イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ミリオンドール:第10話『もっと上に行きたい』感想

gdgdアイドル群像劇、今回はマリ子のライブを軸に四組に主役が集うお話。
主人公格を分散配置したのなら是非欲しいシーンではあるのだが、もう10話である。
そして挟まるオタク語講座。
確かに『おまいつ』は解説ないとよく判んないが、その時間使ってマリ子の獅子吼に対する主役のリアクションを今回の尺に収めたほうが、個人的には有りがたかった。

今回のライブはマリ子にとっては成功ではなく、その無念が結果『メジャーデビューしたい!』という叫びに繋がる。
なので、そのライブがどう失敗なのか肌で教えてくれる、『おまいつ』なヲタ達の薄ら寒い空気は、良く機能していたと思う。
貼り付けたような笑み、アイドルではなく自分自身のヲタ芸に入り込んでいる狭い視界、共有されない熱気。
リューサンも砂を噛む思いの、いつものマリ子のライブ。
情熱の車輪が地面を噛まないまま空転するヲタと、望むと望まざるとそれを足場に進むしか無い地下ドルの虚しさは、このアニメよく伝わんだよね。

マリ子が一番やりたいはずのパフォーマンスは、ライバルであるはずのイトリオにしか伝わっていないのも、皮肉を増す。
熱気を持って場を温めているはずのヲタ達は、多分マリ子が皿回ししても斧を投げても、今以上の熱気で盛り上がってくれるはずだ。
彼らが見ているのは、マリ子に熱狂する自分自身だからだ。
唄って踊るという戦いの場を共有すればこそ、敵だけがマリ子の素顔を見抜いているというのは面白い。


そういう皮相で悲愴な空気があればこそ、マリ子の獅子吼には意味が出てくる。
クソみたいな空気のクソみたいな現状をどうにかして変えたいと、アイドルの枠組みをはみ出して吠えてしまう彼女の行動には、血が通っていたと思う。
とても面白くなりそうなのだが、残った時間は少なく、吠え声を浴びた主人公たちのリアクションは今回尺には収まっていない。

特にリューサンのリアクションは大事なはずで、なぜなら彼は空転するヲタの中で唯一『本気』のトップヲタとしてマリ子にかぶりついて来た(という意味合いで描写されてきたはず)だからだ。
ここで血の通ったレスを返せるのなら、リューサンはアイドルという虚像を通して自己愛を木霊させるヲタから飛び出して、主人公の顔を獲得できる。
マリ子の本気にどう応えるかが試金石になるのは、現場で唯一歌手としてのマリ子、マリ子がいちばん見てほしいマリ子を見ていたイトリオも、薄ら寒い空気をウェッブ越しにせせら笑っているすぅ子も同じはずだ。

だが今回のお話は叫び声が飛び出した所で終わっていて、全体の1/4を使ってヲタ講座が開かれていた。
時間はない。
残り少ない時間でマリ子の叫びを受け取って動き始める他の主役三人をそれぞれ描いて、メジャーデビューがどちらに移るのか勝負の場を切り取って終わらせなければいけないはずなのに、ヲタ講座は開かれた。
このアニメは、そういうアニメだということだ。


僕は感想を書く上で『はず』『べき』という言葉はあまり使わないよう心がけている。
『はず』も『べき』も睨んでいるのは作品ではなく自分の理想、『そうでなければおかしい』という一般性を隠れ蓑にした『こうあって欲しい』という希求だからだ。
それは、世間にはみ出してしまった作品それ自体には関係がなく、『かかるべし』という理想の展開は無い。
独孤しているのは『かくあった』という作品の現在だけだし、それこそそうあるべきだからだ。

しかし、今回の記事には『はず』が多い。
このお話の設定、キャラクター、初期配置、テーマが持っているはずの力が、上手く発揮されそうな予感を匂わせつつ、的確に削がれていく状況は僕に『はず』を使わせる。
『このアニメはこんくらいだから』という的確な見切りが出来なかった結果が、この無い物ねだりだ。
無様だが本心なので、訂正はせず残しておく。
このアニメは、もっと良くなれた(もしくはなれる)はずだ。
何の責任も背負っていない気楽な一視聴者の立場を踏み越えて、デカイことを言って今回の感想を終わりにする。