幸福に何もかもを忘れてしまうちっぽけな少年として、押し寄せる幸福と理不尽に流されつつ、ポチタが与えてくれた約束と温もりを心臓に宿して進んでいく。
 その過程で、”まとも”な少年はけして体験しない殺戮のど真ん中に立ちながら、問われるのはとても普遍的な歩みだ。
 出会いがあり、闘争があり、疑念があり、友情があるだろう。
 センセーショナルな表層に流されることなく、そこに宿る切ない詩情をしっかり切り取ってくれるアニメ化なのだと、信頼できる第一話となった。

 

 大変良かったです。
 こうして出会い直してみると、最悪のゲロに塗れつつそれゆえ、嘘のない美しさを吠え続けるこのお話、チャールズ・ブコウスキーの書作品に似てるな……などと思いつつ、次回を楽しみに待つ。