イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ヴァイオレット・エヴァーガーデン:第12話『』感想

戦場の暗闇が再び世界を覆い、物語の輪郭は燃え落ち果てる。
行き場のないテロルと銀腕が対峙する、ヴァイオレット・エヴァーガーデン第12話です。
寒い国で再起動した戦場のコードは話数を超えて痕を引き、すれ違うばかりと思われた死霊たちは爆発する炎を手に持って、戦後の平穏を叩き壊しに来る。
少女が己の生を肯定しても、思い出の闇を振り払っても、世界を焼く炎は未だ、兵士たちの心にくすぶり続ける。。
ヴァイオレットとディートフリート、『戦場』から離れてなお『戦場』にあり続ける二人の兵士が、それぞれの勤めを果たすエピソードとなりました。


というわけで、ヴァイオレット・エヴァーガーデンの物語も大詰め、まさかの先週引き継ぎ、『何も終わっちゃいない! 言葉だけじゃ、何も終わらねぇんだ!』という、『たった一人の戦争』なお話です。
ここまでヴァイオレット個人、あるいはそんなヴァイオレットを見つめる別の個人の主観的視点で進んできた物語が、一旦垂直方向に上昇し、幅広い視座を見せるエピソード、といえます
一個人の人生や想いを超えて展開する『戦場』と『戦争』の衝突を、俯瞰的視点で捉える今回の物語を反映するように、『横』ではなく『上』からの視座、飛行機と鳥の目線が多用されているのは、なかなか面白いところです。

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f:id:Lastbreath:20180330175601j:plain <文字通りの鳥瞰。客観的視座。終わりは近い>

<過去の描写より光に踏み出した構図が、ディートフリートの扱いの変化を見せている>

ここまでの物語で、ヴァイオレットは焼け焦げた自分の人生にある程度の答えを出し、実際の成果を生み出しても来ました。
ベネディクトが言うように、『あいつなりに必死にやってる』過程をこの物語は様々な国、様々な家式、様々な人々を反射材に描いてきて、僕らはそれを見てきた。
そのクローズアップの物語を、非常に美麗かつ重厚な作画と演出で叩きつけてきた物語は今回、ヴァイオレット個人、あるいは彼女に繋がりのある親しい人々から少しカメラを離して、別の生き方に捕らわれてしまった存在を映します。
和平反対派の兵士たち……『戦後』のコードに馴染むことが出来ず、それを破壊することで『戦場』のコードを再適用しようとする者たちです。

ホッジンズや同僚、顧客や学友の助けにより、また自分自身の努力により、ヴァイオレットの中の戦争は、ある程度制御可能なものとなりました。
無論生き死にの重さは簡単には割り切れるものではなく、先週見せたような無力感、サバイバーズ・ギルトを抱え込みながら、ヴァイオレットは生きています。
しかしそれでも、『戦場』で受けた火傷の痛みに立ち止まるのではなく、自分を置き去りにして変化してしまった『戦後』の中にある喜びを受け入れ、『良きドール』というロールモデルを背負うことで、少しでも実りのある生き方を果たそうとした。

これに対し、和平反対派の『兵士』は、自分の胸の中の焦げ付きを世界全体に拡大させ、エイダンを殺し、橋を落とし、『戦後』を『戦場』に逆戻りさせようとする。
国家による行動理念の肯定がもはやないため、『戦後』の世界から見れば『復古過激派テロリスト』なわけですが、彼らにしてみれば戦争は未だ終わっておらず、彼らこそが正当なる『兵士』なわけです。
『兵士』は自分を支えるアイデンティティとして『戦場』と大義を必要とし、しかし『戦後』に適応したクトリガル政府はもはや、主足りえない。

己の中の焦げ付きをどうしても始末できず、それを世界中に撒き散らし、自分も燃やし尽くそうとする、主なき狂犬。
『殺すのではなく、生きろ』という少佐最後の命令を律儀に守り、自分の頭で解釈して継続しているヴァイオレットとは、似たところから出発して、違うところにたどり着いてしまった戦友。
もしホッジンズが、ヴァイオレットを病院から連れ出してドールの仕事を与えなければ……心を燃やす火傷からのリハビリへ道を開いてくれなければ、そうなっていてもおかしくなかった、戦場の死霊。
今回ヴァイオレットが対峙するのは、スペンサーやエイダン、ディートフリートという『戦後』にある程度適応した軍人とはまた違う、過去の闇にとらわれてしまった自分の鏡像なのです。


今回と同じくタイトルがない第8話、自分を見つけ直した第9話で、ヴァイオレットを引き寄せ続けた、薄暗い闇。
ヴァイオレットはホッジンズの尽力、自分自身の営為、『手紙』の魔力で光=現在=『戦後』に帰還することが出来ましたが、今回対峙する和平反対派は、ずるずると闇=過去=『戦場』に引きずり込まれてしまいました。
『戦場』を努めて忘却することで輝く『戦後』に弾き出され、『世界のすべて』を敗戦とともに失ってしまった彼らは、和平交渉を破綻させ世界をひっくり返すことで、自己を充足させようとします。
そんな彼らは、ホッジンズが人形の胸の中に見た炎と同じものに焼かれ、別の対応を選んだ。

彼らの見ている世界は、己を焼く『戦場』の炎を反映して赤く、ずっと『戦後』を迎えていません。
花に満ちて麗しく、黄金色の美しい『戦後』が切り捨ててきたそれは、しかし確かにある。
何しろ主役であるヴァイオレットの胸に燃え続けてきたのだから、彼女の物語を見てきた僕らもまた、それをずっと見つめてきました。
しかし、『良きドール』の物語は過去に囚われるのではなく、死に膝を屈するの出なく、あくまで死を前提として輝く生を肯定し、現在を生き続ける物語として、ここまで続いてきた。
和平反対派は『戦場』の記憶が埋葬されようとしている時代の流れだけでなく、ここまで物語が横目で睨みつつ、主題には取り上げてこなかった薄暗い闇、燃え盛る炎を、もう一度表に出そうとしているわけです。

燃え盛る炎のオレンジは、敗戦の屈辱を刻み込んだ過去から復習を誓う現在、そこを離れて美しい世界と、それを燃やしつくそうとする蛮行へと、長く伸びていきます。
『戦後』の中心地として豊かに栄え、大陸銃弾鉄道を通じて寒い国にもその反映を分け与えようとする黄金のライデンにすらも、オレンジの炎はある。
適切に制御され、闇を追い払う光として使われてはいるけども、『戦場』の燃える炎はガス灯として、いつでも、あらゆる場所に存在しています。
『戦場』と『戦後』が(第4話でカザリの人々が認識していたように)離れて存在しているわけではなく、目立たなくなっただけで確かにそこにあること、時にはその炎が人を焼いている。
それは、第1話ラストでホッジンズがガス灯を前に(あるいは象徴に)、ヴァイオレットの『火傷』について語ったこと、それが巡り巡って非常に大きな傷として物語全体を駆動させていることからも、明らかでしょう。
外交交渉的にも、実際の軍事的状況としても、リハビリを必要とする兵士たちの現状としても、『戦場』は未だ燃えているし、燃え続けてきたわけです。

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<過去の炎、現在の炎。テロリストを焼き、胸の中から飛び出し世界に飛び火するもの>

 

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f:id:Lastbreath:20180330175925j:plain <世界は炎に満ちて、しかしその相は異なる>

<茜色の太陽、火付けの炎、制御された灯火。いかに在るべきかを問い、答える火焔>


和平反対派が焼き尽くされている、オレンジの炎。
それを最後に表に出すことは、ヴァイオレットを苛み、同時にここまでの物語で彼女が獲得した変化をも照らします。
ヴァイオレットはテロリストと同じをインテンスの戦場を経験し、勝者と敗者という違いはあれど、同じく傷ついた。
その証明は、銀の腕としてこれまで幾度も僕らの前にさらけ出され、あるいはなかなか『戦後』のコードを学習できない滑稽な不器用さとして描かれてきました。
ヴァイオレットはスペンサーのような敗残者、エイダンや少佐のような死者、あるいはホッジンズのようなリハビリを終えた戦病兵になることも、和平反対派のような過去に縛り付けられたテロリストになることも出来たわけです。

しかし、彼女は幸運と善意によって、そうはならなかった。
少佐の遺言があり、ホッジンズの庇護と導きがあり、『学校』での学びがあり、仕事を通じて出会った人たちがいた。
自分の失われた腕が武器を握るためではなく、人を繋ぐ『手紙』を書くことのために、無味乾燥で身も蓋もない『戦場』のコードではなく、ニヒリズムを克服するに足りる『物語』を生み出すためにあることを、時に傷ついたり傷つけたりしながら、一歩ずつ学んできたわけです。
その結果として、他人に与えられる命令ではなく、『もう誰も殺したくない』と己で望んで『戦場』に立つ変化がある。

そんなヴァイオレットは、言葉の代わりに銃弾を飛ばし、相手から『物語』を引き出すのではなく、乾燥した死を押し付けることで『物語』を奪う『戦場』のコードを、もう巧く扱えません。
敵ですら殺さず、自分を守ることも忘れ、自分が見つけた何らか意味がある生を、血走った目で殺しに来る『敵』にすら見出してしまう。
その過剰な物語主義は、列車の屋上に再現された『戦場』では余計な思い入れであり、彼女は傷つき、死にかける。
ヴァイオレットがかつて『戦場』で心を殺し、言葉を無くし、物語を喪失した適応は、花満る『戦後』への適応を阻害しましたが、同時に『戦場』でただ生き残るためには絶対必須の麻酔でもあったわけです。
それを失ってしまった現在、彼女は『戦場』の殺し殺されには、あまりに向いていない。
彼女は第9話の再生を分水嶺に、『生きる』側に足場を置き直し、もう『死ぬ/殺す』側には帰れないわけです。


そんな彼女にディートフリートが対置されるのは、意外でもあり納得もある、面白い配役でした。
ヴァイオレットが必死に抜け出した(抜け出そうとしている)『戦場』あるいは火傷から、軍に残ったディートフリートは離れられません。
弟を奪ったインテンスの戦いが終わり、生と復興に満ちた『戦後』が始まっても、『戦場』は未だに燃えていること。
それが『戦後』に飛び火しないためには、制御された火として誰かが軍に残り、『戦後』と隣合わせの『戦場』を制御しなければいけないこと。
ヴァイオレット(と、その『親』であるホッジンズ)が距離を置いてリハビリした一つの真実を背負って、ディートフリートは彼なりの『戦後』を生きてきました。

第5話ラスト、あるいは第8話冒頭では、過去の闇、弟への愛着と喪失に支配された亡霊として描かれたディートフリートは今回、ヴァイオレットとは違った形で、しかし意味と意志を持って『戦後』を生きる軍人だと、しっかり示されています。
弟を守りきれなかった壊れた兵器として、戦場に過剰適応した殺戮人形としてヴァイオレットを蔑みつつも、その実力を高く評価し、作戦に組み込む。
状況を必死に分析し、ヴァイオレットが背負えない『死』を銃弾にこめて戦う現役の『兵士』として、ホッジンズとは別の意味での『戦後』の闘いを継続している姿は、なかなかに新鮮で、かつ納得もできました。

ホッジンズが軍を離れ『会社』を作り、人間性の宿り木としてHC郵便社を維持したことと、未だ火種が残る『戦後』を守護するべく、ディートフリートが軍に残って闘い続けたことは、おそらく同じように意味があります。
弟を失った火傷に胸を焼かれつつも、ディートフリートは軍人として『戦場』に残り、彼なりの『戦後』を生きてきた。
今回危機的状況を一緒に戦う『戦友』としてディートフリートを描くことで、その生き方は肯定され、ヴァイオレット中心の描写では描ききれなかった『戦場』と『戦後』の関係性が見えてきます。
それは、彼に分かりやすい悪役ではなく、リハビリが必要な戦病兵の面影を見ていた自分にとっては、なかなか嬉しい描写でした。

ヴァイオレットはディートフリートと対峙するとき、背筋を伸ばし腕を後ろで組む『兵士』の姿勢を取り戻しています。
事実を事実のまま認識し、報告し、上官の命令を己の使命と変える『良き兵士』。
そこに帰還することで、ヴァイオレットとディートフリートは一瞬対立を忘れ、かつて少佐と結んだような関係性を再構築することが出来ます。
それはディートフリートが胸を焼く炎にだけ判断を預けるテロリストではなく、為すべきことを見据え必死に努力する『良き兵士』であること、それが『良きドール』に通じる側面を持つことを、巧く示しています。
なんかこー、あの二人がバチバチしつつも目の前の危機に協力して立ち向かう姿は、不思議と頼もしいんですよね。

兵士二人が飛び込む『戦場』のコードを、HC郵便社の二人は解読できません。
『会社』の一員として、ホッジンズと同じように軍籍を離れ『戦後』に適応したカトレアとベネディクトは、『戦場』と『戦後』を隔てる歪んで細い通路をくぐれず、コンパートメントに取り残される。
キツめのパースをかけた廊下を上から切り取ることで、『戦場』に赴く兵士と、『戦後』に取り残される民間人の断絶を強調する構図は、京アニ心理主義描写の極北と言っていいでしょう。

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<捻れた切断面/経路。濃い光と闇。『戦後』と『戦場』を繋ぐ歪み。画面が語る演出>

 

しかしHC郵便者という『家』を共有し、ヴァイオレットのリハビリを手伝ってきた二人は、完全に切り離されるわけではない。
屋根の上でヴァイオレットがスーパードールアクションするからこそ、二人と大使はテロリズムの炎から守られるし、そこで戦い続けることが出来るのは、同僚たちがヴァイオレットに『戦後』の光を教え、『良きドール』としての生き方を支えてくれたおかげです。
離れつつ繋がっている『戦後』と『戦場』が、カトレアとベネディクト、ヴァイオレットに仮託され描写されていると感じました。


『もう、誰も死なせたくない』という『戦後』のコードに適応したヴァイオレットは、敵を無慈悲に撃ち抜くことも、列車から引きずり落として殺すことも出来ません。
対して現役の軍人として、『戦場』の無慈悲なコードを的確に運用できるディートフリートは、ヴァイオレットが受け取らなかった拳銃(弟と同型なのが因縁を感じさせます)を握り、殺すことで守ろうとする。
『良きドール』としての生き方が生み出すものを切り取ってきたカメラは今回、それが無力になる瞬間を激しい暴力で描くわけですが、ディートフリートが銃弾を持ち込むことで、ヴァイオレットの無力は救助される。

それはヴァイオレットが『良きドール』であろうとあがいてきたこれまでの物語と同じように、ディートフリートもまた『良き軍人』であろうと努めてきた証明なのではないかと、思うわけです。
そして過去の炎に焼かれつつ、それでも『戦後』を『戦場』の炎で焼かないため、己の身を防壁として立てる『良き兵士』の姿は、自分の胸を焼く炎を世界に拡大し、『戦場』を蘇生させようとするテロリスト……『悪しき兵士』の醜さを強調もします。
戦うこと、戦わないこと。
ディートフリートとヴァイオレットが、『戦場』から離れられない亡者を照らす二つの光源となることで、この物語が最後に残した『戦争と平和』は複層的、立体的に描かれる気がします。


ドールと軍人、テロリスト。
それぞれの有り様で胸を焼く炎、『戦後』と『戦場』に向かい合う人々は、真っ暗なトンネルに飛び込んでいきます。
それは第7話ラストから第9話にかけて長く伸び、またエイダンを殺した第11話にも顔を見せた、『物語』なき『戦場』のリアリズムです。
『戦後』に適応して生き延びる人々が、無意識に、また意識して遠ざけていた過去の闇、死の黒に、ドールも軍人もテロリストも包み込まれている。
それは否定しても追いついてきて、個人と世界を激しく炙り、死と停滞の縁へ引っ張る。

冥い死の国の中で、ヴァイオレットは必死にリハビリして手に入れた、『殺さないで進む』という生き方にしがみつく。
ディートフリートは『殺すことで進む』というスタイルを手放さず、テロリストたちは『殺して戻る』という方法を選びます。
それは第9話でヴァイオレットが戦った、光と闇の綱引き……過去と現在どちらに進んでいくかという闘いを、別のアクターを導入して再演している、とも言えます。
列車が目指す先が、ヴァイオレットと少佐、テロリストと戦争を決定的に焼き尽くしたインテンス大聖堂なのは、なんとも因果なことです。

第9話でヴァイオレットは、闇に引きずられつつ光に進んでいくこと、今時分が成し遂げた新しい生き方を肯定し、『生』の岸に身を置くことにしました。
それはむき出しの『死』が唸りを上げる闇の中では、とても無力な『物語』です。
しかし周囲を包む闇に抗わず、変化した環境に適応する努力を放棄してしまえば、胸に宿る炎の死骸を復活させ、それに沢山の人を巻き込むことで自己を充足させようとする、テロリストと同じになってしまう。
『良き軍人』たるディートフリートは、テロリストが囚われた『戦場』の闇を切り裂く銃弾となって、彼らを殺す。
それぞれが選んだ道、闇と光の綱引きは、ヴァイオレットの内面を飛び出して具体化し、長いトンネルの中で再度争われます。
それは眼の前の命を巡る決死の戦いであると同時に、ニヒリズムと『物語』、逆行と前進という大きな価値を背負った、抽象的な闘いでもあるのです。


面白いのは、そのトンネルは過去だけでなく、未来に繋がっている、ということです。
第11話で描かれた、寒々しく貧しいクトリガル。
それは『戦後』の豊かさを宿したライデンやカザリと、大陸縦断鉄道を介して繋がります。
ここまでの物語で世界を埋め尽くしていた花と光が、内戦という『戦場』を残したあの場所に宿るかも知れない。
トンネルは過去にとらわれず未来に前進していくための活力を、寒い国に届ける動脈なのです。

テロリストが直接的な襲撃だけでなく、路線へのサボタージュ、鉄橋の破壊を企むのは、破壊工作を完遂たらしめる軍事行動であると同時に、そういう『戦後』の価値を認めない態度表明でもあります。
郵便屋と共に、人の足では到達不能な神の速度、鳥の視座で世界を見下ろしながら、ヴァイオレットは『戦後』を俯瞰する。
これまで自分の足で世界中を旅し、『戦後』を体感する主体として進んできた彼女が、ちょっと別の視座、別の価値を獲得するシーンとして、面白い表現でした。
第4話のように列車に乗って水平の旅をしていたら、テロリストが破壊しようとしているものの意味は、ちょっと分かり難くなっていたんじゃないかなぁ。
同時に第4話(あるいは他のすべての旅)で描かれたように、主体として世界を体験し、その瑞々しさで自分と他者を変えていく経験があってこそ、俯瞰的な視座を手に入れられたわけですが。

先週限りの出番かと思っていた郵便屋が、ヴァイオレットを『戦場』に送り届け、『殺さず守る』生き方の証明の助けをするのは、彼が気に入った視聴者としては嬉しい展開でした。
寒々しい死地に一人佇むヴァイオレットを、哀しみと慈しみをたたえた瞳で見守っていた男は、空の上でもやっぱりヴァイオレットを気にかけていて、『降りる』ことを提案します。
その問いかけがあることで、ヴァイオレットがかつてのように流されて『戦場』にいるわけでも、痛みと記憶にとらわれて『戦場』と同化するわけでもなく、『良きドール』としての意志で『戦場』に対峙する流れが、巧く確認されていました。
降りれるのに降りない、無視してもいいのに無視しない。
やっぱそういうキャラクターの決意を、ちゃんと確認して盛り込むのは大事よね。

郵便屋が見据える、大陸が一つに繋がり、『戦後』の繁栄が南から北へともたらされる未来。
橋を落とし、トンネルの闇に囚われたテロリストたちは、それをせき止めようとしています。
己の旨を焼く炎をグレネードに載せ、行き場のない『死』を世界に撒き散らそうと引き金を引く彼らに、ヴァイオレットは銀の腕を持って対峙し、『死』を拒絶する。
それは彼女が美しい世界を旅し、思いのこもった『手紙』を代筆する中で手に入れた、彼女だけの闘い方です。

それは『戦場』の乾いたリアリズムの前に無力かも知れないし、ディートフリートの命を守れたように、力のこもったものかも知れない。
『戦場』の終わりから始まり、傷を癒やしながら道を見つけてきた物語は、再び『戦場』に帰還し、傷を増やしながら終わろうとしています。
人の命を多数奪った腕=Arms=武器に別れを告げた殺戮人形は、『良きドール』としての生き方を貫けるか。
その戦いが『戦場』と『戦後』の終わらないダンスに、どんな答えを見せるか。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンは、最後にどんな手紙をかくのか。
来週最終回、とても楽しみです。

※この記事に引用された全ての画像の著作権は、『暁佳奈・京都アニメーションヴァイオレット・エヴァーガーデン製作委員会』が保持しています

 

追記 ガンマニア大興奮のドマイナー銃器登場に、思わず追記