イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

邪魅の雫

京極夏彦講談社。つうわけで、オンモラキ以来の京極堂です。一応ミステリなので
面白く読めた、とは言おう。陰摩羅鬼の徹底的な味の薄さ、食い足りなさは事件と視点を複線で走らせ、それを管理することで解消されていた。読み物、としては横幅の広い事件を手堅く纏めた、といえるだろう。
しかし京極堂シリーズ特有の箱庭感覚、たとえば絶海の孤島や嵐の山荘が作る弧絶ではなく、現実認識のずれや計画的なすり替えが作り出す「結界」がなく、結果としてシリーズの魅力である空気の醸造には失敗している、といわざるを得ない。ここら辺はシリーズモノの難しいところで、同じことをやればマンネリ、違うことをやればこのようにいわれてしまう。
しかしそれでもまぁ、僕は京極堂シリーズを何よりも空気で読むわけで、この作品においてそれが薄かったのは少々悲しい。歴代警察官総登場で、連続毒殺事件と見せかけて連鎖毒殺事件、という刑事ドラマ的な枠の造り方は巧いと感心した。今回の犯人は「しずく」であり、何かを感じ、それゆえに間違う人ではないのも先ほど書いた空気の薄さに関係しているのだろう。
「しずく」はただの物質で、それに惑わされる人々が死に殺す。しかしあくまでミステリにおいては犯人こそが最重要課題であり「しずく」に重点を置けば、人は語らず事件が語りだす。そういう意味で、木場修を除いた警察官が平塚に集合し、まるで「踊る大走査線」のような所轄・本庁問題を繰り広げる造りも、微妙に尺が足りなく感じる憑き物落としも、形式と目的は合致しているのだろう。
しかしまぁ、そんなミステリめいたことは他の作品でやってくれ、という暴言を吐く自分がいるのも確かである。戦後ではなく、かといって現代でもない微妙な時間で、消えて行く妖しい時間に飲み込まれる結界を崩し、その瞬間にだけ生まれる空気を描く。それが出来るのはやはりこの作品だけだと思っているし、そこが好きな僕としては少々首を傾げてしまった。
が、良く出来てはいる。重ねて言うが、はや十年を数えるシリーズである。そろそろ舵の取り回しが難しい時期なのかもしれない。