明けて暮れて、また明けて。
繰り返し積み重なる人生の明暗は、ついに釣りを愛し釣りで繋がった青年たちの心臓へと至る。
ネガポジアングラー、クライマックスの幕開けを告げる第10話である。
大変良かった。
夕暮れから夜更けへ、時の流れとともに移り変わっていく景色を丁寧に描き続けてきたこの作品は、タイトル通り人間の”ネガポジ”を切り取る物語である。
貴明が3年分の後悔を勝手に押し付けて、目をつぶって全てから逃げ去ろうとする常宏の手を握り、一緒に笑い一緒に釣果を腹に収めてきた時間からすれば、今回の暗い影はオリジナルアニメ終盤特有の”急なシリアス”…とは、まぁならないだろう。
腐れボンクラ共の浮いたり沈んだりを、コミカルで笑える調子に取りまとめつつも、そこに必ず宿る影の色合いを見落とすことなく、静かに、丁寧に刻みつけてきたこの物語。
第3話で明瞭に突きつけた、何も見えない無明の不安に取り囲まれて生きる苦しさと、そこに追いついて手を伸ばしてくれるもののありがたみを一旦引っ込め、しかし通奏低音として”釣り”の中に刻み込んできた物語にとって、今回の暗さと苦しさは海底に引っ込んでいた大物が遂に顔を出してきた、ラストファイトの始まりに過ぎない。
釣り竿が折れる寸前までたわみ、バレる可能性にヒリつきながらリールを巻き、水底の怪物の様子を想像しながら、必死に追いすがる。
そんな戦いに勝ちきって、デカい獲物を満足気に釣り上げ、皆でその生命に舌鼓を打つために何が必要なのかも、この物語は常に描いてきた。
誰かとのコミュニケーションが成立したときだけ、大物をその手で釣り上げられるルールに乗っ取るのならば、弟の喪失を乗り越え兄貴ヅラで常宏の人生を抱き上げたように思えた貴明が、その実ネガな主人公と同じく逃げて逃げて逃げ続けているのだと指摘した今回、大物を釣り逃すのは当然の運びである。
中盤、ためらいを乗り越えて己を開示し合ったかのように見える二人は、しかし本当の気持ちを生ぬるい心地よさに隠して、嘘を付き合っていた。
血の色を滲ませた夕焼けが真実を知る叔父を連れてきて、無敵に思えた優しい天使がその実、自分と同じ逃げっぱなしの卑怯者であり、自分を暗い場所に追い込んだ優しくない他人と同じなんだと思い知らされて、貴明はようやく赤子のように泣きじゃくる。
目覚めたら、明日がないかもしれないという根源的な恐怖から目を逸らし、必死に逃げ=生きて来た己の苦しさを、ようやく顕にする。
あの診断以来常にそれに苦しめられてきて、それでも死にたくないから目を逸らして、自分の本音と向き合うのを止めてきた男は、しかし”釣り”と出逢うことで素敵な笑顔に…常宏の素顔に、立ち戻ることだって出来ていた。
己の心の奥、どす黒い闇の中に潜んでいるものを暴き立て、ぶつけ合った今回の空気は、今までのアーパーな気軽さが嘘だったかのように重い。
しかしそのネガティブが、今まで描かれ、実はずっとどす黒い影の中にいた常宏(と貴明)が”釣り”をお互いの人生に楔として打ち込んで生まれた、ポジティブを消し去るわけじゃない。
死と不安にまつわるいかんともしがたい影と同じくらい、釣って食って、釣れなくて食えなくて、それでも楽しかった光だって本当のことだったのだと、涙に目を塞ぐ赤ん坊が気づく日は、多分結構近い。
そうなるだけの時間と楽しさを、この物語はずっと嘘なく積み上げてきたからだ。
正論と優しさで弱いやつを追い込む≒救う貴明に、常宏の逆撃が突き刺さる今回は、目を塞いで逃げ惑うだけだった第3話から、二人がどこまでやってこれたかを精密に描く。
ここで差し伸べられた手に追いすがるだけじゃなく、跳ね除けてその欺瞞を突き刺し、ピカピカ輝く正しさと優しさだけじゃすくい上げられないものが、自分の中に…そして貴明の中に確かにある事実を、常宏は指摘できるようになった。
そのためには見ないようにしていた己の中の影を、泣きじゃくるしか叩きつける必要があったし、かつては部屋を無惨に荒らすだけだった暗い絶望は、貴明と共に在った日々に証を立てる、マグカップの感触でせき止められる。
胸を抉る絶望が、叩きつければ何かが壊れてしまう一言をせき止めるのと同時に、それに押し流されてなんもかんも終わりにしてしまう自棄っぱちに、もう戻ってこない何かを自分が手に入れてしまっていることにも、常宏は気付いた。
「他人のお前に、何が解るってんだよ!」とさらけ出した本音が、眼の前の…貴明自身が今度は助けたいと願った”弟”をどんだけ傷つけ、自分を醜くしているかを、天使気取りのポジティブ野郎は鏡越し見つめた。
それは釣りの帰り道、車窓に美しく優しい世界と、そこで生きていてもいいと思える自分を見つけた、常宏の視界と確かに重なっている。
壊して、逃げて、でもその先に、確かに”釣り”はあった。
死なれてどうにも苦しくて、死ぬんじゃないかとブルブル震えて、それを誤魔化すように水面に釣り糸を垂れて、まったり同じ時間を共有し、楽しいことに笑いあった。
それはずっと、このアニメが描き続けてきたものだ。
だからその延長線上に確かに位置している、この衝突の後に続く物語が、ポジティブなものであることに俺は強く期待し、希望し、信頼する。
生きていくうえで必ずつきまとうネガポジが、暗い引力を引きちぎって明るい方へと進み出せるのだという、甘っちょろい夢を堂々語りきれる物語であることを、ここまでの蓄積と今回の冴えた筆致が、確かに証明しているのだ。
だから、俺は次回がとても楽しみだ。
常宏がどん底人生をリハビリする間、その空気を明るく保ってくれたコミカルな筆致と同じくらい、強烈に生きるエモーショナルで鮮烈な、このアニメの筆先。
象徴と印象を精妙に操り、男たちの視界に何が写っているのか、何が震えているのかを切り取ってくるシリアスな演出力は今回、無邪気に”釣り”を楽しむ子ども達を幾度も切り取る。
それが常宏と貴明の過去と未来に重なっていることは明確だが、同時に貴明の後悔が暴かれる今回は、取り戻せない思い出ともシンクロしていく。
ハンドルを握り、鉄の凶器をコントロールできるだけの大人になった立場から、貴明は子ども達を見る。
何の不安もなく、釣具が売ってる穴場のコンビニに駆け込んできた子ども達を、貴明に手を引かれて”仕事”を得た常宏は見る。
彼らは物語が夕暮れを過ぎて、重く暗い闇夜に飛び込んでいく境目を走って、明日を約束して去っていく。
それがただただ”釣り”を楽しむだけで終わらない、生き死にの重たさを飲み込んで複雑になってしまった人生を生きる、かつて子どもであり泣きじゃくる赤ん坊だった二人の、未来を静かに示していることを、僕は願っている。
アイツラはバカなガキみてーに楽しく”釣り”やってたほうが、やっぱ可愛いのだ。
今回無邪気な幼年期は二人から遠く、手が触れれないものとして描かれ続けている。
それは極めてリアルで美麗な現実の釣り場を描き続けてきた筆致を遠ざけ、ぼんやり白く浮かび上がり、ディテールを潰した思い出の中、弟とキャチボールをする黒髪の貴明と共鳴する。
そこは夢であり、思い出であり、彼岸だ。
移り変わる時の中、既に人が死んでしまっていたり、あるいは明日目覚めず終わるかもしれない恐怖に震える場所は、いつだってリアルに、時の刻みから逃れ得ぬものとして描かれている。
対して既に終わって取り戻せない思い出には、時の刻みも建物のリアリティもなく、のっぺりと平穏で美しい。
思い出は、全てがしによって終わってしまった後の景色は、そういう色をする。
常宏がうっかり取り落としそうになった携帯電話を、しっかり者の貴明が受け取り、そこに刻まれた命の不安を盗み見た後。
名エピソード第6話のシリアスさを引き継ぐ形で、アイス姐さんから貴明へと常広の心臓が手渡され、男は瞳を冷やす。
もう一度、”弟”を失うかもしれない。
その予感をヘラヘラ笑顔で塗りつぶして、マジな話ができる二人きりの夜に誘い込むまでは、物語は明るく楽しいいつもの調子を、優しく保ってくれている。
キラキラの目、釣果0のシケ面、のどちんこ丸見えで笑うハナちゃん。
それは嘘じゃない。
確かにそこに在って、必ず戻って来る場所だ。
人生を照らしてくれるポジな色合いをちゃんと描かにゃ、後々這い出すネガは映えないわけで、演出の緩急としても序盤の明るい調子は大事なわけだが。
しかし同時に、アイス姐さん(が突き出す、常宏命の問題)の存在感をカップラーメンと対比させて過剰に大きく見せ、目が見えない不安感を強調してくる絵の作り方なんかで、シリアスへの助走はしっかりなされている。
俺はこのアニメの、場面やエピソードごとのムードを的確に描き、それをつなぎ合わせてメリハリつけて展開させる能力の高さを強く買っているが、話がクライマックスに向けて大きな曲がり角を曲がる今回、特に強く出ている。
こういうの食うのが、俺にとっての”深夜アニメ”の醍醐味だ。
花ちゃんが舞台から降り、男二人が肩を並べて夜を共有する。
その匂い立つように豊かな沈黙の全部をどっしり見せてくる演出も、作品通して的確に活用されていて好きだ。
何も言わないけど、言葉がないからこそ確かに伝わるものを共有すればこそ、繋がれた関係。
それに追いすがるように、常宏は貴明の告白を聞き届けてその顔を真っ直ぐ見て、心のラインが上手く繋がらずに釣果を惜しむ友達に、何かを告げる決意を固める。
心の揺れが身体にぶつかって生まれる仕草や表情を、丁寧に追いかけていく描線が情感に溢れていて、大変良い。
空振りに終わったかに思える貴明の自己開示は、確かに常宏に届いていて…というか届き受け止め返せるだけの自分を、貴明のおせっかいが作ったからこそ戻ってきて、一見夜釣りに釣果がない描写は芯を食っていないようにも思える。
しかし弟との過去に何を置き去りにしてきたのか、自分もまた常宏と同じ逃げ惑う臆病者である事実を隠してのコミュニケーションは、後に破綻してしまう。
だからここで、今までの暖かで優しい日々の成果を確かめるような真心のコール&レスポンスが”釣れない”のは、理にかなった描写だと思う。
ここまで貴明は、社会上経済上倫理上、あらゆる側面で常宏に優越してきた。
真っ当に生きていくにはどうしたら良いのか、金の稼ぎ方から使い道、保険証のありかから病院の予約まで、何もかもを正しく教えてくれる”兄”として、二度目死にかけ野郎の手を引いてきた貴明はしかし、常広の兄貴ではない。
彼に支えられ導かれることで、なんとか常宏は人生の軌道をポジティブ方向へと押し上げ、生きていいと思えるくらい楽しいものに確かに出会ったのだけど、それは常宏自身の人生であって、貴明が己の後悔を取り戻すための素材ではない。
そうあってしまえば、貴明は確かに嘘じゃない持ち前の善人っぷりを裏切り、自分の満足のために嘘で塗り固めた正しさで他人を食う、”悪い釣り人”になってしまうだろう。
だからその釣り竿が空振りに終わるのは、必然だし善いことですらあるのだけども、同時に常宏のどん底人生が嘘つきブラコン野郎に釣り上げられ、ようやっと光の方へと進んできたことも事実だ。
下を向きながらそれでも目を閉じず、自分の秘密(あるいは真実)を大事な友達に告げられるようになったのは、間違いなく貴明と出会い、共に暮らし働き釣ったからだ。
いつだってネガ野郎の世界に光を連れてくるのは、ピンク髪の透かしたポジティブ野郎であり、行き過ぎる車のライトが貴明の顔を照らすカットは、そういう関係性を確かに照らし直している。
しかしそういう、”兄”と”弟”に勾配がついた関係性のまんま、きらびやかで優しい嘘で貴明が自分を守ったまんまの関係では、二人は本当に行き着く場所へと進めない。
自分の中にあるどす黒いネガを全部出して、嘘のないコミュニケーションに血まみれ傷ついて、そうやってやっと突破できる場所へと、対等に進み出す事で、物語は決着へと進み出していく。
だからこの、一見二人の成長と変化が適切に収まったようにも思える対話の終わりが、橋桁に阻まれて壁がある構図になっているのは、凄く適切だ。
弟の死がすでに自分の中で決着が付いて、全てを俯瞰で正しく見通せるのだと、無敵の天使見てーな面してる貴明の、赤黒い心臓。
それがコンビニの向こう側、血の色の夕焼けの中で確かに脈をまだ打っていることを思い知らされると、常宏の顔から笑顔が消える。
アイツに甘えて支えられて、助けられてこのまま進んでいく安堵感が生み出す、チャーミングな微笑み。
そこに身を預けていては何かが嘘になってしまうことを、唐突な訪問者は残酷に告げて、レジカウンターが二人を遠ざけていく。
そこではお互いの顔が、目が、切り取られてよく見えなくて、対等で安定したコミュニケーションが成立していない。
後に二人の部屋の中で演じられる衝突の、静かで不穏な前駆といえる。
血の色、生の色に輝く夕焼けは、貴明の極めて情けない真実を告げる叔父さんだけを飲み込んでいて、仕事中な常宏はそちら側には(まだ)踏み出せない。
しかし確かに、そういうモノが世界に在って、自分を支え導いてくれるはずの貴明を撮り逃していないことを、一方的で顔の見えないコミュニケーション未遂は、しっかり告げてくる。
そういう、十全ではない真実の押しつけが何かを揺るがし、人生を動かしてしまうことだって在るのだ。
かつて診察室で余命申告とともにそういう場面に行き合い、全力で逃げ出した男は、この赤い衝撃からもう逃げないことを選ぶ。
目を開け、走り、追いつくことを選ぶのだ。
俺は貴明に事の真偽を確かめようと、必死に常宏が疾走る場面で泣いてしまった。
第3話で目をつぶって赤ん坊のように逃げるしかなかった男が、今度は自分の前に突きつけられた衝撃を確かめるために、大きく目を開けて突っ走っている。
そう出来るだけの何かがこの子の中に育って、弟を救えなかった代償行為だったとしても、貴明の優しさはそういうモノを確かに育てたのだ。
それは、凄く意味のある変化だと思った。
そういう、ネガに向き合う強さを得たからこそ、常宏は貴明の都合の悪い部分にぶつかって、苛立たせ傷つけていく。
ずーっと余裕を保ち、間違いだらけの常広の人生をリードしてきた貴明が、生身の人間だからこその苛立ちを携帯電話を握る指に宿して、イライラ落ち着かない様子が好きだ。
そういう生身の苦しみを捨てられなかったからこそ、縁もゆかりもねぇカスの人生に前のめりに体重を預け、この男は常宏を助けてきた。
それを成立させるためには、揺るがず間違えない正しさってのを貴明がまとっている必要が在って、でも夕焼けの中突きつけられた不都合な真実は、それが嘘だと教えてくる。
いつもポジな側に身を置いているように思えた貴明が、常宏にまさるとも劣らない哀しみや痛みや不安を…暗いネガを抱えているのだと。
そっから抜け出すための契機は、情けなく弱く見えたネガティブ野郎にこそ在る。
だから今まで…あるいは橋上で演じられた青い夜の自己開示のように、貴明が常に光側に立ち、常宏が常に闇側に立ってきた関係性が、ここで反転するのだ。
それは”兄”に手を引っ張られて人生の暗さから、抜け出すばっかの”弟”であることから常宏が脱出する未来を予告してるし、それを頑張ってきた貴明がどんだけ暗い場所に身を置きながら、ヘラヘラ明るい顔をして死にかけ男を救ってくれていたかも、適切に描く。
その軽薄で軽妙な色は、思いの外必死で切実な祈りに照らされていたのだ。
その嘘が、夕焼けの暴露を受け止めて壊れていく。
今まで通り、逃げる”弟”の手を引いて正しい場所へ引っ張っていこうとする貴明の優しさを、常宏は欺瞞だと跳ね除ける。
テメーだって逃げてんじゃねぇか。
俺に説教できるほど正しくねぇじゃねぇか。
この指摘に耐えかねて歯を食いしばり、目を剥く貴明の生身を、俺はずっと待っていた。
この人が人生のなんもかんもを既に決着させて、諦めたからこそ優しい男じゃなくて、血が通い現在進行系痛みを知るからこそ、怖くて怖くて死にたいほど怖かった男に手を差し伸べたのだという、事実を描いてほしかったのだ。
この暗い…しかし光が存在しないほどには暗くない部屋での衝突は、段々と距離を詰めてお互いが掛け替えなくなっていく関係構築に魅せられ、笑ってる二人が好きな視聴者には、耐え難く辛い。(俺だってそうさ!)
しかし同時に、ここにたどり着かなきゃ二人は”本当”になれないなという予感もずっとあって、貴明が貼り付けてきた空々しさを引っ剥がし、弱くて脆いネガへと常宏が切り込むこの場面は、痛いけど待ち望んできたシーンといえる。
ここで貴明の明るい正しさに殴り返せるくらい、そうしなきゃ何かが壊れて嘘になってしまうと感じるくらい、常広の人生の深い所に貴明がぶっ刺さっていて、それは一緒に”釣り”をしたからだ。
常広の生存戦略は兎にも角にも逃げの一手で、何もかもに見て見ぬふりして目を閉じ、向き合わないことで生き延びてきた。
しかし今回夕日の中に真実を知ってしまって、彼は目を開けてひた走ることを選んだ。
進み、戦うことを選んだのだ。
それが一方的に相手を突き刺して傷つけるだけだとしても、他人に本当は何をしてほしいのか…つまりは自分がどうしたいのか、何が辛くてどう助けて欲しいのか、他人に本気で吠える事を選んだのだ。
そういう所まで常宏が来れたってのは俺には嬉しいことだし、そうなるだけの物語を確かに積み上げてきたからこそ、ここのせめぎあいは心に迫る。
ずーっと崩したギャグ調で、不安のないコミュニケーションを続けてきた二人は、ここに至ってお互いの目が見えない影の中に飛び込む。
それは眼の前の誰かが、自分ではない他人でしかありえない人間の業が、必然的に生み出す闇だ。
自分が何に苦しんでいるのか、曝け出してくれなきゃわからない。
この惨めさに、見えない不安に向き合うくらいなら、取り繕った嘘で幸せを誤魔化して、嘘っぱちで生きていきたくなるほど辛くなるものが、自分を包囲しているなんて思いたくない。
それでも確かにそこにあるものを、常宏の長い前髪の奥、涙を滲ませながら睨みつける目は抉る。
俺はここで、貴明の過去の傷や痛みに何の配慮もなく突き刺す身勝手をブン回しながら、常宏が曝け出した瞳の色が好きだ。
それは必死に「俺を助けてくれ」と吠えている。
それを家族にすら告げられず、孤独な闇の中で身体を縮こまらせて、赤ん坊のように身を丸めていた青年が、この男になら助けてもらえると信じたからこそ、糾弾の奥で救済を求め続けている。
突き放し、同時に追いすがり、人間性の光と闇を入り混じらせ合いながら、自分がどんな人間であるかを素っ裸で見せつけている。
その訴えを受け止めれる強さは、嘘つき野郎にはないから、貴明の前髪は彼の瞳を覆い隠して、その感情は読み切れない。
しかし。
かつて目の前で逃げじゃくるクソボケが、どんだけ苦しいのか解ってしまえる男だったからこそ、二人はこのヒリついた影にたどり着いた。
貴明は自分の一番隠したい嘘、未だ何の決着もついてない急所をえぐられたからこそ、身勝手で薄汚い人間らしさを暴れさせて、瞳を閉じて眼の前の相手と向き合うことから逃げようとして、しかし鏡越しに自分がどんな顔をしているのか、眼の前の”弟”が何に泣いているのかを、しっかり見てしまう。
車の窓に写った自分を悪くないなと思えた貴明が、そういう視力を掴み取れなのは、人生の良き手本が隣りにいてくれたからなのだ。
みっともなく這いずるように逃げ出し、あるいは獣のように激情のまま暴れ来るって、しかし男たちはただ、暗い闇の中で身を沈めているだけじゃない。
自分たちが”釣り”を縁に確かに繋がり、積み上げた日々の手触りを思い出して、何かをぶっ壊すだけじゃないやり方を求めて自分をせき止めることも、暗い影の中差し込む光に目を開けて、どこかへ行くために車を…大人の証明を走らせることだって出来る。
他人の家財もお構い無しでぶっ壊す常宏の暴れっぷりに、救えぬクズより耐え難い苦しさを、見ぬふりを続けてきたからこその爆発を感じてしまうのは、もうあの子がすっかり好きだからだな…。
常宏は叫んで逃げることは在っても、泣くことはなかった。
でもずっと泣きたいほどに苦しくて、それを受け止めてくれる相手だと思ってきたから、貴明が自分と同じ弱い嘘つきだったことに傷ついた。
そうじゃないと否定して欲しかったから目を開けて必死に走って、今まで踏み込めなかった過去まで踏み込んで、踏み荒らしてぶっ壊して、でも壊れないものが自分の手の中にあるのだと、思い知らされて泣きじゃくる。
その赤子のような涙を、ようやく吐き出せて、俺は良かったなと思った。
そう思える本物の友達が、”釣り”やる中で出来たのだ。
そしてそいつだって、晴れることない人生のネガに、取り囲まれ苦しんでる。
同じだ、常宏。
同じなんだ。
そういう他者との鏡像性、そこから生まれる共鳴に既に目が開いているからこそ、貴明は縁もゆかりもねぇ他人の手を取り一緒に歩いて、自分の心臓をかき回されてなお、鏡越しに自分と他人の顔を見た。
見れてしまう男なのだと、映像が俺に告げてきたから、それを信じて次回を待つことにする。
人生の大事な光をなんもかんもぶち壊しにして、暗い死の影こそが世界の全部だと、当たり前で面白くもねぇニヒリズムにきっちり向き合ったうえで、でけー獲物を釣り上げてくるアニメなのだと、俺は”ネガポジアングラー”を信じる。
そうさせてくれるだけものは、既に視ているのだ。
まーこんだけ嵐が吹き荒れちまうと、明るく楽しい日常ってのを取り戻したり作り直したりするのも大変だとは思うが、そう出来るだけの材料が彼らの間に育っているってことも、”釣り”を描く中で既に示されている。
何しろ奴らは世界に二人きりじゃなくて、エブリマートの愉快な奇人たちがいてくれてるわけで、何かがぶっ壊れて足りねぇってんなら、そっから持ってくればいいだろう。
そうやって暗い影に何かを削り取られて、必死に光を釣り上げて治していく物語のことが、俺は好きだ。
このアニメはずっとそういうアニメで、これからもそういうアニメであり続けるということを、今回の冴えた演出は的確に告げてきた。
タイトルに関した”ネガポジ”を重要なフェティシュとして使いこなし、釣り場にたゆたう時の変遷だとか、人間たちを飲み込む黒白の明滅だとか、描くべきもの・描きたいものをしっかり捉える武器として活用してきたこのアニメ。
青年二人が抱えた暗い闇がぶつかり合い、お先真っ暗な不安だけが待っているようでいて、彼らの魂の奥底に在る光、積み上げてきた輝きが、闇の中鮮烈に、確かに描かれていた。
表現による展開の暗示は僕が思い込んだけの妄想であり、作品と波長が噛み合えば未来の必然だ。
今回大団円への約束手形として、表現の奥に練り込まれてると僕が感じたもの、見つけたものは、僕が望む”ネガポジアングラー”の終わりに影響され、ねじ曲がり、歪んでいる。
でもそれが、確かにこのアニメを作り上げている人たちが僕に伝えたいと思った物語と、重なる瞬間がある。
そう感じられることがあるからこそ、僕はアニメを見て感想を書き続ける。
次回、見たかったものが見れると信じ待つ。
楽しみだ