ラブライブ! サンシャイン!! を見る。正確に言うと、見て書きかけて止めて見直して…を幾度かループし、ここで停滞してると視聴・感想それ自体が止まるので実際に書き始める。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
地区予選を前に、千歌の普通コンプレックス、果南のくすぶり続ける青春に出口を見つける回。難しい。
難しい、と言っても、ストーリーが複雑、というわけではない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
展開としてはいわゆる修行回であり、主人公・千歌のコンプレックスの分厚さと、今まさに戦いに挑む千歌が果南の過去を背負うことで、未来への道が拓ける、という構図は分かりやすい。
のだが、僕はそこにシンプルな物語だけを見れない。
ラブライブサンシャインは仮想の内浦を舞台にしたスクールアイドル・Aqoursの物語であると同時に、μ'sの伝説・ラブライブを継承するシリーズ第二作であり、現実の内浦、声優アイドルユニット・Aqoursと覆い焼きになったメタフィクションでもある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
その多層性が今回、凄く色濃く出ている気がした。
ラブライブのステージは『アニメがそのまま現実に出てくる』越境性が魅力の一つで、二次元を三次元に引っ張り出す魔法が大事になる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
今回千歌が悩み、果南が捨てようとする『失われたダンス』を描写するテンションは、非常にスポ根テイストで二次元的だ。”カレイドスター”とか”プリリズAD”のノリだ。
『出来るパターンだろ!』と、バカ千歌がメタに言及する努力と友情の特訓は、アニメ的なハッタリをゴールに求める。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
タメてタメて派手に行った結果、予測落下地点はド凄い物が来る。飛んだり次元の壁を超えたり、そういうフィクショナルな爆発が起こる…ということはなく、ロンダートからのバク転だ。
しかし一貫ムードを抜いて考えてみれば、作中言ってるようにごくごく普通の女子高生(そしてアイドル声優)がステージ上であの動きをするのは大変だし、立派なことだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
肩すかし、というわけではないが、濃口に付けた二次元の味わいと、三次元を見越した『普通』の調味との間に、どうにもズレが有る。
Aqoursの物語は『ごくごく普通の高校生が、夢を追い求め輝く』というフレームを持っている。それはμ'sの神話を意図的に継承し、その物語的枠組み(スクールアイドルや廃校問題、青春の衝突その他)も継承した『ラブライブサンシャイン』の基底にある地味さだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
しかしキャラクターの描き方はポップで元気で可愛らしく、悪しざまに言えば現実感がないほどに多幸的だ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
尖った萌え仕草を乱打してくるAqoursは、『ごくごく普通の高校生』には、やっぱ見えない。そういう外装を乗り越えて人間の地金を見せるシーンも、どこかしっくり来ない場面がある。
例えば、メタフィクショナルな視線の強烈さ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
一期のかなりの部分を『Aqoursの前景としてあるμ's』に割いたサンシャインは、最終話で『自分たちだけの物語』に踏み出したように見せて、今回再び『自分たちだけの物語』の定義に帰還する。
μ'sになくて、Aqoursにあるもの。それは今回明言できない。
未だ形を持たず、それでも手に入れなければいけない『Aqoursらしさ』の探求。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
それが、μ'sの革命を経てクオリティ過剰になりつつあるラブライブという、作中のハードルを乗り越えるために必要な行為なのか。はたまた『ラブライブ』を継承する作品/商品として、自己を定義するために必要なのか。
『普通怪獣』が悩むにしては相当難しくて大きいものを、千歌の眼は捉えてしまっているように見えるし、それは千歌を主人公に作品を構築する、作者の眼でもある気がする。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
千歌はなんにもわからないバカで普通の女子高生なのか、それとも自分の立場を俯瞰で見ることが出来る賢い存在なのか。
主人公はメタフィクショナルな言明を的確にやる使命がある。作品が何を追い求め、どこにたどり着くかを言語化する時、主役の口から飛び出すのが一番手っ取り早いし、的確に刺さる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
しかし千歌は(例えば穂乃果が持っていたような)正解を無条件でつかむ直感力も、一歩引いて物事を見る冷静さもない。
泥臭く、がむしゃらに。ただただ胸の疼きを癒やすために飛び込んで、その必死さが人を引っ張る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
それこそが千歌のスタイルなのだ、と。今回繰り返される特訓シーンは語るわけだが、それと彼女が時折見せる俯瞰の視座もまた、奇妙なズレを見せる。そういう多層のズレが、僕には難しい。
それが作品に描かれているものではなく、僕が勝手に受信しているものなのは重々承知の上で、ではAqoursの物語は何故、ここまで帰還を繰り返す(ように僕には思える)のか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
果南も千歌も、形式上も物語のうねりとしても、すでに結論を出したように見えた問題に、今回立ち返る。
千歌が背負い戦おうとする、『Aqoursらしさ』の再獲得。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
それは僕には、一期最終話でパンクな答えを出し、それが二期第一話で世間的に認められなかった段階で、OKだったと思った。
文脈も歴史も知った上で、自分たちが展開する現在進行系の物語に飛び込んでいく決意は、僕は結構好きだ。
果南と三年が背負った挫折も、それなり以上の尺と感情の湿度、重力を伴ってしっかり描かれ、第9話で決着した…と思っていた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
が、果南はノートを持ち出して、未だ二年前に決着できていない素振りを見せる。物分りよく終わったように見えて、何も決着していないと告げてくる。
千歌の普通怪獣としてのコンプレックスもそうで、それはどれだけ身体をいじめても、曜と梨子に『大丈夫だよ、特別だよ』と告げてもらっても解消されない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
『一度刻まれた傷跡は、青春した程度では解消されず、何度でも立ち返り何度でも再話されなければいけない』というのが、今回のテーマなのか。
そこら辺の、製作者サイドが出してくる『まだまだ』と、僕が(勝手に)受け取る『もう十分』のズレも、また難しい。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
無論優先権は作者にあって、ああいう描写があったのなら『ああ、俺は千歌のことを分かってなかったんだな』と思うわけだが。正直釈然としない感情もある。
ただ、千歌の自己評価の低さと、それを千歌らしさと受け止めつつ愛が届かないのが歯がゆい曜と梨子の描写は、なかなか強かったと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
世間のルールも、μ'sの神話も関係ない。思い込んだらとにかく飛び込み、死狂いの突進力で壁に飛び込める千歌は、まったくもって普通じゃないのだ。
でも千歌は、実際にある程度結果を出しても、周囲の人々が何度『特別だよ』と言っても、セルフ・イメージを飛び越えられない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
何度も転んで、傷だらけになってでも飛躍を望んだのは、親友の愛を素直に受け止めるための跳躍を、千歌が望んだからなのかもしれない。
飛んだら、自分を好きになれる、と。
だとすると、あのジャンプ…過剰に物語的な前フリのデカさと、妙にこじんまりした等身大が同居する不思議な跳躍は、見た目より全然大きなものかもしれない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
そこを素直に、世界を変えてしまうほど強烈なジャンプとして描けない所が、『ラブライブ』の枷であり、呪いであり、強みでもある気はする。
『普通の女子高生』である穂乃果とμ'sは、海外に飛び出して世界を変えた。Aqoursは同じ物語を歩まない。アメリカにはいけないし、生身の身体が許容してくれるジャンプで勝負するしかない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
その差別化への強い意識(と僕には思えるもの)が、正直二期はちょっと伝わりづらい気もする。
こうして書き出してみると、サンシャイン二期に感じるズレや難しさは、僕の問題なのだなぁというのが判る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
アニメを見て色々思う以上、全ては自分というフィルタとスクリーンを通じて出力されるわけで、歪みやズレの大半は僕に由来するのだろう。入り込めない僕が悪い。
ただそこで、『Not for meだね』と物分りよく撤退を選ぶほど、心地よくないわけでもない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
Aqoursは異世界の不思議な動物のように可愛く、時々血の通った隣人のように愛おしい。どれだけ周りから言われても自分を愛せない千歌の不器用な戦いは、心の底から応援したくなるものだった。
Aqoursの物語に感じる自己言及性、批評性が僕の考えすぎなのか、客観的事実なのか。そこら辺をジャッジする材料が見つけられなくて、ここまで迷った感じもある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
どーなんだろうか。僕も千歌のように、砂浜でドッタンバッタンし、ふすまを蹴り飛ばせば、答えに近づけるのだろうか。
跳躍を果たし、『これがAqoursです』と明言は出来なくても、『Aqoursの現在進行系の物語こそが大事なんです』とは言えるようになった千歌。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
その到達点まで、正直僕は届いていない。情けないというか、よく分からないというか。半分見てこのスタンスって、あやふやに過ぎるなぁ多分。
書き終わってみても作中で描かれている物語と、作品から現実に透視されている視座と、作品を見る僕の受容のズレは縮まり、しかし埋まらない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
そんな感じの、なんとも煮え切らない感想になりました。自分語り盛りだくさんで、どうにも申し訳ない。
しかしまぁ、これを書くのが本当だと思ったのです。
今後もラブライブサンシャイン二期の感想は、こういう煮え切らないものになると思う。そこら辺をスパッと整理して、他人様にお出しするのに相応しい清潔な感想にまとめたいところなんだが、どーにもまとまらんのだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
そこら辺のゴニャゴニャ感が解ったのは、小さなジャンプと言えるのではないか。
そして、自分がサンシャインに感じている一種の歯がゆさが、過剰に自分たちの足場を確認し、幾度も幾度も立ち戻る姿勢に由来しているのも見えた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
Aqoursには、胸を張ってAqoursの物語を語って欲しい。μ'sの後継者でも、世界中の凡人の代表でもなく、ただAqoursとしてあるAqoursが好きだからこそ。
今回千歌が果たした飛躍が、メタフィクショナルな意味でも、キャラクターの感情の動きとしても、自己評価の檻をぶっ壊し、自分/自作を信じて新しいステップを踏む足場になることを、僕は願っている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
たとえその跳躍に、真実シンクロできないとしても。
今後も僕は、僕の好きなAqoursを見るためにモニタの前に座り、このアニメを見続ける。ズレと難しさに唸りながら、なんとか感想をまとめるだろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月16日
それはみっともない足掻きだが、当人としては幸福でもある。地べたに幾度も転がった千歌と、少しは同じ心境なのだろうか。
それを知るため僕は見続ける。