イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

時間の種子

フレデリック・ジェイムソン、青土社碩学によるポストモダニズムに関する三つの論考。いまさらジェイムソンの学識や視線の鋭さ、スタンスの取り方の上手さ、言語選択の深さについて述べるのはせん無いことなので、学説書として満たすべきラインはもちろんらくらくと飛び越えている、ということを最初に述べておこう。
カルフォルニア大学アーヴァイン校の図書館講演をまとめる、という形で書かれたこの本は、矛盾と二律背反・プラトーノフのユートピア小説・ポストモダニズムの資源である建築におけるポストモダンという、三つの主題について論じている。
マルクス主義・小説読解・建築分析という横幅の広い視点はしかし、やはり通徹した知恵と現実へのアクセスを望む意志により、強烈な言語兵器となって僕の脳髄をゆすぶった。19991年に語られ、1994年に発行され。1996年に日本語訳されたこの本は、2006年、つまりはもうポストモダンの季節が終わ(ったように僕には感じられて、本当は終わっていないのかもしれないけど、僕には本当にそれはわからないことなのだ)、そしてその後に何も名付けられていない場所に座っている僕の元へと届いた。
ジェイムソンはこの本の中で、ポストモダンの戦略と戦術を縦横無尽に使いきり、そこが目指すことが出来るかもしれない場所を常に鋭くにらみつけている。十年が過ぎて、ポストモダンが目指したものは、敗北したのではないかな、と僕個人は考えている。どうにも、この十年で人が死にすぎた。ポストモダンはそのことに、あまりにも無力だった。
そういう意味では、この十年前の古ぼけた書物はまるで、墓を暴いてしまったようなきまづさを与える部分がある。ジェイムソンが目指し、望み、探した何か。手に入れたかった、モダンを越えた場所。そんなものはないのではないかな、と薄ぼんやりと感じている僕にとって、この冷静で情熱的な本は、痛みを伴った読書だ。
だが、ジェイムソンがこの本の中で見ていたものは無価値なのか。僕はそうでないと断言する。ポストモダンの文法を持ってポストモダンを断罪し、解体し、解析する。そこから、モダンが崩壊した場所に芽吹く何かを捜し求めるジェイムソンのアクティブな姿勢はやはり、僕にとって尊敬に値するのだ。
10年が過ぎて、ポストモダンの季節は終わった。僕はそう感じているけど、事実がどうなのかはわからない。何もない場所が広がっているが、そこでも、何かをしなければいけない。そして、この本には軋みを上げて吠えたける強靭な意志がある。僕は十年前に発行されたこの本から、その息吹といくつかの知恵を、おずおずと略奪した。名著。