イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

コンクリート・レボルティオ ~超人幻想~ THE LAST SONG:第24話『君はまだ歌えるか』感想

正義の味方を目指して一つの時代を駆け抜けた少年の物語、ついに最終話です。
これまでの要素をこれまでかと積み上げて一気にまとめ上げる、パワー勝負なのにテクニカルな最終話で、満足感と寂寥感が同時にこみ上げてくる、いい終わりだったと思います。
戦後という過去を舞台にしつつ、にしっかり現代に息づく普遍的なテーマを盛り込み、フィクションの枠を超えて視聴者を鼓舞するような、前向きで少しだけ寂しい、良い最終回でした。
あまりにたくさんの物を託されて、いろんな事を語らなければいけない気分だけが急いていますが、書きながら落ち着いていきましょう。

まずは最終話としての、このエピソードの仕上がりからいきましょう。
今回のお話、良く考えると駆け足かつ根本的な問題は解決しておらず、下手な料理の仕方をすれば消化不良になるところです。
しかしこれまでの各話で印象的だったモチーフを的確に拾い、パーツが組み上がって全体を作り上げる構築の気持ちよさを作り上げたことと、主人公・人吉爾郎が己の生き様に納得するドラマを完走しきったことで、綺麗に終わった感慨を巧く盛り上げてくれました。

第1話で見せた爾郎と輝子の出会い、カムぺと風朗太の因縁、時が過ぎて父親になった早川少年、国民的バンドとなったマウンテンホース、幾度も倒れ蘇るアースちゃん達機械の子供、苦い敗北から音無弓彦を引き上げてくれるBL団、第9話で初登場し物語の大事なギミックとなったバイオデストロイヤー、第10話では留保していた時の修正力の揺り戻し、かつては飲み込まれた魔の力を圧倒する星の子。
愛の渇きを乗り越えかつての仲間の横に並ぶアラクネ、平和の祭典に飛び立ったたスリーバードメンが兵士となる皮肉、宇宙に去っても人を見守る古き神、やっぱり人助けは気持ちいいサーブライ&ノーネーム、新天地に旅立っていく影胡摩、大鉄の中で『それでも』輝いている大手町の共闘。
思いつくまま時系列順に並べても、今回のエピソードにはこれだけ過去の物語からの引用がありました。
今回見せられた様々な断片は全て、これまでの物語で実際に語ってきたことであり、未来への広がりを造る『宇宙からの侵略者』(スペースインベーダーの発売は昭和53年)も、第15話で語られたものの先にあります。
沢山の生き様と正義がそれぞれぶつかり合い、その価値を輝かせていた物語だからこそ、その終りとなる今回各々の物語がしっかり引用され、伏線が組み上がって一つのお話にまとまっていく醍醐味を味わえたのは、とても良かったと思います。

自作からの引用が話を大きく、心地よく見せるのは、一つにはこれまで見てきた物語がより強い意味にまとまっていく過程で、視聴体験が無駄ではなかったと感じるからでしょう。
傷ついたもの、間違えたもの、背を向けあったもの……色々悲しいこともあったけど、それがけして無駄ではなく、一つの結論にたどり着くために必要な一歩だったと感じさせることは、長い物語を気持ち良く振り返る上でとても大事だと思います。
もう一つは凄く単純に、バラバラに見えていた要素がグッとまとまっていく活動、それ自体が凄く胸が踊るってことでしょうね。
やっぱね、『そ、そう来たか~!!』っていう驚きは、お話見る上で最高に気持ちがいい瞬間です。


しかし引用の系譜で組み立てられた大きな骨組みは、あくまで物語の外側でしかありません。
昭和ヒーローへの壮大な言及である”コンクリート・レボルティオ”が背負うこの構図に、物語の熱と血潮を通していたのはやはり、哀しい宿命を背負い正義と自由と平和と愛に迷いながら、最後に己を『超人』として肯定しえた、人吉爾郎のドラマにほかなりません。
青臭くて、中途半端で、夢見がちなあの少年が、『それでも』から始まり『所詮』に落ちて、『それでも』と言い続けるようになった魂の旅路こそ、コンレボの背骨です。
最終回となる今回のエピソードも、それを語り切ることに何よりも力を注いでいました。
それは何が視聴者の胸を打っていたのか、何がお話として大事なのか最後の最後で間違えない、信頼できる姿勢だったと思います。

妖怪や悪魔を巻き込んで世界と戦争しようとした爾郎の本心は、輝子と対峙することで明らかになっていきます。
灰色の正義が複数存在する現実の重さ、天弓ナイトや無辜の人民を殺してしまった罪の重さ、『私の事、ずっと好きでいてね』という恋の約束も守れない不誠実な自分。
爾郎が世界を『所詮』と言ってしまう大きな原因が、笑美との約束と輝子に引かれる恋心の板挟みだったのは、僕は凄く素敵で大事なことだなと思いました。
フィギュアや変身セットに胸おどらせるヒーローボーイが、既に初恋を知っていたという事実も好きだし、笑美と交わした約束に背中を向けて、自分の気持ちに素直になることが出来ない誠実さも、彼らしいと思います。
それを表に出せず抱え込み、沢山の怪物たちを死地に引き寄せた業も含めて。

人を傷つけることしか出来ない『怪獣』の自分を諦め、せめて『正義』の対比物として『悪』を背負って死んでいこうという爾郎の『所詮』は、里見が的確に看破したとおり『自己犠牲ショー』でしかありません。
『悪』がなければ一つにまとまることが出来ない『正義』の哀しみは、例えばジャッキーとアラクネの和解の裏で蠢いていますが、それは結局里見が主導する超人ファシズム、『いていい存在』と『いてはいけない存在』を切り分ける残忍さと、根本としては同じです。
発電施設で輝子と対峙するまでの爾郎は、否定するべき悪しき現実主義、過剰なニヒリズムに支配されている、迷える子供なのでしょう。

そんな爾郎に輝子は毅然とノーをつきつけるわけですが、これは第2話ラスト、己の罪に泣き崩れ『大人』であることを望んだ風朗太に、『いつまでも子供で居てくれ』と願った爾郎と、強く響きあう姿勢です。
爾郎自身も孫竹やジャガーに『いつまでも子供で居てくれ。俺の失った輝きを象徴する、何も知らない無垢な存在で居てくれ』という願いを押し付けられ、それを否定してあの発電施設まで来てしまったわけです。
そんな男が、輝子には無垢であることを押し付ける。
その身勝手さをしっかり指摘し、魔法少女ですら恋を知り、己のエゴに押し流され、綺麗ではありえない大人になってしまう事実を叩き付けて、爾郎の身勝手な願いをはねのける輝子の姿は、とても頼もしかったです。
爾郎くんは笑美さんっていう『全肯定してくれる母』しか知らなかったので、輝子にも聖母を求めていたけど、肝心の輝子本人は性欲万歳の生々しい女だったというすれ違いが、あの状況を生んでおるのだな。

同時にそれは、無垢なる子供に救いを求めつつ守ってきた、過去の天弓ナイトと爾郎にも重なります。
あの時は無邪気に喜び吠え、燃え上がって人を殺すだけだった爾郎も、時間が行き過ぎて三十路の『大人』となった。
時間は行き過ぎて、綺麗なものは必ず汚れていってしまうけど、それは『子供』の時は見えなかった世の中の盲点が見えるほどに背丈が伸びるという、成長の一側面でもある。
輝子の成長を認め、自分勝手なイメージを押し付ける生き方を捨て去ることで、爾郎は大人になった己自身と、かつて子供であった自分を肯定できたのではないか。
そう思えてなりません。


輝子に感じていた身勝手な理想と罪悪感を当人から否定されることで、世界を『所詮』で諦めるニヒリズムから立ち直った爾郎は、己のシャドウと対峙することで、その意思をより強めていきます。
これまでの物語でついぞ己の内面を語らなかった里見顧問は、今回ついに自分がなにを望んでいるかしっかりと言葉にし、爾郎達が抱く幻想を否定しにかかります。
超人も、夢も、希望も、今僕達が見ているアニメも物語も、『所詮』現実の前には無力な幻想でしかなく、『存在してはいけないもの』として排除しにかかる、過剰な現実主義。
ツングースカ大爆発によって世界に呼ばれ、超人が闊歩する神化に違和感を感じ続けた男の目的は、超人それ自体の根絶と否定でした。

『神化世界は、人吉爾郎の影で埋め尽くされている』と言っていいくらい、このアニメには爾郎に似ているが違う生き方をした存在-シャドウ-が出てきます。
鋼鉄探偵にしても大鉄くんにしても、そしてクロードにしても、シャドウたちはみな爾郎のことが好きで、彼に理想を託せばこそ、彼とは別の生き方を選ぶ存在でした。
それは多分、彼らもまた超人という幻想を愛する子供だからでしょう。
しかし、最後のシャドウとして現れた里見顧問は、爾郎に引き寄せられることはありません。

人智を超えた超常の力も、胸躍る正義の物語も、現実の苦しさを一時忘れさせてくれる淡い夢も。
全てを『所詮』で切り捨て、それに心を寄せる全ての存在を否定する彼は、確かにコンクリートレボルティオ最後の敵役として、十分な悪意と説得力を持っています。
彼のニヒリズムは爾郎だけではなく、彼に似た沢山のシャドウ(それが男だけではないというのは、託された天弓ナイトの衣装を己のものにしたヒカリナイトを見てもわかります)、灰色の正義に殉じてきた沢山の超人たちを、そして彼らの描いた大事な絵空事を己の物語なのだと共感してみていた僕たち視聴者をも否定する、苛烈なものです。

里見が代表する『所詮』現実なんてこんなものだというニヒリズムを受け入れつつ、『それでも』諦めきれないから僕らはこのアニメを見て、物語を求める。
それはコンレボ視聴者やアニメファンだけではなく、例えば政治とか、国家とか、家族とか、幸福とか、魂とか、どのような形であれ『夢と希望の物語』を想起しなければ生きて行けない、人間の根本的な性質なのだと思います。
メディアに身を置きながら、里見のようなニヒリズムに堕すことなく、隠されたメッセージを込めて歌を作り続ける東崎さんは、そういう性質を肯定するキャラクターなのでしょう。

里見のオリジンであるツングースカ大爆発は、爾郎のオリジンである原爆とは異なり、犠牲者や被害を出すことのなかった不可思議な事故です。
触れるもの皆燃え上がらせ、望むと望むまいと罪を重ねる爾郎の業と、同じ生い立ちながら力を使いこなしている里見との差異は、産声の犠牲になった存在からの怨嗟、その有無なのかもしれません。
犠牲者の呪いと願いを受け取った爾郎が、常に『正義の味方』であろうと活動し続けたのと、里見が誰も傷つけないパワーを、超人を否定する私欲のために使い続けたのも、面白い対比ですね。
『原罪を背負うからこそ、救いと夢を求める主人公』と、『罪なき異世界の存在として生まれたからこそ、神化世界のあり方を否定する敵役』ってのは、なかなかクレバーなひねり方だと思うんですよね。


幻想や物語を否定する里見自身が、物語を用いて人を操る矛盾がしっかり指摘されているように、このアニメは現実のやるせなさや頑なさを巧く物語に織り込みつつ、巧く『それでも』と言えるように展開してきました。
あまりに理想に都合の良い世界を作れば、それは人の心に響かない絵空事に変わってしまうわけで、世界の都合の悪さから目を背けず勝負を仕掛けること、ニヒリズムに押し潰されないギリギリまで現実の苦味を取り入れていく勇気は、創作上とても大事なファクターです。
爾郎が現実の重たさに立ち向かい、自分自身に絶望して一度は『所詮』と言ってしまうところまで世界のシビアさを叩きつけたからこそ、最後の最後で里見のニヒリズムに『それでも』と対峙する決断には、重さと説得力があるのです。

そのシビアな視線は物語の解決の瞬間まで生きていて、結局人間・人吉爾郎は死んでしまって、物語を収めるためには里見を生け贄に捧げる必要がある。
これまで『守る』ために力を使ってきた輝子が、彼を超人融解発電装置にぶち込む処刑人になっているのは、カムペの同士を大量殺戮することで大人へのイニシエーションを済ませた風朗太、自分からガゴンにライトを浴びせ彼を『怪獣』にした早川少年に重なります。
『子供』っぽい魔女っ子服を脱ぎ捨て、普通に『大人』な衣装をまとっているのに魔法が使える輝子は、自分が子供を抱える側になった早川少年が、未だ風朗太を見ることが出来るのと同じ、小さな救いなんだろうな……。

妖怪や魔神、悪魔として『いてはいけない存在』に押し込まれたモノ達は、それなりの犠牲を出しつつ当初の目的のまま、別の世界へと旅立って行きました。
里見のプロパガンダに強化されてはいますが、利便を求める声に押し流され、残忍なコンクリート世界から古きものを排除していく時代の流れ自体は、けして世界からなくなることのないカルマです。
血を流しつつも絶滅戦争の危機を回避し、『それでも』が許されるかもしれない世界に旅立っていく彼らの終わりも、現実のシビアさと淡い希望のバランスを取った、一つの落とし所といえます。
彼らが夢見た仮想世界の一つ、原子力あふれる昭和に身をおくモノとしては『あんまいいもんでもねぇヨ?』とお節介な助言をしたくなりますが、そのメタ的な皮肉もまた、神化世界を視聴者に引き寄せる手管の一つなんでしょうね。
僕らが神化世界に夢を見たように、神化世界も僕らに夢を見たという鏡写しの構図は、メタフィクショナルな作品世界を逆手に取って、視聴者のイマジネーションを加速させる見事な仕掛けでした。


里見は民衆の欲望を信じ、自分が消えても世界は変わらないとうそぶきます。
しかし超人が一見消え去った後の世界には、超人をエネルギー化する欲望は見えず、超人ファシズムへの弾圧も感じられません。
里見が望んだ超人をエネルギーとして使い潰す過酷な未来は訪れず、超人たちが思い出の中に立ち去る、寂しくて優しい世界が到来したわけです。

ここら辺の問題解決をご都合主義と取るか、ジャガーさんの時空改変と爾郎の概念化が合わさって、少しだけ優しい世界が生まれたと取るかは、人それぞれでしょう。
古き存在は去り、超人が堂々と闊歩する時代は終わったけど、しかしビルの間で、宇宙の彼方で超人たちはまだ生きている。
彼らがかつて在った名残は世界に響いていて、フィクションの形で人々に夢とか希望とか、絶望とか世の中の汚さとか、色んな大事なことを教え続けている。
死んでしまったように思えた人や機械たちも皆生き延びて、もしかしたらあまり哀しくない世界を生きることが出来ているかもしれないと、身勝手な希望を夢見ることが出来る。
"コンクリートレボルティオ"という物語を楽しんだ僕たちに少し寄せた、奇妙な親近感のあるこの終わり方が、僕はとても好きです。


思い返してみると、この作品最大の『超人幻想』は、超人課という場所それ自体だった気がします。
爾郎が思いを通すために、ジャガーさんや風朗太、笑美さんや輝子やウルと助け合い、力を合わせて一つのことを成し遂げる、そんな真っ直ぐな物語。
それは時系列を入れ替え、『超人課という幻想』が破綻した後の世界を第一話で描いてしまう野心的な構成によって、物語の開始時から否定されます。
超常の力を集めた超人課は物語のはじまりからして、現実のシビアさを根本から変えることはかなわない、矛盾に満ちた存在でした。
『それでも』まるでアニメのヒーローみたいに、彼らが一つの正義の為に力を合わせる瞬間を心のどっかで焦がれていた身としては、今回の里見との決戦で全員に見せ場があったことは、とても嬉しかったですね。

ジャガーさんも超人ファシズムに囚われたのではなく、圧政に深く関与し影響力を強く及ぼすことで、時間の修正力で里見の影響力を打ち消す策を狙っていました。
最後まで『正義の味方』に憧れ、官憲の手先になったり悪の首領になったり忙しい彼もまた、沢山いる人吉爾郎のシャドウの一人だったのでしょう。
『人吉爾郎の味方』という言葉と『正義の味方』という言葉を重ねあわせると、すなわち『人吉爾郎も正義なんだ』という言葉になるのは、超人課の『大人』として爾郎を愛しつつ、その気持をなかなか素直に表現できなかったジャガーさんらしいラブ・コールで、僕ァ大好きですね。
超人課マジ爾郎好きすぎ集団だからなぁ……俺もなぁ……。

前回ヒロインポイント荒稼ぎしてた笑美さんですが、今回は逆に恋敵ぶっ殺すモードに入ったり、爾郎が『所詮』から『それでも』に生き方を切り替える役を輝子に取られたり、恋の呪いを否定されたり、結構寂しい役回りでした。
爾郎に逃げられたのは爾郎が好きな奴みんな同じなんですけど、『約束破っちゃったな』という優しい言葉に終止し、『悪い、同情と律儀さで心中してもいいかなって思ったけど、やっぱ恋愛対象には見れない。初見で星の子に胸キュンだったし』と断言はしてくれない爾郎がズルくてなぁ……。
結局爾郎は『正義』と『自由』と『平和』を選び、二人の『愛』には応えられない決断をしたってことですかねぇ……つまりクロード大勝利?(違います)
爾郎先輩はああいう形でしか、『愛』と向き合えない人だった、ってことかな。

風朗太と輝子という、超人課の『子供』担当が超人が思い出になった世界に残り、少し『大人』になった姿を見せるのも、この作品の大事な要素であるノスタルジーを強く感じさせて、とても良かったです。
ノスタルジーに引きずられて真実を見誤ることも多かった超人幻想ですが、その段階をしっかりと乗り越え、最終的にはノスタルジーを現実を生き抜くパワーに変えられる『大人』のお話にしていたのは、とても良かったです。
里見のニヒリズムと同じくらい、もしくはそれ以上に、ノスタルジーは危険な毒だと思うわけで、それを無条件に称揚するのではなく、変わってしまう寂しさをしっかり受け止め前に進んでいく終わり方にしたのは、本当に素晴らしい。
エピソードの出始め、少し背の延びた風朗太が映る瞬間にどういう最終話か直感的に判る作り方、俺好きだなぁ……。


僕はコンレボの感想を書くにあたって、あんまり元ネタ探しに汲々としないよう勝手に気を使っていました。
莫大な知識量に裏打ちされたパロディ遊びはとても楽しいけど、そこで展開されるのは過去を懐かしんだり、記号を弄んだりするゲームではなく、仮想世界と仮装人物に敬意を払い、背筋を伸ばして展開される血の滲んだ物語(のはず)だからです。
だから、たしかに借り物の記号の寄せ集めながら、一世界として魅力的な神化それ自体、様々なオマージュをつめ込まれてなお、一個人として人格を持つキャラクターたちに、僕も可能な限り膝を正そうと思った。

今最終回を見終えて、それで良かったな、と思っています。
灰色の正義がぶつかり合い、殺しあう神化世界の厳しさをしっかり描きつつ、それでも/だからこそ綺麗な何かを夢見る『超人』たちの物語として、コンレボはパロディの集大成を遥かに超えた、立派な物語足りえていました。
様々なオリジンを持ち、多様な願いと挫折と絶望と『それでも』と『所詮』を詰め込んだキャラクターたちは、一人ひとりが一孤の『超人』として、それぞれ哀しく美しく輝いていた。
製作者達がおそらくそうであってくれと願ったように、『超人』たちはフィクションの中のパスティーシュとしてではなく、己の生き様を僕の(そして多分あなたの)記憶に刻んだ。
それは一つの物語を描き切ろうという強い意志だけが可能にする、創作の奇跡だと思います。

時間軸を行ったり来たりしながら、変化する時代と価値観を活写する工夫。
オムニバスで様々な題材、様々な時代を飛び回りつつ、軸となるテーマをしっかり定めた構成の妙味。
様々な元ネタを組み合わせフックを作りつつ、パロディをツギハギした怪物ではなく、己の人生を持った『超人』としてしっかり立ったキャラクターたち。
世界のままならなさや残酷さ、醜さを真ん中に据えつつ、そこに落ち切らない希望と、それでも迫ってくる厳しさ両方を公平に捌いたバランス感覚。
良いところ、好きになれるところがたくさんある物語でした。

今回の結末は一見まとまりが良いように見えて、色んな決着がついていない、灰色の終わり方です。
犠牲になったものも沢山いるし、復活したように見える機械の子供たちも実は生死不明だし、弾圧されなくなったのは超人が社会の日陰に追いやられた結果かもしれないし、全てはノスタルジーに押し流されていくし。
でも、このアニメがずっと語ってきたのは世界の複雑さであり、スッキリとした決着がつかないややこしさであり、『それでも』小さな希望を吠え続けることの意味であり、迷い、結論にたどり着いたように見えてまた迷う、魂の旅路の価値だったのではないか。
正義の奥に不実が、不正義の奥に真心が眠っている、曖昧であやふやで魅力的な世界を、灰色のまま是認する勇気だったのではないか。
そう思うと、今回の終わり方はやっぱり、作品がこれまで描いたことを誠実に積み上げて、とても高い場所にたどり着いた、立派なエンディングだと思います。

コンクリートレボルティオ、良いアニメでした。
最終話のサブタイトルに答えて、僕なりのTHE LAST SONGを捧げるとするなら、やっぱ"スターダストボーイズ"だと思います。
その歌詞を引用して、長くなった感想に一つの区切りをつけましょう。
ありがとうございました。

"どこから見ても スーパマンじゃない スペースオペラの主役になれない
危機一髪も救えない ご期待通りに現れない
ためいきつく程イキじゃない 拍手をするほど働かない
子供の夢にも出てこない 大人が懐かしがることもない
だからと云って駄目じゃない 駄目じゃない
スターダスト ボーイズ 駄目じゃない
星屑の俺たち けっこういいことあるんだぜ
スターダスト ボーイズ"