イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

百合男子 1

倉田嘘一迅社。ネタかと思ったら思いの他ガチだった、百合姫の捨て童子一巻目。とはいうものの、自分はつぼみ派なので百合姫でのこの漫画のスタンスはいまいち判らんのですが。百合で男子というミスマッチなタイトルにそぐわず、キモい百合オタが思い込み全力で突っ走る、アッパーテンションな漫画、と思ったら、いろいろ複層的な構造になってるへんてこな漫画だった。
まず主人公花寺くんは求道的なまでに真面目な百合ファン男子であり、常に己の性向とセクシャリティの狭間で悩み、ネタで流すべき百合趣味にガチり過ぎて大惨事、という熱い男である。巻末で倉田先生が述べているように、これは先生の私小説的な思いの発露であり、本物の滑稽に必須な「強張り」を必要十分に兼ね備えているがゆえ、うっかりギャグになってしまっている。本気すぎる熱は、部外者にはネタ以外の何者でもないのである。
而して、振り返るにキモい百合オタである僕は花寺くん(ひいては倉田先生)の「クソみたいな俺の立ち位置ってどこよ!」という悩みにうなずくところ多々であり、ひとしきり笑ったあと『だよねー』となる。これを生み出しているのもまた、過剰なまでの本気であり、逃げることなく百合というジャンルと四つ相撲をとる百合男子の熱気であろう。個人的には「オスである己の中の少女」というものを信じて良いと思っているが、これは読者としての立場しか持たないものの気楽な考えなのかもしれない。
その熱気を備えた上で、典型的なフィクション百合っぽさをにおわす藤ヶ谷−宮鳥ラインと、ガチなセクシャル・アイデンティティのカルマを感じさせる松岡−藤ヶ谷?(宮鳥かも)ラインを作中に走らせ、なかなか立体的な構造の作品に仕上げる構図の妙も面白い。
僕は倉田先生のガチった作品を恥ずかしながら読んでいないのだが、かなり書けるのではないか、と松岡の描写を見ていて思った。この作品内で張られている三本のストーリーラインは、そのまま典型的な百合消費の構造そのままであり、コメディ・フィクション・シリアスという三つのジャンルを一つのタイトルで書こうとする貪欲さも、本気を感じる。
また、作中で行われる漫画作品の引用が、割かし逃げのない本気の引用であり、かつかなり博覧強記な百合オタ力を見せ付けているのも、この漫画の「強張り」(とそれによる笑い)に拍車をかけている。「なんでリアルネタなんだよ!」という突込みを受け、同時に現実の諸作品を引用することで作中と読者の距離を縮める一助になる描写だといえる。
とこんな感じで、いろんな方向にガチった本気の作品でありながら(もしくは、それゆえに)、腹を抱えて笑う一品である。P118からの腐ったジャンル間抗争とか、身に覚えがありすぎて死にそう。今後もぜひ、肩の力など一切抜かない、本気の四つ相撲を空回りさせていただきたいものである。いい漫画だー。