イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

プリパラ:第99話『青春ジャンピンスナッピン!』感想

舞台に青春、子育ても! なんでもやっちゃうガールパワー満載アニメ、今週はマジ久々のドレパ回。
ジュルルを交えたドレパ合宿で、アイドルでもあり、親でもあり、仲間でもあり、トモダチでもある彼女たちの魅力がドカンと爆発する回となりました。
キャラクター個別の『らしさ』と成長、チームとしてのドレパの魅力、両方サボらずに楽しく見せてくれたのは、とにかくありがたい。
『合宿場』というセッティングを早めに整えて、登場人物の数を物理的に絞る話運びが見事だったなぁ……学校舞台だと、どうしてもドレパ以外を画面に映さないほうが不自然になっちゃうから、今回みたいに濃厚で無駄がない展開は難しかったろうね。


今回は良いところでしか構成されていないエピソードで、どこから書きだしたものか悩むところですが、まず単純な子育てエピソードに仕上げなかった所が素晴らしい。
出だしからしてドロシーがガッツリ噛みつきに行く今回は、子育て回であると同時にアイドル回でもあって、長く続くとどうしても摩耗しがちな闘争心や競争意識に磨きをかけ、輝きを取り戻すエピソードでした。
当然ジュルルはとても大事にされていて、彼女がいることでドレパも新しい魅力を引き出されてはいるんだけど、あくまで目標はグランプリであり、神コーデであり、新しいメイキングドラマ。
楽しみながら競いあい、ライバルであり友達でもあるプリパラの良さを忘れず、ハングリーにスタージに向かい合うドレパの姿は、とても魅力的でした。

アイドル・キャリアの頂点にある『神アイドル』を目指す道が、現状ジュルルの親になることに限定されている歪みもドロシーがしっかり指摘し、描写でヤダ味を切り崩しに来ていました。
今回示されていたのは『ジュルルの親になる』という形骸的な行為が神コーデを連れてくるわけではなく、『ジュルルの親になろうとする』行為に伴う内面的成長が、アイドルとしてのキャリアを引っ張り上げる構図でした。
たまごボーロや桃ジュースの『値段』を強調し、自分がやりたいゲームしかしないドロシーが一人取り残されるのも、『ジュルルの親になる』という形だけを実践して、ジュルルを思いやる気持ちを置いてきているからでしょう。


レオナは第94話にて初めてジュルルと出会った時から、赤ん坊と自然かつ実りの多い距離感を実践できている『出来る子』であり、オシメを取り替えるという厄介な仕事も難なくこなします。
これに対し抱っこに怯えるシオンは『まだ出来ない子』であり、不器用ながらも腹筋とか素振りとか、シオンらしさを維持したままゆっくりジュルルと仲良くなって、楽しく見守る立場にある。
今回の話はシオンが赤ん坊という他者との関わりを探っていく話であり、お世話が『まだ出来ない子』が『出来る子』に変わっていく、成長のコメディだといえます。

この成長の中で、シオンは囲碁キャラで武士キャラで男っぽくて真っ直ぐで時々不器用でお姉さんで……というシオンらしさ、『あるがまま』の東堂シオンを曲げることはなく、むしろそれを武器に変え、ジュルルとより良い関係を気づいていく。
海に迷い出たジュルルをまず叱る厳しさ、そして賢さを褒める優しさはドレパのリーダーであるシオンにしか出来ない彼女らしさであり、ジュルルに媚びるわけでも、神コーデのために『あるがまま』を歪めるわけでもない、非常に自然な成長でした。

それは三期ガァルルエピソードの中で非常に重視されている演出哲学で、これまでジュルルを守り導いてきた子供たちは、みな自分らしく『あるがまま』自分なりのやり方で、赤ん坊と接しながら自分も成長してきました。
レオナの包容力やらぁらの必死さ、みれぃの賢さやそふぃの奮闘、ガァルマゲの友達目線といった個性は、それぞれ個別の形を持っていて、それがガァルルの他者性や弱さと接触することもある。
でもそのぶつかり合いも含めて価値のあるものであり、人が人として『あるがまま』認め合い、高め合う価値への信頼が、今回の話しにもしっかりと篭っていました。

イゴイゴ言いつつ優しい奇人・藤堂シオンが、俺はすごく好きです。
今回も『ケンチンうどん』という自分なりのメニューを考えて、精一杯ジュルルに近づいていこうと努力する姿、そしてそれが必ずしも上手く行かないけど、それも含めて楽しい人生だと認識できている姿が、凄く柔らかく強くて良いなぁ、と思いました。
ドレパで行動するとき必ずシオンが先頭に立つ構図が徹底されてて、シオンのお姉ちゃんっぽさ大事に描いてくれてるなぁとしみじみ思ったね、今回は。


男性であるレオナが『ママっぽく』て、女性であるシオンが『パパっぽい』のもまた、プリパラらしい『あるがまま』の描写であり、社会的・身体的な性がそのまま人格的・行動的な役割に直結しない豊かさを、肩の力の抜けたハートウォーミング・コメディとして使いこなしていました。
今回のエピソードは、レオナを母、シオンを父、ドロシーが長子でジュルルが末子という明快な擬似家族的構図で回っていくのですが、それはジュルルを過剰に意識し、まず役割を決めて『母であろう』『父であろう』という強張りに支配されたものではない。
シオンがシオンらしさを、レオナがレオナらしさを発揮した結果、自然とこのような役割に達しているわけで、その自然さは『母=女、父=男とは限らない』という開放された性意識にまでたどり着いています。
これら高い意識を声高に叫ぶのではなく、強烈な笑い(嘲笑ではない!)に変えてすんなり飲み込ませている手腕のスムーズさは、本当に素晴らしいところです。
説教はわざわざ聞きたい少数派しか耳に残んないけど、コメディは思わず目を引きつけられ、笑っている間に脳みそに滑り込んでくるからな……創作が創作であることのアドバンテージを感じる。

過剰な役割意識に支配されていない描写は随所に見られて、それは今回のメイキングドラマに『青春』という言葉が入っていることからも分かる。
今回の合宿は『赤ん坊を守り、育てる』という義務意識よりも、『自分たちが楽しみ、高め、分かり合う』という自発的欲求から生まれたものです。
そこにおいて彼女たちは『親』である以前にまず『子供』であり、プリパラという趣味を本気で楽しむ『人間』です。
『親』として『アイドル』としての成長は、『人間』として目の前の一瞬に全力で向かい合い、楽しんだ結果として生まれるわけで、それ自体が目的ではないのです。
ここら辺の目的と手段が転倒すると事態がねじれてくるというのは、ドロシーの神コーデ獲得失敗でも、第95話で『親』らしくあろうという意識に過剰に縛られるみれぃの描写からも感じることが出来ます。

ご飯を作って、同じ屋根で眠り、海で遊んで練習する。
成功も少しの失敗も全部ひっくるめて、『ドレッシングパフェ』というみんなでいること、そこにジュルルという他者も迷い込んでいることをまるごと楽しむ、『青春』の1ページとしての合宿を、物語全体で静かに肯定すること。
今回終始笑顔だった彼女たちからは、迷いなく『今』を楽しむ活力がビンビン伝わってきて、新メイキングドラマや神コーデという『未来』が上手くいく展開も、『今』の描き方が自然かつ魅力的だからこそ、説得力を持っていました。
この力みのないスムースさは、プリパラの凄く良いところだなぁと思います。
ジュルルと遊ぶ三人の笑顔に無理がないのは、愛される赤ん坊側の描写としても幸せなことだ、本当に。


『まだ出来ない子』から『出来る子』へと成長したシオンに比べ、今回のドロシーは『ずーっと出来ない子』でした。
見返りを求めず素直にジュルルと向かい合ったシオンと、恩着せがましく銭金の話をし、自分しか楽しくないゲームにジュルルを巻き込んで『お世話するふり』でごまかしているドロシーとの違いは、非常に分かりやすかったと思います。
まだエゴイズムを飼いならす手段を知らないドロシーは、『親』として認められるには自分勝手が過ぎた、というところでしょうか。

僕はドロシーというキャラクターはプリパラで一番成功しているキャラだと思っていて、あれだけ身勝手なのに『まぁドロシーだし』で受け入れられてしまう可愛げは、なかなか実現できません。
お話しの都合を容赦なくえぐりだして指摘し、公平性を保つ毒舌さも、『ボクが一番!』という良い子らしからぬ本音のスタンスも、全てドロシー・ウェストが『あるがまま』の姿であり、視聴者もプリパラも仲間たちも、色々振り回されつつ愛しています。
神コーデ獲得に失敗しへたり込む彼女に、『ドロシー泣かないでー』という声援がかかっていたのは、彼女が好きなオッサンとしてはありがたい一言でした。

彼女が毒を撒き散らす独善家であることは、キレイ事を話しの真ん中に据えて展開しつつも、キレイ事では済まないいろんな事情がおおっかぶさる女児アニというメディアにとって、凄く大事なことだと思います。
女児アニが女児アニである限り否応なく溜まっていく作品の歪みを、ドロシー『らしさ』として笑い混じりの毒に変えて吹き飛ばし、作品に風穴を開ける仕事をドロシーはしっかりしてくれています。
回りの女のたちはいろいろぶっ飛びつつも基本『良い子』であり、ドロシーが『悪い子』をやりつつ愛されていることで、この作品は色々な意味で救われていると思います。
その役割分担も、『良い子』もちょくちょく毒吐いたりキチったりするし、『悪い子』にも仲間を慕いアイドルに本気になれる『良い子』な部分があると忘れず描く、優れたバランス感覚があればこそなんだけどね。


カスいドロシーも嫌いじゃないけど、少なくとも赤ん坊と向かい合う『親』としては失格だったから、今回は神コーデNGとなりました。
無論『親』との関係だけが赤ん坊の生活をより良い方向に導いていくわけではなく、ドロシーの幼さは、裏を返せばジュルルと同じ目線で生きているという強さです。
『全ての個性は使い方次第であり、長所にも短所にもなり得る』という視点は、プリパラがずっと大事にしてきたもの。
だからこそ、三人に尺を割り振らなければいけない今回まとめてクリアさせるのではなく、己の幼さと身勝手さを『個性』という武器に変えるための話を、ドロシーは次回用意されているのでしょう。

ドロシーが自分の個性をどう乗りこなしていくかも楽しみですが、どう考えても綺麗で良い『親』には成り得ないドロシーを認めることで、ジュルルもまた成長の段階を一つ登る気がします。
無条件に自分を愛してくれる『親』だけではなく、自分の身勝手さを抱えたドロシーという『他者』を認識し、受容することができれば、ジュルルはただ愛されるだけの『赤ん坊』から半歩踏み出し、世界には自分と『親』以外も存在しているというより豊かな世界観を手に入られるでしょう。
今回ドレパがジュルルと出会い、衝突含めた彼女との生活を楽しむことで豊かに成長したように、ジュルルもまたドロシーと向かい合うことで成長できるのではないかという『』双方向的な成長可能性』に、僕は凄く期待しているのです。

哺乳瓶から桃ジュース、ケンチンうどんへと、ジュルルが食べられるものの描写がさり気なく豊かになっていることから考えても、ジュルルがどのような発育段階を経ていくかに関して、このアニメはすごく考えていると思います。
それは食餌という身体的成長だけではなく、世界認識やエゴの乗り越え方という精神的成長も含むはずであり、身勝手で自分を無条件に愛してはくれない、『親』ではないドロシーとの対峙がその契機になるのかなぁと、僕は願っています。

第96話では『親』になりきれなかったガァルマゲドンに神コーデを下賜しなかった、神クラスのマザコン・ジュリーですが、そこを踏み越えた成長を見せられるか、否か。
このことはジュルル=ジュリーとの距離感がそのままアイドルとしてのキャリアメイクに直結してしまっている、現在のプリパラの閉鎖性打破にも関係してきます。
自分と接点が少ない、愛という見返りをくれない(かもしれない)『他者』の代表としてドロシーと向かい合うことは、そのまま無名・匿名のファン=アイドルたちと対峙する姿勢に繋がるのではないか。
名前のある主役たちだけではなく、名前も顔もない彼女たちとも豊かな関係を作ることが、プリパラという世界を背負う神であり赤ん坊への信頼感、プリパラの公平性と開放性自体に、強く関わってくるのではないか。
僕はそう思うからこそ、来週の100話目の物語に強く期待し、胸を弾ませています。


と言うわけで、ジュルルとドレパの出会いを通じて、このアニメが何を大事にしているか見えてくる、素晴らしいエピソードでした。
テーマ性を強く孕みつつも、久々のドレパエピとして申し分のない、とにかくハッピーで仲良しで幸せで、骨太な成長も含めた最高の物語にしてくれたことが、ドレパ好きな僕としては何より嬉しい。
赤ん坊に戸惑いつつも、自分らしい受け止め方を学んでいくシオン。
穏やかに皆を見守りながら、肩肘張らず頑張るレオナ。
エゴを暴走させつつお話を回すトリックスターとして、不都合をえぐりだすスパイスとして機能しまくるドロシー。
みんな『あるがまま』に魅力的で、可愛くて、本当に良い話だった……ありがとう……ホンマありがとう……。

そして来週は記念すべき100回目、ドロシーVSジュルルの第二ラウンドです。
今回の展開を例えばみれぃが背負ったら重たくなりすぎるんだけど、同時に誰かがやんなきゃいけない話ではあって、それをしっかり背負いコメディの領域に留めることが出来るドロシーがいるってのは、ほんと凄いことだと思う。
プリパラをプリパラとして成り立たせている功労者に捧げるアニバーサリー・エピソードが、どのように展開し、何を描くのか。
来週が待ちきれませんね。