イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

アポカリプスホテル:第3話『笑顔は最高の インテリア』感想ツイートまとめ

 タヌキ星人一家、文明崩壊後の銀座に顕る!
 50年ぶり二度目の異星人来訪を通じ、機械知性の在り方を新たに抉り出す、アポカリプスホテル第3話である。

 前回の植物宇宙人は言語コミュニケーションが難しい相手であり、人間味の薄いエイリアンを相手に悪戦苦闘…という感じだったが、今回は人間を擬して人語を喋るヒューマノイド
 …と思ってたら、なまじっか人間っぽいだけに銀河害獣のヤバさが際立ち、摩擦の多いコミュニケーションを楽しく描く、ブラックコメディの色合いが濃くなった。
 食べてクソして生き延びる、生物的生物の浅ましさと、100年でも50年でも不変のまま待ち続けられる、鉱物的生物の静止した清潔さ。
 そのどちらが適正な在り方なのか、人類壊滅後の社会に改めて問い直すような、静かな迫力があったように感じる。

 

 ここまで三話描かれた、人無き銀河楼の美しい清潔さ。
 無垢なるロボットが初期プログラムの通り、迫りくる滅びを必死に跳ね除け、人類との約束を守るべくホテルを美しく保ち続ける営為には、思わず僕らも心を寄せてしまう。
 だからそれをぶち壊して穴を開け、クソまみれに汚すタヌキどもの所業にも苛立ちと怒りを覚えるわけだが、そういう野放図も生きればこそである。
 フグリたちに悪意はなく…まぁ”習性”を逆手に取って都合よく客の立場を押し通そうともするわけだが、根っこは臆病で必死な、ただの生き物だ。

 ヤチヨを困らせようとしてクソ積み上げているわけではなく、戯画化されたポンポコではなく農家の宿敵たるクソ害獣そのままに、あるがまま生きようとして、人間型の鋳型にはめられていく。
 ヒトなら快く迎い入れて、野良で飢えて死ぬこともなかろうと擬した人の形が、逆に獣たちを縛り付け文明化していく姿には、微笑ましい暴力性がずっしり宿っていて、極めて竹本泉的ブラックジョークな風景だった気もする。
 彼らがヒトではなく、ホテルの客でもなければ、銀河楼の外側でドロとクソにまみれ、自分の手で餌を取って、”習性”のままに生きて入れたのだろう。
 しかし、お客様としてホテルに滞在することで、窮屈な枷に自らハマる。

 今回クソタヌキに鉄拳制裁ぶち込むことで、ヤチヨにプログラムされているヒューマニズムが、結構凶暴な人間中心主義の色合いを帯びていることが可視化された。
 ヒトを絶対視し、その定義を器用に書き換えながらも、思い出の中プログラムされたホテルらしさ…清潔と思いやりに満ちたおもてなし…と、そこに反射する人間文明の残滓にしがみつく、ヤチヨの在り方。
 それは健気で尊く、同時に頑なで危うくもある。

 

 タヌキたちが知ってて黙ってる、宇宙船全滅の事実を幾度知らされても、ヤチヨは諦めることなくホテル運営を続け、ヒトの形を擬し続ける。
 主たちはもはや空の上、死んで骸となり、もはや動かぬモノになりたてているのに。
 この営為が愉快なタヌキを客/従業員に加え、一体どこに行くのか。
 中々先を読ませない、ほのぼの終末コメディで安心させない心地よい不安定さを堪能しつつ、楽しみにもなるエピソードだった。

 心地よく力んだ本気のギャグを山盛りブッコミつつ、ヤチヨもタヌキ星人も完璧な聖人になどけしてならず、変化と揺らぎに満ちた生物的生命のありよう、永遠を待つ鉱物的生命のアイデンティティを、笑いに交えて教えてくれる。
 俺はあの美しく可愛いOPで、ヤチヨがずっとダンスパートナーのいない一人踊りをしているのが、寂しくて好きだ。
 あの子の在り方に寄り添い、踊りを受け止めてくれる人類は今、地球にいない。

 いるのは生き物として食べてクソして生き延びること、自分に心地よい環境を獲得することに必死な動物であり、それは彼女が自分の中に取り込み、理想とした人間の真実、もう一つの顔でもある。
 あまりにも清潔で完璧過ぎた銀河楼という浄土が、ぶっ壊れクソに塗れることで”現世”としての手触りを得た回…とも言えるか。
 それは不快なノイズに思えて、機械とエイリアンが新たな物語を手に入れてくための場所に必要な、バランスの取れた描写だったと感じる。
 150年をひとっ飛び、鉱物的スケールで永遠を繰り返す優しい機械達だけでは、描ききれないものが確かにあるからこそ、クソタヌキは”習性”そのままに、カオスに生きる。

 

 そんな彼らが銀河楼の秩序に教化されるだけでなく、ヤチヨ達にも何かを教え、与えて交わり変化していく様子を、今後見れると良いなと思う。
 プログラムされた永遠だけでは、時の残酷さには抗えず確実に終わっていくだけだってことは、第1話で温泉採掘ロボさんが描いているからね…。
 滑稽な徒労にしか思えないヤチヨの温泉掘りは、彼の終わりを終わりにしないための、極めて生物的で人間的なもがきなのだろう。

 人間をトレースし永遠に繰り返すだけじゃない、もう一つのヒューマニズムの萌芽を、健気なロボットたちがそこから得れるのか。
 決定的に変わり果ててしまった世界を、生き延びるすべを学び取れるのか。
 本性四つ足な奇妙な隣人と、長い滅びに抗いながら自分たちなりの小さな永遠を守ってきた機械立ちの、摩擦の多い触れ合いが今後、どんな物語を紡ぐのか。

 

 初手からホンワカだけでは終わらねぇと、しっかり告げてくれる仕上がりで大変良かったです。
 タヌキ一家の生き汚さは、一見ロボットたちの清潔な健気と対立するようでいて、根っこの部分が繋がっとるからな…。
 そしてヤチヨがそういうところから自分にないものを学び取らないと、どうにもいい未来を掴み取れない狂ったポンコツだってことも、散々見させられてるからな…。

 この前向きで明るい透明感と、隙あらば死の影を割り込ませるシビアな視線がどう交わって、終末SFコメディの輪郭を縁取っていくかも、本当に楽しみだ。
 どういう温度感で走り切るつもりなのか、読み切らせず安心させない作りは、視聴者に親切だよなぁ…。

 

 

 

画像は”アポカリプスホテル”第3話より引用

 というわけで、文福茶釜が空から落ちてきて、50年ぶりのお客様銀河楼に来訪! である。
 はしゃぐヤチヨがとにかく可愛いけども、環境チェックロボさんがシビアに睨むように、人間を擬したタヌキどもは待ち望んでいた主ではなく、ホテルにとって望ましい客でもない…かもしれない。
 ポットになったり花火を打ったり、メッチャトンチキな形でヤチヨが己の制約を振りちぎり、新たな存在になりうる可能性を既に有しているのは、優しくて面白い。
 もはや被造物の枠を超えた、スーパーアンドロイドなんだよなヤチヨは既に…シンギュラリティの向こう側に、自覚ないまま到達済みだわ。

 ヤチヨはホテリエロボとしてプログラムされた初期条件に、愚直に従い永遠に待ち続ける健気さと寂しさを、キャラの主属性として背負っている。
 同時にそこで終わらない変化の可能性(生物的生物としての属性)も有していている。
 それはポジティブで笑えるだけでなく、全てが終わってしまう”死”と隣接し続けていて、宇宙船の中でタヌキが何を見たのか、最後に明かされるネタバラシにもそこら辺は顕著だ。

 

 第1話で静謐に美しく描かれた、永遠を待ちわびる機械たちのどん詰まり。
 あそこで温泉採掘ロボさんの”死”を描いておいたことで、ヤチヨのトンチキな日々が静止せず、元気に野放図に生きて踊っている感じが、自分の中にある。
 性悪タヌキどもは色々浅はかな嘘を積み上げ、タヌキらしい臆病ですぐさま化けの皮を剥がされるわけだが、それは全部”生きる”ということに繋がっている。
 野良で死にたくないから人間の姿を模し、ホテルに歓迎されて安定した餌と寝床を得て、タヌキ星最後の生き残りとして狸生をつなごうと足掻く。

 そこにはヤチヨが見ない/見れない、シビアな世界の実相が確かに写っている。
 既に人類は終わっているのだと、ヤチヨ以外には明白な事実を頑なに飲み干さないことで、ヤチヨは終末に絶望せず、人類文明最後の残滓を美しく、清らかに保ち続けている。
 正気に返ってしまっては、機械だって夢など見ていられないのだ。

 

 

 

 

 

画像は”アポカリプスホテル”第3話より引用

 機械の永遠は高潔であると同時に狂っていると、極めて小市民(あるいは小動物)的に生に汲々とするタヌキどもの滑稽が、しっかり照らす。
 生物が生きるということは、他人を便利に使い自分たちの領域を広げ、食ってクソして突き進むことだ。
 それは僕らの愛した銀河楼には全くふさわしくない、不衛生なカオスの拡散であるけども、確かに生物が生物として在る時滲む、真実のかたちである。
 そこには野放図なパワーが宿り、好き勝手に暴れ倒し、ヤチヨの大事なホテルをメチャクチャにする。
 これまでそうだったように、そういう作用にヤチヨは抗って、シーツを取り替え清潔な秩序を造る。

 タヌキ一家は銀河楼に凝集された、人間種の理想に無知で不慣れだ。
 同時にただ知らないだけでもあり、水槽をプールにして観賞魚を餌とする行為に、誰かを踏みにじってやろうという意図はない。
 まー”習性”ってことにしておけば好き勝手絶頂ぶっこけると、悪賢く学んで大暴れしている様子もあったが、そこもタヌキらしい生き方ではある。
 ここら辺、移民との文化摩擦を凄い切れ味で戯画化してもいて、はるか遠い終末世界に身近で生臭いヤダ味を、精妙に混ぜ込んでもいたなぁ…。
 その解決にぶちかまされるのが怒りの稲妻パンチなの、ブラックユーモアに満ちた決着で良かった。
 結局のところ、いざとなったら暴力よ!

 

 ここまで三話、ヤチヨを支える銀河楼的価値観を見事に描き、積み上げてきたことで、タヌキへの鉄拳制裁はやり過ぎ感より爽快さが先立ち、クソ垂れ流す銀河害獣に正統な裁きを叩き込んだ感覚を、僕らも覚える。
 しかし彼らが確かに、不衛生(と人間基準だと感じられ)で無秩序(だとロボットは思う)な世界に居心地の良さを感じ取り、そうなってくれたほうが安心出来る様子も、しっかり描かれている。

 タヌキはただタヌキらしく、野放図に獣であろうとしただけなのだ。
 そしてその価値観は、憤怒のあまり行動プログラムを書き換えたヤチヨのブチギレで制裁され、タヌキのほうが銀河楼に合わせる結果を持ってくる。
 ここら辺のスペキュラティブな味わいは、まさにSFの醍醐味といった感じで素晴らしい。

 

 

 

 

 

 

画像は”アポカリプスホテル”第3話より引用

 タヌキたち必死の生存戦略は微笑ましくて心地よくて、暴力にまみれて侵略的だ。
 半歩間違えば、愚かしい人間が刻んできた物語の再演として、お互い死に絶えるまで譲れない戦いになだれ込んでもおかしくない、暴力的現状変更。
 それを受け入れてくれる相手だったからこそ…あるいは受け入れざるを得ない究竟に、タヌキ星最後の生き残りたちが追い詰められているからこそ、ヤチヨは涼しい顔で銀河楼的価値観にタヌキたちを飲み込み、かわいいポン子は泣きじゃくったあとにお掃除を手伝う。

 一見微笑ましい風景だが、ポン子と違って、ヤチヨに”泣く”という機能は搭載されていない。
 諸星すみれ渾身の泣き演技が素晴らしかったが、ポン子は鉄拳とともに顕になったヤチヨの怒りを目の当たりにして、泣きじゃくり学び取り、自分を変える。
 あるいは銀河楼に支配的な価値観にすりより、生存の可能性を上げる。
 この交流が機械とエイリアンの微笑ましい日常なのか、力に満ちた支配者と生存に必死な奴隷の風景なのか、切り分ける線を引くのは難しい。
 その割り切れない苦さひっくるめて、ブラックユーモアSFとしての冴えだと思う。

 

 ゲラゲラ笑わせてもらったあと、ふと考え直して肝が冷える視聴感は、そのクレバーな悪趣味にたしかに宿ってる暖かな視線を奥に秘めて、複雑で豊かだ。
 タヌキたちが笑える死にものぐるいで、星の滅びから抜け出し新天地に生き延びようとする姿は、優雅に永遠を踊るヤチヨと真逆に見える。 しかしヤチヨの悠然は、待ちわびる人類帰還がもはや成し遂げられなさそうな事実…目の前に幾重にも積み重なる”死”を見ないことで、成立している狂気でもある。

 別に絶望に飲み込まれ、血みどろサバイバル演じれば”人間らしい”ってわけでもないが、そうなってもおかしくない滅びの影は、タヌキ共にも長く伸びている。
 だから奴らはあんなに必死で、だからこそ滑稽で、生きることの意味も笑いの中に宿っている。

 

 

 さて、そんな見苦しい熱に縁遠いヤチヨの未来は、どんな色で広がっていくのか。

 それは銀河楼の新たな仲間になった、ポン子との日々が紡いでくれる物語になるのだろう。
 ヤチヨと同じロボでありながら、人類種の”死”を認識している環境チェックロボさん。
 彼とは違う角度から、銀河楼の身内になったタヌキが何かを見つけ、抉り出し、ヤチヨに手渡してくれると思う。

 そうやって時間のスケールから生きることの形まで、何もかも違っている異物たちがお互い混ざり合って、滅びを超えうる何かになっていく様子を見守るのは、ただただほのぼの楽しいで終わらない元気を、僕に手渡してくれる。
 三話で150年ぶっ飛んだことで、ワイドスクリーンバロックの味まで出てきた終末コメディ…次回も楽しみ!