イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

小林さんちのメイドラゴン:第6話『お宅訪問!(してないお宅もあります)』感想

世界のハグレモノたちに捧げる優しき哀歌、メイドラゴン六話目であります。
先週が開けた匿名の場所をトールが彷徨い、学ぼうとするお話だったのに対し、今回は顔も名前も見知った相手の日常に、小林さん達と一緒に乗り込んでいくお話。
関係性も距離感も、出て来るお茶やご飯もぜんぜん違うけども、それぞれの歪みを活かして受け入れ合い、認め合う。
人間とドラゴン、人間と人間、男と男、男と女、女と女。
多種多彩な色があるから輝く万華鏡を、梅雨の合間に覗いていくお話でした。

これまでお話は小林さんとトールを軸に進んでいて、彼女たちの関係がいわば『作品のベーシック』として、深く描写され続けてきました。
前回までの五話でメインは結構な量と質を掘ったので、今回は角度を変えて別のドラゴン、別の人間との関係を見ていきましょう! という、引き続きの社会見学回でした。
差異の断裂を視野に入れた上で、普段の努力で橋をかけ共に暮らしていく視点はそのままに、バラエティ豊かで楽しい物語が展開していきます。

カンナと才川、才川と姉、ルコアと翔太、ファフニールと滝谷、そしてトールと小林。
性別も違えば距離感も違う、軒並みトンチキな関係が今回見られましたが、トンチキなのがドラゴン特有のものではないのは、面白いポイントです。
才川とジョージーは姉妹なのに『メイドと主人』を演じているし、翔太くんはトールたちと同じく、ファンタジックな世界から来たストレンジャー
エキセントリックさをドラゴンだけの特権にして、『不思議なお客さん』として浮かび上がらせるのではなく、人間もまたトンチキな関係や出自を背負っている『不思議な存在』なのだ、という前提が、この配置で見えてきます。

特に翔太くんは面白い存在で、前回不帰の覚悟をファフニールさんに告げたトールとは対照的に、『いつか帰る』ことを前提に魔術を継承し、誠実に技術を磨こうとしている。
ストレンジャーである出自を否定せず、かと言ってその異能を振り回すでもなく、人間社会に適合しながら異物でもある在り方は、『ドラゴンを受け入れる優しい人間達』ともまた違った、特異なポジションです。
そんな彼が一番学ばされるのが『ただの人間』たる小林さんの『力の誇示のために、石のある存在を言い様にするのは問題ではないか?』という視点なのも、また面白い。
あの部屋にいるドラゴンと人間と魔術師は皆、部屋の外側に広がっている世界のルールを尊重していて、だからこそ小林はそういう提言をして、翔太くんはそれを受取る。

そもそも家にやってきたのも、ルコアさんが翔太くんの誤解を解き、よりよい関係を気づきたいと願ったからです。
それはやっぱり、ドラゴン(というか神)の圧倒的なパワーで押し流せばどうにかなるものではなく、様々なつながりの中にいる人間としての自分を大事にしつつ、一歩ずつ歩み寄るしかない問題。
結果としてドスケベサキュバスと誤解されたままではあるのですが、翔太くんにとっても、ルコアにとっても、小林とトールがあの場所を共有したことで生まれたものは、良いものなのでしょう。


全員が同じ場所を共有していた二回目の訪問に対し、一回目の訪問はメイドキチガイ大人班とアモラル子供班に分かれ、密室の中で状況が進んでいました。
才川とカンナはお互い好きあっているので、特に状況を進める必要もないっていうか、さんざん危うい接触を繰り返し続け、ドキドキすればLOVEでハッピーっていうか。
才川だけが暴走超特急ってわけではなくて、実はカンナも相当才川が好きで、お互い愛のニトロエキスプレスって平等性は、結構好きです。

ルコアと翔太もそうでしたが、才川とカンナも肉体接触が多く、セックスに繋がる一線の上で激しく踊っていました。
『好きな相手と、肉体的に繋がりたい』というプリミティブな欲求に、この話がかなり肯定的だというのは、メイド談義への機体に興奮し階段を変え上がる小林、その積極性にドキドキするトールからも感じ取れます。
人間とドラゴン、女と女、子供チームの場合は年齢と、色々と『ノーマル』ではない要素が含まれてはいるけども、この話はほぼ、『ノーマル』という価値観を画面の真ん中には置きません。
それはあくまでトンチキな人々の人生喜劇の影として、輪郭として描かれるだけで、主役たちが『普通』であろうと務めることはない。

『普通であれ』という圧力に押し出されてトールは傷つき、こっちの世界にやってきたわけで、賢人たる小林さんは『ノーマル』の持つ冷たさに惑わせることなく、正しくトールを保護し、癒やし、愛した。
お話全体がそういう物語を基調に置く以上、つうかドラゴンと人間の恋愛物語である以上、登場人物は性愛においても『ノーマル』であるより、自分の気持ちに素直に生きようとします。
雌雄同体のカタツムリ、番のツバメに水鳥。
相変わらずさり気なく、的確に切り取られる風景と動物のように、社会規範ではなく己の心のあるがままに、愛を育てていく人々。
ドタバタと騒がしいレズロリ(もしくはおねショタ)恋愛事情の中には、そういう塩梅で愛を肯定する視点が存在している気がします。
セックスが介在する余地がない、枯れてるけど楽しそうな男の同棲を最後においてある所含めて、このアニメの性への視点は立体的なのかもしれませんね。


キャラクター同士の色の濃いやり取りの隅っこで、背景が様々なものを物語る技法は、一話から揺るぎないこのアニメ。
今回は例えば、3つの愛の巣で出される飲料/食事が無言の言を語っていました。
手間のかかったファーストフラッシュ、ペットボトルのウーロン茶、レトルトのカレーに納豆。
家それぞれに出てくるものは違いますが、それは『同じものを共有し、喜ぼうとする』姿勢の表れであり、金銭や内容の多少で判断される価値ではありません。
性別や種族の際が一つの表出であるように、性的欲望が関係の中に内在するか否かが多様であるように、お茶や食事の在り方もそれぞれの色合いがあり、共通する意味がある。
そんなものを、三種三様な『ともに食べるもの』の描写から感じました。

無言の言という意味では、滝田とファフニールさんの同居の描き方が圧巻で。
台所の奥にずっしり据えたカメラで、じっくりと男たちの生活を捉える腰の重さやら、滝田亭のオタクハウス描写の生っぽさやら、ちょっと怨念すら感じる気合の入り方でした。
一般的な『ヲタの家』イメージを踏まえつつ、山と積まれた通販のダンボールとか、開封されないフィギュアのブリスターとか、トレカコレクション(おそらくM:tGのヴィンテージ)のホルダーとか、ディテールが生々しすぎる……。

男組はトールと小林が上がりこまないので、その関係もあまり騒がしくなく、抑えた筆致で紡がれていきます。
滝田くんも小林さんに負けず劣らず、人間力高すぎマンなわけですが、ファフニールの特徴的な長髪を気遣い、リンスをわざわざ買ってきてくれる所とか、ケア力溢れてんなぁと思いました。
買ってきて終わりにせずに、風呂に入ってちゃんと使うところ(つまり、真心がキャッチボールされ双方向に作用している瞬間)まで切り取ってくるのは、さすがの表現力ですね。

物言わぬといえば、季節の描写はますます冴え、紫陽花の美しい梅雨が丁寧に切り取られていました。
『人間とドラゴン、あなたと私は違う存在なんだ』というストレスの掛かる真実を睨みつつも、話の真ん中には置かないこのアニメにとって、じっくり積み重なっていく時間というのは非常に大事なものです。
小林もトールも、他のドラゴンたちも、他者とともに生きていく上で必要な真実には、わりと早い段階で気づく。
でもそれを実際のものにしていくのはなかなか大変だし、理屈で理解してもちょっとした問題が顔を出したりもする。

そういう状況の中で、移りゆく季節の中で共有され、積み重なっていく時間は、即効性はないけども有効な解決策になります。
のんびり優しく過ぎていく日々から生まれるものは、明瞭でセリフに出来る真実を発見・自覚するのと同じくらい、異種間コミュニケーションにとっては大事で、効き目がある補助線なわけです。
なので、桜から紫陽花に花が移ろい、後ろ足の映えたオタマジャクシがカエルになる描写がぬかりなく入っていることは、人間とドラゴンの繋がりが奇跡のようにうまく行くこの話において、成功の足場がどこにあるかを示す演出なわけです。
ただ時間が流れているのではなく、それを示す情景それ自体がとても美しく、ずっと見ていたくなるのが強いところですね。


今回の話はドラゴンに縁のある人間を、トールと小林が追いかけていくお話です。
才川とカンナ、翔太とルコア、滝谷とファフニールという横軸を、小林とトールという縦軸が貫通していく中で、見られる対象だけではなく、見る主体である二人の関係も、よく見えてくる。
いなかった頃の自分を思い出せないほど、小林の人生に食い込んだトールという存在のかけがえなさは、他者が作り出す関係性から離れ、自分たちのホームに帰っていく道の描写が二回、繰り返されるところで明瞭に見えます。

寄り添い、穏やかに支え合う二人は、今回見た(もしくは見なかった)三組とはまた違った色合いを持ちながら、お互いを尊重し愛する根本に変わりはない。
話数と時間を積み重ねて、そういう場所に二人が頑張ってたどり着いたと確認できるシーンで、僕は凄い好きです。
考えてみるとこれまでの話でも、引っ越しや入学の『準備』だけではなく、派手なイベントが終わった後の『帰り』も丁寧に描写されていたわけで、『準備』『本番』『終わり』全てを疎かにすることなく、人生の全領域をじっくり切り取る足腰が、このアニメの本領、ということなのかもしれません。


二度繰り返す描写は『ベランダ』にも見えて、空間を共有する三匹を象ったてるてる坊主をかけるシーンと、そのてるてる坊主が功を奏さず、雨が降り続くシーンが切り取られています。
一回目は角のある存在をしっかり見つめ、形に表現できる小林の目の良さが強調されるわけですが、二回目はむしろ、カンナが持っている子供らしい感性によって、雨の価値を見つけ直す過程が切り取られている。
一回目は灰色で薄暗かったシーンにも少し明かりが差し、雫の織りなす情景、露に濡れる花の美しさを、三人は見つけます。
それは三人だから見つけられた新しい視座で、世界がそのままひっくり返ったわけではないけども、ちょっとだけ世界が楽しくなる新しい発見、その共有です。(視界の先に、『つがいの水鳥』が飛んでいるメッセージの徹底)

効かなかったオマジナイも、騒がしい人々との交錯も、静かに滴る雨音も、目の前を静かに流れていく川も。
全てが人生の諸相であり、全てに固有の意味があると、穏やかに飲み込めるラストシーンで、凄く良かったと思います。
基本ドラゴンと人間の恋愛物語なんだけど、そこから踏み出した人間賛歌の響きが通奏低音として機能してるの、俺やっぱ好きだな。

三人の住処の前に大河があるのは凄く良いセットだなと僕は思っていて、流れ行くけども揺るがない大きなものが常に三人を見守っていることで、このお話がどういう場所を流れているのかを、常に確認できる気がします。
そこにはカエルや鳥といった命があり、季節によって表情を変える美しさがある。
滔々と流れる時間に守られ、教えられながら、人間たちは一歩ずつ世界を学び、手を取り合えるよう、裂け目を見据えつつ手を伸ばす。
その有り様に、角のあるなしはそこまで重要ではないという綺麗事こそが、やっぱこのアニメの根っこであり、声高に叫ぶのではないからこそ染み入る表現として、ちゃんと機能しているテーマでもあると思います。


というわけで、各々のホームに各々の愛が輝く、しっとりとした梅雨の情景でした。
振幅の激しいネタでちゃんと楽しませつつ、凄くオーソドックスなメッセージを、何度も何度も重ねて伝えてくる語り口、やっぱ僕は好きですね。
ポップとシリアスのバランスを非常に適切に取った上で、京アニにしか出来ない表現としてまとめ上げ、伝えてくれている感じがします。

苦手なセックスとの間合いも、視聴者をフックする粗さを残したまま、多様性を認め余韻を残して描けていて、非常にクリティカルな場所にバンバン表現が刺さってる印象ですね。
良い原作を選んで、良い方法論でアニメに描きなおしているなぁと、つくづく思いいるばかりです。
来週は夏に季節が移るようで、また何が積み重なり、何を見つけ、どんな変化が生まれるのか。
とても楽しみです。

あとカンナちゃん可愛すぎた。
『あめあめあめ、あめあめあめ』のYOUJIっぷりとか、ホント……ホントな。
ありがとうございますホント……ホントねね。