イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

デリコズ・ナーサリー:第6話『小さな冒険』感想ツイートまとめ

 デリコズ・ナーサリー 第6話を見る。

 父たちがテロリスト相手に”仕事”してた裏で、子ども達が突き進んだ健気で危うい小さな冒険。
 普通の家庭、普通の育成環境なら幼くも微笑ましい反抗で収まりそうだが、テオドールを被検体に繭期のヤバさがどんどん描写されたり、唯一苦境を助けてくれた”優しいお姉ちゃん”は奇妙な出会いを利用する気満々だったり、まーロクなことにはならないだろう折り返しだった。
 ラファエロ起爆剤に子ども等のケアが全く出来てなかった結果、出奔を招いた親父どもが馬車ん中で反省してたけど、お前ら吸血種にノンキに失敗から学んでやり直す”次”があるとは、なかなか思えないよ…。

 

 事情も過去も良く解ってない、TVからのにわかの素直な感想を垂れ流すと、どうも吸血貴族共は自分たちがTRUMPの機嫌一つで尊厳も命運も総崩れになる、生まれついての奴隷種族だという自覚が薄い気がする。
 高貴な責務と継いできた血統があたかも、何かを成し遂げられる尊厳を貴族に約束しているような素振りをしているけども、種族に刻まれた根本的な性質も、個人としての人格と振る舞いも、そういう尊大な自意識を常時裏切っているように感じる。
 あるいはそういう奴隷の惨めさを前提においた上で、絶望に食われないための強がりとして、階級全体に虚勢が文化として根付いてんのかもしれないけど。
 もうちょい謙虚になったほうが、結果としてよくねーか、とは思う。

 妻の遺言に呪われてダリが始めた”ナーサリー”だけども、命がけで殺したり殺されたりする”仕事”と、そういうむき出しの人生を背負う力が一切ない(だから、ちゃんと守ってこれから育てなきゃいけない)子どもの”育児”は、噛み合ってもいないし乗りこなせてもいない。
 その弊害が親父共のトホホな苦労で終わるんなら、それも人生修行の一環、吸血喜劇の一幕と笑えるわけだが、ペンデュラムが引き起こすテロは常にシリアスだし、その重たさが少しでも間近に迫った時、子ども達が深く傷つく脆さってのも、彼らにカメラが寄った今回良く描かれていた。

 

 浅はかな思いつきで行動し、自分ひとりでは何も出来ず、傷つきやすく脆い存在。
 吸血種の定めに呪われた世界においても、子どもはつくづく子どもであり、その浅慮も脆弱も耐えて生き延びれるように、少しは力がある存在が全力で、守り育ててあげる必要…あるいは責任がある。
 ダリのナーサリー計画が笑えないのは、そういう最優先の責務を「大天才の自分であれば、余裕でこなせる」とばかりに叩きつけて、結局乗りこなせず我が子の心に致命傷刻みかけている、傲慢が滲むからだ。

 親になる、人を愛する。
 片手間にできることじゃない一大事だからこそ、それを果たせない未熟な自分が精一杯歯を食いしばって、全霊で挑まなきゃいけないものを、ダリは(おそらく結果として)軽んじて、最悪の過ちを生みかけている。
 そう、今の僕には見えちゃうのだな。

 

 貴族として規格外の野放図が許されるほど、事件解決のための知恵働きが冴える天才は、あるいはその卓越した能力故に人間としてアンバランスで、こう言ってよければ幼い。
 既に死んでしまった妻への愛を証明するために、傷つきやすく未熟な我が子それ自体を見つめるのではなく、「育児と仕事を両立する」という題目に目がくらんで、自分の至らなさが心底染みない。
 …あるいは今回の反抗計画で、チクリと傷んだ反省で自分を変えていけるのかもしれないけど、そういうノンキな変化を許してくれるほど、彼が対峙するペンデュラムはヌルい存在ではないように思える。
 お貴族探偵気取ってないで、もっと泥臭く本気に親やってくれ。

 今回凄く浅はかに、一時の感情に流されて家を飛び出し、自分たちではな~んも出来ない情けなさをたっぷり描かれた子ども達の弱さと純粋さを見るほどに、つくづくそう思う。
 こういう人間的な至らなさを教えてくれない歪みが、あるがまま子どもであることをテオドールたちに許さず、早熟な繭期を発症させてしまった貴族社会の重責には、確かにあるのだろう。
 眼の前の脆く弱い人間に、なんの肩書も荷物も持たず、裸一貫あるがまま向き合う。
 そういう、奴隷種族だろうが未熟な大人だろうが唯一、誰もが持てる率直な強さというものは、虚栄と陰謀に満ちた貴族社会では致命的な弱点なのだろう。

 ”人間”であっては、血吸い鬼の巣を生き残れない。
 彼らなりの繭期を生き延び、当主様として家名を背負う所まで背丈を伸ばしたヴラドの男たちは、彼らを包囲する社会が要求する冷たい強さを、しっかり身に着けているから貴族でいられる。

 

 ここら辺、人格壊れてないし周りも見えているケイトさんが、ナーサリーから排除されているのが巧妙だなと思う。
 早急に対応が必要な所までバランスを欠いている、テオドールの病状に彼女はすぐさま気づき、「いい子だから大丈夫」で幻覚を悪化させる環境から出そうと提案できる”良い保母”である。
 「貴族かくあるべし、大人かくあるべし」に呪われた”悪い保父”には、感じ取れない破滅の予兆を、しっかり嗅ぎ分けれる人材だ。

 彼女がナーサーリーに居合わせてしまったら、オヤジたちの失敗と子どもたちの惨劇にはマトモな歯止めがかかってしまうわけで、顔の良い男たちが雁首揃えて育児コメディをやる閉じた悦楽を守る意味もあって、上手く作品の真ん中から遠い場所に置かれてる感じがあった。
 馬車の中で反省会してる親父共が、ノンキにくっちゃべる”いつか”が次回以降ボーボー燃えてくだろう描写も含めて、不器用なりに上手くやろうとして理不尽に何もかも滅茶苦茶にされていく運命が、物語全体を包囲している印象だ。
 その波を一番強く引っかぶさるのは、一番弱い子ども達なんだから、まったくやりきれない気持ちだよ…。

 

 

 

 

画像は”デリコズ・ナーサリー”第6話より引用

 膝を曲げても視線は合わさず、手を伸ばしても抱き上げはしないダリの姿勢は、ラファエロが求めて叶わないものがどれだけ冷たく遠いかを、良く語っている。
 彼はたった三歳の子どもとして全く正統に、肉親の温もり、身体の触れ合いを通じて手渡される愛の証明を求めている。
 ダリの良く働く理性はそういう言葉にならない感覚を、全く拾い上げられない。
 触れ合って心が満たされる特別さは、もしかしたら亡き妻にしか機能しなくて、その唯一性が託された遺言を果たそうと、子どもたちの未来を人質に傷つけていく”ナーサリー”の根っこにあるのかもしれないけどさ。

 自分の苦しさを、解って欲しい人に解ってもらえない苦しさ。
 これはテオドールにも共通で、他の誰も見ることが出来ない幻覚に振り回されて、望んでもいない暴力を他の子どもに振るってしまっている。
 制御できない自分が、悪いと解っていることを引き起こしているのに、それを上手く解決できないもどかしさと辛さは、家庭環境や親子関係以上に”繭期”という、種族の宿命に乗っかっている。
 これは個人の努力でどうにもならんものだと思うので、社会全体の理解とサポートでもってその苦しさに近づき、解決してやる必要がある。
 それを分かっていればこそ、吸血種社会には”クラン”があるんだろうけど。

 

 テオドールは父への愛ゆえにその期待に応えようとし、彼が求める通りの大人へ…手のかからない”いい子”になろうとして、見事に軋んだ。
 幻覚の人形たちが押し殺している本心を語り、遊びたいし仲良くなりたい”子供っぽい”純情をテオドールが押し殺していることを語るのが、とても辛かった。
 周囲からすれば異常な欠落に見えるものは、真実ありたい自分を押し殺しているからこそ生まれる傷であり、その歪さの奥には尊重するべき真の願いがある。
 だが次期当主として、生身の人間であることより権力の装置であることを生まれた時から望まれている子ども達が、柔らかく多様な”わがまま”ごと、自分を大事にされることはない。

 ラファエロはウルを捨てる芝居をすることで、自分たちの本心に父よりも高い場所から報われ、歪みを是正してほしいと願った。
 それは”ナーサリー”に集うボンクラ独力では、真実子ども達が望むことも、正しい道も見えないのだと、ラファエロが絶望した結果の暴走だ。
 三歳の子どもにそう思わせてしまっている時点で、お綺麗なお顔したお貴族様達は、自分たちがそうであると思い込んでる”大人”でも、社会を運営するに足りる超越種でもない。
 子どもよりも子どもな、未熟ななり損ないだ。
 だからこそ本気で、その未熟を認識し少しでも正しい自分へと近づいていく、泥臭く必死な努力が必要なわけだが…大人を取り巻く檻は、なまじっか自我と社会的立場が固まってる分エグいね。

 

 既に間違いから学ぶものも、変えるべき弱さもない”大人”だから、何でも出来るし出来なければいけない。
 ”ナーサリー”の最年長として、イライラ爆発しつつも必死に年少の弟妹の盾となり、危険なスラム街に迷い込んでしまった仲間を守ろうとしているのが、あまりに健気で痛ましかった。

 父達は何も解ってくれないまま、自分たちを孤独の中に放置する。
 ならば”困らせる”ことでこの苦しみに気付いてもらって、どうにか手を差し伸べてもらおうとする子どもの理屈を、テオドールは”大人”として嘲り、しかし自分も同じ気持ちだと共感もする。
 その時彼は弟妹たちと、石造りの渡り廊下で隔たれた距離を縮めて、少し子どもに戻る

 わがままでガキっぽい反抗に身を投じている時、人形の幻覚がでないのが、僕にはとても辛かった。
 言えば父を困らせ、愛を奪う本心を押し殺している時に、繭期の幻は彼を苛む。
 心の中から出ていかない毒を溜め込み、必死に堪えている時に幻は現れて、彼を狂気に囚われたアウトサイダーに変えてしまう。
 しかし家から出て、子どもでしかない自分を否定して大人
になる枷から解き放たれた時…自分より弱いものをちゃんと守れる、父が認めず評価もしない真の”いい子”である時、テオドールは繭期に苦しんでいない。
 貴族社会の責務、大人としての体面。
 自分の外側にある枷が、大人びた子ども達を不自由に囲い続けている。

 

 ラファエロにしてもテオドールにしても、ガキどもは極めてヤバい状況を理解できてないし、適切なやり方で求めるものに手を伸ばせないし、勝手に走り出して陥った苦境を自分の力で解決できない。
 その情けなさと弱さは、しかし大人のなり損ないにとって当たり前であり、取り返しが付く場所でちゃんと間違って、死なない程度に痛い目見て学べる環境を用意し、手渡すことで、人間の幼虫は繭期を終えて羽化できる。
 そういうモノを、”ナーサリー”は全く与えられていない現状が、子ども達だけの冒険からは良く見えた。
 そういう場所に雛たちを置いているなら、一番子どもなのは親の方だ。
 それを思い知ったから、ダリもあの顔か…。

 ただ今回の痛手がダリを捉え周囲を巻き込んでる歪み…亡き妻への愛という枷、規格外の頭脳故の共感性のなさを乗り越え、ラファエロが本当に欲しかったあったかい抱っこを選ばせる契機になるのかと言われると、やや難しいかなと思う。
 これでいいパパ…つうかいい人間に舵切り替えれるようなら、そもそも”ナーサリー”なんて初めてないし、もっと適切に託児所運営できてるだろうし、そういう理性特化のアンバランスな才能なしで、貴族社会の秩序を維持する尖兵はやれてない感じもあるし。
 なによりペンデュラムがぶん回す腐れテロは、三歩進んで二歩下がる”人間的”な成長を、親と子どもに許してくれないだろう。

 子どもら視点では、自分たちではどうにもならないピンチを助けてくれた救済の天使に観えるキキが、大事な親ぶっ殺してイカれた救済ぶん回すテロリストであり、極めて冷徹にこの奇縁を”活用”しようと考えれる、最悪の”大人”なのが意地悪くて良い。
 あの子が繭期の中呪われてる”無償の愛”は、相手が何を望んでいるかも、何をされると嬉しいかも考えない、一方的で暴力的なものだ。
 そのエゴイズムに塗り直されると、殺戮も陰謀も”愛”って事になってしまう。
 この歪みと狂気も、繭期がもたらす望まぬギフトであり、奴隷種族の宿痾…”子ども”への呪いだと思うと、まーまーやりきれないけども。

 

 解ってくれないパパを困らせて、より高い場所から正しさを恵んでもらおうとするラファエロたちの冒険は、死体積み上げてTRUMPに近づこうとしているペンデュラムのテロルと、多分重ねて描かれたんだろうなと思う。
 だとすれば狂いきってるように思えるテロリストたちも、言葉にならない思いを不器用に振り回す子ども達の一人であり、連続殺人は血みどろの健気な冒険…て飲み干すには、あいつ等邪悪がすぎんだけどさ。

 父親チームのどうしょうもなさ含めて、種族全体、社会全体が地獄めいた繭期に閉じ込められてる感じがあるな、TRUMP世界。
 真実誰も大人になれない、ピーターパンの牢獄だ。
 ネバーランドへようこそ。

 

 大人をビビらせ振り回す、子ども達の危ういワガママを突きつけられて、ようやくそこにある必死さを見て取り、己を鑑み改める。
 世界のどこにでもある家族劇の一幕であり、そういう当たり前の難しさを唯一直してくれる時間こそが、”ナーサリー”の大人と子どもには用意されていない事実が、良く染みるエピソードでした。
 当たり前に「パパも間違ってたね、ごめんね抱っこするね」って、膝を地面につけて身を寄せられるチャンスが、あの親子にはねーんだな、多分。
 そのすれ違いも空虚も未熟も、愚かなる人間の良くある風景ではあって、でもその先にあるだろう無惨な破滅を、仕方ないと飲めるほど、僕も心が死んでない。

 願わくば命を脅かされることも、噛みつき一つで魂の自由も尊厳も根こそぎ奪われるクソっぷりに悩まされることもなく、当たり前に間違えて当たり前に変わっていって、あの寂しさもすれ違いも、全部必要だったねと笑いあえる日が来て欲しい。
 ボケカス親父たちも、かわいそうな子ども達も、その言葉の真の意味で”大人”になれる日が来て欲しい。
 「でもまー、少なくともアニメの範疇だとそういうハッピエンド来なさそ~」ていう予感も、分厚く積み重なったコンテンツの向こう側、鈍い光を放ってはいるけど。

 

 このあと一体どうなっていくか、大変気になる所で一ヶ月の休止ですが、再会を楽しみに待ちたいと思います!
 10月の第7話で、また会いましょう!