忘却バッテリー 第3話を見る。
前回ややピリ付いた空気纏って動き出した、小手指一年五人組。
強面剥いでみれば年相応のクソボケぼんくら男子高校生なわけで、そこら辺のおバカっぷりをたっぷり堪能できるギャグ濃いめなエピソード。
…から、高校球児の概念存在、強豪・帝徳の国都くんに引きずられ、初の試合形式怪物ピッチャー一発ズドンまで、一気に走っていく回となった。
宮野がボケて梶が突っ込む、高校生サイドの笑いの作り方はいつもどおりにパワフルなんだが、金尾がボケて杉田が突っ込む、帝徳大人サイドの”二発目”が程よく緩んだ腹筋に、深く刺さった。
『監督ッ!』のバリエーションだけで笑わせるのズルいな…。
前半は汗臭さを抑え笑いを山盛りにした、みんな大好きおバカ男子高校生の朗らかな日常。
トゲトゲツッパってるフリして、野球は楽しいから大好きで、それを一緒にやってくれる仲間も大事で、皆ピュアないい子だよ! つうのが、前回の補足として良く効いてる回である。
藤堂も千早も、生真面目な強者ッ面一枚剥げば等身大の野球少年…つうかフツーの高校生よりピュアピュア夢追い人なわけで、距離縮めようと一生懸命な圭ちゃんの笑えるから周りに乗っかって、彼らの”純”が上手く滲んでいた。
このお話の子ども達、皆かわいいから好き。
そこら辺の純粋さを、ちゃんと見抜いて言語がする山田太郎のありがたみは、ギャグ回でも強い。
正直原作だとややエグみとクドさがあるパートなんだが、アニメは声優の熱演と後退のネジを外したパロディ山盛りで塩梅を整え、勢いよく啜り込める仕上がりになっていた。
笑いのさじ加減は本当に難しいと思うけど、アニメ化にあたりちょうどいいテンポと温度、勢いと味付けでもってまとめてくれて、素直に笑えるのはありがたい。
笑って緩んだ腹筋に、『あ、この子ら活きてるな。好きだな』という印象がぶっ刺さっていくわけで、スポ根ドラマに視聴者をノセる上でも、ギャグが想定通りドッカンドッカン爆発するってのは大事なのだ。
圭ちゃんママのイヤっぷりとかも、過剰にならない絶妙さでコスってくれて、大変良かった。
このお話、楽しい遊びとしての野球の原点と、そこから切磋琢磨と過当競争を経て、残酷に優劣が決まる競技としての野球が、ネタの薄皮の奥みっちり詰まった話である。
小っ恥ずかしい青春っぷりで、捨てたはずのグラブをワクワク手に取り、キャッチボールにウキウキする復活の二遊間は、野球と出会った頃の純粋さを幸せに取り戻している。
ここら辺の真っ直ぐさを程よくコスり、笑いの火種にして楽しく生かす手際もまた良い感じなのだが、ミジンコ都立で野球人生再スタートを切った負け犬たちは、野球を楽しめる自分を、笑いながら取り返しつつある。
だが彼らの才能は彼らを勝たせてしまって、勝敗が乗れば楽しいだけでは終わらない。
圭ちゃんが愛されること、嫌われないことにしがみついている様子は、この段階では無様な笑いの種であるけども、話が軌道に乗って持ち前のシリアスさを顕にした後アニメで見返すと、なかなか笑えない。
負けた相手を殺して恨まれ、その痛みを忘れるために勝つ機械に自分を作り変えて、おバカな甘えん坊な本性が消えてなくなるまで、鍛えて鍛えて鍛え倒した。
そんな智将のあり方がぶっ壊れた後、ブツクサ文句言いつつ野球の楽しさを一個ずつ学び直している圭ちゃんは、何も覚えていないはずなのに嫌われること、恨まれることを極端に怖がる。
野球をやって楽しくて、お互いを好きになってそれで終わり。
幼く無邪気な遊びの夢は、殺した相手の名前を覚えていない葉流火の残酷が軋轢を生む中で、土足で踏みにじられていく。
葉流火をそういう存在に作ってしまったのもかつての圭ちゃんだし、敬意と愛情を置き去りに結果だけを求める戦い方に殺されて、一人相棒を置き去りに原点に戻ってしまったのも圭ちゃんだ。
要圭が野球のエグい部分、全部背負ってくれたから成立していた、残酷で傲慢なピッチングマシーンは今、支え導いてくれる存在を失ったまま一人、最悪最強なエースとして立ちすくんでいる。
そのシリアスな孤独のヤバさを、自覚できるほど葉流火の人格は成熟しておらず、それはある意味”智将”の檻が彼の幼さを守った結果だ。
思春期の柔らかな心が受け止めるには、あまりに残酷なスコアボードの毒薬。
それが人間を壊す様が実に多彩で絢爛で、ある種のカタルシスすら孕んでいる事実を、楽しくおバカなこのお話は鋭く睨みつけている。
野球をやり続けていれば、競技と向き合っていけば、否応なくその毒を飲んで大人になり、あるいは毒に殺されて野球をやめ、あるいは何もかも忘れて無邪気な子どもに戻っていく。
そんな残酷を笑いの中に照らしつつ、しかしそればっかりが野球の全部じゃないとも、このお話は描く。
気の合う仲間とバカやって、上手くなるのが楽しくて、キツイ練習くぐり抜けて、チームがチームになっていく。
どんだけ殺されても消えてくれない、”好き”と”楽しい”をオイルに込めて、閉じ込めていたグラブを優しく撫でる瞬間は、確かに野球の一部なのだ。
子ども達を野球に惹きつけた”好き”と”楽しい”が、ひどく寿命の短い輝きで、それで何もかんも乗り越えていけるほど、本気の勝ち負けは優しくはないけども。
その厳しさに一度倒れ伏して、何もかも忘れるほどに傷ついてなお、野球に出会い直しもう一度動き出してしまう子ども達で、小手指野球部は構成されている。
いやまぁ、ゴミみてーな先輩とかモブ顔とかもいるけど…でもアイツラだって、圭ちゃん達との出会いを通じて彼らなりの”野球”をしだすんだよマジ!!
極めて残酷に的確に、才能の有無とそれで刻まれる結果が、”好き”と”楽しい”を殺しに来る世界。
そこでガキっぽく『野球が好き!』とか言ってるの、現実見てない恥ずかしさが確かにあって、バカ高校生達の真っ直ぐさをコスって笑いを作るスタイルは、そういうシニカルを作品内部にまくりこむ。
ああ、こんなに残酷な世界で何かを本気で好きなの、確かに恥ずかしいよね。
ガキっぽいよね。
でも、それが良いんじゃないか。
そうさせてくれるから、野球って凄いんじゃないか。
時に笑えすらする熱血を、シニカルに上から嘲笑ってハイ終わりではなく、そんな世間の賢い目線に笑いで同調したフリで重なり、ドラマで殴る。
アニメで改めて、矢継ぎ早に突っ込まれるおバカ男子高校生ギャグを見ていると、作品が選んだ物語の戦術を腹に落とせる感じがあった。
こういう風に、お話と出会い直して改めて顔を見つめる体験が出来るのが、僕が”アニメ化”に一番求めることで…つまり忘却バッテリーのアニメは、いいアニメだってことだろう。
野球の残酷さに噛み殺されず、強豪校でガチる道を選べた勝者達が、帝徳には集う。
監督はちょっと…イヤ大分ヤバい感じの人だが、野球で勝つことと負けること、その歯車に子ども達が巻き込まれることに、作中随一の誠実さで向き合ってくれる存在だ。
野球は、少年たちを殺す。
そんな当たり前の毒を飲み干し、それでもなおエリートなり、エリートだからこそ野球が好きで楽しくて、魂を引きちぎられる痛みを噛み締めて戦う者たちを率いて、彼は監督をやっている。
大人の指導者なし、恵まれた練習環境なし、課せられた責務なし。
どん底だからこそ楽しさの原点に戻れる小手指と、礼儀で殴るスタイルを当然身に着けている帝徳は、鏡合わせの双子だ。
シリアスに描いたらあまりに重たく凶暴になってしまう、人生を野球に賭ける意味にクッションをかけるべく、この練習試合はギャグ濃いめでスルッと入った感じでもあるな。
そしてバズーカみたいな音立てた葉流火の初球は、そういう柔らかさを引っ剥がす。
葉流火の才能は否応なく彼を勝たせてしまうし、対手を否応なく負けさせてしまう。
清峰葉流火が清峰葉流火である限り、野球の残酷さも真剣さも、彼を逃さない。
だが、野球は清峰葉流火だけでやるものではなく、清峰葉流火だけがやっているものでもない。
彼が負かし忘れた、忘れていいよと誰かに言ってもらった敗者たちも、屈辱を噛み締め血が滲む努力を積み上げ、自分だけの”好き”と”楽しい”にしがみつくべく、ゲロ吐きながら練習しているのだ。
それを思い知ってもらわなきゃ、野球ガチってる甲斐がない。
国都と帝徳の怒りは、コミカルに彩られているものの正統で苛烈だ。そらー、まーね…。
運命に流され、ミジンコ都立に集ってしまった最強つよつよ一年生は果たして、即席チームでどれだけ強豪に噛みつけるのか。
その付け焼き刃を跳ね除け、野球を選び野球に選ばれた強者達が、高校球児のスタンダードの生き様を見せつけるか。
肩の力を抜いて心底笑える日常が終わり、初の練習試合にシリアスな熱が入っていく。
勝って負けても笑えねぇ、傷ついてなお続けるしかねぇ。
ダイヤモンドの祝福と呪いが、どんな輝きを放つか。
次回そこらへん、このアニメがどう描いてくるか。
とても楽しみ。
プレイの作画が全体的に良いので、それメインに持って来た時どんだけ作品全体がアガるかってのも、見ておきたいんよな