どろろ を見る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
"これを御覧じ見給ふに 頭は猿体は狸尾は蛇 手足は虎の姿にて 鳴く声鵺にぞ似たりける `恐ろしなどもおろかなり(平家物語第四巻"鵺"より)"
怯懦。兇猛。蛮勇。仁愛。百億の顔を持つ、尊さと醜さのパッチワーク。もう一つの鵺。
その名は人間。菩薩にも悪鬼にもなりうる、無辜の怪物
そんな感じのラブコメ終わり! 惨劇始め! などろろ第20話。峠4つ超えたツンデレ村の明るい気配が、やっぱり白昼夢に過ぎなかったように赤く、赤く無惨なお話となった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
鵺。原作の最後を飾った怪物は物言わず、人間の様々な表情を反射していく。そこに映るのは刃か、慈悲か。
同一のテーマやモチーフを反復しつつ、そこに個別の差異を持ち込むことで立体感を生んでいく劇作は、このアニメの特徴である。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
キャラクターとキャラクター、エピソードとエピソード、あるいはエピソードの連続の中でのキャラクターの変化。万華鏡のように描写が呼応し、奥行きが生まれる。
今回のゲストである三郎太は、自身言うように『どろろになりたくて、なり残った男』である。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
しらぬいにどこか、百鬼丸の気配があったように、彼もまた"家族"に情を残し、それが切り刻まれた結果として人の気配から外れる。
『人でなし』と、百鬼丸に呪いを残した時、三郎太は安心したように思う。
鵺。暴力と恐怖のキマイラを前に、三郎太は怯懦に支配され、刃で母を切った。守るべきものを蔑して、戦うべきから逃げた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
人のもろく弱い部分に支配された彼は、そんな自分を『仕方なかった』と正当化する。それこそが"人間"なのだと。
それでも、綺麗なものに憧れた。強くなりたかった。
勇気、不屈。百鬼丸が怪物と闘いうるのは、その視界が人とは異なるからか。盲で何も見えていないから、怪物に突撃できるドンキホーテなのか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
その答えは、まだ見えない。物語がクライマックスに差し掛かるこれから、見えてくるのだろう。
だが、鵺に取り込まれた三郎太には、百鬼丸は人に見えない。
怪物だから、怪物と戦えるんだ。自分の中の弱さに取り込まれず、世界の多相な表情を見据えず、"人間らしく"生きなくてすむんだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
そんな納得に包まれながら、怪物として斬り殺された時。
三郎太はそこに、自分の顔の反射を見たのだと思う。人であることと、生き延びることを同居できない怪物の顔を。
三郎太が見たものが今際の幻影なのか、心眼で見据えた実像なのかは、因果に引かれ醍醐に進む百鬼丸、その闘いを見据えないと解らない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
だがその歪んだ視界は、確かに真実の一つを捉えているように思う。三郎太自身の顛末が、乱世に生きる人の形を、これまでの描写を反復しつつ、鮮明に見せるように。
万代に支配権を預けた村。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
似蛭に支配された田之助。
女郎蜘蛛に情を通じさせた弥次郎。
白面不動の傀儡となったおかか。
村のため怪物と手を組んだ鯖目。
己を兄弟に食わせ怪物に変えたしらぬい。
皆、怪物に己を照らしつつ、人の様々な可能性を見せてきた。
言葉の通じぬ、あるいは言葉を弄じ、もしくは言葉で通じ合う怪物たち。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
それと脆く弱い人が織りなす、様々な物語。悲劇があり、喜劇があり、惨劇があり、少しの希望があった。
20話積み重ねたそのパッチワークこそが、どろろ最大の”鵺”ナノではないか、と思う。
それは個別に分断し、『これが本質だ!』と切り出したところで一面的なものだ。鵺を撫でで、胴体が狸だから狸、顔が猿だから猿、というようなものだ。複雑怪奇な多相こそが、人の在り方だとすれば。個別に見ても、鵺の正体はわからない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
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しかし百鬼丸は、刃で鵺を分解し、身体を取り戻そうとあがく。それは人間探求へのフィジカルな歩みであり、(先週示された)刃の可能性から遠ざかる行為でもある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
切り裂き、分解し、一つ一つに切り分ける。それを繰り返しても、繋がりを立たれた生命体は連続性を保持し得ない。命を持ちえない。
それでも、腕が腕として機能しない百鬼丸は、刃で何かを切り裂くしか先に進めない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
どろろと出会い、一度別れてその意味を思い知った百鬼丸は、それ以外の道を強く求めている。それでも、刃は石をどけてくれない。琵琶丸の境涯には、まだたどり着けない
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どろろの自由を奪い、死に近づける石と腕。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
三郎太がそうしたように、自分の(あるいはどろろの)生存のために腕を切り捨てる選択肢も、百鬼丸にはあった。
しかし百鬼丸は、どろろの手を斬らない。縁を切り、不自由な自分に大事なものを近づける行為を拒む
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百鬼丸が斬らなかったものを、三郎太は切ってしまった。悪役は主役にはなり得なかった。それは取り返しのつかない過去で、胸に刻まれた三本刃からは人間にとっていちばん大事なものが、もろもろと溢れ出る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
赤。赤い血。紅葉の色合い。
刃はいかに扱われるべきか? 赤を絞るためにあるのか?
琵琶丸は刃の使い方を知っている。暴力に向き合い、悪行をせき止め、折れるとしても誰かを助けるための杖に使う。鞘にしっかり収め、抜くべき"機"を待つ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
百鬼丸も最初の…人と人との闘いでは、鞘(=義肢≒腕)を自分で扱い、どろろも身近で守っている
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崖下に落ち(物理的な落下がそのまま、人倫の堕落を強要される状況の変化に繋がっている)、どろろを守る厳しい試練に晒された時、百鬼丸は己の無力を嘆く。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
血を流すほどに頭を打ち付け、刃と一体化した腕を呪う。
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触れれば傷つけることしか出来ない、呪われた出生の証明。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
『お前みたいになりたかった』と、末期の呪いをかけた三郎太は、手のひらを貫かれることで一瞬、百鬼丸と似た姿になる。
だがそれは一瞬の幻、鵺に食われ鵺と同質化した男を、赤にまみれながら百鬼丸は切り裂く。刃の本文を遂げる。
むき出しの刃が他人から、そして自分自身を切り裂いて赤を絞ることしか出来ないのならば、それを鞘に収め、人の世になじませることもまた知恵である。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
これまでどろろが担って、今回もそこに帰還する"鞘持ち"の仕事。しかし百鬼丸は今回、己を収めようと懸命だ。
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たとえ無力にヒビが入ろうとも、人間らしさの真似事を完遂し、どろろを死から救うには力不足だったとしても。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
樹海が与えてくれた人の形は、百鬼丸の優しさで刃をくるむ仕事を、ちゃんと果たしてくれている。その尊さを再開から学んだからこそ、百鬼丸はどうにか"鞘"を使いこなしたかった。
収めるべき時に収め、抜くべき時に抜く。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
口で言うにはあまりに容易く、行うにはあまりに難しい刃の扱い。
三郎太は決定的に、それを間違えた。武功で成り上がる(イタチとの共鳴)ための刃は、母を切り、鵺の恐怖を前に鈍った。
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仇討のために農具を手に、恐怖に立ち向かった男達。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
彼らは恐怖と死に負けたが、少なくとも立ち上がった時(そして三郎太に声をかけた時)、"鵺"ではない人の顔をしていたと思う。
刃を正しく奮って、世の理と人の思いを正しい場所に収める。そんなチャンスは、鬼神の圧倒的な暴力に踏みつけられる。
百鬼丸もまた、無力な赤子の時から理不尽に踏みつけられ、奪われた存在だ。鬼を切り、人を求める旅路の中で、刃は時に人を切った。刃で切るべき鬼になりかけた。"鵺"と同質化しかけた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
ミオを奪われた後の修羅界と同じように、今回もどろろの抱擁が、百鬼丸を人に戻す。元の鞘に収める。
本当に戻ったかどうかは、これから醍醐に広がるだろう赤の行く末を見据えなければ解らない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
烈火の如き、赤い怒り。"人間"を取り戻せば、刃の腕を捨て去れば、守るべきを守れるのにという"赤っ恥"。
再び無言に戻った百鬼丸には、"赤"が巣食う
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どろろは嘘の奥を見抜く。赤心をさらけ出し『俺もお前と同じ、人間だよ』という嘘で接近してくる三郎太に、直感的な疑念を持つ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
百鬼丸は疑わない。鬼神だけを見据え、純朴に戦う。
秋赤音を中心に据えた構図で、人と傀儡は分割される。
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しかし見せつけた傷は確かに本当でもあって、人間としての三郎太はその傷…自分の刃で母の手を切った時に死んでしまっている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
鵺に同化するのは、鬼神という非人格的な暴力こそが世界唯一の真実だと思い込み、その奉仕者になることで怪物としての再生を得た彼にとって、必然だったと言える。
怪物に同質化し、乱世に適合して生き延びる人の姿は、様々に描かれた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
白面不動とおかかが一番わかり易いが、例えばばんもん周辺で渦を巻いた惨劇と謀略、打算と略奪を思えば、別に鬼神に具現しなくと,乱世は人を怪物に変える。『しょうがない』と同質化させていく。
そんな場所でも出会いはあり、傷から全てが漏れ出ない人もいる。ミオとの出会いと死別を経てなお、百鬼丸は怪物にはならなかった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
冒頭、紅葉の赤は秋の実り…百鬼丸がたどり着いた人間性の豊かさを反射して、溌剌と輝いている。
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苦しい時にも、食事を分け与える。餓鬼道に落ちず、人であり続ける。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
その尊さは、例えばミオと孤児たち、どろろとおっかちゃんを繋ぐ"粥"からも見えるだろう。
百鬼丸もまた、その意味を自分に刻み、あけびをどろろに分け与える優しさを、刃ではない腕で手渡しできるようになった。
その温もりは、水底の無力感、鵺との死闘を包む薄暗い"赤"で塗りつぶされてしまうけども、しかし無意味ではない。ないと強く思いたい。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
冒頭どろろが涙した、兄貴の成長。それは百鬼丸の旅路を見守ってきた僕らもまた、同じように感じ入るものだったと思うから。それが無駄だとは思いたくないのだ。
憎悪を込めて向かった醍醐の国は、蝗害に飢えていた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
この世の地獄、乱世の無惨が吹き出したのは、百鬼丸が人であろうとするからか、業と因果の果てか。
坊主が問うような抽象ではなく、為政者は目の前の地獄に向き合う。赤の他人に、迷わず施す。誓う。
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ツンデレ村の豊かな実りを見ていると、アソコほんと乱世ルールの例外地なんだなと思わされるが、多宝丸はそこから逃げない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
自分の目で民の苦しみに降りて、自分の手で糧を与える。血の通った身内を斬り殺し、救うべき民を背負う。OPで悪人顔してる人の行いじゃないんだよ!https://t.co/8OJV09nhNu
兄弟道も立場も違えど、糧を他人に分け与える慈悲はけして消えず、しかし己の中の修羅を飼いならすことも出来ず、因果に導かれ赤く染まろうとしている。なんでこんなことに…。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
琵琶丸の盲た瞳、収めた仏道はその哀しみを静かに見据え、最後まで見通そうと歩みを進めている。
三郎太という鑑、鵺という鏡に照らすことで、百鬼丸が旅路で手に入れたもの、まだ手に入れられないものが鮮明になるお話でした。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
それは運命の起点たる醍醐の地、醍醐の血に向き直ることでしか、手に入らない。
本当にそうなのか。鬼を殺し人間の身体を手に入れれば、地獄でも人らしく生きれるのか。
『お前は人でなしだ』という三郎太の呪いを、百鬼丸は跳ね返しうるのか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
刃の正しい扱いを、望まず背負わされた暴力の収め方を、百鬼丸は学び、貫くことが出来るのか。過酷な世界は、それを許してくれるのか。
クライマックスに向けて、作品全体を貫く問いをもう一度、赤く赤く描くエピソードでした。
やっぱ一応は文明社会に生きている恵まれている身としては、冒頭の美しい朱、そこで見せた優しさが人の本文だと思いたくなる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
しかし遠く離れ(ているようで、生臭いほどに近くにもある)た乱世のルールは、刃で何もかもバラバラに切り捨てるしか生き延びる道がない無情を、強く突きつける。
その狭間で、生きる刃たる百鬼丸はどう転がっていくのか。その先にある醍醐の血族は、何を人間の証明として選び取るのか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月28日
長い物語もそろそろ終わりが近づき、鵺の様々な貌が際立ってきました。
人の本質はどこにあるのか、人でなしの旅路で問う。
そういうアニメが、来週もあります。楽しみです。
追記 "さて かの変化の物をば空ろ舟に入れて 流されけるとぞ聞えし”と平家物語にはあるが、このまえに頼政は見事な歌の業前を披露し"この頼政卿は弓矢取つても並びなき上 歌道も勝れたり `とぞ君も臣も 御感ありける"と称されている。己の感興を言葉に変え、人に伝える歌の技芸。それを百鬼丸が持ち得たら(あるいは、ミオの遺産として継承しえたら)"弓矢取る"以外の生き方もまた、見えてくる気はする。
百鬼丸は結構喋って、素朴ながらいい詩既に沢山言ってるんだけどな。
どろろ追記
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月29日
平家物語では鵺の死骸は空船に乗せられ、水に流される。(この後の始末が世阿弥作の"能鵺"になったりもする)
三郎太と融合した鬼神は塵には帰らず、赤く生臭い死骸となってこの世に残る。殺す因縁、殺される因果。それは簡単には水には流せず、浄土には付かない。
鵺との攻防が顕にした、百鬼丸の機能不全。刃の義肢では切ることしかできず、本当に大事なものを守る力は"人間"にしかないという意識。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月29日
それは三本爪の傷のように、百鬼丸とどろろを深く傷つけた。赤く残った憤怒と恥辱を抱いて、一行は醍醐に向かう。三毒を流す浄水は、一体どこにあるのか。