イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ガッチャマンクラウズ インサイト:第11話『trade-off』感想

悪意と殺意の暴走列島日本、落着の場所は屠殺場しかないのか……という感じのインサイト第11話。
エデンの園を罪科背負って追い出されたサドラ&ツバサを、ジーザス・クライスト・スーパーガッチャマンが受け止める展開となりました。
なるほどたしかに、これしか勝ち筋ないよな。


空気という暴力では勝ちようのない対手に、孤独なヒーローはどうやって勝つのか。
『クライマックスだし、派手なアクションとか見たいでしょ?』と言いたげな無双シーンはしかし、くぅ様相手の暖簾に腕押しを強調するばかりです。
まー最初から勝てない相手として徹底的にメタられて生まれた相手なんだから、必殺技撃って解決なんてしないわな。
いかにも『アガる』シーンを作っておいてハズすのはクラウズの得意技ですが、今回は二連続で畳み掛けてきて素晴らしく性格悪いなと再確認しました。

状況に気づくのはいつでもはじめちゃんなので、今回もはじめちゃんが気づいて戦闘をやめ、計画を立案し、生け贄にもなる。
変身解除してから戦闘停止を命令するまでのあの短い時間で、はじめちゃんは自分の死まで覚悟したんだと思いますが、その短さが彼女の英雄の資質を語っていると思います。
その瞬間目が伏せられ、彼女の表情が見えなくなるのは、カッツェと一人で対峙し身をとして受け入れると決めた時と同じ。
キリストと同じ行動を選んだはじめですが、震える身体も斬られて流す赤い血はちゃんとある。
その上で死ぬ。
そういう彼女の人間的な痙攣を、ちゃんと見逃さずに置こうと思います。

『なんとなく』の空気はメディアが偏向報道することで増幅されていたので、その首根っこを押さえに行く辺りも、はじめちゃんらしい的確さでした。
映像ソースを全面公開にして握りこませず、歪んだメディア代表であるミリオネ屋は自分たちで乗り込んでいって逆手に取る。
散々苦労させられたミリオネ屋を一発で転がす辺り、俗欲と悪意を否定しないはじめちゃんの対処能力は高いなぁと思います。
ミリオネ屋も悪意や敵意といった明確な意志があって歪んだ情報を出していたわけではなく、『ただそれがウケるから』『カネになるから』で流していたわけで、より注目を集められるネタを対価として差し出すのは、流れを変える最善手よね。


そんなこんなで舞台を整え、悲愴な茶番劇の始まり始まり。
意識高いガッチャマンが最後まで芝居を続けられたのに対し、ツバサが耐え切れなくなって止めようとするところとは、良い対比でした。
清音が昔の正義ロボットに立ち戻りつつ、仮面の下で血を吐きながら一刀に賭けたところと合わせて、『フツーのいい人』が超人集団に交じるとどうなるのかっていう、インサイトの根本的な部分が強調されていた気がする。
当然のようにはじめぶっ殺してたけど、『フツー』に考えればおかしいし耐えられないよな、アレ。

サドラと一緒に空気を加速させた過去も引っ括めて、インサイトは『フツー』のツバサが『ヒーロー』になる通過儀礼だったのかな、と思います。
ツバサの自己犠牲を完成させる役目は『ヒーロー』にしかこなせないんだけど、まだ『フツー』のツバサにとって荷が重すぎるので、一期を通じて『ヒーロー』であることにこだわった(一時こだわりすぎた)清音がやる。
かつて塁の『ヒーロー』としての生き様を見守り切ることが出来なかったツバサは、しかし今回手を下せないにしてもはじめの死に様(と生き様)を苦痛をこらえて見守る。
そこにはやっぱり、成長と変化がある。

そしてそこで手を下せない優しさはしかし同時に、『ヒーロー』に絶対必要な条件でもあって、色々迷走はしたけどなんとか『ヒーロー』にしがみついたツバサの今後を照らす、大事な光だと思います。
こう考えると、ツバサの自主性を重んじつつも対話のチャンネルは絶対に手放さなかった、はじめの卓見は凄いな。
第8話あたりの『あ、駄目だこの子。見捨てようぜ』みたいな空気もかなり意図的に醸造されてて、その状況でもなおツバサの可能性を見抜いていたはじめの特権性が、後々になって生きてくる構成なんだろうなぁ。


はじめが選んだ『過剰な暴力を直接見せることで、空気を萎えさせる』という手筋は現実的なようでいて、猿どもの知性と理性を全面的に信じた理想主義的行動です。
例えば政治的対立だとか、身内がぶっ殺されたとか、明日食う飯がないとか、本気で無軌道な憎悪で扇動した奴がいる(それこそ一期のカッツェみたいな)とか、現実世界で暴力的対立が起きる背景を今回の事件が共有していたら、そこまで簡単にはくぅ様は消滅しなかった気がします。
戦争状態といえるほど正気が失われていない、ミリオネ屋という資本主義メディアが増幅した『なんとなく』の空気が虐殺の背中を押していたからこそ、抜くのも簡単だった(っていっても、はじめ死んでるけどさ)というか。
同時に、そんな『なんとなく』だからこそ、歯止めが効かず一気に状況が悪化した、というのもあるんでしょうが。
どちらにせよ、『なんとなく』の中身がむき出しの暴力と死と血しぶきだと見せ続けるというはじめの対策は、ゲルサドラ事変に取っては有効だったと思います。

これまで可愛いだけだったうつつちゃんが大活躍する局面ですが、はじめはうつつの能力抜きでもこの解決策を敢行していたと思います。
『誰かが死ななきゃ収まらない状況なんだから、自分が死のう』という究極的決断を、さしたる迷いも見せずに(迷いが存在しないとは言わない)敢行してしまう彼女の英雄性(もしくは非人間性)は、今回ツバサという凡人を取り込んだせいで強調された部分かな。
同時に、現世に帰還してきた梅田さん然り、死を演劇に変えうるうつつの能力然り、フィクションだからこその救いを、フィクションだからこその仕掛けでちゃんと用意するのは有り難い所。
これで『ハイ、梅田さんも死んだし、はじめちゃんも死にました! 人間は少ししか変わりませんでした!!』じゃあ、飲み込むのに苦すぎるでしょう。
だから、基本壊すことしか出来ないガッチャマンの中に、うつつちゃんがいて良かったなと思います。
『人間は何かを破壊して生きていると言ってもいい生物だ。その中でお前の能力はこの世のどんなことよりも優しい』って感じだ。(ジョーさんの体格が良くなりつつ)


ガッチャマン(=ヒーロー)が振るう力は、正義や人命を守るという目的はあれど、根本的には暴力』というニヒルな視点はずっとこの作品にはあったけど、最後の茶番でより強調された感じです。
国民全体をドン引きさせるためには本気の暴力が必要なわけで、くぅ様が消滅していったという事実はそのまま、ガッチャマンが『萎え』を供給できる超暴力装置足りえるという事実でもある。
VAPEのテロリズムにしても今回のガッチャバイオレンスにしても、『目的は手段を肯定しないが、暴力行使含めた的確な手段によってしか目的は達成されない』というイズムを感じます。
結果として手段が目的化することなく、的確に目的を達成できているところから見ると、ニヒリストというよりは、リアリストな視線と言うべきかな。
『だから、暴力以外の可能性をヒーローは持たなきゃいけないし、それは可能』という答えも出しているしね。

『人間は未だ、暴力を制御可能である』という結論は、根本的に楽観主義的だと思うし、それをエンタテインメントとしてまとめ上げながら提示できているっていうのはとっても良いことだとも思う。
こんだけ『リアル』なテーマや題材を扱うと、地すべりのように悲観主義的劇作に落ちていってしまうこともあると思うけど、クラウズはとても性善説的で前向きにお話を進めていく。(悲観主義的劇作が無条件に悪い、というわけではない。念のため)
アニメを見ている僕(や、おそらくは製作者自身も引っ括めて)は空気に流される猿で、悪化していく状況を加速させるだけだという前提に立ちつつも、そこから変化することは可能であるという希望を捨てはしない。
このお話が絵空事である以上、そういう楽観主義ってとっても大事だと思います。
そこへの反発がまた、読み取って欲しいと願ったテーマへの理解を深めていくことも含めて。


第5話くらいから戯画化を駆使して悪化させていった状況に、ようやく決定的なカウンターが撃たれた回となりました。
とても楽観主義的な結論だけど、でもそれは希望に満ちた綺麗事で、僕はすごく好きです。
このままはじめちゃんが死んじゃうとまんまジーザスになっちゃうので、神様ではなく人間達のあがきのお話であるクラウズには相応しくない。
最高にご都合主義のハッピーエンドで、バッチリシメていただきたいところです。
……いや実際、はじめちゃんが贄になって猿は少し目が覚めましたー!! とか、許されざるでしょ。(はじめちゃん大好きマンに変身しつつ)