明暗生死入り混じる刃境で、迷子たちはどこへ進み出すべきか。
背筋を戦かせるホラー演出と切ない青春が入り混じり、極めてこのアニメらしい味わいが滲み出す、光が死んだ夏第6話である。
片岡史旭…やりおるわ。
話自体は破局と希望、両方をにじませながらの小さな足踏み…って感じではあるのだが、ヒカルという存在の異質性と陰り、怪異でありながら人(ヨシキ)に惹かれる切なさが、際を越えた存在を公平に見れる朝子ちゃんの視線を借り受けて、とても鮮烈に描かれる回だった。
冴えたイヤ演出でゴンゴンこっちを殴ってくる手際と、怪物たちが秘める純情を描く筆の冴えが同居してて、脳髄をグラグラ揺すぶられる。
冒頭、ダイレクトにオマージュ元を語るスワンプマンのプリントからして、今回は寄り道に見えて凄く作品の心臓をえぐっている回だと思う。
自分が自分であること、人間が人間であることに迷いながら潜り、己を掴み取っていく高校二年生の夏。
もし光が死なずここが地獄の因習地方でなければ、すごく当たり前に穏やかに…しかし激しい思いの波風を伴って駆け抜けていただろう、青く眩しい季節。
その様相は理不尽な死と蘇生によって大きく変わってしまったが、子ども達の純粋さと襲いかかる残酷は、根本的には同じだ。
何が僕を僕たらしめるのか。
そういう普遍的な問を、ずっとこのお話は探っている。
山から降りてきたヒカルは生き死にの境を、人間に備わったソレとは違う感覚で見ている。
生から死への遷移は不可逆なものではなく、自分がその証明であるように境目は揺らいで、形を変えて死者は生者の隣りにある。
それゆえ殺しへの禁忌が弱く、生きることと死ぬことの区別を倫理の基本に置く人間社会…というか極めて健全な倫理を備えたヨシキの隣にいることが、難しくもなる。
ケンカもするけどずっと隣にいれた…いたいと思ったし、境目を越えて自分の内側に入ってきても欲しかった光と、ヨシキが共有できていたものが実は壊れていることを、今回二人は思い知る。
そしてそれでもなお、ヒカルの側にいることをヨシキは選ぶ。
人間の理屈が通じない怪物であったとしても、かつて思いを寄せた相手がそう成り果てたとしても、ヨシキはスワンプマンの問に向き合うことを選び、同一性が絶たれた動く死者を一人にしないことを、光と闇の境目で選んだのだ。
この決断を俺は凄く尊いものだと思うし、オカルト的な嵐が迫りくるこの集落では、そうして選び取ったものを厳しく試す未来が、彼らに待ち受けてもいるだろう。
変わり果ててしまったもの、守れなかったものに悩み、誰にも言えない悩みを抱えて戦うヨシキとヒカルが、その嵐に粉々にならないことを、俺は祈っている。
画面越し、祈ることくらいしか出来ないからな…。
ヒカルが大事であること、ヨシキが特別であること。
お互いの存在をアイデンティティの拠り所にしつつ、異界を見る目を持たないヨシキと、根源的に異界の存在であるヒカルのあり方は、なかなか通じ合わない。
もし光が生きていたのなら、時に穏やかに語らい、時に激しくぶつかり合いながら、極めて人間的な青春を通じてお互いのゴルディロックス距離を掴み取れただろう関係は、光の死と再生によって…それを可能にする集落の異質性によって、異物に成り果てた。
…ように見えて、怪物の中にある人間性、人間が怪物に手を差し伸べようとする震えに、優しく鋭い視線を向け続けているのが、この怪異青春譚の特色だろう。
ヒカルを怪物として排除しても良さそうな朝子ちゃんは、おばあちゃんから手渡された教えに導かれて、その本質を聞き届けようとしてくれる。
ヨシキが間に入ったからこそギリギリで止まった、(人の世においては)取り返しがつかない決断は、そういう歩み寄りも断ち切ってしまう。
殺したら何かが終わってしまうという、人間社会の常識。
それは光が死んだからこそ心と命を得たヒカルには、なかなか染みない他人ごとだ。
それでも。
それでも特別なたった一人じゃない誰かを、自分には馴染みのない世界のルールに基づいて大事にできるようになったら、ヒカルは今より善い存在になれると思う。
ここでいう”善い”は「普遍的倫理に基づいて好ましい」という意味でもあるし、「ヨシキが身を置く社会規範に合致している」という意味でもあるし、「光の遺志を継いでしまった責任を果たしやすい」という意味でもある。
ヒカルが生死の境が曖昧な故郷の価値と、生まれ落ちてしまった人間社会の倫理、どちらに基づいて己のあり方を決めていくかは、こっから先の物語で選べばいいと思うけども。
そこにヨシキと隣り合うことが離れず存在しているのなら、ヨシキと彼が属する社会を支えている根源的なルールには、理解や親和性を示したほうが、無理なく隣にいれるだろう。
そうやって怪物が人間社会に漂白されていくルートだけでなく、ヨシキや社会がヒカルの異質性を聞き届け、生き死にの境が曖昧な異郷を己の中に取り込んでいく道も、勿論今後開けていくと思う。
というか現実と非日常を明瞭に切り分ける発想自体が、古い因習が実効を持ってしまっている(そしてそれが途絶し破綻しかけている)この場所では機能せず、あっちがこっちを、こっちがあっちを、互いに理解していく歩みが、善い結末を望むなら必要なのだろう。
ここら辺、ヨシキが霊能に極めて疎く、山やヒカルを動かしてるルールを直感するのが難しい設定なのが、良く効いてるなぁと思う。
解らないからこそ、解るには努力がいる。
それは山から降りてきて親友の形を奪ったバケモノが相手でなくても、人間が人間をわかろうとし、自分がなぜ自分でいられるのか知ろうとする営みにおいて、必ず顔を出す難しさだ。
だからこそそこには大きな意味があるし、実は自分を理解してくれて歩み寄ってくれた朝子ちゃんを殺さず、立ち止まってゲロ吐くほどの異質性をヨシキに提示できた/してしまったヒカルが、挑まなければいけない課題なのだと思う。
特別で殺したくないヨシキと、最悪死んじゃっても問題ない朝子ちゃんとの間にある境界線は、一体どこから生まれるのか。
何故誰も殺してはいけなく、特別に思えない何かを大事にしなきゃいけないのか。
スワンプマンのプリントに刻まれた哲学的な問いかけは、教師からの押しつけではなく極めて身近な…多分命がけになる実践として、村の子どもたちを襲う。
つーかおじさん達の湿度を見るに、別に子どもに限らず人間全部がずーっと悩み、答えを探している課題なのだろう。
それをえぐり取る筆致は作品ごと様々あるが、この物語はホラーとジュブナイルを筆先に選び、その両方が凄まじく冴えていることで、素晴らしい切れ味を得ている。
目を背けたくなる恐怖と、深く分け入らなければ解らない心の震えが同時にやってくる今回は、そういう強みが凄く前に出た回だったと思う。




実際にヒカルが帰ってきてしまったヨシキにとって、珍妙なプリントが問いかける自己同一性は生身の課題であり、取っ組み合わなきゃ自分がどんな存在か、分からなくなってしまう爆弾だ。
そういう不鮮明な切実さを宿して、窓ガラスはヨシキの姿をぐにゃりと歪め、窓枠は平穏の中に在るクラスメートを遠くにのけていく。
もともと境界の演出が異様に巧いアニメであるが、色んな境目が混ざり合い侵犯されていく今回、縦横の幾何学は画面を的確に分断し、心の在処を見事に語る。
それは空間と他者だけに作用するわけではなく、場所に宿った時間…その断絶についても、力強く語っていく。
たしかにそこに光がいた場所は、明るい光に満ちて幸せに思えて、しかしそんな時間は過ぎ去ってしまった。
光はヨシキの眼の前で死に、光に似た何かになって蘇り、その境目をどう置いたら良いのか解らぬ無明が、同じはずの部屋に広がっている。
幼い頃には悩まずにすんでいた暗い影に、怯えて身を遠ざけるだけでは何も掴めないことをヨシキも解っていて、彼は変わり果ててしまった過去に踏み込み、現状を暴くヒントをポケットに入れる。
やっぱ忌堂家が背負っていた使命がこの状況に深く関わってて、村を支配する古いルールを推理し解体しないと、善い終わりは二人に訪れなさそうだよなぁ…。
光が生きていた過去だけが正しく、ヒカルが闊歩する現在は闇だと、鮮明に切り分けて描かないのがこのアニメの良いところで。
作り物の嘘っぱちであっても、花火に浮かれたこの夏は間違いなく眩しく輝く大事なものであると、思い出を永遠にしてくれる写真は語っている。
そこには確かに、眩しいなにかがあって…変わりゆく時間や残酷な運命、日常の薄皮一枚奥にある異質性が簡単に、それを噛み砕くとしても、このありふれた喧騒は大事なものだろう。
そういう虚実明暗が混ざり合う時間を、大事に美しく律動させてくれるアニメであることが、僕にとってはとても嬉しい。
今回忌堂家にスケッチされた青春は、いつか壊れ変わっていってしまうことをもう知ってる、非当事者の視線で描かれていると思う。
そこには今思春期のど真ん中で地獄見ているヨシキたちを、窃視し慈しむ僕の感覚が投射されていて、既にそういうものを過去にしてしまったからこそ、客観で切り取れる余裕が宿っている。
長い前髪がカメラに覆いかぶさる、ヨシキ主観のPOVとこういう客観が同居しているところにも、このアニメらしい境界と越境が立ち現れている気はする。
僕らがハタから観察するこの物語と、ヨシキたちがゲーゲー吐いて振り回される人生は、触れ合いつつ混じりきらず、だからこそ生まれる火花が確かにあるのだ。




そういう断絶と混濁がヨシキとヒカル(あるいはヒカルと光)だけでなく、彼らの外側にあって特別には思えない誰かにも生まれる。
前々から善良な霊能の持ち主だと匂わされていた朝子ちゃんが、ズズいと境目を越えてヒカルに迫った事で、断絶は強調されつつ乗り越えられ、触れ合うものが何かを壊し、繋げても行く。
今回朝子ちゃんが「優しい怪物」への視線を作品に持ち込んだの、第3話で暮林さんが示した(そしてヨシキが飲み込みきれなかった)正しさに、柔らかな折衷案が持ち込まれた感じで好きなんだよな…。
まぁ幼いヒカルはシンプルで極端な世界観で生きているので、短絡的に自分の嘘が壊れたと思い、朝子ちゃんがそれを大事にしてくれないと感じ、ぶっ殺して自分と世界を守ろうとするわけだが。
ヨシキが間に合って、ほんと良かったよ…。
ここで間に合うからこそ、ヨシキとヒカルの旅は安楽な結末を許されずに、苦しい道を悩みながら進んでいくことにもなるんだけど。
朝子ちゃんはおばあちゃんから暖かく手渡された教え(境界線を越え、時代も飛び越えるもの)を判断基準に、ヒカルがヨシキを守ろうとする優しい怪物であると考え、語りかけた。
怪物でありながら人間の証を宿している存在としてヒカルを見る視線は、多分当人が考えるより鋭く彼の本質をえぐっているのだが、それを裏切るようにヒカルは朝子ちゃんを殺して口封じしようとして、その倫理のなさでヨシキを殴りつけて、ゲーゲー吐かせる。(サルトル的嘔吐!)
判断基準自体が人間のそれとズレているので、ヒカルの殺しへのためらいのなさはインモラルというよりアモラルなんだけども。
このズレはヨシキ(人間)とヒカル(怪物)だけでなく、現代を生きてる二人と死んでしまった光、特別すぎて混ざり合う二人とそこまで特別じゃない朝子ちゃんへと、複雑に乱反射している。
たった一人だけに縛られた、狭い視線を支えに激しく生きているように見えて(あるいはそう認識していて)も、人が社会の中で生きてしまう以上誰かの存在がそこに絡み、死んでもう対話できないからこその想いとか、無縁だからこその客観性とか、そういうものを乗り越えて手を指しべてくれる優しい思慮とかが、複雑な綾織を綴る。
光のカタチを借りて人間社会に生まれてしまった以上、ヒカルもまたその狭間に巻き込まれてしまっていて、自分だけが見れて感じられる冥府の理屈を押し通していては、欲しいものも掴めない。
そういう難しさを理解するには、生まれたばかりのヒカルはちょっと幼すぎて、うっかり自分を深く理解してくれる味方を終わらせかける。
この危うさは、花火にキラキラ目を輝かせる純朴と背中合わせなので、全くたちが悪いと思う。
ヒカルという存在を、的確に描けてる証拠でもある。




親友の死も目の当たりにし、セクシャル・アイデンティティの悩みを重く抱え込んでいるヨシキは、ヒカルよりも発育のステージが進んでいる。
目の前にいる存在が異質な価値観を持った怪物で(も)あるという衝撃にゲロ吐きつつ、へたり込む朝子に膝を曲げて近づき、顔を作って優しく帰すための、社会性の仮面を持っているのだ。
このペルソナは真実を覆い隠す嘘であり、大事なものを壊さず守るための防具でもあって、身につけるには世界と時間に自我を揉まれる必要がある。
そういう強さを鍛えてないヒカルは、第4話の河原でも今回のガードレール(どちらも境目であることに留意!)でも、ヨシキが膝を曲げる優しさや難しさや重たさに寄り添えない。
お兄ちゃんが見つめ悩んでいる難しい問題を、同じ視線で見ることは出来ないのだ。
生前の光はここら辺、むしろヨシキに先立って成熟を手渡してくれてた感じがあり、手を引かれるものと引くものの立場が死と蘇生によって逆転していることが、バケモノと人間の青春をよりややこしくしている感じもあるが。
ヨシキ自身グジャグジャな悩みを抱え、誰かに…光に助けられて迷いを抜けていきたい立場だったのに、今は人間のことも自分のことも解ってくれないバケモノのガキの面倒を見て、境目を越えて伸ばしてくる手にビビったり、震えながら繋いだりする立場になった。
弱音を吐いて泣きじゃくりたい幼さが、ヨシキの中にビンビン元気なことは朝子ちゃんを送り出したあと、力なくへたり込む様子からも見て取れるけど。
今のヒカルは特別な人のこの弱さに、寄り添うだけの知恵も強さもない、純白の子どもである。
こういう人間が傾いだ境目を越えて、ヨシキの隣に立つ資格を得るためには、当たり前だと思っている自分の感覚を疑い、生死の境を越えられない人間世界のルールに目を凝らし、そこに迷い込んだ異物である自分のことを、しっかり考える必要があるだろう。
スワンプマン自体が、スワンプマンでしかない己について考えることが、より善い境目を新たに生み出すことになるのだ。
現状ヨシキ兄ィだけが、赤ちゃんの面倒見続けてるヤングケアラー的厳しさが画面に濃くて、ほーんと大変ね…って気持ちが強い。
ヒカルが純情バブちゃんであることから離れ、自分とダチの距離感を見つめ直し、自分の居場所を定位し直す賢さに進み出してくれると、この不平等も平らになっていくとは思うんだけども。
でもいきなり全然違うルールで動いてる世界に産み落とされて、右も左も判らん中必死に生きてるクソガキに、「大人になってよ!」ってがなり立てるほど残忍なこともねぇからな…。
山田が必死こいて取り繕おうとしている、現実と幽世の境目が怪しくなっていくまで、どんだけのモラトリアムが許されてるか次第…かなぁ。




ともあれ、今の二人の間にはかなり分厚い境目があって、それでも光の中に手を伸ばし、あるいは闇の奥に目を凝らす理由も、お互いの胸の中にある。
それがヒカルの博士の幼さだけでなく、光が思い出の中に瞬かせていた想いでもあるかもしれないと、明滅する過去と現在が語りかけてくる。
記憶は再生できても感情が伴わないヒカルの蘇生が、あの烈光の中で光が何を感じたのか、教えてくれないのが残酷でいい。
それはお互いの胸の内をさらけ出さぬままに死んでしまった、少年の尊厳を守るセーフティでもあるのだろう。
解かりきらないことがあるのは苦しいけど、救いも宿している。
「そういう解ったみてーなことを外野からほざかれても、苦しいもんは苦しいし痛いもんは痛いんじゃい!」つう、少年たちの現在地を、自室の中に鮮烈な明暗の幾何学がよく語る。
ヨシキは光、ヒカルは影。
人間と怪物、生者と死者それぞれの領域を明瞭に宿しつつも、毛布をかぶった二人の姿勢は極めて似通っており、コントラストを保ちつつシンメトリーでもある関係性が、見事に可視化されている。
自分以外の存在と触れ合わない、私的な空間であるはずの「自分の部屋」においても、子ども達は白黒どちらか一色に塗りつぶされることなく、真逆のはずの色に取り囲まれ、惹かれ、手を伸ばして届かない。
それはとても苦しい、彼らの現実だ。
剥き出しの自分で複雑怪奇な世界/心と向き合うのが苦しすぎるからこそ、ヨシキたちは毛布という胞衣で己を包み、境目を強化してなんとか息をしようとする。
影の中から手を伸ばし、壊れるとしても手を伸ばしたい気持ち。
理解できない怪物に怯えつつ、隣り合って共に進もうとする意志。
アンビバレントな願いに引き裂かれながらも、彼らは必死に自分を繋ぎ止め…そうさせてくれる特別な誰かを大事にするための戦いに、震えながら挑んでいる。
それはとても大変で、気高いことだ。
ありとあらゆる青春に瞬く、血みどろの暗黒があるからこそ、俺はこのお話好きなんだと思う。
マジでこの部屋見て「毛布という胎盤で自分をまもんなきゃ、自律呼吸もままならない。ふたりとも赤ちゃんじゃねーか…誰かが助けてやってくれよ!」って気持ちになっちゃったんだけど。
死を厭わぬ悍ましさに引きつつも、怪物の暗い中に思い人の面影が確かにあり、それとは別の場所に怪物自身の命が瞬いていることを、ヨシキはしっかり見ていて(だからこそ、あんだけのことがあっても自転車でヒカルを迎えに来た)
ヒカルもまた、理由なく胸に突き刺さってる光由来(かもしれない)の想いに突き動かされつつ、触れれば死を与えてしまう自分の怪物性に思い悩み、どうすればいいか迷ってもいる。
バケモノと人間は、お互い真逆な存在を心の中に入れてて、だからこそ2つの部屋は鏡合わせなのだろう。
私室を心的領域の延長/社会や他者との交わり方の象徴として活写するこの筆は、ヴァージニア・ウルフの”私だけの部屋”っぽい匂いがあってかなり好きなんだけども。
自分の輪郭がアヤフヤになり、幼年期疑わなかったものを揺さぶられて、苦しみながら何かを探して手を伸ばす時代をこのアニメが、どんだけ真摯に描こうとしているのかを、教えられた感じがして嬉しかったです。
そこにメッチャヤバい恐怖が隣り合っているのも、まぁ否定しがたい事実なので今後向き合っていかなきゃいけないんだけども。
それでもこの柔らかく複雑な心の形は、嘘のない彼らの”今”なのだ。
描くだけの価値がある、大事なものなのだ。
色々ヤバい淵を歩いたが、結果として「朝子ちゃんを殺さないヒカル」「ヒカルを拒絶しないヨシキ」を掴み取れて、安心の涙が滲む回でした。
こういうマジだからこそヤバい場所をちゃんと歩くことで、ヨシキたちはより鮮明に自分と世界の形を見つけて、もっと善い己に近づいていけると思うんだけども。
土地に刻まれた因習、滲み出す非日常がそういう大事な猶予期間を、ぶっ飛ばして暴れそうな気配もあり…さてはてどうなるのか。
ハラハラしながら後半戦を見届けさせてもらおうと思います。
マージ子どもらみんな、グッチャグッチャにされながら必死に頑張ってるので、どうにか善い所へたどり着いて欲しい…。
次回も楽しみ!