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イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ:第50話『彼等の居場所』感想

かくして、物語は終わる。
鉄血のオルフェンズ、最終話です。
死ぬものが死に、生きるものが生き残る結末の後に、それぞれの道が続き、変化した世界がある。
順当とも言えるし、唐突とも言える終わりをどう受け止めれば良いのか、僕の中でもまとまっていませんが。
まぁこれまでそうであったように、書きながら考えていきましょう。


オルガが残した(と三日月が受け取った)最後の指令を守るように、バルバトスとグシオンは殿を引き受け、命は未来に繋がっていきます。
鉄花は仏前に供える散らない供養の花ですが、死に花咲かせて団長に報いよう! という方向を先週潰しておいたのは、三日月のファインプレーと言えるでしょう。
少年たちに負の補正をかけていた二期を、後味だけスッキリと終わらせるためには生存者が必要で、そのために着地点を調整した、という意地の悪い見方もできるでしょうが。
、あぁ。死ぬより生きてたほうが良いよ、やっぱ。

死に際の駄賃にイオクが死んでジュリエッタが生き残ったのは、命のやり取りの中で変わることが出来た女と、何度『前に出んな。立場をわきまえろ』と言われても英雄たる自分に良い続けた男の差異なのかもしれません。
書き取り訓練して少しは想像力が生まれたかと思ってたイオクは、不必要に前に出て、いらんこと言って窮地に陥ってきた過去をトレースするように、死にかけの明宏の前に立って『俺がお前の仇だ!』と宣言し、無様に殺される。
『まだ死にたくない!』と生き汚く死んでいく島崎さんの熱演は凄まじかったですが、やりきった感じで死んでいく明宏や三日月との綺麗さの差は、ヘイトを稼ぎ状況を転がすために生まれてきたキャラクターの『処分』という印象を強くさせ、素直には飲み込めませんでした。
色々大変な仕事だったと思うけど、まぁイオクくんもお疲れ。

明宏の満足はラフタを奪われ、『人として当たり前の』生き様が手から滑り落ちていった復讐を、完遂することから生まれます。
憎悪に狂った血まみれの姿は、オルガに命を救われてしまったがゆえに、生き残っても銃を手にするしかなかったライドと、歪んだ鏡像を為す。
それが流れの果てとしての必然ということを認めた上で、嫌な死に方、嫌な生き残り方だなぁと思います。

三日月もまぁ、オルガの死を経てなお特に変化のない、最初から変わりのないキャラクターとして死んでいきました。
まるで希望のように描かれる一粒種の暁くんは、生き方を変えることのなかった三日月の残照を背負い、母と母と同じ立場の女の愛情を受けます。
子供が子供として愛されないことの再生産が、アトラの子宮を介して行われたと見るには、希望に満ちた演出がされていましたが、あの子は『三日月の子供』以外の価値を母親から与えられるのだろうかと、僕は終わった後も不安です。


鉄華団の血で禊がなされ、世界は随分優しくなりました。
オルガが追い込まれていた『俺達は愛されていないガキだ。誰も俺たちをマトモには扱ってはくれねぇんだ』という強迫観念が嘘だったように、戦争が終わった後の世界は大きな意味でも小さな意味でも孤児たちを向かい入れ、生き残ったものたちの想像力は羽ばたく。
そういうものが存在している世界ならば、それが戦いの前に前倒しされていても良かったんじゃないのと思わなくもないですが、実際それは存在していなかったんだから仕方がない。

なんというか、よく分からないんですよね。
あの世界における共通の善というものが、一応我々が共有しているのと同じ『幸福の増大』『公平性』『搾取の低減』などにあるから、エピローグは全体的に世界の厳しさが和らぎ、孤児が死地に追いやられるルールが書き換わって終わったんだと思います。
しかし、それが『善』だとしたら、結構急に生えたもんだな、と。
他者への想像力が無い(あっても非常に非効率的なルール)だからこそ、作中の登場人物軒並み共感を麻痺させ、『家族』と『殺してもいいやつ』をきっちり線引して、悩まず疎まず殺しまくっていたんじゃないかなぁと思うんですが、結果としてこの社会によく似た『善』があの世界でも支持されるという終わり方になった以上、まぁそういうものなんでしょう。

ラスタルもクジャンのバカガキを前線に出し、議席を減らした結果セブンスターズ体制をぶち壊して、既存秩序の風通しを良くすることに成功していました。
それが起きてしまった変化への妥協なのか、現実にすり潰されながら隠し持っていたダイヤモンドの意思なのかは、やっぱり僕には分かりません。
ジュリエッタは『非常に徹してでも守るべき大義』なる言葉を使っていたけども、それがどういうものなのか、鉄華団ならざる彼らが語る尺は用意されず、アリアンロッドは敵なんだか主役なんだかわからないまま、勝利し生存の余録を受け取っています。
そういうところに落とすなら、ちゃんとやっておいてよね、と、今更な感想を持つ。

ジュリエッタガエリオも、『あの時想像力をもうちょっと働かせていれば……』と後悔してたけど、それは生き残ったものの特権というやつで。
生きるか死ぬかの瀬戸際で、相手の目を見て、相手を同じ人間として認識しながら殺すなんていう道徳的曲芸に、あの世界の人間は基本的に耐えられない。
生きるため共感を鈍麻させ、境界線を引いたという意味では、やっぱ鉄華団アリアンロッドも同じ『家族』なんだと思う。

そう生きるしかなかったのなら、それを現実として誇っても良いもんだと思うけど、全てが決着し物語の荒波を作らなくても良くなったこのタイミングで、親に恵まれ生き残った孤児が『あいつらも可哀想だったかもな……』と言ってくるのは、結構ずるい感じがしました。
己の『家族』の価値観に耽溺し、喉笛を狙ってくらい合う修羅界の血生臭さが、この作品の面白さ(の一部)だったのは間違いないでしょう。
それを維持するために『マトモ』なこというキャラが邪魔で、死ぬなりドロップアウトするなり物語の中心から遠ざけられるなり、影響力を及ぼせない場所に的確に隔離されたのも。
そういう物語を続けていくためには、少なくとも殺し合っている間は血で目を塞いでおかないとお話が続かないから、キャラクターは軒並み想像力から遠ざけられた。
『家族』の呪いにみんなが感染していたのは、そういう意味合いもあったのかもしれません。


バルバドスの首を天高く掲げて、戦争の時代は終わりました。
鉄華団の命は無駄ではなかったと確かめるように、地には平和と、ライド周辺に赤い苦味を残して道が続いていきます。
そういうものがあったのであれば、鉄華団の犠牲でそれを引き寄せるのではなく、もしくは天から恩寵のごとく降ってくるのではなく、途中で形になっても良いんじゃないかな、と思います。

ラフタが死んだ時、『人間として当たり前の『善』』を語ってから撃たれたように、孤児たちにとってそれは遠い夢なんでしょう。
そこに鉄華団の生存者たちを導けた時点で、オルガの夢(つまりそれを喰って生き延びてきた孤児たちの夢)はかなっていたってことかもしれません。
形としては綺麗な終わり方ですが、それを『全ての運命を尽くし、世界のルールを描ききってたどり着いた、決至の結論』だとは、僕は思わない。
『もうちょっと他に、手があっただろう』という未練を残すのは、作品に肩入れさせる大事な戦術でしょうが、それが『いや、やりきってないよね? 話の都合で色々ねじ曲がっているよね?』という疑問点から生まれるのは、いかさま上手くないと思います。

そう言い張るのであれば、『敵』であり勝利者であるアリアンロッド側の描写はもう少し積むべきだろうし、『善』にたどり着く物語だといいたいのであれば、もっと名前も顔もない、視聴者ウケに直結しない地道な人たちの描写を増やして、頂点と最下層だけで構築された世界の空白を、埋めるべきだと思った。
『世界はこういうものです』という語りかけに必要な、ゴミクズみたいな世界に産み落とされた少年兵というナイーブな問題を扱うなら、もうちょっと語り口に慎重さが必要だったんじゃないかなと、見終わった今となっては感じるわけです。
そういうものがあって初めて、『犠牲の果てに未来にたどり着いたのだから、未来には価値がある。世界は厳しいけど、哀しいばかりじゃない』というビターなラストも、飲めるんじゃないでしょうか。
常道から離れた苦い物語を飲み込ませるには、『ガンダム』という看板は非常に重たい枷だったし、お約束から離れていく無理筋を飲ませるだけの丁寧さが話運びにあったかというと、僕は無かった……とは言わないけど、足りなかったと思う。


僕はこうして紡がれた物語を最後まで見て、色々分からないことがたくさんあります。
一番分かんないのは自分自身で、『どういう態度で見続けるのが良かったのか』とか、『僕はこのお話にどうなって欲しかったのか』とか、終わってなお分からない……終わったからこそ混迷が深まっている感じでもあります。
第1話の感想では『"ロミオと青い空"みたくなって欲しい』と書いてあるから、恵まれない子供が世界の厳しさの中で手を取り合い、時に反目しつつ何かを成し遂げ、生き残る話が見たかったのかなぁ。
三日月に変わってほしかったのかなぁ。
『普通の話』が見たかったのかなぁ。

物語と向き合う時、僕らは過去の経験から、個人的な嗜好から、色んな未来を想像し、期待すると思います。
『こうなって欲しいなぁ』という願いがあればこそ、創作物と読者との対話が成り立って、期待を裏切られたと騒いだり、望みどおりの物語が来たと嬉しくなったり、色んな反応がある。
そういう想像力のコール&レスポンスを、三日月という主人公、想像力を限定したキャラクターたち、『話の都合を呑んでくれ』と体重を預けてくる物語運びからは、結構拒絶されているように、途中から感じるようになりました。
『俺はお前らの理解なんて必要としていない。作中の現実はお前らの想像力なんて超えていて、俺達の地獄は俺達のものだ。お前らに理解なんてされてやるもんか』と。

これが妄想であることは、少なくとも頭の一部では分かっているつもりです。
死に際、もしくは市から遠ざけられたエンディング・シーンの中では、彼らも共感の触手を伸ばし、『人として当たり前の』、つまり同じ『人』である僕らにも理解可能な幸福を『善』として捉えているわけだし。
『彼らはエイリアンではない』と終わり際では言ってくるのだけれども、物語が進行しているそこかしこでは猛烈な拒絶と想像力の死滅があって、どうにもしんどい。
想像力を前提としたフィクションの中で、限定された想像力、想像を拒絶する想像力を幾度も描き、しかも物語が終わる段になって一般的な『善』としての無条件の想像力に立ち返っていく流れに振り回されるのは、とても疲れた。
疲れました。


やっぱまー、よく分からんです。
僕が感じたことが、描かれた物語から客観的に導かれる妥当な一つの意見なのか、願望に歪んだ瞳が切り取った幻像なのかも。
このアニメにどうなって欲しかったも、どういうことが嫌なのかも、突き詰めきれません。
拙さ(と僕が感じたもの)が意図的なのかも、『普通のお話』『ガンダム』というフレームから離れた物語を選び取った理由も、全然分かりません。
『良いアニメでした、ありがとうございました』というべきか、『酷いアニメでした。不誠実だし、稚拙でした』というべきかも。

ただ最終話まで見て、見させてもらって、しんどいことも楽しいこともあったことは事実だし、それはアニメを、物語を作り続けるという労力あってのものです。
どんなに混乱していても、オルフェンズが放送されていなければこの感想も書けなかったわけで、そこへの感謝はしっかり書き残すべきだと思います。
だから、ありがとうございました、とは言える。
言うべきだし、言っておかなければいけないでしょう。

白黒はっきりつかない感想となってしまいました。
作品に振り回され、Webに公開する文章としては不適切なほど、自分が出てしまった回も多々ありました。
しかしまぁ、その混乱も、無様さも、このアニメを見続けてきた二年余りの時間、放送された物語があってのことです。
お疲れ様でした、ご迷惑をおかけしました。
そして、ありがとうございました。
……書いても、まとまらんモンはまとまらんね。