イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

アニメ感想日記 14/07/02

 ・ ソウルイーターNOT!

サッカーのおかげで一週ずれ込んだ、ほんわか殺伐ライフも最終回。
バトルにケリを付け、「あなた達が私のツバサですッ!」と主人公が叫び、先生がゾンビとして復活して一応の区切り。
……シド先生の大オチは、無印知らないと刺さらないネタじゃないかねアレ。

デスシティの空気作りと、三人娘のホワホワした毎日が良かったアニメでした。
いきなり人死の話になるのはアレだ、土台になってる無印がそういう話だからしょうがねぇ。
つーか前日譚だし、あの世界そのもののエンドマークは無印で付けるわけだし、、コンパクトな危機を解決して話をまとめるのは、まぁオーソドックスな手法よね。

殺伐パートと対をなすほんわかパートは、美術に凝ったデスシティの描写が生きていて、キャフフ観察アニメとしてよく出来ていたと思います。
時々身体接触がネットリしすぎてたけどな!
ラストの「あ……この三人これから……」という退廃感は異常であり、多分あの後少女セクトみてーな事になるね。(メメちゃんの後頭部に突き刺さるフルスイング消火器)

空気感が良いアニメだけに、中盤辺りから作画に息切れが見えたのはちっと残念でした。
アニメの画面は全部捏造されるものなので、燃料が切れると世界全体の色が褪せちゃうのは、ちっと困りモノですネ。
やっぱ今期のBONES受け過ぎだったて!

自分は無印が好きな人間なので、細かいファンサービスや、前日譚であるが故のネタのイジリ方なんかは楽しく見れました。
ヤサグレ時代のトンプソン姉妹とか、病的なクソレズであることが判明したジャッキー先輩とかね。
あの後見事にオックス君に鳶に油揚げされるジャッキー先輩のことを考えると、胸が痛くなります。
トータルでみると、ダラっと見つつ無印の補強もしつつ、欲しいところにタマの来る良いアニメだったと思います。

 

・ シドニアの騎士
クライマックス後編! というわけで、緊張感のあるアクションシーンと叙情性豊かなエピローグ。
素晴らしい最終回でした。
二期があるそうですが、此処で終わっても「んー、満腹です、ご馳走様でした!」と言いたくなってしまうくらい、満足感を与えて終わってくれて非常にグッド。

巨大ガウナ戦は突入班・VS紅天蛾・イザナ・司令室と、複数のレイヤーをリンクさせつつ高速で切り替えることで、圧迫感と速度が出ていたとてもいいシーンだと思いました。
長道VS紅天蛾はドッグファイトの延長というだけではなく、SFらしさ溢れる異形の高速宇宙戦闘をスリリングに描写しきっていて、なにか新しいものに出会えた感覚。
あのシーンの興奮は動きと音響、ライティングのパワーがとても大きいと思うので、アニメゆえの強みだなぁと感じました。

主人公以外にも、決死行をくぐり抜けた突入班、ヒロイン株ストップ高まで行ったイザナ、後方司令官としての成長を見せたユハタと、すべてのキャラクターがカッコ良かったのもいい。
シドニアは長道の英雄譚であると同時に、共同体のサヴァイヴァルストーリーでもあって、その構成員たる操縦士や司令部が己の職分を果たし、偉業を成し遂げたこの展開は、非常にスマートなものだと思います。
こういう風に外側をしっかり描写し、活躍させているからこそ、長道が海苔男にかけた綺麗事が、しっかりとした実感を持って僕らに迫ってくるのだと思います。

 

全体としてみると、骨太なSF設定と王道極まるストーリー展開に、妥協のない作り込みと適切なメディア・コンバーションが融合し、非常に優れたアニメーションになっていたと思います。
やはり一番最初に目につくのは3Dアニメーションという部分ですが、得意分野のメカや空間描写、建築物などだけではなく、キャラクターの表情や芝居も極限まで追求して、異邦人・長道の成長物語という軸をしっかり成立させていたのは、何億回褒めてもいいと思います。
無論得意分野でも最高速を出していて、目を奪われるような鮮烈なシーンが、何度もありました。
「すげーシーンがただすげー」のではなく、宇宙のだだっ広さや戦闘の迫力、失われていく命のあっけなさなど、作中で意味を持つように上手く振り回していたのも、このお話がエキサイティングなものに仕上がった大きな要因ではないでしょうか。

劇作の方に目を向けると、矢張り主人公長道の正統で真っ直ぐなキャラクターが、大きなアドバンテージだったと思います。
戦場の描写や宇宙を放浪するシドニアの描写がしっかりと苛烈に描かれているからこそ、そこに人道を牽いて踏破していく長道の行動に説得力と頼りがいが生まれ、「コイツは信頼できる」という気持ちになる。
彼は過去を奪われ、世界から隔離された状態からやってくる異邦人であり聖人、天使なわけですが、世間ずれしていないその特殊性を、崩すことなく保護することもなく、ブレなく貫く作劇法も、主人公を信頼できる大きな理由だったと思います。

そんな主人公を取り巻く環境も、魅力的に描かれていました。
全体的にコメディな空気の出し方が巧くて、いい塩梅に人間味を感じられたサブ=キャラクターたちや、洲崎さんの好演もあって圧倒的に魅力的に描かれたヒロイン・星白など、人物設定と描写もグッドでした。
そういう人たちが過酷な状況で死んだり生き延びたりするからこそ、「ああ、宇宙は厳しいなぁ」とか、「こいつらには死んでほしくないなぁ」と、作品にのめり込むことが出来るわけで。
所帯染みた空気もよく出ていて、「初めて見るはずなのに、何処か懐かしい」場所、「俺も一緒に此処にいたいなぁ」と思える場所として、長道の周辺を描写できていたと思います。

主人公の周辺環境という意味では、キッチリヘヴィSFしながら、説明ではなく描写に徹した設定管理も見事でした。
シドニアという異世界を徹底的に作りこみ、その上で画面に映る以上のことを説明しない抑圧の効いた情報の出し方は、頑張って設定練り込んだ作品にありがちな"折角作ったし、お話の邪魔になるけどべらべら喋っておくべ"的な事故を避け、劇作の興奮度を維持していました。
設定の出し方自体も、3Dモデリングの強みを存分に活かした超かっこいい見せ方であり、この興奮も作品にのめり込む取っ掛かりになっているという。

キャラクターと背景世界、物語と制作ツール、描写と設定。
ともすればバラバラに成ってしまいがちな各要素が、非常に高度に噛み合った素晴らしい作品だと思います。
頭の腐ったSF野郎の端くれとしては、ここまでしっかりSFでここまでしっかりエンターテインメントな作品が、毎週見れるとかご褒美過ぎて消滅寸前だった。
いやー、二期楽しみだなぁ……。

 

・ ラブライブ!
かくして、TVアニメーションシリーズとしてのラブライブは終わる。
それは多分、幸せな終わり方。
幸福な共犯関係に満ちた、双方向性のある開かれた終わり方。


スクールアイドルの頂点だったA-RISEとの決着を付け、μ'sを支える人たちを描写した九話。
地方予選の勝利を受けて、"アイドル"の問題に関して答えを出した十話。
三年生の卒業を真っ向から取り上げ、"スクール"の部分に結論を付けた十一話。
"スクールアイドル"の総仕上げとして、圧倒的な盛り上がりで最高のライブを見せた十二話。
お話に決着を着けるのが最終回だとしたら、ラブライブ二期の実に1/3が最終話という、「終わる話」だったラブライブも、今回の十三話が本当の最終話です。

物語的な物語としては十二話で燃やし尽くしたため、今回はアウトロ的というか、今まで演奏してきたテーマや題材、印象的なカットやセッティングを取りまとめつつ、「京極監督が携わってきたラブライブとは、一体何だったのか」をまとめる話だった気がします。
自分が奏でてきた物語の要素をリフレインするのはこのアニメの大きな特徴だと思いますが、一期第一話とセッティング的にも、話の構造的にも、テーマ的にも重なりあうこの最終回は、まさにラブライブ的であり、「お話は必ず、最初に戻るように終えている」とプリリズRLのインタビューで語っていた菱田正和直系のエンディングと言えるでしょう。
そういうお話の構造も含めて、まさに集大成というか、静かに取りまとめて終わる、いい最終回でした。

テーマのリフレインという意味では、送辞から"愛してるばんざーい"に繋がるシーンは、アイドル(というかアクター)をテーマにしてきた作品だけが持つ、万感の説得力に溢れた良いシーンでした。
あそこで合唱が起こったのは、一つには音ノ木坂の子らが仁性に溢れた良き人々であるのが理由なのでしょうが、観客6人の講堂から活動を行い、二期一話・九話に見られるように全校からの支援を受けるに至ったμ'sの集大成のようにも思えました。
三年生をクローズアップで写すところで、絵里が号泣し、希が涙をにじませ、矢澤はこらえるという描き分けは、圧倒的にラブライブ!的キャラクターへの愛情に満ち溢れた描写だったし。

数多の楽曲に彩られてきたラブライブ! 最後の挿入歌"Happy Maker!"もまた、今まで学校で行ってきたライブ(一期一話EDの"ススメ→トゥモロウ"、三話の"START:DASH!!"、六話の"これからのSomeday")のアイコンを取り込み、リフレインとテーマの再確認に満ち溢れたPVだったと思います。
トンチキだけど幸せで元気になれる曲を流し、"これから"について語って終わるという形も一期一話と同じ構図であり、こういう意味でもリフレインが満ちている。
今までμ'sに関わった人たちを全員写す贅沢なカットアップといい、ハッピーな空気に満ちた曲調といい、グランドエンディングにふさわしい終わり方だったのではないでしょうか。


「スクールアイドルという競技」についても、「アイドルという存在の特別性」についても、「青春という季節の儚さと強さ」についても、「ステージの持つ根本的な力」についても、巨大なテーマほぼ全てについて回答を出してしまったラブライブが、最後に選んだテーマは「継承」だったと思います。

屋上に書いた水文字のように、μ'sという存在、九人でいた青春の季節は消えていく。
「だが、それでいい」と高坂穂乃果は言うし、そこで得たもの、それを構成していたものは、受け継がれて消えないということは、例えば生徒会室での絵里と穂乃果、部室での矢澤と一年組とのやりとりを見れば、一目瞭然でしょう。
青春という季節へのシビアな視線はラブライブに非常に特徴的だと思いますが、それ故このように終わらせる決断が出来たし、終わってもなお終わらないものがあるという、一歩前に出た結論を導くことも出来たのだと、僕は思っています。

無論そこら辺の整理が一話で出来るわけではなく、「μ'sに憧れてしまった人たちは、終わるμ'sをどう継承するのか」は11話Aパートで語っていたり、同じ問題を別のアングルから捕らえて見えてくるテーマを、細かく解消しているからこそのゆったりとして馥郁たる最終話が生まれるわけですが。
こういう構成は「物語を描く上で、何がテーマであり、何が問題で、それをどう書くべきなのか」という意識がはっきりしているからこそ出来るわけで、強烈に「終わる」ことを目指して突き進んできたラブライブ!(特に二期)だからこそ、豊かさを残して走り切れた部分だと思います。


こうして豊かに終わったラブライブ!が、他のいわゆる「ゆる系」のお話に比べ特異な点があるとしたら、やはり「終わる」ということ、そして「開かれている」ということだと思います。
これは「終わる」の部分が主にスクールアイドルの"スクール"の部分(つまり、青春という季節)に、「開かれている」の部分が主に"アイドル"の部分(つまり、ステージアクターであるということ)に関連しています。

青春という季節はオタクカルチャーの中ではかなり特権化されており(創作物の中で、もしくは人生の中で貴重かつ特別な季節として重視され価値化されている時間だと思いますが、オタクカルチャーの中では特別に)、それ故一種の聖域化、「終わってはいけない季節」として永遠に続くべき季節にされてしまっている部分があると、僕は感じています。
これを一番感じたのはアニメ版Aチャンネルの最終回、一話と同じように足踏み(!)するるんに、主人公トオルが「変わらないね」と声をかけたシーンでした。
これはリフレインではあるのですが、彼女たちは時間が進むでもなく同じ時間軸に戻り、貴重で綺麗で大事な(ものであるという印象を丁寧に捏造された)青春という季節を幾度も繰り返すお話でした。

出口のない円構造に囚われた青春の季節はしかし、「一度きりしかない契機」としての特別性を気付けば失い、ただの『青春っぽさ』を宿らされた流通貨幣になってしまうと、僕は感じました。
つまり、余りに青春を大事に大事にしすぎて、その終わりを設定しなければ、青春という季節を語る意味や理由、特別性もまた無くなってしまうと、僕は思うわけです。
そんな違和感を覚えていた状態で、露骨に「終わらせるから」というサインを出して始まり、「終わっても終わらないから」という結論で終わったラブライブ二期は、とても特別な作品になりました。

(むろんオタクメディアの中で青春を扱ったすべての作品が、「終わらない青春」を続けているわけではないですし、むしろ「ゆる系」と呼ばれるジャンルの立役者たちの青春は、軒並み明確に終わったりしてますが。
退廃と円環を好む気質は無論僕の中にもあるし、その傾向を「不健全」「逆行的」と断じて切り捨ててしまうよりも、結果としてそのような作品がチラホラ目立つのはなぜか、好まれる・好むのはなぜかという所に論を持っていったほうが、実りは大きい気はしています。
がこれはラブライブ!の感想日記なので、Free二期一話とかについて話すときに、もしかしたら触るかもしれません)


ラブライブ!一期で「みんなが輝く舞台」へと九人が集い、μ'sを結成するまでで八話使ってしまった関係上、残りの話数ではその青春の到達点たるラブライブ!本戦を描く事は出来ませんでした。
それ故、話の重点は物語の中心であり、お話を回転させるエンジンたる穂乃果が「何故、スクールアイドルなのか」という問題を、ことりとの離別に直面して再発見するというドラマで終わっています。
それを受けての二期では、一期で描いたテーマをもう一度掘り下げつつ、出会いの後の達成、つまりラブライブ!本戦までを描き、そして如何に青春を終わらせるかというテーマに取り組んでいました。
一期から二期を通してみると、目覚め・出会い・達成し・終わるという物語の基本構造を、丁寧に達成しているのがよくわかります。

その上で、「お話は終わらないと良くないから」「青春というテーマ上、終わらないといけないから」で希や絵里や矢澤を卒業させるのではなく、「どうしてもたまらなく、μ'sは此処でおしまいにしないといけないから」という形に描写できていたのは、ラブライブ!の強さだと思います。
冷静な物語構造の分析は、これだけのお話を走り切る上で絶対必要だと思いますが、それだけでお話は走り出せない。
沢山の人を巻き込み、熱狂させ、僕がそうであるように「μ'sの物語は、俺の物語だ」と思えるくらいに物語の速度を出させるためには、矢張り作中人物の心理、感情、迸る想いがあるべき場所にたどり着くパワーが必要です。
それを生み出すのは台詞、レイアウト、タイミング、描画、ライティング、演技といった細かい映像の構成要素一つ一つであり、画面に映るものを怠けず、しっかりとした哲学を持って製造・配置したからこその盛り上がりと余韻なのだと思います。


一方"開かれている"と感じるのは、やはり彼女たちが"アイドル"であり、ステージの上で歌い踊ることで自分を表現し、それを観客と共有できる存在として、画面の中にいたおかげだと思います。
"スクール"の冠詞が付くとはいえ"アイドル"である彼女たちは、ファンやライバル、裏方や家族と交流しながら、自分たちが何をするべきか、何故アイドルたり得ているのか、アイドルは何をするべきなのか、ずっと考え答えを出していました。
そこで提示され、描写された答えは"スクールアイドル"だけのものではなく、"アイドル"だけのものでもなく、京極監督を初めとするアニメスタッフと僕達視聴者、もしくは創作物と読者との関係にまで届いた、普遍的なものになっていたと、僕は思っています。

思い返してみると、例えば秋葉原のアイドルショップで、もしくは空っぽの講堂で、彼女たちは常に「自分たちはどう思われているのか」を突き付けられて来ました。
もしくは「μ'sだけでは、μ'sのライブは出来ない」というメッセージを、一話から常に理解者であったヒフミや雪穂の助力を怠けず描写することで、常に発信してきました。
ラブライブ!が"開かれている"ように感じるのは、"終わる"感じと同じように、作品全体に通底する哲学に基づき、個別のシーン、個別の演出、個別の映像を怠けず、しっかりしたものに描写し、積み上げ、効果的にリフレインしたからこそだと、僕は思います。

ラブライブの開放性は、μ'sへ世界が突きつける視点だけではなく、ライブアクティングという強烈な身体言語を使って、μ'sが世界へ突きつける双方向の開放でもあると思います。
彼女たちの歌が届いたからこそ、オープン(!)キャンパスライブによって音ノ木坂学院を志願する生徒が増え、ランキングを駆け上がり、神社に応援の絵馬が並ぶ事になったわけです。
そのようなμ's←→ファンという双方向性だけではなく、μ's結成段階からあの三人を補佐してくれたヒフミだとか、そっけない態度を取りつつ圧倒的に姉のことを見ている雪穂だとか、より身近な人達との双方向性・開放性も、丁寧に描写されていました。
二期九話を「縁の下の力持ち」に捧げていたのが、そういう人々にラブライブ!はどういう視線を向けているか、如実に表していると思います。

もっと言えば、よりメタフィクショナルな段階、製作者と視聴者というレイヤーでも、双方向的開放はラブライブ!の特徴である気がします。
何度も繰り返される「叶え、私達の、みんなの夢」という言葉。
現実世界ののμ'sライブアクトをエピソード化し、仮想世界のμ'sに取り込む演出法(二期九話、十一話)
無論、それはμ'sの物語にのめり込み過ぎた僕が夢見る過剰な夢、「こんなに素敵なお話を届けてくれた創作者は、僕に向けて何かを言っているに違いない」という妄想であり、物語はあくまで物語なのですが、あくまで創作物である物語を使い捨てに出来ず、己の身に寄り添って受け止めてしまう熱量が、少なくとも僕にはあるわけで、そのような温度を生み出せる作品は、個人的な価値観としては幸せなものなわけです。


「終わる」からこそ「開か」れ、「開か」れているからこそ「終わる」物語として、ラブライブは一つの終りを迎えました。
それは豊かで、正しく、優しいお話だったと思います。
ラブライブ!について語るということは、この作品が僕に与えてくれたこと、気づかせてくれたもののについて語るということであり、まだまだたくさんのことを語り得る気がします。
が、今は一応これにて。
良いアニメでした、本当に。
あ、マンモーニな矢澤が最高にあざとくて最高でしたネ。