イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

機動戦士ガンダムUC RE:0096:第10話『灼熱の大地から』感想

◇はじめに
汝らの羽根に伸し掛かる罪の重さが、汝ら自身を重力の井戸の底に押しやるアニメーション、今週も大人たちと子供たちの対話。
ラプラス跡地での激戦を経て状況が移り変わり、宇宙から地球へと舞台を変えて因縁が展開するお話でした。
男と見込まれたリディ少尉が家の重たさにぶっ潰されたり、ミネバが色々悩んだ挙句ガルマ声のオッサンとの対話で道を見つけたり、マリーダさんのこと好きになっちゃったっぽいアルベルトおじさんが闇の母の影響から逃れられなかったり、ウジウジ悩むバナージを見かねたジンネマン親父がハードな試練を用意してくれたり。
色んな大人と子供、親と子の関係が描写され、この話が群像劇だということを思い出せられるような展開でした。


リディ・マーセナスの迷妄
バナージと別れた時は『男と見込んだ!』とか超かっこいいこと託されてたのに、リディ少尉は速攻現実を叩き付けられ、オードリーにすがりつく情けなさをフルスロットルにしていました。
あそこでミネバがリディを抱きしめない当惑は納得できるんだけど、おんなじようにバナージがすがりついてきたら余裕でハグすんだろうなぁと考えると、主役と噛ませ犬の境遇の違いに涙せざるを得ない。
結局ミネバはリディに頼らず、地力で檻から脱出して自分で道を見つけちゃうからなぁ……追い込まれた状況の中で、『ミネバに頼られる王子様な自分』というセルフ・イメージもぶっ壊されちゃった辺り、リディ少尉には逃げ道がない

バナージくんは『キミはミネバ・ザビである以前に、感情を持ったオードリー・バーン個人だ』という公私のバランスの取れた道を最初から提示してんだけど、今回リディが提案したのは『ザビという姓は捨てて、マーセナスとして生まれ変わりなよ』という、公的自我の破棄。
しかも『マーセナスの家は情けない家だ』と自分で言っているのに、その情けない名前を引き継ぐことで窮地を脱しよう(もしくは窮地に背を向けよう)と提案する矛盾は、ミネバが容赦なく指弾するところです。
そんなことをしてもミネバが背負っているものが消えてなくなるわけでもないし、オードリーが感じている悩みが消滅するわけでもないんですが、『家』に背中を向けてパイロットになったリディにはそういう矛盾しか提出できなかったのでしょう。
リディ個人の人格とか、バナージが持ってる主役補正とか、他にもいろいろ要因はあるけれども、根本的には『家』の一員であることで強制的に背負わされる公的領域への対処が、ミネバとリディで正反対なのがすれ違いの原因なんだろうなぁ。

そんなリディの庇護者たる親父さんは、マーセナス家党首として難しい局面で舵を取り、『家』を存続させつつ息子も生き延びさせたい、非常に難しい場所にいます。
彼もまた『公』と『私』のバランスを取る難しいダンスを踊っているわけですが、さんざん強調される『リディの写真』というフェティッシュから見るだに、息子の生存を第一に考えている気がします。
『息子>家>ミネバ』という価値観で判断すれば、『ミネバをマーサに売り払って、家を存続させつつ息子を守る』という選択が確かにベストではあり、しかし息子は『自分>ミネバ>それ以外』という歪んだ状況から脱していないから、『情けない』選択肢を選んだ父親の真意にも気づけない。
カーディアスの遺志を正確に受け取り、遺産であるユニコーンと人生の冒険に飛び出したバナージに比べ、『家』と父の愛に守られつつもその影響を正確に理解せず、目の前の女の子のあり方も把握できないリディの迷いは深い。
直感的に真実に辿りつけず、その迷い故に実父以外の大人の支援ももらえない辺りに、リディ少尉の人生の悲しみがある気がしますね。

僕個人人格が真っ直ぐであることがそれ自体で価値であり、ひねくれて迷うことそれ自体に価値が無いとは、けして思いません。
バナージにはバナージなりの、そしてリディにはリディなりのパーソナリティがあり、それはそれぞれに尊重されるべきなんですが、バナージには実父の死後も次々父親が現れて道を示し、リディには誰も現れない。
好きになった女の子も抱きしめてくれないし、軍人としての自分も必要としてくれない。
それはある意味、リディ少尉のヒネた心が生み出した結果なんだけど、同時に彼を孤立させより捻くれさせる原因にもなってしまっていて、主役が迷宮の中で色んなナビを受けているのに対し、物語から逆補正を受ける立場は大変だね、と思わざるを得ません。

馬以外慰めるもののない孤独で惨めなリディ少尉ですが、ミネバにもフラレて今後どこに彷徨っていくのか、色々気になるところです。
ガンダムいう現代の叙事詩において、過剰な自意識に押し潰され、トチ狂ったライバルが銃口を向けてくるのは様式美であり、かつUCというアニメが様式に強い意識を持っている以上、今後彼のトチ狂いっぷりは加速してく気もする。
願わくば、彼が様式の奴隷として堕ちるべくして堕ちていくのではなく、その迷妄も含めて彼のキャラクターとパーソナリティをしっかり描写しつつ、彼らしくトチ狂って欲しいと思います。
いや、トチ狂わねぇのが一番いいんだけどさ……いろんな準備が全て、彼がジェリドとシンを足したポジションに追い込まれる未来を示唆してて……。


◇地球酒場で珈琲を
そんなリディに保護されつつ依存されるヒロイン・オードリーは、『求められるままにお姫様なんぞやってられっか! I want out!!』と叫びながら野に飛び出して、コーヒー飲んでスッキリ帰りました。
バナージが濃厚なトラウマと、砂漠横断というイニシエーションをジンネマン親父に用意してもらっているのに対し、『いいこと言ってるけど対話相手はモブ』というミネバの道の見つけ方は、一種の自問自答に近い気もする。
もうちょっと時間を割いて、彼女が背負うスペースノイドと、それを踏みにじるアースノイド上層との矛盾を体感できるエピソードがあっても良かったかなぁと思わなくもないが、ガルマ声のおっさんとの対話自体は、コンパクトかつ中身のある素晴らしいものだった。
常に宇宙世紀の政治的ホットスポットに位置し、社会の高い場所からの視点しか持たなかったミネバが地べたで生きてる人の言葉を受け取るってのは大事だと思うけどね……思い返すと、バナージとの出会いもそういうもんか。

コーヒー屋のオッサンは、『ジオンの姫君』というミネバの立場から一番遠い『アースノイドの一般庶民』という立場であり、ミネバに近しい人達からはけして出てこない意見を伝えてくれます。
エゴイズムに塗れどうしようもない醜悪さを強調される宇宙世紀のあれこれが、実は善意から生まれたもので、その結果が業に捻じ曲げられたとしても、開始点にあった光それ自体は否定出来ないものだということ。
僕含めて、このアニメを見ているガノタがその知識と先入観故に忘れてしまいがちな『宇宙世紀の起源』を指摘するのは、おそらく一年戦争で自身強い心の傷を受け、それを乗り越えて喫茶店の親父をやっている彼が適任なのでしょう。

社会すべてを背負った冷たいロジックよりも、一個人の感情が持つ柔らかな手触りを重視する彼の立場は、世直しを目論んで失敗したシャアの時代が終わり、そのエピゴーネンであるフル・フロンタルが連邦との遊戯的闘争とじゃれ合うUC96だからこそ成立する論理かもしれません。
ジオンと連邦の生存競争は連邦の勝利でほぼ確定し、『袖付き』がどれだけ暴れまわっても世界のシステムそれ自体は最早ひっくり返せない状況だからこそ、シャアの過大な厭世的世界観を穏やかに、しかしそれ故に強烈に否定する言葉も出てくる。
シャアが憂い、案じ、行動し、失敗した『後』の世界にミネバもバナージも、喫茶店の親父も否応なく生きているのであって、そこは連邦とジオンという2つの『公』が血みどろの生存競争を繰り広げる時代ではなく、趨勢は定まり否応なく連邦というたった1つの『公』に包まれて生きるしか無い、戦争が終わった時代なのです。

そういう時代背景の無言の後押しも受けつつ、しかし戦争の時代に傷つけられ、それを乗り越えてなお生き、人への優しさを忘れないオッサンとの対話を、ミネバは非常に価値あるものとして受け止めます。
コーヒーカップに挟まれていたのは、自分の迷妄を振り払ってくれた名も無き庶民への、彼女なりの感謝と感銘の現れなのでしょう。
ザビ家の重さに耐えかねて逃げ込んだ喫茶店から出るとき、彼女は『オードリー・バーンですね』という『私』を確認する言葉に対し、『ミネバ・ザビである』と『公/家』の名前を獅子吼します。
私的領域から宇宙世紀の矛盾を受け止め、考え、後世に希望を託したオッサンとの対話の中で、ミネバ=オードリーは公私のバランスをどこに定めるのか、覚悟を決めたわけです。
この時食事が大きな仕事をしているのは、第8話でオットー艦長がわざわざ温かい紅茶をバナージに差し出し直したのと、同じ演出ラインの上にあるのでしょう。

たっぷり食べるオードリーを認め、コーヒーをサービスしてくれる親父はアースノイドの光の部分を担当するわけですが、せっかく地球に来たのに連邦政府の腐敗とか、上流階級のクソみたいな差別意識とかに直面するシーンはなかったです。
せっかく第二の主人公というポジションを貰っているので、もっとガッツリ圧をかけられても良かったかなぁと思いますが、リディの親父さんは聡明な人だし、マーサのクソっぷりに期待するしか無いな。
やっぱ試練と支援のバランスが取れてこそ、説得力のある成長をフィクション内部に成立しうると思うので、オードリーはもうちょっと追い込んでいいかな、と思います。
リディ並みに回りの支えがねーのも、見ててしんどいわけで、ガルマ声のおっさんはいい仕事したと思うけどね……つうか森さんの落ち着きつつ艶のある演技も最高で、確実に良いシーンなのだあのシーン。


◇わが母なる暗黒
見ず知らずの伯父さんに助けられたミネバに対し、アルベルトおじさんは好きになった子とクソみたいな母親代理の間で、右往左往していました。
リディが『家』より『恋』を取ったのに対し、アルベルトはどっちを取るとも決断できないまま、マリーダさんを収奪する構造に無言のうちに加担しているという、ヤダ味のあるポジションだ。
ホントさー、手足がむき出しになると傷とか痣とかが目立ってさー、『こういう人生に耐えて人間で在り続けたこの人に、お前らまだ私欲を叩きつけるわけ? 突如生まれた次元の裂け目に吸い込まれる?(『死ね』の洒落た言い換え)』って聞きたくなるよホント。

アルベルトに暗い影響力を及ぼすマーサは、凄く良くない意味での女としての共感をマリーダにも投げかけていて、母性の暗い側面を担当するキャラなんだなぁと思います。
子宮/識閾下の暗黒の象徴として、『ぽっかり開いた穴』を使うフェティシズムは分かりやすいし、マリーダさんを再調整するという『心理学の悪用』という展開ともマッチした、良い演出だった。
キュベレイまで持ちだして虐げられたトラウマを刺激してるクソアマが、どういう過去を持ち女として(人間として?)虐げられてきたのかってのは、彼女の行動の正当性に直結するわけですが、人間には理由もなく人を踏みつけに出来る人種も哀しいけど存在するしねぇ……。

彼女の長い影はアルベルトやリディの父親、ミネバなんかにも暗く伸びていて、バナージの親父がいろんな場所に分散配置されているのに対し、邪悪なる母親は中心から色々手を伸ばしてくる構図なんだね。
ミネバを引き寄せて囮に使って、ユニコーンを確保……つまりは『箱』を掌握したいみたいだけど、その権力願望が一体どこから来るのかってのも、個人的には気になる。
権力という『公』的パワーを巧く行使するってのは、ミネバが抱えたキャラクター固有のクエストであり、邪悪さを周囲に撒き散らしながら権力を引き寄せようとするマーサはつまり、クエストの健全な解決に失敗したミネバなわけだ。
この鏡写しの構造をハッキリさせるためには、マーサは結構掘り下げて描かれたほうが良いと思うけど……最大の支持層である濃い目のガノタの期待に応えるべく、気合の入ったMS戦に尺使わんといかんからなぁ……どうなることやら。


◇荒野に戸惑う主人公
ほんでもって、主役のバナージくんは殺されて殺したショックから中々立ち直れず、長いまつげを伏せてプルプル震えるばかりだった。
見るに見かねたジンネマンさんが、四日間の砂漠行っていうイニシエーションをセッティングしてくれる辺り、バナ^字は本当に周囲の大人に恵まれているな。
それは主人公という彼の立場が引き寄せたものであるし、真実を即座に感得しまっすぐに伝えられるという人格が引き寄せるものでもある。
社会環境的にはリディみたいなヒネた奴になってもおかしくないし、実際オードリーに出会うまでは鬱屈した様子も見せていたわけで、未来を切り開く彼の前向きな姿勢ってのは、彼が頑張って獲得しているものだしね。

ダグザさんが死んでも、ギルボアさんを殺してしまっても、バナージは生き残ったし生き続けようとしている。
ユニコーンがしがみついて来た』という力ちゃんの言葉が、心に受けたショックとは裏腹に冴え渡る生存本能をよく表していましたが、バナージは優しい子なので状況の変化と自分のしでかしたことに折り合いを付けれず、自分の中に閉じこもっています。
ここら辺の殻を破り、『自由になる唯一のパーツ』たる心のままに生きるという意味を含めた生存本能を刺激するべく、厳しい砂漠のたびにバナージを釣れ出すジンネマンさんは本当によく出来た大人だ。
リディの回りとは大違いだな!!

マリーダさんもダグザさんも、そしてジンネマンも、バナージに接触してくる大人は皆『パイロット』という社会的立場に拘った言葉を投げてきます。
バナージがユニコーンに乗り続ける以上、彼が戦争という状況に介入し、他者を害したり守ったり出来る実力行使主体であるのは間違いなく、それを否定して(もしくは投げ捨てても)何も始まらない。
パイロットという戦争の小さな『歯車』でありつつも、自分で回る場所を決められるはずだという希望を身勝手な大人に託されつつ、バナージ少年は持ち前の真っ直ぐさで大人たちを変えてもいるわけです。

ジンネマンはバナージを『自分で自分の生き死にを決める目をしている男』と見込んでおり、それ故砂漠に連れ出して(放り出して、ではない辺り手厚いケア意識を感じる。そしてそれを強調するように描かれる『水筒』の演出)気合を入れようとしています。
しかしバナージは戦場の現実に強い無力感を感じていて、『必死にやったけど、結果的』何も出来ず、『これ以上何をどうして、何と戦えば良いのか』分からない状況に置かれている。
どこに行けば良いのか分からないのはリディと同じなんだけど、ジンネマン親父という対話可能で、バナージのめんどくささと戸惑いを背負う意欲のある存在がそばにいる以上、リディのように迷走するってことは多分無いんでしょうなぁ。
逆に言えば、マリーダから始まる導き役の系譜が途切れてしまえば、いかにバナージといえどもリディと同じように『情けない』存在に堕してしまうってことであり、青年の成長の影には良き大人の存在が欠かせないってことでもあるんだが……それにしたって馬はねぇだろ。

ジンネマンが『男と見込んだ』バナージは今回、無力に砂を投げつけてましたが、彼はまっすぐに歩くことを許されている主人公であり、そんな彼をジンネマンも支えてくれるでしょうから、今回のヒキに不安になることはありませんでした。
バナージが世界や他人に愛されることに納得できる人格を持っている以上、主人公補正ともまた違うわけだけど、世界の厳しさに傷つけられつつ孤独にはならず、それを糧にして成長できるバナージは、やっぱ恵まれた立場にいると思う。
無名の個人との交流から己の立場を覚悟したミネバ、孤独に足を取られて立ちすくむリディ、家と恋の間でウロウロしているアルベルト。
主人公もそれ以外の子供も、己の道のただ中にいるということがよく分かるエピソードでしたね。