20週年を迎えた『ざわざわ森のがんこちゃん』の特番を見る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年1月1日
ポスト・ヒューマンSFとして、切なさを宿した人類の黄昏を駆け抜けていく時空SFとして、児童向け番組としてナイフのような鋭さを持つ、凶悪な一撃だった。https://t.co/uOfzf43oZc
がんこちゃんシリーズが、人類絶滅後の砂漠世界に適応し、学校や集落といった人類に似た文化を継承した異質生命体の物語だというのは、今回出てきた設定ではない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年1月1日
"ひょっこりひょうたん島"が死後の世界であるように、物語の最初から背景に設定され、朗らかな世界を支える死の背骨である。
今回のお話はがんこちゃんが父母の少年時代に、そして最後の人類が未だ残る古代にタイムスリップすることで、ざわざわ森のオリジン、つまり現世霊長である爬虫類人類の起源を明らかにする、まさにエピソード0である。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年1月1日
そこには濃厚な滅びと、それを踏まえた上で隆盛する無責任な命の讃歌がある。
がんこちゃんは子供なので、時間が巻き戻ること(つまり、人類絶滅の未来が確定してしまっていること)の残酷さも、遺体すら残さず人間が砂となり、その遺物の上に『お友達との楽しい毎日』がいとまれていることには気づけない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年1月1日
死と滅びの地層の上にしか子供の笑顔が成り立たない残忍はしかし、がんこちゃんの夢物語をソフトに受け止め、『今を良くしていきましょう!』という前向きな目標に置き換える教師の配慮により、剥き出しの断面を隠したまま、がんこちゃんの思い出になっていく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年1月1日
そういうハードコアな人生の断面図を突きつけないために、がんこちゃんを『何も知らない子供』で居続けさせるために、教育という装置も、砂の意味も約束が叶えられない事実も理解した上で、がんこちゃんを笑顔のままにしてあげようとする親世代の存在意義もある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年1月1日
それは過保護だとか嘘だという話ではない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年1月1日
森を覆う砂のように、死も時間も不可逆の運命も、あらゆる残酷が必ずがんこちゃんの上にのしかかる瞬間はやってくる。
そうやって、がんこちゃんの両親もまた頑是ない子供から大人になリ、がんこちゃんの思い出を大事にして、がんこちゃんを生んだのだ。
いつかシビアで哀しい人生の切断面ががんこちゃんを切り裂くとしても、今回がんこちゃんが時空を飛び越えて両親に与えた思い出のように、希望をつなぎ合わせることでその痛みは耐えられるものになる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年1月1日
それは常に、弱い存在を弱いままでいさせるための配慮があって可能な、コンパクトな奇跡だ。
がんこちゃんのように無邪気に、世界を構築する繋がりを理解しない(しなくても良い、出来ない)時代を飛び越えてしまった僕にとっては、がんこちゃんよりも彼女を取り巻く親世代の寂しい優しさが、よく刺さるお話だった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年1月1日
人類が全て砂になっても、弱き者を慈しむ情が残っているのは、”地球の長い午後のような”このSFにおける一つの救いというか、矜持というか、そういう塩梅の光だと思った。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年1月1日
人間の形を放棄しても、人間の潤い、『水』はざわざわ森に残ったのだ。だから、がんこちゃんは毎日楽しく暮らせている。
地球最後の人類と、その後の世界に立ち上る霊長との在りえない交流も、確定した滅びの未来を映して非常に暗く、しかし切ない残光に満ちている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年1月1日
飢えたものに最後の食事を分け与え、未来の文化からサボテンの天ぷらを引き寄せる。食事を通じてわかり合う、最後の人類と人類以降。
それは確定した滅びを前提とした、閃光のような虚しい交流だ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年1月1日
今回滅びは背景で静かに横たわるのではなく、画面の中で幾度も炸裂する。
『水』を目の前にしながら倒れていくもの、気づけば砂になっていくもの、砂になってなお同胞を求め襲いかかるもの。『水』を失った人類で、このお話は満ちている
がんこちゃんは弱い存在であると同時に、『水』なき世界に適応した強い生き物でもある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年1月1日
文明が崩壊し、世界に拒絶された人類最後の兄妹。逆しまになったアダムとイブに、楽園に帰る権限は与えられず、荒野の中には写真に切り取られた思い出だけが残る。それは物語が始まった時から確定している破滅だ
しかしそこで、一種無責任に残酷に、去っていった人類の継承者『ではなく』、無理解と断絶を経て砂漠の中の『水』を甘受しながら反映する爬虫人類を写すのは、シビアで綺麗な視座だ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年1月1日
最後の人類たちの温もりは風に吹かれ、砂となって消えていく。その思い出は、『楽しい毎日』の中に埋もれていく。
『強い』爬虫人類は、はるか古代に去っていた『弱い』人類のことを時々想像しつつ、やっぱり彼らを一切理解できないまま、岩石パンやサボテンの天ぷらを生き延びていく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年1月1日
それは、人類種が交代する中で必然的に起きた断絶なのであり、どんな感傷を寄せられても否定できない、一つの真実なのだ。
それを認めた上で、がんこちゃんと兄妹はサボテンの天ぷらをとても美味しく食べ、感情を取り戻し、尊厳を奪い返し、思い出を写真に刻んで、砂の中に消えていった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年1月1日
日常が踏みにじる過去のなかの、消え去っていく温もり。
シビアで無常な生存のカルマを真正面から捉えつつ、それを忘れないのは大事だ
そうやって、がんこちゃんと爬虫人類は、老いたる霊長類の星への賛歌を一瞬歌って、いつもの暮らしに帰っていく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年1月1日
命はそのように無責任に生きていくものだし、人類はその一瞬を忘れず永遠にしていくことで、形に関係なく人類足り得る。悪趣味なだけに堕ちない、冷静でシビアなSF作品だったと思う。
がんこちゃんSPは以下のアドレスから視聴できる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年1月1日
SFの思弁性、ありえない状況を想定すればこそより鮮明に人類の真実を切り取れる仮想性を肌で感じられる、いい作品だと思った。ぜひ見ていただきたい。https://t.co/uOfzf43oZc