イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

テクノライズ 16―22

この話が終わりの話だってのは、最初から解っていたことだ。
飛び交う蜻蛉は死神の使い、水際はスティクス。吉井さんが上から降りてきて滅びの喇叭の最初を鳴らしたとき、その二つはもう、あった。だから、この話が終わりの話だってのは、最初から解っていたことだ。
主人公は狂犬で、迷い狗で、救いを求めて上がった場所は、マルグリットのようなハイトーンの黄泉の国。それも最初から解っていたこと。どうにもならない終わりを、どうしようもなく終わるしかない、そんな話だってのは、美術も、演出も、作画も、動画も、脚本も、このアニメを構成する全ての部品が、最初から教えていたことだ。
だけど、僕はこのテクノライズという物語を忘れないだろう。
最初から結末は見えていた。狂犬と、破滅の未来を読む少女が出会ったところで、地獄の鎌が開くことを止めれるはずもない。終わるしかない人々が、各々の終わり方で終わった。そういう話だってのは、最初から解っていた。
でも、僕は主人公が電車に乗り、地上に上がり、父と出会い、また地下に降り、死の町を歩んで、絶望の果てに死んだこの話を、忘れないだろう。
このアニメは、いいアニメだ。やりたいことがはっきりしていて、そのために演出と動画と美術がある。絵はおしなべて、一種の視線に導かれて配置されるべきであり、そしてアニメーションは、全てが絵だ。
このアニメは、いいアニメだ。錆びて滅びる定めにある街で、それでも足掻いた幾人かが、きっちりと声を出していた。声優達の演技は的確で適切で、そこに人々を現出させていた。そしてアニメは、全てが声だ。
その、圧倒的な物質としてのアニメーションの実力に支えられて、テクノライズは終りまで走り抜ける。始めから終わっている物語は、終わる。終わるべくして終わる。そこには、希望もなく、暴虐の名残もともし火のように消えうせて、雪の降る夜のように静かに光って消えていくのだ。
それは、始めからわかっていた終わりだ。
それでも、僕は、先見の少女と狂犬の物語を、テクノライズという物語を、絶対に忘れないだろう。
このアニメを貸与してくれたシェンツさんに、深く感謝する。