イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

小林さんちのメイドラゴン:第9話『運動会!(ひねりも何もないですね)』感想

秋の夕暮れのように煌めく黄金の時間を閉じ込めた、異種族ファミリーコメディ、9話目は楽しい運動会であります。
すれ違いもあるけれど、お互いの強さと優しさをしっかり見て、みんなで頑張って、とても幸せな結末にたどり着くという、非常にオーソドックスで柔らかなエピソードでした。
カンナが手に入れた『学校』という社会、『小林さんち』という共同体に寄せる思いが強く感じ取れ、その強い波を他のキャラが受け取り、答えを返すことで、彼らの優しさも輝く。
人間関係のコール&レスポンスがとても丁寧に追いかけられて、体温を感じる仕上がりでした。
『学友』という、メインキャラとはまた違った存在を使うことで、カンナが手に入れつつある世界の広さも巧く出ていて、このアニメの良さである風通しの良さが生きていたように感じました。


というわけで季節は秋、カンナを軸に『学校』と『家』と『会社』という、複数の社会が重なる『運動会』を描くエピソードとなりました。
この話は『小林さんち』をメインステージとして盛り上げつつ、そこに所属するキャラクターが複数の社会に所属し、複数の顔を持つことを無視しません。
小林さんは『家長』であると同時に『職場のエース』であり、『カンナの保護者』でもある。
カンナは『小林さんの扶養家族』であると同時に、『学生』であり『クラスの人気者』でもある。
緊密で親しい距離を大事にしつつも、そこから離れ、『家族』が知らない顔を幾重にも重ねて人間が成り立っていることを、普段は閉じている『学校』が開放され様々な社会と重なり合う『運動会』という場所は露わにしてくれます。

名状しがたい罪悪感(正義感? 倫理観?)から寄る辺ないドラゴンを拾い、結婚や性交というプロセスをふっ飛ばして『家庭』の真ん中に座ってしまった小林さん。
彼女はカンナの願いを『私はそんな立派なオトナじゃない』と跳ね除けますが、『来なくても大丈夫』と告げる震えるカンナの強がりをしっかり『見る』ことで、『行きたいからではなく、行くべきだと思った』へと変化する。
それはたとえ奇妙な経緯でも、手に入れてしまった現在には責任があって、それを果たすことが自分自身の心の曇りを晴らすことになるという、積極的な義務感の芽生えでしょう。

それはカンナを前にして急に生まれたわけではなく、消えようとするトールを引き止めた時、もしくはトールの背中と心に刺さった剣を抜いた時(多分それ以前)から活性化している、小林さんの人間性です。
『立派なオトナじゃない』と自己を規定する小林さんが、ドラゴンたちに何をやってきたのか、僕らはこれまで見ているわけですが、同時に『大人はたいがい、子供でいられなくなっただけ』という告白も聞いています。
トールのものかわかりの良さとクッソ面倒くささと同じように、小林さん(だけではなく、このアニメのキャラクターすべて)には二面性があって、その両方がとても大事でもある。

気づけば子供でいられなくなってしまった小林さんが、それを疎ましく思うかつての自分を乗り越え、責任と喜びを持ってデスマーチと戦う。
それは社会が押し付けてくる『かくあるべし』という規範ではなく、小林さんの魂から湧き出る、瑞々しい決意です。
コミュニケーションが得意ではないアウトサイダーとして自己を認識し、規範にそこまで価値を老いていないからこそ、人間メス(成体)+ドラゴンメス(成体)+ドラゴンメス(幼体)という『小林さんち』が、形ではなくそこにある温もりによって『家族』であり続けることを、大事にもできるのでしょう。
『世間がなんと言おうと、このドラヒト女連合こそが私らの『家族』なんじゃい!!』というか。


第3話での引っ越しと同じように、『運動会』というイベントに繋がる事前準備にじっくり時間が使われる今回、『見る』ことは小林さんだけの特権ではありません。
カンナは会社での小林さんを『見る』ことで自分の気持ちを押し殺す決意を固めるし、滝谷くんは隣り合った小林さんの短期的・長期的な変化を『見て』、彼女の喜ばしい変化を指摘する。
小さな変化や押し殺した心情を見逃さない注意深さと、それを言語化し行動に移すアクティビティを兼ね備えていることが、人間とドラゴンが共存できる柔らかい世界を成り立たせる、大事な足場なのでしょう。

目は『見る』入り口であると同時に、感情が出ていく出口としても印象的に描かれていて、カンナの震えを発見した時、「ありがとう」「大好き」と言われた時、小林さんの瞳は潤んで震える。
それは人間だけの特権ではなく、ドラゴンたちも真心のこもったアクションを投げかけられた時、印象的なクローズアップを挟んで『目』で感情を語っています。
京アニ得意の『足』を切り取る画角も多用されていました(例えば小林さんが『運動会に行ける』と明言した時の、カンナの飛びつきとか)が、『口よりものを言う』身体部位に注目した演出という意味が込められているのでしょう。
台詞や一般的にすぎる表現に頼り切らず、ちょっとクッションをかけた表現を的確に使うことで想像や解釈の余地を残し、作品から受ける感情の余韻を作っていくのは、やっぱり大好きな語り口ですね。

小林さんの仕事ぶりを『見る』とき、カンナは認識阻害魔法をかけてもらって、白い竜体をさらけ出します。
よくよく考えるとドラゴンになる必要は無い『見る』という行為を、なぜカンナは本当の自分で行ったのか。
『人間の体は偽りで、続けていると窮屈』というのは、面倒くさいトールの口を借りて第3話とか第7話とかで語られています。
カンナは小林さんのことが凄く好きで、だから運動会に来てほしくて、でも『行けない』という小林さんの事情も察せられる。(第4話で、欲しかったキーホルダーを諦めたように)

好きだからこそ湧き上がってくるモヤモヤを納得して、小林さんを困らせない『いい子』になるためには、人間の体は窮屈すぎたからドラゴンになるしかなかったのではないかと、僕は思いました。
『いい子』という檻に閉じ込めておくには、運動会へのカンナの思いは大きすぎるから、世界をぶち壊せる本来の自分に戻る必要があった。
それくらい、『運動会に来て欲しい』という気持ちも、『でも、小林に迷惑をかけたくない』という願いも、カンナにとっては本当のことだったのです。

異物としての自分を世界にさらけ出しつつ、世界を怯えさせないように魔法を使いつつ、ドラゴンのまま『会社の小林』を『見る』ことで、カンナは小さな体の中で矛盾を止揚したのでしょう。
その思いはしかし完全には殺しきれなくて、裾を掴む手の震えとなって表れる。
それを見逃さなかった小林が、『学校のカンナ』を見るために頑張って、カンナの決死の思いに答えてくれたのは、凄く嬉しかったです。
あの決断をすることで小林もまた、『他人にかかずらいたくない』という本音と、『カンナを悲しませたくない』という心を巧く混ぜ合わせて生まれた、新しい自分に出会うことが出来た。
カンナをただの『いい子』に押し込めなかったこと含めて、ありがたいコール&レスポンスでした。


カンナと小林さんの呼応が成立するためには、間を取り持つトールの活躍が欠かせません。
クッソ面倒くさい厄介ドラゴンとしての顔は先週散々見せたからか、今週のトールはカンナの隠していた気持ちを伝え、小林さんの事情を言い聞かせ、認識阻害魔法でカンナが自分の気持ちと、よく知らない『会社の小林』に向き合う手助けをしと、トス上げ要因として獅子奮迅でした。
第8話Aパートでは空回りしていた『お弁当作り』も見事にこなして、『みんなとの楽しい時間』を演出するフェティッシュを生み出していた辺りに、小さな成長の積み重ねを感じます。

トールは今回、徹底的にカンナのプライドを尊重しつつ、カンナが隠していたいと願った真実を小林さんに公開していきます。
カンナが「やー!」しか言わないのは、小林さんのこれまでの行いが(正しく)信頼感を生み出しているからでしょうが、同時に『両親に放って置かれたから、小林にはかまって欲しい。優しくして欲しい』という本音は、うまく言葉に出来ないからでしょう。
今回トールは、そういうカンナの小さなプライドを守り、彼女が自室に隠れてから、ひっそりと小林さんに真実を伝える。
矛盾がゴツゴツと衝突して、2つの本音が二人の中で巧く調和できていない状況を解決するためには、真実を認識することが絶対必要だからです。

先週トールが『ちゃんと愛してください』とダイレクトに言葉にして、巧く関係が修復されたのとはまた別のベクトルですが、そういう解決法もまたある。
そういう小さな優しさと敬意は、世界を驚かせないための認識阻害魔法とか、取り返しのつかない破壊を回復してくれる修復魔法とかと同じくらい、大切な魔法なんだと思います。
カンナは弱々しい子供だけれども、だからこそ小さいプライドを尊敬し守ってあげるために、細やかな配慮を色んな形で発露してあげるのは、凄く大事なことだと思います。
めんどくっさを引っ込めたトールがそういう優しさを持っているのは、より強く彼女と作品を好きになれるので、とてもいいと思いますね。
そういうトス上げを軒並み拾って、キッチリ得点していく小林さんのスーパーエース人間っぷりも頼もしいし。

こういう感じで特定キャラクター/特定の関係性にグーッと寄って、話全体の圧力を高めつつも、キレの良いコンパクトな出番でキャラを忘却から救っているのも上手いところですね。
今回で言うと食欲ちょろゴンなエルマですけど、第8話におけるルコアと翔太くんの淫夢芸とか、第5話における才川とカンナのぼへぼへ芸とか、場面を切り替え尺を調整しつつ、出番のないキャラを印象づけるうまい手だなぁと関心。
こういう細かいところで露出させることで、お話を散漫にさせずに横幅を出している感じでしょうか。


物語がBパートに移ると、『家』を中心に『会社』と『学校』、『小林さん』と『カンナ』が入り混じっていたお話は様相を変え、『家』と『学校』、『家族』と『学友』がクロスしていく構図になります。
今回の話は『みんなで頑張る』ことがとても重視されていて、カンナの『学校』での頑張りと小林さんの『会社』の頑張りが交互に重ねられていくAパートのあとにも、リレーやムカデ競争、二人三脚や組体操といった、協調性が大事な競技が展開されていきます。
それはカンナが『学校』という公の場に出ていくことを決め、それを小林さんが身銭を切って支援した結果手に入れた、横幅広く風通しの良い場所です。
ここら辺、『家』から基本出ず、人間も小林さん個人に強く執着しているトールと、面白い対照ですね。

劇伴とのシンクロが圧倒的な気持ちよさを生み出すリレーのシーンは、才川とカンナの濃厚な感情を切り取る、見事な見せ場です。
散々ネタでぼへぼへさせておいて、一番クリティカルな『ありがとう』は茶化さず真顔で受けさせる辺りキャラとお話に誠実な運び方だと思いますが、そこで名前が呼ばれるのは才川という『親しい他者』だけではない。
これまで物語の中であまり大きな仕事をしてこなかった『遠い他者』も、『飯田さん頑張って』『巻島、その調子』と名前を呼ばれ、応援される。

彼女たちはカンナが獲得した『家』以外の場所、『学校』を共有する大事な存在であり、彼女が独自の意志と世界を持って社会と関わり、彼女なりに小さな喜びと誇りを積み上げてきた証明なわけです。
尺を割り振られ、オモロイネタっぷりで僕らを楽しませてくれた才川以外にも、カンナには描かれていないけど広い世界があって、色んな関係性を持っていて、『みんな』の中でこそ手に入る喜びを感じ取っている。
学友と一喜一憂する『運動会』を見ることは、小林さんやトールがそういう、身近にいたのに知らなかったカンナの真実を共有するチャンスにもなっているわけです。
そしてその発見が(カンナが小林さんの職場を見たように、小林さんがカンナの震えを見逃さなかったように)自分の中の真実を開く扉になって、また新しい喜びに繋がっていくのではないか。
今回の『みんな』の描き方には、そういう期待と信頼を掻き立てられる豊かさがあった気がします。

『みんな』でいることの喜び、外に向かって開けていく風通しの良さは、必ずしも狭く閉じた場所の安心感を打ち消しません。
むしろ『家』がしっかりと保護してくれるからこそ、カンナは喜び勇んで『学校』に飛び出していき、小林さんは『会社』に出ていくことが出来ているということを、今回のエピソードとこの作品はしっかり捉えている。
その『家』もまた、それぞれ個別のドラゴンを内部と外部に飼っている、孤立した個人がよりあつまい、努力して維持されるものなのだということもまた、同じようにちゃんと描かれています。
集団と個人には様々な色彩と表情があって、そのどれもに価値と意味合いがあり、しかも相互に影響しあい、支え合っている。
各話ごとにキャラクターや切り取るアングルは違いますが、そういう多様な世界の全体像をしっかり把握しつつ、個別の差異や輝きを大事に描き続けてくれている筆の確かさは、本当に好きですね。


『家』『会社』『学校』、そして『個人』。
色んな領域が重なり合いつつ、心のなかにすら矛盾する様々なファクターを抱え込みながら、身を寄せ合い行きていける場所のきらめき。
幾度も『身を寄せ合う雀』をカット・インさせて、そういう視点を象徴的に練り込みながら進んでいくお話でした。(第6話のリフレインっぽかったな)
みんなが仲良く出来る夢のような世界を大事にしつつ、あくまで個人として存在するためのプライドを否定せず、むしろ孤独を尊重しながら進んでいく冷静さがあるのは、作品からうまい具合に過剰な甘さを抜いていると思います。

沢山の愛があって、それ故に迷って衝突して、霧の先にあるものを見据えながらまた、愛にたどり着いていく。
そうして進んできた時間も気づけば冬、神の嬰児誕生を祝福する聖日がやってきます。
そういう秩序オーラ漂うイベントは素直に祝福できなさそうなのが二人ほどいますが、ドラゴンと人間はどういうクリスマスを過ごすのか。
来週も楽しみです。