・ ハチャプリ
販促とインフレの間にある隙間を縫って、だめっこどうぶつが如何に真人間にチェンジしたかを見せる回。
ヒメは土台も成長もしっかり描写したおかげか、成果物としての人格成長がはっきりと見え、まとまりの良い回でした。
ヒメの人格だけではなく、例えば昔はツンツンし合ってたいおなとの距離感とか、周辺との関係性も引っ括めて描写されてたのは良い。
準備が本番な文化祭の空気や、生徒会長との交流、V系バンドをやっていた過去が判明したナマケルダさんなどなど、脇の描写も過不足なくグッド。
考えてみればもう1クール少ししか尺はないわけで、ヒメの人格完成話としてとても良い出来でした。
来週はゆうゆうのイノセントフォーム回ですが……また荒波なく変身しそうな感じだな。
さてはて、どうなるんでしょうね。
・ プリパラ
そふぃをヒロインとした少女革命編が終わりまして、第2クールに向けて舵を切り返す話。
ぼんやり天才肌のそふぃと、計算高い凡人みれぃの間がギクシャクし、らぁらは無自覚に新しい女にばかりかまけ、新たなる敵が顔を見せる回でした。
今回も色々やってたねぇ。
前回劇的にユニットが結成されてましたが、まずは地均しということで新しくコミュニティに入ったキャラの描写が多めでした。
具体的には親衛隊とコスモお姉ちゃん。
想像される軋轢をちゃんと起こし、人間関係のの繋ぎ目をしっかり消す動きはグッドでした。
笑いを交えつつ、軋轢が滑らかに解消されていく手腕も引っ括めてね。
親衛隊の子らはみんな天使だなぁ……。
そふぃVSみれぃの正妻戦争は、新キャラの眼鏡が間に入ることでみれぃが落ち着き、いい形で決着。
確かにスタイルの違いもあるんだけど、原因の殆どはらぁらがそふぃにだけ抱きつきすぎなところだと思う。
ホンマ罪な小学五年生やでらぁらちゃん……。
今回面白かったのは、人生経験を積んでいないはずのそふぃが最終的にグループのリードを取った所。
それが身体的年齢の為せる技なのか、はたまた練習のいらない天才性の賜物なのか。
どちらにしろ、一版のルールとは異なったところで泳げてしまう人間なのは事実で、天才・北条そふぃというキャラクターをブレさせないまま事態を解消させたのは、なかなか上手いなと思いました。
プリパラが表現を扱う以上、才能とセンスはブレさせてはいけないところだろうし。
んで、自立をはじめた北条家から追放されたクソウサギは因縁のある子たちを拾って、ライバルユニットを作る動きを見せていた。
ウェスト姉妹は埋めてた種を使ったからいいとして、シオンさんはその……行動が脊髄に直結すぎて……。
『オーロラヴィジョンのアイドルを見て、活動を始める』というのはプリリズシリーズはおろか、アイカツでもラブライブ!でも使われていたアイドルフィクションの定番だからね、仕方ないね。
クールっ面で出てきましたけど、あいつ相当なポンコツオーラを出す囲碁ドル。
天真爛漫すぎて他人を傷つける姉と、それに従うことしかしない妹。
この三人が寄り集まったユニットが第2クールの台風の目になりそうですが、さてはてどうなることやら。
次回の主役は彼女らになるので、それを見れば分かってくる感じでしょうか。
ふむー、楽しみですね。
・ 少年ハリウッド
新生少年ハリウッド生誕前夜という感じの回であり、なんにも新しいことしない回で一期フィニッシュ。
なんにも新しいことをしないのはつまり、今まで積んできた話に自信があるということであり、それは圧倒的に正しい。
五人の少年たち、そしてかつて少年であり今も少年で在り続けることを強いられている一人の男の"今"を切り取るのには、今まで歩いてきた道を振り返るのがベストだということだ。
それは、とても豊かな物語の形だと思う。
今回の話は話を乗っける土台作りとして、まず大道具設営のシーンから入る。
トランスフォームする客席や、事前準備のざわついた空気などを巧く使って、こちらの期待を煽るのが巧い。
少年たちが光を浴びるまでの話だった一期においてハリウッド東京は常に準備中であり、大道具が入ることで特別な感じが出て、文字通りステージが変化するのが肌でわかるんだよね。
ただの準備シーンではなく、初代の先達としてダイチが出てくるところも良かったなぁ。
その後は各キャラの個別エピソードを復習する形で、13話の物語を通じて少年たちはどう成長したのかをザラッと見ていくシーンが続きました。
しょっぱなのキラさんの頼もしさがマジやべぇ感じであり、キラさん背負っているものの重さを教えてくれた個別エピソードの仕上がりを、ジャンプ板に変換する見事なシーン。
あの話で感じた苦痛や発見があってこそ、「ママの夢のなかに僕がいるんじゃなく、僕の夢のなかにママがいる」という闊達自在、主人公の境地が重さを持つわけです。
そして、しっかり話を見ていれば、何故そこに至ったか疑問は生まれない。
その決断を生成した人生の一幕を、僕らは一緒に体験したわけだから。
俺はそういう強靭さが、このアニメに有ったと感じています。
その後はマッキーが過去と和解したり、シュンは相変わらずカケルと仲良かったり、トミーが遂にあこがれを背負ったりした。
カケルとマッキーのサボりに一番食って掛かってたシュンが、「全ての時間は無駄じゃない」という所にたどり着いていたり、余りに神格化していたが故に横に並ぶことを拒んでいたトミーがポスターを張ったり、個別エピソードで見せた完成の一歩先をちゃんと見せているのは、とてもこのアニメらしい。
マッキーの個別エピも、少年ハリウッドの中で立場を見つけたということであって、なんとなく打ち捨ててしまった過去との距離は手付かずだったわけで。
ただ物語資産を再確認するだけではなく、お釣りをきっちり取って前に進める貪欲さが、俺は好きです。
そんでもって、常にぼんやりと端っこにいた我らが主人公、カケルは個別回ではなく、物語の始まりを回収するシーンを貰う。
カケルは自宅のシーンが非常に多く、暖かく優しい家族の中で、しかしそれ故に自分の位置を定位出来ない描写が常に描かれていた。
親の夢を押し付けられていたキラや、どん底からアイドルを縁に這い上がったトミーのように、大きな物語を持たない空っぽの主人公。
それはやっぱり、アイドルではない僕達に一番近いという意味で、物語の中心にふさわしいキャラクターだった。
自意識に常に暖かく優しい家族≒優しい"世間"と、いまいちそりが合わず衝突してばかりの妹≒厳しい"世間"の両方に向き合うことが出来ず、馴染むことも出来ず、フワフワとさまよっていたカケル。
しかし今回は、"世間"の象徴たる妹さんと和解して、両親も堂々と舞台に呼んで、13話かけてただの高校生はアイドルたる自意識を手に入れたわけです。
「家での一人稽古と、それに文句を言う妹」というのは何度もリフレインされているモチーフではあるのだが、それはつまり、アイドルたるべき自分をどうしても獲得できないカケルと、それに納得出来ない世間の間合いを表現したものだったわけだ。
和解した後に本物のドルヲタしか出せないアドバイスという、掛け替えのないものを手に入れているのは、厳しい"世間"にも胸襟を開いてみれば、得るものが多くあるという表現でしょうか。
一話を回収するのは次のシーンも同じで、初代ハリウッドの映像は同じように流れていても、少年たちの受け取り方は全く違う。
既に憧れ(崇拝と言い換えてもいい重さかもしれない)を持っていたトミー以外は『なんとなく恥ずかしいモノ』と思っていた初代のダンスは、13話かけてようやく『凄く完成された、しかし乗り越えなければならないモノ』に変化している。
この変化に説得力を持たせるために今までの話があったと言っても、けして過言ではないシーンだと思います。
このシーンがここに来ることで、第一話のサブタイトル『僕達の自意識』が作中人物だけではなく、視聴者のレンジまで広がって意味を獲得するという意味で。
あの『恥ずかしい物を恥ずかしいままやっているから、恥ずかしい自己紹介』から始まり、『この人達にあって、俺達にないもの』『アイドルとはなにか』を自問する所まで来たシュンの自意識はつまり、このアニメを見て、幾度と無く問われ答えられる『アイドルとはなにか』『ひたむきさとはなにか』の渦中に飛び込み、視聴体験の中でそれを実感してきた僕達視聴者の自意識そのものだと思います。
あの時『なんかこっ恥ずかしいなぁ』と思っていた初代のダンスが、今回違って見えたのだとしたら、それは少年ハリウッドというアニメが視聴者の自意識に深く食い込み、変化させるだけの力を持っていた証明でしょう。
そして、わざわざこのシーンを入れるということは制作サイドは変化に手応えと自信を持っているということであり、僕はそれが過大な自意識だとは、けして思わない。
このアニメは、人間を変えるだけの力を持っているアニメだと思います。
そして、最後の最後で社長の物語が描写される。
彼は先代社長の遺志を継いでシャチョウというペルソナをかぶり続けている継承者であり、前回自身が言っていた「アイドルとは継続性である」という理論をそのまま実践し続けている存在でもあります。
勅使河原が過去に言ったように「永遠に続くアイドルなど存在しない」現実を、初代少年ハリウッド解散の当事者として誰よりも把握しつつ、アイドルの背中を支えるサポーターとしての役割を引き継ぎ、演じ続けている柊剛人。
仮面の表と裏の乖離に苦しめられているからこそ「どっちに聞いているんだ?」という詰問があり、シャチョウの中で未だアイドル・柊剛人の思い出が輝いているからこそ「17歳です!」という答えが生まれるわけです。
無茶苦茶無理のある「17歳です!」はしかし冗談ではなく、一生シャチョウという仮面を被ってかつての自分たちの背中を押す生き方を演じ続けようという決意はやはり、初代少年ハリウッドとして輝いていた記憶があればこそ、なんとか耐えていけるシンドい生き方でもあるわけです。
余りに唐突な「どっちに聞いているんだ?」という詰問の真意、『俺はシャチョウなのか、ゴッドなのか、どっちだと思う?』に気づいたのが、かつてゴッド達少年ハリウッドに救われ、今アイドルとして立とうとしているトミーなのは、むしろ必然と言えます。
トミー自身も施設で己を押し殺して"良い子"として生きている側面を持っているからこそ、社長の意味不明な寝言を真剣に受け取って必要な答えを返した感じもありますし。
あそこでシャチョウとして年齢を問われていたら、人間一人を支える夢が静かに崩れ落ちる瞬間が見えていたのかもしれません。
しかし、ただアイドルに憧れるだけではなく、アイドルである辛さ、素晴らしさも知った今のトミーはゴッドとしての年齢を問うた。
だからこそ、ズタボロになったマイク・コペルニクスの靴に目が行き、今まで二代目少年ハリウッドが体を張って積み上げてきた苦労も、目に入った。
そうしてシャチョウは、圧倒的に大人で頼もしい逆誕生祝いの台詞を言えたのだと、僕は思います。
こうして生まれた少年ハリウッドの晴れ舞台は、明確に描写はされません。
彼らが成功することは通常版のOPラストカットで示されているし、何よりも今までの物語の蓄積をこれだけ確かめれば、練習と人生の成果物であるステージがどうなるかは、今まで見てきた視聴者ならば思い描けるはずだという信頼を、この描写には感じました。
どんなに凄まじい作画でダンスシーンを描いても、愛着と思い入れのこもった想像を超える映像は生まれないし、何よりもそこで視聴者側に投げる余裕と余韻は豊かなものです。
だから、この豊かなアニメのとりあえずのエンドマークは、あれこそがふさわしいと思いました。
こうして少年ハリウッドの一期は終わり、一月から二期が始まります。
巧みなメタファーとリフレイン、生存感のある登場人物たち、明確なテーマ、小気味良いダイアログ。
圧倒的に丹精で誠実なこのアニメはしかし、それ故に受けは悪い。
確実に悪い。
そう思っていただけに、彼らの物語の続きが見れるのは楽しみです。
二期はおそらく、一期でも幾度と無くリフレインされていたテーマ『夢のその後』が重要になってくると思います。
初代少年ハリウッドは物語が終わった時点で既に解散しており、彼らは既にアイドルではない。
だが、アイドルという道を離れても、合宿で誓った夢が叶わなくても(そして叶っても)、彼らがたどり着いた『夢のその後』には意味があったし、カッコ良かったし、素晴らしかったと思います。
少年ハリウッドの外側に移動してしまった大人、もしくはかつての少年たちが見せてくれた『夢のその後』を、産道を抜けて輝く世界に飛び出した新生少年ハリウッドたちはどう乗り越えていくのか。
そもそも、アイドルとして輝く場所に立ち、観客にとっての夢そのものになっていく少年ハリウッドの物語は、どうなっていくのか。
僕は凄く、心の底から楽しみなのです。
少年ハリウッド一期、素晴らしいアニメでした。