イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

リトルウィッチアカデミア:第23話『Yesterday』感想

雪はなんのために降るのか。
取り戻せない過去を濯ぐためか、現実の冷たさを子供に教えるためか、はたまたいっぱいの思いやりを際だたせるためか。
クライマックスに向けて大激走、タメ回のはずなのに既にエンジン全開大回転、リトルウィッチアカデミア第23話であります。

今回はシャイニーシャリオの薄暗い真実が更に公開され、泣いてるアッコを守るために走り回る子供たちと、クロワを倒し過去を精算しようとするアーシュラ先生が対比されていました。
軸足はやはりアッコを思う仲間の努力、特にもう一人のアッコとも言えるダイアナの奮戦にあるわけですが、彼女たちの現在が雪の中で光を放つほどに、アーシュラ先生の薄暗く孤独な過去、そこから一歩も踏み出せないでいる後ろ向きな現在が、より鮮明になってきます。
ダイアナ-アッコという軸を深く掘り下げることで、彼女二人の夢だったシャイニーシャリオ、その成れの果てとしてのアーシュラ先生との関係と差異が目立ってくるのは、非常に面白い構造です。


前回大きな傷を受けたアッコを、皆が心配し探し回ります。
スーシィとロッテが、かつては『いけ好かない優等生』だったダイアナに真っ先に頼り、実際ダイアナの優秀さが全てを切り裂いて正解を引っ張り上げていくのは、なかなか面白い変化でした。
それはこれまでの冒険の中で生まれた変化だし、アッコが第19話で見せた、キャベンディッシュ家に乗り込むほどの強い想いに感化されたからでもあるでしょう。
『いつもの問題児チーム』にダイアナが溶け込んでいる姿は、僕がずっと見たかった絵でもあるわけで、最後の茶化し合いとかマジ最の高でした。

さておき、今回一番目立っていたのは、文句なしにダイアナでしょう。
アーシュラ先生と向かい合うことで彼女の問題点を照らし、アッコを実際に見つけ、立ち直らせるために自分の秘めた心を露わにする。
場外ホームラン級の活躍をボッコンボッコン打ち込んでくれて、ファンとしては『ありがとう……それしか言えねぇ……』って感じですが、他の仲間達が軽んじられていたわけではありません。
友を思って泣くロッテ、普段の皮肉屋をすっかり収めて慰めるスーシィ、雪の中を飛び回る少女たち。
どの描写も切れ味とぬくもりがあり、アッコがルーナノヴァで手に入れた一番の宝物を、とても大切に見せてくれました。

スーシィが『今年のベストフィルム』の橋を探し回っているところとか、アマンダが『いなくなったら許さねぇからな』とこだわっていたりとか、過去エピソードの引用も簡勁で的確でした。
自分がアッコと運命的に出会い、魂に刻みつけたあの場所に、もしかしたらアッコはいてくれるかもしれない。
そんな思いがスーシィにあるからこそ、スーシィの『場所』はあの橋になります。
アッコが見失ってしまっていた冒険の仲間、シャイニィロッドをちゃんと持ってきて、復活なったアッコに無言で届けてくれるスーシィは、やっぱ優しい子だなと思います。

『つまんねぇし、退学にでもなるわ!』と口にしていたアマンダが、アッコを探す中で一番気にしているのは『いなくなること』です。
居場所と目標を見つけられず、男の世界に一緒に迷い込んで大事なものを見つけてくれた親友が、いなくなるかもしれない恐怖。
第17話から6話を経て、あのときのアッコと同じ気持ちに、アマンダもなったのでしょう。


そういう大事な部分を抑えつつ、やっぱゴールを量産したのはダイアナ。
第20話でアッコが『自分の中のダイアナ』に気づいて距離を縮めたように、シャリオが好きな自分、『子供』でしかない自分を素直に晒し、共感を作り上げていきます。
それはアッコの絶望を受け止める強い足場であると同時に、『大人でなければならない』と自分を律してきたダイアナが、『子供である自分』を肯定するための語りでもあります。

ここら辺、みんなのあこがれのスーパースターとして見上げられつつ、ただの弱い『子供』である自分を共有できなかったシャリオと、残酷な対比だと思います。
自分の限界を素直に見定められたら、あるいは『子供』でしかないシャリオを共有してくれる仲間がいたなら、月にストレスをぶっ放し、クラウ・ソラスに見捨てられて救世主の資格を失うこともなかったろうに……。
一番近くにいるクロワが、『救世主でいろ! お前は子供じゃない! 私に勝ったんだから弱さなんか見せるな!!』って言ってくるのが、マジ地獄。

さておき、自分の中の異質な自分を認めることで、より自分らしく前向きな自分に変わっていける。
それは顔も姿も違う他者だったり、今まで知らなかった自分自身だったり、時間を経て置いてきてしまった過去の自分だったりします。
冒険と触れ合いを繰り返す中で、アッコたちはそれぞれに自分の中に『様々な自分』を育てててきたし、それと出会うことが大きな変化を生み出すというのは、これまで何度も描かれたことです。
第6話では『ポラリスの泉』という水鏡を見つめることで、あるいは第2話や第13話で劣等生の意外な活躍に目を奪われることで、あるいは第12話でダイアナ自身に成り代わってみることで。
その時は自覚できなくても、アッコもダイアナも仲間たちも、お互い触れ合うことでお互いの中に『他者』を、あるいはそれに影響された『新しい自分』を、それぞれ作り上げてきました。

ダイアナがアッコに差し出すのは、時間軸的には『新しい自分』ではありません。
無邪気にシャリオを好きだった昔の自分、何にも縛られずに全力で夢に飛び込んでいけた過去の自分です。
しかしそれは、ダイアナの口から語り直され、アッコに共有されるうちに時間を飛び越え、『未来』の物語を造るための大事な言の葉に変わっていきます。
ダイアナの中に、アッコに似たただの子供がいて、しかも未だ生きているということ。
『さすがダイアナ』という言葉で距離を作り、自虐の甘い夢に逃げ込もうとしたアッコが、真摯に『私に似ているあなた』『あなたに似ている私』の物語を語るダイアナに支えられ、瞳に光を取り戻すこと。
雪の寒さから保護された魔法店内で、優等生と劣等生は学園内での立場も、時間も飛び越え、鏡合わせの自分を見つめていきます。

私の中にあなたがいて、あなたの中に私がいる。
この鏡像関係はともすれば、お互いのアイデンティティを相手に委ねてしまう危険な共依存になってしまいますが、作中最強の人格強度を誇るダイアナは、そういうことは許してくれません。
似ていたとしても、あなたはあなた、私は私。
それぞれ違う国に生まれ、違う歴史を背負い、違う能力と夢を持って、違う物語を歩いている。
そのことは悲しいことではなく、むしろ豊かで喜ばしいからこそ、私はあなたの物語を、あなたの魔法を信じる。
アッコを復活させたダイアナの語り……再構築された『いかにしてダイアナ・キャベンディッシュはシャリオに憧れることをやめ、それに影響されつつルーナノヴァの優等生となったのか」という物語は、そういうメッセージをアッコに託して閉じられます。
ほんと、さすがダイアナって感じやな。


このクレバーさはアッコにも手早く感染していて、アッコは第21話のように真心を見間違えヒドいことを言うのではなく、ダイアナの事情を手早く察し、彼女もまたシャリオによって奪われた同志であると感づきます。
話の都合というのもあるんでしょうが、それよりはむしろ、失敗の痛みがアッコに賢明さを与えていた、と思いたいです。
アンドリューが19話で上げたトスが、話数をまたいでこの瞬間最大に生きてるのが、彼のファンとしては嬉しい。

ダイアナはアーシュラ先生を問い詰める時、自分もまた魔力を奪われたことを伝えず、糾弾しません。
仲間たちに事情を伝えるときにも、アーシュラ先生がシャリオだったことは教えません。
拗れてしまった関係を適切にほぐしていく……『癒やし』ていくためには毒になる情報と、キャベンディッシュ家当主らしく判断した、のもあるんでしょうが、単純に賢くて優しいからでもあるのでしょう。

シャリオに憧れていたダイアナにとって、真実は凄く辛いものだったと思います。
でもそこで、自分の痛みで足を止めてしまうのではなく、シャリオが秘めてる事情、隠している痛みを慮れるのは、とても優秀で優しい。
自分の気持ちを素直に叩きつけると、凄く良くない傷が発生するというのは、アッコがワガンディアに挑んだときによく見せてくれました。
自力でそういう場所にたどり着けてしまう超優等生っぷりが、頼もしいと同時に少し寂しくもあるから、僕は彼女から目が離せないのかもしれませんが。

今回アッコはダイアナと向かい合い、彼女の過去の物語を共有しました。
それは傷ついた自分を支えてくれる新しい仲間を、自分の心の中に手に入れただけではなく、そんなダイアナの良さや強さを、自分のものとして学び取るチャンスを手に入れた、ということでもあります。
スーシィが頭のなかに沢山の自分と、友との思い出をたっぷり詰め込んでいたように。
アンドリューがアッコとの冒険の中で、魔女と政治への見識を深めていったように。
優しい交流の中で他者の物語を自分のものとし、新しい自分を胸の中に育んでいけることは、人間が持つ大きな希望です。

アッコは散々迷って、間違って、傷つき傷つけられながら、自分の物語を沢山の人に共有してもらいました。
仲間たちの胸に沢山のアッコが、アッコと出会って変わった自分がいたからこそ、今回彼女は雪の中から救い出され、『立派な魔女になる!』という最初の夢、『あなただけの魔法』に立ち返ることが出来たのでしょう。
魔法屋のオッサンが軒先を貸してくれたのも、雪の中走り回った女の子たちに温もりを差し出してくれるのも、アッコの冒険がただ周囲を振り回すだけのものではなかったからです。
旅はけして、無駄ではなかったのです。

今回アッコが復活する物語はやっぱり、アッコが成し遂げてきたものの精髄であり、次のより大きな物語への一歩ともなるのでしょう。
ダイアナが語る物語が、聴く『大人になることを強要されたアッコ』だけではなく、語る『子供であることをやめようとしたダイアナ』も癒やしていたように、原因と結果は常にお互いの尻尾を噛んで、複雑に重なり合っています。
そこに人の心を語る物語の面白さがあるし、仮想のキャラクターが実際の人生を生きていると心から錯覚できる、物語の体温があるのだと思います。

そしてそれは、厳しい真実の冷たさにアッコを晒したからこそ感じられる。
物語の上げ下げを絶妙に調整し、ストレスを使いこなしてカタルシスを生む劇作の技芸が、非常に生きたエピソードだったと思います。
物語全体を見ると『主役が前向きになった』だけで、反撃それ自体はまだまだこれからなんだけども、それが生み出す実りがどれだけ大きいかを幅広く描くことで、凄く大きなうねりが生まれている。
キャラクターの多さ、積み上げたエピソード、巧妙な構成、切り取られた多彩なテーマ。
これまでの物語を最大限に活かし、これからの物語をスウィングさせる原動力を目覚めさせる、まさに神回でした。


このアニメは『今まさに夢を追いかけ、挫折と成功の間にいる子供』の物語であると同時に、『かつて夢に裏切られ、夢を裏切って失敗した大人』の物語でもあります。
アッコとダイアナはシャリオに憧れて自分の物語を先に進めてきたし、そこにはアーシュラ先生の(特にアッコへの)強い関与があります。
夢破れて、色んな人を傷つけて、終わったように見えても物語は続いている。
輝くシャリオではなく、冴えないアーシュラ先生に変わった後も、アッコを支え守った先生の物語は、僕らが見て喜べるだけの輝きがあった……と思うんですが、先生本人はそう思ってない。
だから、保護者としてアッコを見つけ励ますよりも、自分の過去、終わった物語を終わらせるためにクロワを殺す方に意識が行ってしまう。

『ノットオーフェ・オーデンフレトール』……『目指せ理想の場所へ』という皮肉な言葉とともに、シャリオは我欲のためにクラウ・ソラスの力を解放し、月に十字の傷を刻みました。
10代の女の子が受け取るにはあまりにもシビア過ぎる、エンターテインメントの残酷な欲望に苛まれ、『みんなを笑顔にしたい』という初期衝動を歪めてしまった結果、杖は腐り落ちて二度と戻っては来なかった。
月に刻まれたのは、夜毎アーシュラ先生を苛む罪の十字架であり、『自分の物語は終わったんだ。こうしてしょぼくれた暮らしを続けるのは贖罪なんだ』と思うのも、無理はないでしょう。


しかしまぁ、諦めたふりして全く諦めていないからこそ、アッコに杖と言の葉を託し、自分がなしえなかった奇跡を願ったわけで。
アーシュラ先生(というか人というもの)は常に人生という物語の主人公であり、どんなに打ちのめされても、絶望しても、臨んだ形とは違っていても、納得の行く結末に関わっていたいという欲求は、消えてはくれない。
アーシュラ先生は自分の物語の結末を、『暴力でクロエを止める、倒す、殺す』と定め、『アッコを守り、笑顔を取り戻す』というお伽噺に自分から背中を向けました。

このお話において、直接的な暴力が問題解決に寄与した試しはなく、活劇は常に自分の資質を証明し、本当の望みを露わにするための魂の砥石でした。
アーシュラ先生が歩くべき物語は、『過去』に終わってしまった物語のバイオレンスな続きではなく、流された結果としても『今』アッコを見守ってきた、冴えない教師としての物語なのでしょう。
家訓である『癒やし』を何より大事にするダイアナが、『何故アッコを助けないのか』と指弾し、『過去』のシャリオではなく『現在』のアーシュラ先生に失望したと伝えるのは、アーシュラ先生のみすぼらしい、でも大切な物語の尊さを、先生自身が見失ってしまっているからでしょう。

そういう真っ直ぐな思いは、若さの特権なのかもしれません。
むしろ幼少期から抱いてきたかけがえのない思いを、自分の足で踏みにじってしまったからこそ、アーシュラ先生は本来語るべき物語に戻れない。
そういう捻くれた道が間違っていることを心の何処かで知りつつ、それでも一番大切なものに素直になれない。
アンドリューが嘲笑わなかった『素晴らしい理想主義』にどうやっても立ち返れないことが、『大人』の証明証なのかもしれません。

それでもやっぱり、『みんなに笑顔を』と願ったシャリオの物語にも、アッコに寄り添った教師アーシュラの物語にも、『素晴らしい理想主義』の輝きはちゃんとあったと思います。
クロワとシャリオの美しい友情、劣等生が諦めずにすんだ親友の支えは、今あまりにも拗れ、暴力を秘めて対峙することになってしまった。
それでもやっぱり、それが確かにあったからこそ、アーシュラ先生はアッコとの『今』よりもクロワとの『過去』を選んだのでしょう。
そこに在るのが憎悪や嫉妬だけではないと思い出し、歩くべき物語を再発見できるか否か。
アーシュラ先生は今、非常に難しい際に立っています。


今回の過去回想で目立っていたのは、やはり孤独でした。
観客はシャリオの苦労を理解しないまま、より過激なエンタテインメントを要求してくる。
一般人であるマネージャーは魔法の原理を理解しないまま、ステージの結果だけを急かしてくる。
異端児として魔法界からは疎まれ、クロワ以外に友はなく、そのクロワとも複雑怪奇な感情の拗れを挟んで、素直には向かい合えない。
アッコ不在のま仲間が駆け回る『現在』の物語と対比されることで、シャリオを追い込んでいった孤独はより強調されていました。

アッコが仲間と再び出会う中で、シャリオは一人、クロワと対峙します。
それは『大人』の責任を果たす潔い姿……には、当然見えません。
感情と歴史を共有できないまま、過去の物語と向かい合えないままに追い込まれていった少女が、孤独なまま物語を終えようとしている自暴自棄。
それが導く結論は、このままではとても寂しいものになるでしょう。

でも、アッコとダイアナにとってシャリオとの出会いが悲しいものだけではなかったように、仮の姿のはずのアーシュラ先生の物語は、何かを育んでいる。
シャリオにとっての恥と失敗を、自分たちの憧れに変えて物語を歩き始めた女の子たちは、『大人』の力を借りないままお互いを見つけ、支え合い、『自分だけの魔法』にたどり着きつつあります。
彼女たちの姿こそが、シャリオが背負った十字架を下ろし、その歩みが『否定するべき物語』ではなかったと証明する、大きな鍵になるのではないか。
どうしてもアーシュラ先生贔屓になってしまう自分としては、そういう未来を期待してしまいます。

寒くて暗い孤独な冬の灯、新しい物語に歩き出すべきなのは、アッコだけではない。
アーシュラ先生もまた、自分の人生の物語全てを、『過去』と『現在』と『未来』を肯定し、歩きなおすべき少女だと、『今』を必死に生きる子供たちの光が照らしていたように思います。
マージこのままだと超ろくでもない結果になるので、リトルウィッチたちには頑張って欲しい。
拗らせきった三十路女の人生を取り戻すのは、グラントリスケルよりも難しく、価値のある奇跡だと思います。


そして地獄めいて感情を拗らせ、運命を待ち受けるクロワ先生。
前回明らかにされたフューエルスピリッツの真実を補足する感じで、過去が語られていました。
シャリオをハメて感情魔術を使わせる手管からは、学生時代から『嘘』の使い方が上手かったことが感じられ、なんともどーしよーもねぇな!! って感じです。
自分への『嘘』も巧すぎるから、状況ここまで拗れてるからなぁ……アッコがバカで良かった……。

魔法界全体の復活を望みつつ、そのためには将来魔女になるかもしれない同朋を犠牲にしてもしょうがないと考えること。
エンタテインメントを『子供っぽい遊び』と断じ、シャリオの個人主義的な意思を一切認めないこと。
クロワ先生の捻れた姿勢は、やっぱりダイアナの公平で高潔な生き様と影絵だと、今回の描写を見ていて思いました。

世界全てを変えうるほどの大きな魔法は、杖に選ばれたシャリオとアッコにとっては副産物であり、二人にとって大事なのはあくまで『自分の願い』です。
杖に選ばれなかったクロワとダイアナは、魔女界全体という大きなものへの意識が強いのに、そこにアクセスする鍵であるクラウ・ソラスには選ばれない。
『『みんなのため』という間接的な欲望では、世界を変えうるほどの偉業にはたどり着けない。むしろエゴイズムを貫き公益性にまで到達することでしか、世界は変化しない』というメッセージが、ここら辺の無情な選別にはあるのかもしれません。

どちらにせよ、目的のためには手段を選ばない、偉業のために犠牲はつきものと考える傲慢は、ダイアナの高徳なるストイシズムとは正反対です。
クロワはもはや、世界に英雄だと認められるために偉業を求めているのであって、偉業を達成した結果として英雄になるという因果を見失ってしまっている。
目的を達成するために選んだマキャベリズムに価値観を侵略され、本末転倒のどん詰まりに行き着いてしまっているのは、なかなか皮肉な『大人』描写ですね。

クロワ先生が目的のために弄んでいるフーリガン騒動が、自分の過去と思いに向き合えないクロワ自身の戯画になっているのも、最高に頭が良くて性格が悪い。
クロワ先生は一般人には解らない魔法を使い、怒りや恐怖を増幅して力を絞り出しているけども、それはシャリオへのコンプレックスに支配され、他人を踏みにじっているクロワ自身と全く同じです。
道具として使いこなしているはずの現象が、実は自分の本質を強く繁栄している形ですね。
この不要な戦いが収まるときには、クロワ先生とシャリオ、クロワ先生の中のシャリオ、捻れてしまったクロワ先生自身の思いも、拳を収める場所を見つけられるんでしょうか。

そんなクロワ先生も、『大切な魔法を消したくない』という想いそれ自体は失っておらず、だからこそ
思い出を裏切ってでも目的だけは完遂するという捻れに縛り付けられてもいます。
あれだけ選ばれなかったことに固執するのも、負けけて削られたエゴの充足ってだけじゃなく、『自分なら世界を救える。救いたい。救わなきゃ』って思い(強迫観念?)の現れだろうし。
かつてはシャリオのエンタメ魔法を世界で唯一信じてくれた彼女が、『ショーなんて下らないことじゃなく、世界全部を救う善行のために杖使えよ!』って言ってくるのが、凄く悲しかったなぁ。


女ジョブスめいた改革者の外装をまといつつ、その実一番最悪の形で古典的保守主義だってのも、いろんな対照や皮肉、捻れを作品に取り込んできた、このアニメらしい表現です。
ショーと世界救済だけじゃなくて、魔女と一般人の間にも明確な線を引いて、差別し搾取しているところがヤバイなぁと思う。
そのくせ外装的には改革者なんだよな……技術という自分のジャンルで、かつて異端児だったシャリオを再演している所とか、ほんと拗らせすぎ。

でもクロワの差別主義・閉鎖主義は魔女界全体のトーンであり、教師や生徒も多かれ少なかれ共有している部分なんで、クロワを是正するならここら辺の空気も直さんといかんのよね。
第5話とか第19話とかで、古い形に拘りすぎる魔女、それが生み出す軋轢と軋みはちゃんと描いているので、クロワと世界改変を巡る戦いが終わったときには、そこが少し変わるのかなぁ、と思う。
すぐさま変わらないんだろうけども、変えなきゃ魔法は生き残れないってのも、たっぷり描写されてきたことなので、今後の展開が楽しみです。

とまれ、直近の問題は青春拗らせた魔女二人の対峙。
露骨に『刺し違えてもクロワを止める……ッ!』オーラ出してたアーシュラ先生ですが、それでは言の葉を自分のために暴走させ、月に十字架を刻んだ過去から一歩も出ていません。
クロワももう一度シャリオと向かい合えて大満足でしょうが、怒りを煽って相手を引っ張り込むのは、正しくもなければクロワ本来の望みでもないでしょう。
間違いだらけの『大人』の選択肢ですが、分かっちゃいるけどやめられないのが、賢くてとんでもなく大馬鹿な『大人』の活き方なのでしょう。
愛憎をネトネト煮込んだ挙句、情念限界心中とかさー、誰も幸せになんねぇからマジ止めようぜ。


あまりにも複雑に絡み合った、感情の結び目。
これを切り開くのは、クラウ・ソラスに選ばれた当代救世主であり、愚かしいがゆえに正解を選べる我らがアッコ。
シャリオを悲しい決戦に後押しした贖罪への意識を受け止められるのは、彼女の被害者であり、彼女への憧れに導かれ歩んできたアッコ(とダイアナ)だけだろうしなぁ。

太陽に憧れ、その光に傷つけられなお、再び飛び上がったアッコ。
その翼を癒やしてくれた仲間は、他ならぬアッコ自身の冒険が生み出した、世界最高の宝です。
その後押しを受けて、業まみれの馬鹿な大人が自力では解けない鎖を、可能性の刃で断ち切って欲しい。

そう思えるところまで主人公と物語が調子を上げてきたのは、本当に素晴らしいと思います。
♪泣いて笑って食べて寝ても クヨクヨしちゃいそうな時でも 側にいてくれてありがとう また明日ね♪
おもわず第1ED"星を辿れば"の一節を口ずさみたくなるような、永遠のベストフィルムでした。
マジおもしれぇ、このアニメ。