嫁ぐための資格としての赤、殺し守る時流れる赤。
脆き時間旅行者が中世のリアルに正面衝突する、Turkey! 第6話である。
このアニメが全く「戯れ」つうモンが出来ない、近年稀に見るガチンコであることは六話まで付き合えば、既に解っているけども。
今回寿桃と傑里が置かれた立場(そこから動けない理由)を削り出すにあたって、子を宿すために必要な血と子を守るために必要な血に、一切逃げなく踏み込んでいった足取りを見て、その手応えはより確かなものになった。
生きていりゃ月経もあるし、人も殺す。
命が重いからこそ、軽んじられる思いもある。
作品の片輪である戦国にガッチリ向き合うために、もう片輪であるボウリングを血に汚した意味は、今回ハードなイニシエーションを経たさゆりちゃんが今後どうなっていくかであぶり出されていくとは思うが。
前回戦国と現代…二人の黄色担当が朗らかにいがみ合った末に和解し、なんか良い感じで進めそうなムード漂った所で、今度は緑担当が今いる場所のシビアさを削り出すテンポは、かなり良かったと思う。
結婚は本当に恋した相手として、人を殺すなんてとんでもない。
そういう現代的価値観が、現実見てない寝言にしかならない修羅の巷に少女たちはいる。
生理用品がスーパーで売ってるわけでも、暴力を独占的に制御する国家が人権や安全を保証してくれるわけでもない。
自分の体から流れた血、それが繋ぐ傑里との縁があればこそ、背中を向けつつ耳を塞げない殺しの音を、さゆりちゃんは聞き届ける。
女であること、子どもであることを奪われてなお、国のために果たせる役目があると胸を張る人たちを目の前にして、自分はどんな存在であるべきか。
答えは未だ出ないが、厳しすぎる問いかけは確かに投げられ、魔法のように全てを解決してくれる彼女のカリスマではなく、デカい体に剛力を秘めた自分自身が、それに向き合うしかないのだ。
まーさかこういう形で、ガタイ要素回収されるとはね…。
寿桃は子を生む体が整っていないため、政治の道具として権力者に嫁ぐまでのモラトリアムに身を置いておける。
傑里は父が死んだ時に本来の性を剥奪され、慣れぬ殺しを責務と背負って、里を守る立場に身を置いた。
自分を殺し、大事な人を守る大きな機構を回転させる歯車になることを、あらゆる人に求めるシビアな時代。
そこにある残酷さは、少女たちがいた現代でも多分変わりがなく、歴史の蓄積と当たり前で必死な努力によって、あの子たちは自分たちが残酷な世界にいることを自覚せずにすんでいた。
のんびり部活に励み、自己実現の難しさがどうの、家庭環境がどうのと悩んでいられた。
…という時代の分断でひとまとめにしてしまうには、戸倉家の人たちはあんまりにも普通に人間らしく泣いたり笑ったりしている。
生むも殺すも国のため、義務を果たすのが至上の喜び。
そう己に言い聞かせる以外の道がない、戦乱の世界に微かな秩序と平和を紡ごうとしている少女たちの内側には、ボンクラ部活女たちと同じ心が、確かにある。
「この人たちも…あたしらと一緒だ!」という体温を、ちゃんと実感できるアニメになってるのは凄く良いなぁと思う。
そしてだからこそ夏夢は、旅芸人という漂白の立場に己を解き放ったのかなぁ…と思ったりする。
共同体の支援を受けれず、そのかわり束縛も受けないアウトサイダー。
彼らと重ねられている「現代人」も、根無し草のエグさをそのうち猛烈に叩きつけられそうだが、さて。
モラトリアムを麻衣とのマッチアップまで保留された寿桃に対し、さゆりは生理は来るし命がけの決断は要求されるし、猶予期間があっという間に終わる。
踏み込めば戻れない決断を、キラキラな優しさと正しさで変わりにやってくれるから特別だった麻衣は、二つの赤が溢れる場面には間に合わない。
それはさゆりが決めなければいけないのだ。
この逃げ場のなさは、何度も殺されかけてそれが当たり前の責務になってる傑里にとっては、もう終わってしまった過去なのだと思う。
逃げ場はなく、命を奪う傲慢に悩む贅沢は遠く、ひたすらに殺し守り、姉を差し出して安寧を買う。
それを父に望まれたから、クニのためだから。
さゆりと同じく赤い血を流す心が彼女にあることは、既に幾度も描かれているけども、背負った重責に負けない自分であるために、傑里は身内には情に溢れた良き領主であり、外敵には非情の戦士であることを己に任じている。
そういう責務の硬い殻でガッチリ固めなければ、生きることも死ぬこともあんまりにも剥き出しにすぎる時代で、生きていくことは許されない。
さゆりが今回見せた柔らかな…現代的で贅沢な内面を、揺るがぬ建前の外側に出して許されるのは、ずーっと先の話なのだ。
前回はその刃を優しく収めてくれた戦国の生々しさは、今回鋭いエッジでさゆりの心を引き裂きながら、その切断面(と連続性)を顕にする
ここで殺しだけでなく、月経と出産、イエとクニの存続を深く突き刺してくるのが、このお話の戯れのなさだ。
野武士を殺すのは、守るべきと決めた身内を守るためであり、そうして守った共同体が新たな世代を育み、また殺し合いに身を投じていく。
生と死。
二つの赤は本来的に同じ色であり、それは野武士の死体(かつて生体だったもの)に個別の尊厳を見出してしまう、さゆりには意識されなかったものだ。
全ての人がそれぞれ生きるべくして生き、それを守られている当たり前は、血みどろの歴史によって憲法に刻まれ、何重にも重ねた権力装置によって保証されている重たい防壁だったと、今回さゆりは思い知る。
より大きな共同体が、透明化された安全保障を国家の責務としてばらまいてくれない状況においては、一個人が暴力と生殖を絞り出して、笑って生きる資格をもぎ取るしかない。
「誰もやってくれないなら、自分がやるしかない」と、刃を背負った傑里、輿入れを待つ寿桃。
麻衣ちゃんが自分の内側に踏み込んで、今までのように正しさを決めてくれない状況で、森から川辺に戻り、野武士の頭に岩石ぶち当てることを選んださゆり。
皆が同じ色の世界で生きていて、繋がっているはずなのに引き裂かれていく。
そういう場所で、例えば利奈が抱えている極めて現代的な自己実現の苦しみは、それでも嘘じゃないと、このアニメはずっと書いている。
そういうものは一人の人間が、戯れも出来ないほど真剣に生きているからこそ生まれてくるのだ。
一個人が社会と繋がり、支払う対価と受け取る報酬。
それこそ部活にのんびり勤しめるような、現代日本の僕らが見落としかけているものを暴くための舞台として、戦国タイムスリップを選んだ理由が、よく分かる回だった。
…なんでボウリングかは正直まだ良くわかんねぇんだが、そういうトコロにも半笑いの戯れがないアニメなのはもう解ってるので、今後どういう腹でもう一つの主題を描くかは、緊張しつつ心待ちにしたい。
麻衣がボウリングに向けてる感情の熱が、明らかに尋常ではない様子は見て取れるので、彼女と寿桃の回で爆ぜるんだろうなぁ…。
このアニメの戯れ出来なさ、麻衣のキャラ性が強く響いてる結果だよなー(好き)
というわけで、女であることを切り捨てた思い出の水辺に散った花弁が、お互いの思いを伝え合う美しい夜に咲き誇り、生きる命と死ぬべき命を選別する残酷さに波紋を散らし、その決断が赤く野菊を染め上げるエピソードである。
傑里が既に選ばされている決断、今回さゆりが選んだ道がどういう純粋さを宿し、どう散らされ赤く染まっていくのか。
それを反射するフェティッシュとして、ま白き花びらと澄んだ水辺は、とても良いキャンバスだった。
清廉な水も、純白の花弁も、赤がよく映えるからねッ!!
一見するとさゆりの幼年期が血みどろに終わらされていく無惨が目立つけども、同じ歩みを傑里も既に終えて、向いてない殺しも姉を権力に売る行為も、責務と飲み干す今がある。
だから思い出の中でも、現実と同じ花が咲いているし、傑里もさゆりと同じ涙を流して、同じ赤にまみれて、殺せる自分になっているのだろう。
こういう連続性を示すのに、女であるなら否応なく背負う生理への対応で繋がる場面入れるの、やっぱ力んだアニメだなぁと思う。
寿桃が今後踏み込むだろう、婚礼と生殖の地獄絵図への入場チケットを、ウマが来ている二人はもう手に入れている。
今回殺しの赤で描かれたイニシエーションは、このあと恋もしてねーのに子を産まされたり、それが国家レベルの殺しの道具にされたりする現場で、寿桃と麻衣を主演に削り直されるんだと思う。
「乱世において女であることの意味…深夜アニメのカラフル美少女でエグるッ!」という気概から、全く目を背けず本気でぶん殴りに来ているこの迫力、ドン引きする奴らはもうこのアニメ見てないと思うけど。
やっぱ生きるの死ぬの、花が散るの咲くのに腰が入りすぎているこの作風は、凄いと思うし尊敬もしている。
それを貫いたさ気に何が描かれるか、全く予期できないことも含めて。
誰かが本気になった時、予定調和の安心感はぶっ飛んでいくもんなんだなぁ…。
後半戦怒涛の血しぶきがあまりにもショッキングなので、序盤の穏やかな空気を忘れてしまいそうになるけども。
他人との境界線に怯えず踏み込み、思いを伝える部長の強さとか、婚礼と生殖の道具として嫁ぐ定めと微笑んで手を繋いでる寿桃の悲哀とか、さゆりが麻衣に寄せる気持ちを反射する夕日の色とか、かなり大事なものがたくさん描かれてたと思う。
麻衣は自分が信じる幸せを疑わず、ひたすら走り抜けるトコロに強さがあるし、さゆりも利奈もそこにこそ救いを見出してると思うんだけど。
同時にその迷いのない疾走は…特にこういう時代だと、危うくもある。
本当に人を殺すとはどういうことか、もちろん解ってないフツーの高校生たちは、本当に人を愛するということが何を意味するかも、身体の真芯では解っていない。
自分自身の思いや身体を自分のものとして、自由にできる当たり前の権利がとんでもない贅沢品な戦国時代、「産める体」だけを資格にモラトリアムが寿桃に許されているのは、まー残酷で真正な描写だなと思う。
麻衣たちがシリアスに考えずにすんでいた、生きたり死んだり生んだり殺したりの、剥き出しなリアル。
それと否応なく向き合わされ、親を殺され声を奪われる子どもで満ちているこの場所で、麻衣はまだ現代的な価値観を捨てずにいる。
それは利奈が反発しつつ引き寄せられる、剥き出しな有用性への拒絶が根っこにある、見た目よりも芯が強い対応だとは思う。
ここら辺の強さを身近に感じ取っているから、さゆりは麻衣が自分の内側に踏み込んできて、大事なことを決めてくれる幸せを預けてもいるのだろう。
まぁそういう依存と甘えを、凄まじい切断面で切り飛ばすのがこのアニメなんだが…。
ようやくさゆりにカメラが向いて、幼馴染への過大な信頼と愛着が見えた十数分後に、この安らぎ引っ剥がされて幼年期が終わっていくんだから、”Turkey!”の歩みは苛烈である。
まぁそういうもんだよね、戦国なんだし。
殺すも愛すも過酷な戦国ルールを、甘っちょろい現代部活を殴りつけるためのリアリティ棒として使うヤダ味は、たしかに微かに匂うんだけども。
そこを越えて、自分たちが無自覚に身を浸し守られてきた、近代的人権意識の甘い理想を譲らず貫き、その価値を問いただす姿勢は、麻衣が時折見せる本気っぷりに、既に滲んでいる感じがある。
ただ”好き”ってだけで生きててもいいと、利奈に吠えた時見せた獣の顔。
あるいは今回、七瀬が制止する暇もなく寿桃の部屋へ上がり込み、女性が婚礼の道具として扱われる価値観に殴り込みをかけた勢い。
どーも平素のヘラヘラ顔のバランサーは、爆弾みたいな思いを秘めているようだ。
ここは既に死んでいる両親への絆、その証としてのボウリングと結びついて、今後炸裂する爆心地なんだと思うけど。
そういうデカい感情を家族や愛に抱え込んでいる女が、そういう甘っちょろい夢を許してくれない世界と向き合わされた時、折れるか曲がるか貫くかが、今一番見たいものではある。
麻衣が背負う近代的価値観が、色んな角度から挑戦される時代になってきたからこそ、あえての戦国ボウリングなんだと僕は思っているけども。
現代人たる彼女を徹底的に試し、問いかけ、この作品だけの答えを磨き出せるかどうかが、このお話の真価を顕にしていくだろう。
今回さゆりに襲いかかるイニシエーションは、その前駆とも言えるか…。
というわけで、生身で生きてりゃそらやってくる身体異変への対処で、領主様との距離をグッと縮めたさゆり。
希がギャグ調で恋する、携帯電話の中の軽妙なラブコメディとはまたちょっと違った、お互いの魂の地金をこすり合わせるようなコミュニケーションが、秘密を伝え合う私室で、美しい夜を反射する湖で、血みどろに責務を果たす戦場で、強く瞬いていく。
皆が呆然とする殺しのリアリティを前にした時、集団の行く末を決めるのはやっぱ麻衣であり、ホント魂の根っこがカリスマなんだなこの子…。
このガチッとした主人公の造形は、ずーっと好きなポイントなんだよな。
ひっそりと己が血を流す女であることを示してくれた日常と、返り血を拭い落とす非日常で、傑里という人間が変わるわけじゃない。
女であること、己であることという、さゆりが当たり前に保証されていた権利が当然蔑ろにされる場所でも、傑里は後ろを振り向かず、父から託された/押し付けられた責務を果たす。
そんな己に誇りを持っている顔は、道具のように嫁いでいく未来に微笑む寿桃とも似ていて、簡単には剥がれない分厚い仮面だ。
それが理不尽にすぎる世界に殺されないための防具であり、本心を覆い隠す防具でもあろうことは、その奥に踏み込む時かならず水鏡が隣に置かれていることからも、良く分かる。
鎧と花嫁衣装に身を包んだ現実は、血を流さない虚像であって、むしろそれを引っ剥がした生身こそが普段表に出てこない本音。
…という二分法からちょっと距離を取って、時代に翻弄されつつ責務を果たし、微かな夢をなんとか守ろうとしている少女たちの尊い嘘に、揺るがない視線を投げている作品ではある。
寿桃も傑里も、間違いなくメチャクチャ立派だからな…。
その正しさが何を犠牲にしているかは、イエからもクニからも出ていった夏夢が戻ってきた時、改めて問われるんだろうけど。
なにしろ「夏の夢」だからな…コイツが重要キャラじゃなかったら、この悪夢めいた少女漂流記の実相を、誰が描くんだって話よ。
血に塗れた野武士狩りが無傷ではなく、手負いがかなり混ざっているのが、嘘がなくていいなと思った。
殺そうとするなら殺されるのが、この理不尽な世界の数少ない対等ではあって、野獣の如き野武士だって村人と同じ心と野蛮を抱えて、何かを守り掴み取るべく、命を奪う。
人が死んで生きることはまぁそういうモノで、向き合うならば安全圏にはいられない。
さゆりも自分が身を置いていた故郷の、優しくて当たり前でその実、色んな人の血と涙で作られていた防塁から出ていくことを求められていく。
前回は現代人からの歩み寄りが、結構平和に心のつながりを生み出せていたのにねぇ…。
楽にばっかは行かねぇな!
殺して守る意味を問われ、揺るがぬ領主の顔(”男”の顔というのが適切かは、色んな意味でメチャクチャムズい)を返す傑里と、刃を前に泣きじゃくるさゆりは、水鏡でお互いを反射しあってるんだと思う。
多分、この若武者のかんばせの奥、逃げて泣きたい女の子がいる。
でもそれはずっと昔、花びらと散らして終わらせたからこそ、父なきクニをぎりぎり保てている。
既に果たされた決意、それが殺してしまった自分に似た女の子も、傑里が向き合う世界のリアルから逃げれば、さゆりは土足で踏みにじることになる。
ここには、自分に正しさを手渡してくれる麻衣はいないんだから。
さゆりが殺しの一撃を放つ時、麻衣がいつも言ってる「みんな」ではなく「二人」で帰ろうねと叫ぶのが、俺にはとても寂しかった。
そこで殺さず殺されず進んでいける過酷な道を、不退転の顔で突っ走れるだけの強さがないからこそ、麻衣はさゆりの中で輝き続けている。
そんな彼女を最後の支えにして、誰かを殺して誰かを助ける当然の決断へと、さゆりは踏み出していく。
彼女に、スネークアイズは倒せないのだ。
それでもさゆりは迷いの森から抜け出して、自分の暴力が大事な誰かを助けるリアリティと、そこに身を置く自分自身を選び、擲つ。
それにしたって、野生の岩真球すぎるだろッッッ!!
甘っちょろく泣きじゃくるさなえの涙は、多分傑里と寿桃がかつて流した涙だ。
そういう女たちの悲憤を飲み干して、世界という怪物は残酷に、当たり前に目の前にあり続ける。
ボール叩きつけた程度では揺るがない、理不尽な当たり前に体当りされた時、人間に選べる道はそう多くない。
傑里が選び、突き進もうとしている道に生身で隣り合うことを、今回さゆりは選んだ。
だって血を流す自分に、傑里は寄り添ってくれたから。
それが月経という、女だからこその痛みと機能によってスケッチされていることが、どうにも哀しい場面である。
鞠と花より、剣と岩握って”男”になんなきゃ乗り越えられないモノが、戦国多すぎる。
ここで「殺して役に立つ自分」をさゆりが選んだのは、そういう怜悧な実用性に獣のごとく抗う幼馴染と多分真逆で、そこも哀しい場面である。
どこまで行っても麻衣ちゃんみたいにはなれないからこそ、あの子はずーっとさゆりの光であり、導きでもあった。
でも自分の代わりに正しさを譲らずいてくれる女の子は、自分じゃない。
だから自分の手で二投目を投げ込んだ時、自分と同じ緑を髪に宿し、自分と同じように赤い血を流す傑里が隣りにいるのは、必要で大事なことなんだと思う。
このイニシエーションを経て、麻衣がいない世界にようやく、さゆりは踏み出したのだ。
…もうちょい穏当に、カミサマ離れ幼年期の終わり出来なかったんすかね?
傑里が立つ殺しの岸へ、水を越えてさゆりが近づくことは出来ない。
それは引き返せない岸であり、かつて女であり子どもである自分を水面に散らした時、傑里はその境界線をまたいだ。
だが岸の向こう側にある残酷が、生きて血を流す自分たちと隣り合っていることも、決意の二投目でスペアを取ったさゆりはもう無視できない。
命を奪う生々しい音は、耳をふさいでも心に届く。
その痛みと罪を抱えて、幸せな夢から追い出されて、二人はどこかへ行けるのだろうか。
「殺す側」になれてしまった傑里が、負傷によりすがる両手を片掌でしか抱きとめられていないのが鋭くエグい。
あの月の岸辺で語り合った、人間として…あるいは女としての思いは、けして嘘ではない。
だからこそこの修羅場からも逃げず、「二人で」帰る未来を掴むことにもなったが、同じ水辺は赤く血に染まり、殺し殺される残酷はどれだけ拭っても落ちない。
それはそこにある。
戦国にだけあるわけじゃなくて、さゆり達が帰る現代、その向こう側にいる僕らの現実にも、ずーっとあるのだろう。
そういうものが牙を突き立てて、理不尽に全てを焼き尽くしていくのならば、人を殺して役に立つ強さだけを追い求めて、突っ走るしかない。
…超変則的な形で、利奈回でもあったな今回。
果たしてこの赤い場所を経たあとでも、さゆりはさゆりのままでいられるのか。
殺しという重たい(重くなければいけない)行為は、決定的に何かを壊すのか。
ここら辺の問いかけは、既に殺しを日常にし(からこそ責務を果たせる)「男の仕事」を果たしている傑里にも、投げかけられる問だろう。
泣かず、迷わず、揺らがず。
その厳しさの仮面の奥に、柔らかな優しさがあることは強く解る。
解るからこそ、やっぱりあの岸辺で何かが殺され、変わってしまったのではないかと、僕は考えてしまう。
その寂しさを、受け止めてくれる人はこの戦国にはいない。
いないからこそ、ピンクのカリスマが傷まみれで吠えるしかねーだろッ!
というわけで、戦国やるならそらそーよね…という回でした。
兎にも角にも”本気”しかないアニメなので、殺しの血しぶきが襲いかかるのは覚悟の上でしたが、そこに命を育むもう一つの赤が重なったのが、この作品の張り詰めた在り方かと思います。
殺すこと、生きること。
女であること、男を装うこと。
キャラが背負ったものを記号で終わらせない、深すぎる踏み込みが不格好な力みを生みもするけど、俺はやっぱりこのアニメが好きだ。
こういうモノを描いてしまって、さて物語はどこへ転がっていくのか。
夏夢の再訪が一つの起爆剤となりそうですが…もうやるだけやり切ってくれ!
何がどうなろうと付いてくから俺!