イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

忍者と極道:第5話『第三章 情愛大暴葬 2nd』感想ツイートまとめ

 大人になれない僕らの、末魔を一つ聞いてくれ。
 暴走ピーターパン最後の夢が、帝都を燃やす”忍者と極道”第5話である。

 

 遂に帝都高大暴走、本番開始である。
 暴走族神お墨付きの祭りに興奮したボケ共が、当たり前に一般人殺しまくり、その傍迷惑を見なかったことにして、いい笑顔で生首飛ばされ死んでいく。
 そこで立ち止まったり引き返したり出来ないからこそ極道なのだが、自分の人生にケリ付けれなかったカスにしては、随分甘ったるい末期だなと思わなくもない。
 しかしどーしょうもねぇ極道どもは皆、人間誰もが持っている甘さや弱さを極端に煮詰めた存在で、鼻につくならそれは、そこに自分の腐臭を嗅ぐからだろう。

 鉄条網の冠で、青春の眩い光に魂焼かれて空っぽのまま生きてた亡者どもが、最後にハシャグのを許している殺島も、仲間相手に強がってるほど神様じゃない。
 人生間違えきってここに流れ着いてしまい、同じ立場の殺戮ピーターパンたちに死に場所を用意してやるべく、偽物のキリストを演じ続けている。(この姿は、多分極道さんの影でもある)
 それは今回、てにをは抜いた強い言葉で極道滅殺を掲げている惨蔵が、思いの外真摯に逢魔賀の虚しさに向き合っていたのと、相補的な描写だと思う。
 極道が極道になるしか無いどうしようもなさは、一般社会のタガを守る法や権力では受け止めきれない。
 木っ端のように儚く、極道車に粉砕されるだけなのだ。(それでもタチムカウんだから、あの世界の警官は根性入っとるわな)

 

 なので同等以上の力を持った忍者が、圧倒的な暴力で裁いてやることでしかもう止められな…かったわけだが、”地獄への回数券”でネズミをヒグマにすることで、一方的な制裁は対等な殺し合いになった。
 世界のバグとしてすり潰されるだけだった、被害者意識ばっかり肥大化したイカれ暴力主義者達が、超越的な立場から自分たちをぶっ殺してくる神様を、ぶっ殺し返すことが可能になったのだ。
 この殺すか殺されるかの公平さが、一体どんな実を結ぶのか。
 次回闘いの中、暴走の神様演ってた三十九歳を追い込むことで、そこら辺の地金も見えてくるだろう。
 それは正しさだけが正しい世界では、けして描かれない人間の本当だ。

 歌舞伎町地下決戦に比べると、一般人の被害も桁違いに多く、誰かを守るために戦える忍者の強さと正しさも、より強調されている帝都高バトル。
 どんだけ虚しさを抱えていようが、あんだけの虐殺ブッこいて後戻りは出来ないわけで、そういう人面餓鬼の救いはやるだけやって死ぬことしか無いと、ハードコア&ハイテンション過ぎてギャグになってる描写が告げる。
 どうしようもなさに押し流される寸前で、仲間に手を取られて足を止めれた忍者たちは、極道が抱える業の重さ、一線を越えてしまった後の救われなさを知っている。
 だからこそ並び合って愛で殺し、時に殺され返すくらい対等に、その生き様に付き合ってやる。

 

 こういう形で溢れるしか無い業を、暴れるままにはしておけない慈愛がまだ世界にはあるのだと、血みどろで証明するために忍者は暗刃を握るわけだが、それにしたって明らかヤリ過ぎ殺しすぎ!
 「そら死ぬしかねーわなッ!」て感じだが、普通人が感じ取れるはずの誰かへの共感が、どっかで壊れてしまった結果が死体の山であり、その業と一緒に落ちる優しさか、殺して止めてやる厳しさか、どっちを選ぶかで忍者と極道の間にある、薄い壁が隔たれてもいる。
 同病相憐れむともまた違う、業の亡者の中でも卓越してしまったがゆえの見捨てられなさが、八極道を地獄に引き込んでる感じはあるわな。

 仲間の絆は極道も忍者も持ってて、でもその薬効は真逆だ。
 聖羅天のボケガキどもは、半殺しの血文字で悪行への教えを残した忍者を恨み、あの時終わらなかった青春を、他人の血でもって燃やし尽くす道にみんなで走る。
 それをせき止めるどころか、先頭に立って解放への道をひた走る殺島の惨めさに、若き忍者くんは真っ直ぐ対峙する。
 それが出来るのは、大人であることの意味を身を以て体現してくれる色姉がいてくれるからだ。

 周りを巻き込んで死を撒き散らす毒か、瀬戸際で霊を救う薬か。
 絆なるものは、正しさを保証してくれる万能薬ではけしてない。
 むしろグロテスクに、墜落を加速させる危うさを秘めている。

 

 似た者同士に見えて真逆な、忍者と極道。
 新忍者お目見えのアクセサリーとばかり、異様なテンションでぶっ散らばっていく聖羅天幹部たちに付きまとう、どうしようもないやるせなさは、彼らの業がやっぱり忍者と僕らに、どっか似ているからなのだろう。

 あそこまで異様に楽しそうに死へと突き進むことはないけども、あまりの眩しさに脳を焼かれてしまったからこその退屈も、当たり前の苦しさに向き合いきれない弱さも、僕らの中に確かにある。
 それでもそれに屈しない血まみれのヒーローたちが、どんだけ強くて弱いのか。
 狂った筆致で生真面目に綴っていくのが、このお話のスタイルなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

画像は”忍者と極道”第5話より引用

 というわけで子安絶好調ッ! な殺島が、色んな顔を見せる帝都高大暴走である。
 大人になれない悪ガキが、無辜の人民ぶっ殺して最期の自分探しに勤しむのを、優しく許してあげる神様。
 その眩しさが作り物でしか無いことを、ハイテンションな殺戮行のなか、どっか醒めた筆致で刻み込んでも来る回だ。

 回りの寂しい人達が笑って終われるように、脆い中身を隠して異様にアゲてる嘘っぽさは、どっか極道さんに似てるんだよなぁ…。
 特攻服のキリストという、あまりにケレン効き過ぎな格好で鎧わなきゃ、皆を終焉(すくい)まで導いてやれない作り物感は、寂しい限りだ。

 

 だからって一般人民大炎上な傍迷惑が許されるわけじゃないが、んじゃあこうなるしかなかったクズどものどうしようもなさは、一体どこへいくっていうんですかッ!!?
 「迷惑かけず、勝手に死ねよ」がクールな一つの正解なんだろうけども、忍者はその暴走を許さず向き合い、暗刃で首ふっ飛ばして止める。
 それは極道がブン回す暴力と同種の行為で、けして正しくなんかはない。
 それでもそれ以外に手渡せるものがない、未熟で未完成な人間同士が殺し合っているのが、この血腥い会話の実像だ。
 殺島が仲間であり信徒でもあるボケ共に差し出してる、キラキラな夢を信じ切ってない醒めた匂いは、そういう受け止められ方を求めてる。

 ここら辺、彼の業と弱さを全面的に肯定し、終わり切るための舞台を整えてくれる極道さんでは、向き合いほじくり返せない患部でもある。
 殺島がこの暴走走りきったら、満足して真人間になれるかっていうと、そんな事はない。
 自分を殺戮の方角へ引っ張っていってしまう業を、越えていけるほど…あるいは殺してしまえるほどに強い、逆ベクトルの強さを叩きつけられ、負けて終わることでようやく、ピーターパンの夢は終わってくれる。
 そこを自分で始末できるマトモさがあるなら、こんな地獄に頭から突っ込んではいないし、そういう阿呆が五万人、殺島のカリスマには張り付いてもしまっているわけだ。

 

 金色の夢に浮かれて、笑ったまま死んでいく聖羅天は、殺島の間違いや弱さを指摘できない。
 それが出来るのは、ぜってぇ殺すと殺意滾らせて、正面から向き合う宿敵だけだ。
 殺し殺されの圧力だけが、正論じゃ終われない所まで業を加速させた極道たちを、ここではない何処かへと解放していくのに必要なのだろう。
 少女漫画にポワポワの点描が不可欠なように、人間の正しさと業を問うこのお話には、血糊と生首が必須なのだ。

 …「本当にィ!?」と問いかけたくなる正気が時折首をもたげるが、そこを疑わない本気で駆け抜けていく力みとスピード感だけが、形にできる物語は確かにあると思う。

 

 

 

 

 

 

 

画像は”忍者と極道”第5話より引用

 氷と雷、クールとマッチョ。
 正反対に見える忍者兄弟が幹部相手に実力を見せたり、極道への過剰な憎悪に燃えてるように思えた長の秘めたる場が、地獄のホームラン狂騒に垣間見えたり。
 色んなことが異様なテンションとスピードで、バンバン起こる話数でもあった。
 こっちが受け身取るより早く、ドンドン狂った事象が襲いかかってくるドライヴ感と、しっとりした情感が不意に滲む不意打ちが合わさって、随分頭がおかしくなる。

 殺島と色姉、二人の「大人」の横顔を忍者くんの死地に横並びにする様子とか、しみじみ良いモンな…。
 まぁその隣で、生首ぶっ飛んではいるわけだが!

 刃が触れるより早くカウンターを取る左虎と、打たせて相手の拳を壊す右龍の対比とか、一応科学的理屈をつけてトンチキブン回す山風リスペクトとか、兄弟バトルの魅せ方も良かったけど。
 やっぱ逢魔賀と惨蔵の闘いが、どうにもやるせなくて好きだ。

 

 暴走が終わり空っぽになった後、野球に出会って自分自身を伝説にしたはずの逢魔賀は、自分のユニフォームを着たファンをその手で殺してしまう。
 そのどうしようもなさを背負うように、惨蔵は声も力もなく殺された一般人の遺品を身にまとい、悪夢になってしまった伝説の個人史をほじくり返す。
 そこにあった哀しみ、弱さ、確かに成し遂げた夢と輝きを、一本足打法で正面からぶっ飛ばす。

 トップク着込んで過去に戻った逢魔賀に対峙するとき、惨蔵は未来に進み抱いた彼のユニフォームを着て、そこへ通し出したもう一人の伝説の形を借りる。
 命がけのホームラン競争にガキみたいに勤しむなかで、逢魔賀は確かに野球に夢中になれた自分を取り戻し、野球が好きだと思い出して死んでいく。
 ここまで来ちまった以上引き返す道はなく、首吹っ飛ばされるのが正当な報いなわけだが、警官余裕で吹き飛ばせる極道にそういうモンを手渡してくれるのは、もう忍者しかいない。
 そういう定めを義憤滾らせてしっかり果たしつつ、惨蔵の闘いは殺す相手の過去に寄り添い、心の声を妙にしっかり暴く。
 「優しい」と言っていいかは悩むね。

 でも惨蔵が立ちはだかることなく、バッティング競争という”遊び”に誘ってくれることなく、自分のファン含めた無力な人間をぶっ殺してても、逢魔賀は苦しいまんまだと思う。
 自分自身弱く虚しい存在だからこそ、殺島との暴走、野球との出会いに夢を見てなんとか生きてこれた事実を思い出すには、あまりに遅すぎるけど。
 それでも虚しく間違えきる前に終わらせてもらうのに必要なのは、一緒に優しく堕ちてくれる仲間ではなく、自分を容赦なく殺しに来る敵なのだ。
 この優しさと厳しさの交互浴は、正しく菩薩と明王って感じで、好きになった作品には勝手に仏教テイストを感じ取る自分の癖が、いよいよ元気だなって思うね。

 

 

 彼らを幸せな破滅へと導いた殺島が、賢しら顔で忍者くんに差し出す大人の辛さ。
 「ガキには解んねぇよ…」と被害者ぶる相手も、まぁ相当の地獄背負っておるわけですが、そこで共感し己を改めれる魂があるんなら、こんなことには成ってない。
 何かを思い返し、立ち止まって考える…考えた上で正しい道へ進んでいける人間の証明は、極道にはない。

 「んじゃあ忍者にはあるの?」て問われると、極道と同じ暴力を手に取ってしまっている以上、ある意味一線は越えてるてのが難しい所だが。
 その業を禊ぐ意味でも、忍者と極道が対等に殺し会える”地獄の回数券”って大事だな…殺すものは正義でも悪でも、殺されなきゃいけないのだ。

 そういう対等さの刃が、純情ボーイへの想いを優しく秘めるくノ一にどう伸びるのか。
 次回帝都暴走決着、アニメがどう描くか楽しみです。

 

 抱えた哀しみや痛みを憐れまず溺れない、ある種の爽やかさが忍者を忍者たらしめていると思うんだけども、色姉の忍ぶ愛はその真骨頂だと思うので、どう描ききってくれるかは気になるのよね。
 ぶっちゃけ色々苦しい部分もあるけど、しかしそういう情感をアニメに落とし込むのは踏ん張ってくれてる印象なので、頑張りどころかなと思います。
 イカレと切なさの両極に振り回されつつ、血みどろのインクだからこそ描ける業とやるせなさを浴びるのが、自分的なこのお話のキモなのでね…。