イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

さよなら妖精

米澤穂信創元推理文庫。田中君が貸してくれた、米沢穂信の本。面白かったので語ります、核心に触れる記述アリアリで。
米澤穂信はミステリを書かないミステリ作家である。誘拐も殺人も密室もなしで、名探偵だけがいる。名探偵はたいていジュブナイルな年頃で、微妙に鬱屈し、そこから日常を透明感のある文体で透かして書き記し、何か綺麗なものを取り出してくる。米澤穂信ライトノベルの賞から頭一つ抜けたのも、死体や殺害方法や殺人鬼といった道具立てではなく、もっと根っこの張った、微妙な部分に迫る小説をかけるからだと、個人的には考えている。
さて、この本はミステリである。人は死ぬし、その死に関する推理が最後の謎になる。それ以前に張り巡らされていた、いかにも米澤穂信らしい謎もまた、その最後の死を謎解くためのキーである(キーでしかない、ワケではもちろんない)。そういう形式、人の死を収束点に(もしくは始点に)して進む物語はおそらく、ミステリという名前なのだろう。
しかしながら、それは事件ではない。殺人ではあるがそれは事件ではないのだ。主人公がそれを目撃することもないし、それに対して何かをするものでもない。謎を解いた報酬として知らされる真実が、どうしても届かなかったその人が戦争で殺された、というものだということだ。ミステリの形式の果てにあるものが、どうにもならない、死んで欲しくないと心の底から願いながらも死んでしまった人の死であるなら、それを物語り上の事件として消火できないほどの強度を持って迫るのなら、やはりこの本はミステリではないのだろう。
そう、この本では米澤穂信の本では非常に珍しく、人が死ぬ。しかしその死は、他の米澤穂信作品で何度も繰り返され、そのくせ色あせることを知らない輝きに満ちている。それは小説の組み立て方と文体選択の巧さが宿す鋭さであり、なんでもない日常を少し奇妙な登場人物たちがこれ以上ないほど鮮やかに切断した切り口である。そういう意味で、その死もまた、米澤穂信が文字を操ることで掴み取ろうとしている何かと変わることはない。
ミステリというのはある意味罰当たりなジャンルで、人が死なないと話が始まらない。だが米澤穂信の作品で人が死ぬことはない。奇妙で生き生きとした少年や少女が、日常の中に埋没したパズルを発掘すること。それが米澤穂信のミステリの精髄だ。その輝きは、この作品の中でひどく真正面から扱われた"とある問題"が避け得ない、"戦争の中でどうしようもなく死ぬこと"という出来事の中でも褪せることはない。ミステリにおいてお約束のように起こる死を、米澤穂信は自らの小説の力であるところのもの、なにかきらきらとした掘り出し物として書ききっている。
米澤穂信のミステリにおいて、米澤穂信のやり方を保ったまま、どうしようもなく人が死ぬ。そのことは、この作家を好きな人や、小説が好きな人にとって、何らかの意味を持つことだと思う。是非、読んで欲しい本である。