イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

リトルウィッチアカデミア:第24話『アルクトゥルスへの道』感想

いざ運命の交錯点へ、星の導きとともに!
Wクライマックス前編を全速力で駆け抜けるリトルウィッチアカデミア、まずは過去に決着をつける第24話です。
散々シャリオへのコンプレックスを拗らせたクロワ先生が、己の人生全てを費やした奇跡の真実を叩きつけられ、べっきりとへし折れる話であり、その折れた背中を見捨てられない自分にシャリオが気づく話であり、現役世代が過去の因縁をきれいに解していくお話でもありました。
素直な気持ちで夢や憧れに向き合えるアッコの姿と、殴り合い感情も陰謀も暴走させなければ答えのかけらすら見えない大人世代。
両方あってのこのお話で、両方が両方を照らす構造になっていると再確認する、最終話一個前でもありました。


というわけで、クッソ面倒くさい三十路の情念が渦を巻く今回。
前回ピュアピュアな友情をフル稼働させた学生組は一旦横において、シャリオとクロワの因縁が極限まで熱を高めていきます。
アッコとダイアナはココア片手にお話し合い、相手の中の自分、自分の中の相手を見つめれば真実に立ち返ることが出来ますが、一度失敗した上に経験の鎧が張り付いてしまった大人たちは、そうそう素直にはなれません。
陰謀を張り巡らし、暴力を押し付け合い、極限の状況まで追い込まれることでしか、自分の原点に、愛する者の真心に立ち返ることが出来ない、哀れな存在。
そういう『大人』の馬鹿馬鹿しさを、嘲笑ではなく寄り添う形で書いていくのは、凄く優しい筆だと思います。

感情を弄び、レイラインから魔力を吸い上げ、奇跡と信じるグラントリスケルに至る扉を開けようとしたクロワ。
様々な色の心を素材として扱いつつ、その実自分が一番複雑な感情を背負っている彼女は、なぜ奇跡を望んだのか。
クラウ・ソラスに選ばれなかった嫉妬心もあるでしょう。
シャリオへの憧れと、その裏側としての憎悪もあるでしょう。
衰退していく魔法界を憂う、真面目な理想主義者の顔もある。
色んな理由があって、彼女は他人を騙し、嘘をつき、いざとなれば暴力を使ってかつてのともを殴り倒してでも、自分の望みにたどり着きます。

しかし蓋を開けてみれば、グラントリスケルはひどく幼稚な装飾の魔法で、世界を可愛く彩ることしかしてくれません。
『世界改変魔法』という題目に比べればかなりションボリな子供だましで、クロワ先生がキレるのもしょうがない。
クロワが望んだ奇跡が、シャリオが魔法エンタメに勇者の力を使ってた時、『そんなもの』呼ばわりしていたのと同じものなのが、どうにも皮肉です。
ウッドワード先生はクロワの叫びに対し、『グラントリスケルとは何であるか』を明言しないまま去り、同じ魔法を手に入れたアッコはアルクトゥルスの森を復活させ、魔力を蘇生させました。
グラントリスケルがなんであったかは、視聴者も考えなければいけない部分なのかもしれません。

(僕個人の解釈としては、グラントリスケルは目的に向かう心に反応する魔法で、クロワはグラントリスケルそれ自体を求めたから、大きな力を発揮できなかったのだと思います。
目標はあくまで憧れに向かう途中経過であり、そこにたどり着くことそれ自体を目的にしてしまうと、追い求めるものそれ自体を踏みつけにしながら、夢への道を走ることになります。
『英雄は、英雄になろうとした時点でなれない』というか、『無心に夢を追い求めるものだけが、夢にたどり着ける』というか、『大愚は大賢に似たり』というか。

『魔法界復活』というクロワの願いは、魔力を私欲のために吸い上げ、他人の感情を踏みつけにする手段を選んだ時点で、どこか捻れてしまっています。
アッコは『悪いこと』を拒絶し、自分が胸を晴れる方法、みんなが笑顔になれるやり方を選び取って、夢をかなえる道として選んだ。
綺麗な方法で綺麗な結果を引き出す『子供』のやり方をバカにしていた『大人』のクロワですが、自分の本当の願いすら踏みつけにして、目的のための目的を追いすぎた結果、奇跡は子供の遊びに変わってしまった。
愚か者の到達点としては残酷に過ぎるかなとも思いますが、青い鳥を最初から手にしていたことに気づけないのもまた、『大人』の特徴なのでしょう)

それにしたって、ウッドワード先生の無関心に本心を吠える姿は痛ましくて、なかなか見てられませんでした。
『優秀であるがゆえに顧みられない、優等生の哀しさ』というのをダイアナの描写に感じていたわけですが、彼女の影でもあるクロワは見事に、それに飲み込まれてしまったんだなぁと思った。
まぁクロワが落っこちた青春の落とし穴はそれだけじゃないけども、『あの子はできる子』と周囲が思い込まず、ケアしていたのならこんな大惨事にはなっていないと思います。
逆にいうと、親もいない自分の本性に触れる親友もいない中、徹底的に自律しきって正解にたどり着くあたり、ダイアナの傑物っぷりがよく見える。
大人世代が散々人間のカルマに絡みつかれ、心の奥底では判っちゃいるのに正解を選べないままならなさを体現するためには、子供世代はスムーズに答えにたどり着く、ある種の『綺麗事』感が必要なのかもね。


クロワとシャリオは一度杖に選ばれ、奇跡を起こす資格を手に入れておきながら、道に迷って自らそれを捨て去ってしまいました。
シャリオは子供たちの将来を奪ってしまった罪に怯え、控えめな優等生だったクロワをコピーするかのように、冴えない先生の仮面を選んだ。
クロワは英雄たる資格を自分から奪ったくせに、英雄であり続けることに失敗したシャリオをコピーし、奇跡をもう一度掴み直すために他人を踏みにじることにした。
そんなクロワにとって、グラントリスケルを手に入れるのはもはや手段ではなく、それ自体が目的と化しています。

勇者の証を手に入れさえすれば、自分が選ばれなかった勇者となり、失ってしまった青春も取り戻せる。
しかしシャリオとのかけがえのない日々は別に無くなってしまったわけではなく、今でも二人の胸の中に息づいています。
そうじゃなきゃ、親友を殴って止めるために来てたシャリオは体を張って盾にならないし、クロワもそのことに強いショックを受けないでしょう。
ダイアナのように、ことが致命的な状況に追い込まれる前に大切なことを悟れる賢さというのは、殆どの人間が持ち得ない才能なのです。

そのことに気付くきっかけが、自分の暴走が引き起こした命の危機というのは皮肉ですが、『おうちがいちばん』と気づくためには長く険しい道を歩かなければいけないのです。
第1話の舞台であるアルクトゥルスに帰還するところといい、その道程が第1話と同じく『予期していない寄り道』であるところといい、今回のクライマックスは『終局は振り出しに繋がっている』という物語の基本構造を、強く意識していると思います。
今回ジェダイ騎士めいた大立ち回りをアーシュラ先生が演じるのも、しっかりと対立し気持ちよく別れることすらできなかった過去を、もう一度演じ直すための通過儀礼なのかもしれません。

暴力が思いを純化していくのは、クロワだけではありません。
アーシュラ先生だって、暴力を以てクロワを止めることを優先して、傷ついたアッコを置き去りにしました。
しかし実際に殴り合ってみてもクロワは止まらず、誤った手段で手に入れた力を暴走させ、それに飲み込まれそうになる。
その瞬間、アーシュラ先生は自分が本当に求めていたものが何か、ようやく分かったのでしょう。

フューエルスピリッツが奪ってしまった未来に、コンプレックス拗らせまくった親友に背中を向け、諦めてしまった過去を取り戻すこと。
止まっていた時間をもう一度動かすこと、もう一度シャイニー・シャリオになること、その隣で支えてくれた親友を取り戻すことが、アーシュラ先生がアッコを置いてクロワと向かい合った根源。
そのためにはクロワに死んでもらっては意味が無いから、自分の命をかけてでも守り、諦めない。
生徒の未来より自分の過去を選んだエゴイズムは、褒め称えられるもんじゃあないかもしれませんが感情の熱があって、僕はとても好きです。

時間は巻き戻りはしません。
過去の過ちはそのままの形でやり直せるわけじゃないし、間違いに拘泥するより未来をより良く切り開く方法を考えたほうが、実りは大きい。
アッコ達が素直に向かい合える真実は、一度間違えてしまった大人たちにはあまりにも遠い。
それでも、過去を取り戻すための捻くれた道の果てに、青春が蘇る瞬間というのは確かにあるのです。


拗らせた大人の因縁は、大人同士がグダグダやっていても完全に解決するものではありません。
アッコもまた、24話に及ぶ長い道のりを経て、憧れと向かい合う方法を見つけ、世界とアーシュラ先生に還元します。
クロワとの殴り合いが『シャイニーシャリオの過去』に決着をつけるためのエピソードだとすると、アッコとの対話は『アーシュラ先生と一緒に現在』に意味を持たせるためのエピソードなんでしょうね。

アッコはシャリオとアーシュラ先生が同一人物であることを認め、憧れにお礼を言います。
力を奪われたとしても、シャリオが見せてくれた夢があったから魔法に出会えたこと。
ルーナノヴァにたどり着いてから、仮の姿であるアーシュラ先生と一緒に学んだ日々が、けして無駄ではなかったこと。
シャリオの背中ばかり追いかけていた少女は、失敗や残酷な真実に傷つきながら足を進め、気づけばシャリオを追い抜いていたわけです。

アッコは『私はシャリオにはなれない』と言います。
シャリオが手にした勇者の証を手に入れ、シャリオに似た服装に身を包み、シャリオが為し得なかった救済を追い求めたクロワ先生とは違う答えに、彼女はたどり着いたのです。
逆にいうと、憧れという名前の呪いを大抵の人は乗りこなせず、クロワのように道を間違えたり、アーシュラ先生のように諦めたふりをしてしまう、ということでもありますが。

憧れと同一化出来ない事実は寂しいものですが、同時に個人の尊厳と夢を守るものでもあります。
『私は私になることしか出来ないけど、それは色んな人の力と出会いがあったからだ。夢を与えてくれた人、一緒にいてくれた人。全ての人がいたから、私はここまでこれたんだ』
学園生活と言の葉探しの結果、アッコがたどり着いたのは非常に健全な自意識です。
そこでは自分は見失われることなく尊重され、しかし他人を排除し傷つけることはない。
自分と他人の間にある、不可分で強い結びつきを意識しつつ、その上にある自分のかけがえなさ、弱さや脆さも引っくるめて『自分』を肯定し、尊重する意識。
自分が奪ってしまった可能性に苛まれていたアーシュラ先生にとって、アッコがそこにたどり着いたこと、その到達に自分が深く関わっていたことは、何よりも強い贖罪であり、癒やしであったような気がします。


クロワが狂うほどに求めたシャリオの杖を、アッコは返します。
借り物の力は自分のものではないけれども、シャリオの背中に憧れて歩いた道は自分のものだと。
杖という形を失ったとしても、一番大事なものは残り続けると思えるからこそ、選ばれた者の証を手放す勇気と健全さを、アッコは獲得できたのでしょう。
ここら辺、『選ばれなかった私も、また私だ』というダイアナの決断と響き合っていたり、エクスカリバーを泉に返却したアーサー王の最後と重なったりで、なかなか面白いところです。
最も大切に思えるものを必要な瞬間に手放せる勇気というのは、いつでも大事なんだね。

選ばれた者の証はそれ自体が目的ではなく、アッコが今持ち、シャリオもまたかつて持っていた心の輝きを反射する鏡です。(『ポラリスの泉』が水鏡であった第6話参照)
それ自体を手に入れることに拘泥すればどうなるかは、クロワが散々にもがいて証明してくれました。
杖をあくまで無明の闇を照らす灯火として、歩いてきた道それ自体を慈しみ、手に入れたものの真実の価値を考えること。
杖を本来の持ち主に返そうとするアッコの姿は、クロワと対比することでより深く、夢を貫く難しさ、それを達成した尊さを強調してくれます。

導く側にいたはずのアッコが気づけば自分を追い越し、『シャリオとアーシュラ両方を認める』『杖を返却する』という行動を取ったのは、先生にとっては驚きであり、救いでもあった。
なぜなら、ダメダメアッコはアーシュラ先生の献身的な指導がなければ、そこにたどり着いていないからです。
シャリオの赤い髪、失われた過去を覆い隠すための教師の仮面は、過去の自分を追い越し、追い抜くような勇者を育て上げた。
アッコがあの選択をし、あの言葉を投げかけてくれた……過去と現在ごと自分を包容してくれたおかげで、アーシュラ先生は間違えてしまった過去と、仮初でも日々を積み重ねた現在の自分をも、肯定できたのだと思います。

ここを通り過ぎて振り返ってみると、第23話の辛い回想シーンが全く別の意味に光り輝いてくるのは、とても面白い。
それは、確かにあったのです。
アッコはあの時『嘘だ』と否定したし、その言葉で先生も諦めてしまったけども、ドジっ子生徒と半人前教師の楽しい二人三脚の日々は、確かにそこにあった。
一度は見失った青い鳥が確かに自分の胸の中にあることを、友との対話の中でアッコは確かめ、その真実をアーシュラ先生(そして願わくば、親友の新しい出発を見ているクロワ先生)に届ける。
そういう風に過去と現在、導くものと教えられるものが入り混じり、新しくて古いものが蘇るのは、とてもいいと思います。


かくして、アッコは夢に追いつき、憧れていた過去と支えてくれた現在両方を肯定し、抱きしめました。
クロワが願って届かなかった、『グラントリスケルによる魔法復活』という奇跡を為し得たのは、アッコが迷ってたどり着いた精神的成長への祝福なのかもしれません。
大事なのは目に写るものではなく、目に見えないものをどう扱うか。
作品がずっと守ってきた姿勢が、ラスボスをシャイニーアーク一発で爆散させた後、『こっから本番』とばかりにアーシュラ先生に向かい合うアッコに宿っているのは非常に良かったですね。

しかし、拗らせまくったクロワ先生の過去は不穏な警報を伴い、最後の冒険を連れてきます。
人間の正解を掴みきれない『大人』の物語に一つの決着が付いた後も、エピソードは残る。
それは多分、これから新しい神話を紡いでいく『子供』がどんな未来を連れてくるのかを描く物語になると思います。
それは、かつて青春を間違えてしまった少女たちの衝突と再起を鏡に使いつつ、このアニメがずっとか立ってきた物語です。
リトルウィッチアカデミア最終回、非常に楽しみです。