イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

百合男子 4

倉田嘘一迅社。前回百合男子過ぎたので、反動で百合女子にチェンジした百合男子漫画の四巻目。三巻ではほぼ出番のなかった女子三人が、これでもか! とばかりに面倒くさい鞘当てを繰り返す展開でした。宮鳥、思いの外ガチ勢だったなぁ……。(おそらく)クローゼットを守っている女性愛者たる松岡、思春期性の同性愛者っぽい宮鳥、そして百合メディア消費者である(おそらく)ヘテロ藤ヶ谷。花寺くんが現実と連結した妄想として、無茶苦茶苦しみながら「楽しんでいる」三角関係は、それぞれのセクシュアリティの差異によって成り立っていたわけです。
この三角形がどう回るか、というのはなかなか読めない所で、それはつまり、倉田先生が苦しみながら「純正百合マンガ」として描いている彼女らの関係は、あくまで主人公花寺くん(≒面倒くさい百合男子としての倉田先生)の視座で語られる対象だからです。そこには、断絶が存在している。花寺くんと藤ヶ谷の百合メディア消費者としての繋がりが、めんどくせー宮鳥に誤解される本編そのままに、作者と「純正百合マンガ」の関係は拗れている。男性性という「異物」として、花寺くんは彼女らの関係の中で浮いている。
そこに一歩踏み込んで、何らかの止揚(もしくは破綻)を得られそうな流れではあったんですが、結局花寺くんの百合男子カムアウトは(藤ヶ谷の受容という助けを貰って)女性たちにネタ的に許容されてしまう。一読者として非常に無責任に発言させてもらえば、花寺くんと彼女らの関係は、ズタズタでズブズブになっちゃえば良かった。簡単に受容されて、ネタとして受けられなんてこたぁ、されないほうが良かった。
何故ならば、花寺くんが己の男性身体という檻(目という窓の内側、という表現は、なかなか秀逸だった)の中で、黒い自分と語り合った内容はつくづく本当のことで、一切答えの出ない煩悶だからです。ヘテロの男性でありながら、己に直接関係ない人生の問題である「女性愛」をフィクションとして消費する不誠実。下着やおっぱいに胸を高鳴らせ、一目惚とかしちゃう男の子である自分と、「百合に触らないように見守ろう」という、実は当事者にとってはどーでもいい誓願の間で軋む自我。作中でついに「面倒くさい」と明言されてしまった百合男子(≒倉田先生の一部)は、その滑稽さとは裏腹に/故に、真正のものであると思います。
本当で真剣だからこそ、笑うべきではなかった。受け入れられ、是認されるべきではなかったのではないか。僕は身勝手にそう思います。もう一人の倉田先生たる籠目くんは、P131で真剣に宮鳥に想いを伝える。だがその答えが帰ってくるより早く、藤ヶ谷が登場し、いかにも百合的な場面とともに全てが許容される。デウス・エキス・マキナめいた大団円。だがそこに、男性/女性の対立項より深くこの漫画(つまり、この漫画を読んでゲラゲラ笑いつつ身につまされる思いをしている面倒くさい僕ら)に突き刺さっている虚構/現実の対立項に踏み込む足場があったのではないか、と。
花寺くんの煩悶において問題なのは(二巻で籠目が既に指摘していますが)、現実と虚構のライニングが巧く行っていないことです。花寺くんは「百合的なもの」をつくり話だと軽く捉えて受け流すことも出来なければ、女性となって憧れる物語のアクターに変質することも出来ない。だが、籠目が提言していた「ヘテロとしての自分を受け入れ、女性愛と男性たる自分の間の距離を受け入れ、虚構として女性愛を消費することを受け入れる」解決策以外(あえて以上とは書かない)の手段が、花寺くんにはあるのではないかと、僕は思います。
花寺くんは非常にデカルト的というか、心身二元論に支配された世界観に固着されていると、僕には見えます。現実(身体)と虚構(精神)の間には深くて広い川が広がり、そこを飛び越えられないからこそ、虚構として消費するしかない女性愛に距離を作ってしまう。だが、花寺くんが自身を百合男子として定義するのなら、虚構としての女性愛(≒百合)は彼自身に深く食い込み、己が一部に既になっている。ならば虚構は現実の尻尾を加えているし、男性は女性を内包している。
ここら辺は作中でも密かな描写があって、例えばP20の藤ヶ谷の花寺くん評価は、花寺くんの中の女性性を、良いものとして捉えている反応です。「繊細で、穏やかで、優しい」ということが女性的である、というのも旧来の理解だとは思いますが、少なくとも作中の「百合的なもの」である三人の女の子たちの関係には、繊細さと優しさ、そしてそのネガとしての嫉妬や独占欲が埋め込まれています。そこに、花寺くんは接近している。
そんな風に、衝突の後の和解、正確にはその気配を残しているからこそ、今回の大団円には首を傾げました。ですが、今回のエピソードは籠目がその「落ち着いてしまった状況」に首を傾げる所で終わっています。つまり、この受容、この落ち着きのウラには、まだまだ煩悶と苦悩と、そこを踏み台にして「どこか」に行けるかもしれない可能性がある、ということではないか。僕はそうも思いました。
一見、男祭りだった三巻に比べて「結論」に近づいたように思えるこの漫画ですが、まだまだ内乱の予感は続いているし、テーマが解消されていないことに自覚的もである。僕が三巻を読んだ時抱いた「万能の母親が出てきて、花寺くんの百合趣味をオールオッケ! 都会って終わったら最悪だな」という予感。それは、その候補だった皐さんが「百合男子めんどくせぇ。触る気はねぇ」と宣言したことと、今回の表向きの受容を拒絶するP142ですっぱりと打ち切られた感じがします。
つまり、百合男子はまだまだ、滑稽で見苦しく可笑しくて、そして誠実に踏み込んでいくのだと、僕は思いました。さて、五巻ではこの一見安定してしまった状態がどう揺れていくのか(もしくは揺れないのか)。そして、花寺くんはどのように分割された自分を縫合していくのか(もしくはしていかないのか)。すごく楽しみです。

余談 1
性的アイデンティティというのはアイデンティティであるので、己の人生が流れていくに従い、その有り様を変えると思います。なので、露骨に「百合っぽい」青春の季節を暴走している宮鳥も、「ああそういう事もあったねぇ」と思い返す「フツーの人」になるかもしれないし、思いをずっと抱いたまま大人になるかもしれないし、全てに適切な距離をとってまっとうに生きていける化け物(皐のような)になるのか、それは判らないですな。

余談 2
「百合男子」的なものに飲まれた結果、「純正百合マンガ」が描けなくなった状態を倉田先生は巻末マンガで吐露していますが、それが小回りやトーンワーク、吹き出しの配置といった「マンガの文法」に直結するのは、とても面白いと思います。そして、巻末で語られていた「百合マンガの文法」が正当に「少女漫画の文法」を継承していることと、倉田先生がそれを「喪失」して「少年漫画の文法」を使ってしまっていることも、とても興味深い。