イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

『映画 ゆるキャン△』感想

映画ゆるキャン△を見てきたので、感想を書きます。
ネタバレにならない範囲で感想を言うと、とても良かったです。
TV版から大きく時計の針を進め、最早穏やかなモラトリアムにはいない元少女たちを描いた作品でありますが、その根底に流れる精神と関係性、世界を見つめる視線は一切揺るがず、むしろ強く強化されていく感じがありました。
元々作画が非常に良く、劇場版クオリティが常時流れ続けるアニメではあったのですが、ドハデなエモーションを情景に宿す……という方向とはまた違った、あえて抑えたクオリティの使い方、リアリティの作り方が”劇場版”への気合を感じさせもします。
挑戦的で特別な映画だけの物語で、アニメ・ゆるキャン△の何が変わり、何が変わっていないのか。
是非皆様の目で、しっかりと確かめ見届けてほしいと思わされる作品でした。
オススメです。

 

 

というわけで、ゆるキャン△の映画見てきました。
いやー……感想書くの難しいなコレっ!
作品としてのクオリティは非常に高く、時計の針を進め”原作がパッケージする範囲を大きく越えながらも、僕としては圧倒的に”ゆるキャン△”であると思える、好きになれる作品でした。
自分は原作未読、アニメで出会ってアニメの”ゆるキャン△”を好きになった視聴者なので、今回映画が挑んだ挑戦も許容範囲……てのはあるかもしれません。
永遠の日常が続いていく、時を止めたモラトリアム・ユートピアの物語が終わりを越えて、色んなモノが変わりつつも変わらぬ魂を抱いて、人生の泥の中をざぶざぶかき分け進んでいくような映画版の歩みを、個人的な嗜好として好ましく思う所も、高評価に影響しているかもしれない。

人によって作品に求めるものは大きく異なるわけで、今回の映画版はそのナイーブな領域にあえて踏み込み、挑み、僕の感じたところでは成功した作品だったと思います。
原典を大きく逸脱した挑戦自体が”ゆるキャン△”としては冒涜だ、と感じる人もいるだろうし、TV版(と原作)が描いていた緩やかで暖かな青春を越えてなお立つ野クルを描いてほしくなかった、という人もいると思います。
自分はそこに安住することを選ばず、TVで描かれたもの、原作で未だ描かれざるものの先にある”ゆるキャン△”に挑んで、時の流れの中で変わったり失われたり、新たに掴み取られたり、あるいは不滅なのだと思い出されたりしたものを、沢山眩く描いてくれたこの作品は、強く面白い映画だと思いました。
ただ時計の針を進めただけでなく、随所に大人になったが故の難しさと変化、時が過ぎゆく残酷と無力の影を、”ゆるキャン△”を壊さぬよう慎重に伸ばしていった手付きが、自分たちが生み出し、今正に編み上げていく物語への敬意を感じさせて、好きなのかもしれません。

 

と、自分の立場とトータルでの評価を先に書いたところで。
お話は湖に散る花火と、無邪気で優しくて儚い未来への約束を過去に置き去りにして、社会人として見知らぬ街(名古屋の日常が、精密なリアリティで切り取られてる所が大変いい)に日々を溶かしているところからスタートしていきます。
全体的な構造としては野クル思い出の花火(ハレ)→大人になった日常(ケ)→キャンプ場建造に勤しむ日々(再獲得されるハレ)→迫り来る現実(諦め混じりのケ)→変化を取り込んで再生していくキャンプ場(時の流れの中新たに獲得され、再生されるハレ)と、上がったり下がったりを適切に繰り返すこの映画。
リンちゃんが故郷の町と野クルを出て、辿り着いた生活は一見灰色で、しかしそう悪くもないモノとして描かれています。

僕はアニメ・ゆるキャン△はその作内現実の作り方、ファンタジーとリアリティのバランス感覚が、作品としての大きな強みだと思っています。
現実をトレースするフォトリアルな絵作りから半歩踏み込んで、『こうあって欲しい』と思える清潔で、平和で安全で、実在感があって、明るく楽しい世界を、凄まじいクオリティの美術と独自のテンポ、適度に挟まれる笑いで作り上げた筆は、自然を舞台にしなくても、そこが高校生活を越えた先にある社会人の日常でも元気です。
そこは当たり前にとても忙しくて、それなりにやりがいと苦労があって、何もかもが自由にはならないけど、全てを諦めるには面白いことが多すぎる、僕らの現実のちょっとだけ上に位置する、素朴な手触りのユートピアとして描かれ続ける。
名古屋や横浜や東京を描く筆が、このラインをけしてはみ出ることなく丁寧に焼き付いていたのが、かなりドラスティックに状況を変えつつも、『この映画こそが”ゆるキャン△”なのだ』と(僕に)感じられた、大きな要因だと思います。
そこでは新企画がボツになるし、先輩が自分を気遣って故郷のお菓子を手渡してもくれる。
1Kのアパートには等身大の生活臭と世知辛さが満ち、しかしチリ一つなく清潔で、趣味の良い調度が整っている。
こういう、主要人物を取り巻く世界と人物の配置がとても慎重で、新たな領域に挑みつつも自分たちが作ったものを壊さないよう、丁寧な愛を込めて彫り上げられていると、開始10分で分からされる所が、妙に安心できました。

 

今回の劇場版は年を取り背丈が伸びて、責任と収入が増えた”大人になった野クル”を描いています。
時は残酷に、永遠に続くように思えた学生時代をかっ飛ばし気味に終わらせて、少女たちはそれぞれ個別の職業を持ち、酒は飲める車は運転できるタクシーに10万突っ込める立場へと、自分を前に進めている。
そういう当たり前の変化が、”ゆるキャン△”にもあるのだ……という認識と描画は、出会いと交流の物語であり、若葉が萌える美しく閉じた楽園のようにも思える作風に、一見反している気がします。
物語のかなり早い段階から、野クルがなかなか会えなくなっていること、その活動が彼女たちの生活の中心ではなくなっていること、美しく永遠に思えたものがある意味色あせ綻んでいることを、フィルムは親切に僕らに教えてくる。
時の刻みは、野クルを例外にはしていないわけです。

その上で、時間なるものが持つ喜ばしき側面、辛く重たい表情……否応なく人間を飲み込み、しかしそれに支配されるだけではない強さと輝きを、この映画は色んな側面から追いかけていきます。
映画ゆるキャン△は、時間にまつわる物語なのかなぁ、と思うわけです。

時の流れは一定方向ではなく、輝く思い出をよみがえらせる方向に逆行したり、厳しい現実を突きつけられて足を止めたり、あるいは眩しい過去や暗い今を超えて未来に繋がっていったり、その手触りを変えながら描写されていきます。
リンちゃんが最初、大垣部長に手を引かれてたどり着いた廃墟で見つけた松ぼっくりはしゃべらない。
それが”コンニチワ”と語りかけてくれた季節は、名古屋で忙しい日々を過ごし、それに押し流されて友情が形だけになりかけていたリンちゃんには、既に遠いものになっていたわけです。
部長の相変わらず強引……に見えて、東京での華美な生活を堪能し、故郷に戻って郷土振興という新しい仕事に身を捧げることを自ら選んだ大垣千明の、酒に酔ったからこそブレーキを忘れた情熱によって、廃墟をキャンプ場として蘇らせていく計画が稼働していくことで、野クルのみんなは同じ場所に集い直し、もう一度青春が蘇ってくる。
お金も経験もなかった無邪気な時代と違い、仕事の段取りもそれなりに覚え、夢を形にするためにどう汗をかけばいいかを経験してきた少女たちは、かなりスマートに計画を進めていきます。
この、子供の夢と大人の力が入り混じった整備描写には、何かが確かに蘇り、新たに形になっていく喜ばしい手触りがあって、見ていてとても心が弾みます。
大人になった野クルが皆、学生時代の前向きで穏やかで明るい人格を失わないまま、非常にクレバーに仕事を進め、現実を夢の色で塗り替えていける頼もしさを手に入れているのが、不要なストレスを作中に呼び込まずにすみ、また立派な人物に育ってくれたありがたさを際立たせもします。
そういう喜ばしい日々だから、リンちゃんの松ぼっくりはもう一度喋る。
それが喋ってもいい、眩きファンタジーが現実の中に、もう一度蘇ってきているわけです。
(それが駆動するのは物語が動き出してからなので、OPはアニメシリーズで特徴的だった弾むようなモータウン調ではなく、やや大人びた整い方をしてるのかなぁ……などとも感じますね)

かつてTV版で訪れた、思い出のキャンプ場をリンちゃんが再訪したり、電動草刈機や重機といった新たなガジェットで作業効率がアップする様子も、灰色(にも思える)な日常を切り開いて何かを蘇らせる手応えを、グッと高めてくれます。
TV版で印象的だった、お金をコツコツためて新しいガジェットを持ち込み、その便利さ、頼もしさをキャンプの楽しさとして積み上げていく経験は、買おうと思えば大体のものが変える今の野クル達には、もうない。
しかし動員できる資産が増えた分、ドラスティックに状況を動かす力は高まっているわけで、一週間で重機を自在に操れるようになったなでしこさんの人間力と共に、新しい形で”モノ”との喜ばしい関係が獲得されていく。
こういう筆致は、リンちゃんが祖父から受け継いだバイクを丁寧にメンテナンスしながら、夢が生まれる現場への足として使いこなしていたり、打ち捨てられた廃墟を全て押し流すのではなく、そこにあったからこそ生まれた風情を活かす形で再生していく描写にも、元気に宿っています。
時が流れた以上、そのままの新鮮さでは描けない重要なポイントを、そのエッセンスを残しつつ新たな表現へと昇華させたのは、僕は凄いことだと感じました。

 

何もかも順調に思えたキャンプ場計画は、地面触れば必ずぶち当たる行政と文化の大問題……『スコップが遺跡にぶち当たる瞬間』で、グンと温度を下げていきます。
話の起伏を作る下げどころを、誰かの無能や我欲にして作品を濁らせるのではなく、『あーあー、そらしょうがねーな結構あるよ起こって欲しくないけどマジで!』という、絶妙なリアリティのあるアクシデントにしたのは、僕はうまい手だなと感じました。
大人になった野クルは、軽妙な軽口を絶やすことなく手を動かし続け頭を使い、部長が切り出した新しい夢、そこで新たにつながっていく自分たちの関係と、祝祭の中見えてくる自分自身にすごく真摯に、やれることを全部やっている。
そういう真面目な汗の書き方を裏切ることなく、一旦の下げ調子を盛り込み、また自分たちが何をすべきか考え直す機会として、土に眠った過去の遺物が出てくるのは、僕は凄く良いと思う。

ちくわが見つけた土器は夢を壊す爆弾ではなく、寂れていく地方に確かにあった、人が生きた証です。
後に新たな企画を通し、文化施設と共存する形でキャンプ場の夢を形にしていく二度目の祝祭で、野クルは遺跡関係者とキャンプ的な食事を囲み、土器や縄文文化のことを知ろうと歩み寄る。
夢の邪魔をするようにも見えてしまうものは、実は共に明るい未来を目指せる仲間なのであって、そこと縁を繋いで一緒に進むための努力を、過去から蘇ってきたものを自分の敵にしない道を、野クルは選ぶわけです。
これは周囲の人全てが話の通じる、人品の優れた人物だったからこそ生まれた奇跡なわけですが、野クル(特にそのリーダーたる大垣部長)が夢を諦めず敵を作らず、厳しい現実に屈しないまま世界を味方にするにはどうすればいいか、ちゃんと考えた結果でもあるでしょう。
そういう風に、より善い結果を自分に引き寄せるべく頑張ってる姿は、かつての黄金時代少女たちを繋いでた、とても大事なものだと思います。
そこが全く死んでいないことを、キャンプ場再生のために奮戦する中で確認し思い出していくことが、大人になってもなお新しい自分と出会っていく野クル達の人生の物語として、凄くいい感じの奥行きを生んでいる。
つーか大垣部長がマージで優れた人物に育っていて、役割振る時にてっぺんでも表に立つ広報でもなく、一番キツくて目立たない”裏方全部”を自分に任せてるの、サラッとコミカルな描写だが感じ入ってしまった。
あのお調子者がこんだけ堅実な”仕事”をするには、イベント会社で色々揉まれて、そこから抜け出して自分のやるべきミッションを見据えた泥臭い日々があったんじゃねぇかな……と、思わず想像させる喜ばしい変化なの、俺は凄く良いと思うのよ。

 

大垣部長以外にも成長はたくさん見えて、野クルメンバーはそれぞれ選んだ人生の中で、ままならないもの、時の流れが残酷に奪っていくものと、ちょっと夢が覚めた暗い画面の中で向き合っていく。
廃校の寂しさを『嘘やで~』と戯けて隠す時、犬子がいつものウソ顔してないのがホントしんどくて、親友のその強がりをケツでぶっ叩いて、一緒に雨に濡れて寂しさを半分こし、人生の荷物を笑って預かってやる大垣部長の人間力は、中盤の見せ場と言えます。
かつてグビ姉が泥酔しつつもその視線の端で見守ってきた、子供たちの幸せと少しの寂しさ。
そういうモンを見守る側に、教師になった犬子も、バリッバリに仕事しまくる大垣部長もたどり着いている。
そこに行ってしまうともう寂しくてもなかなか泣けないし、雨の中微笑むことの意味もわかっているわけですが、それでもまるで子供の頃のようにはしゃいでくれる戯けた友達のありがたさが、多分涙雨に暖かい。
あそこはお互い大人になったからこその強さと寂しさ、時の流れの残酷を知ればこそ人として共にあることの意味を解ってる描写で、めちゃくちゃ良かったです。

 

あとねー……この映画は半分ちくわの映画、犬映画だと思っとるわけですが。
未だ若い野クルにとって時の流れは成長と変化の母体であり、衰えや老い、その先にある死は描かれない(”ゆるキャン△”を壊さないためには描けない)。
ので、生老病死の宿命はほぼ全部、人間よりも早く老犬となったちくわの描画に、静かにずっしり突き刺さっていきます。
あんだけ若々しく飛び回っていた彼はおじいちゃんとなり、よったらよったらへーへー洗い息を付きながら、重たい体を引きずってなお、大好きな人間に逢えた喜びを全開に、力強く生きている。
その、可愛い二次元犬にデフォルメされつつも確かに宿る、老いと命のリアリティが滅茶苦茶”ゆるキャン△”のアニメらしい表現力で、作品の要でもあるな、と感じた。

可愛らしい表現に覆われつつも、ちくわがしっかりと生きてその歩みをそろそろ終えようとしている事実は、老犬特有のゆったりしたペース、落ちてくる注意力、利かない自由と時折蘇る活力を、精密にアニメートする筆の中で、凄く鮮明です。
俺はちくわの描写を見るたびに『もしかしたら……』という結末を想像してしまって、『もし”そう”なら、俺はこの後どんな物語が展開されたとしても、口汚く”映画 ゆるキャン△”を罵らねばならん……』と、戦々恐々とエンドロールを待っていました。
ちくわの老いの先にある死は確かに予感されつつも、まだまだ元気な姿で再生なったキャンプ場を駆け回る所でお話は未来に続いていくので、この映画は最高なわけですが。
『ゆっくりでいいよ~』と、微笑みながらちくわの歩みに寄り添う恵那は、この日々の先にあるものを責任ある飼い主として、ずっと共に会った家族として、当然理解して目を背けない。
時が否応なく連れてきて奪う衰えと死を、ちくわとの全てにしたくないから、恵那は若き小型犬があの頃のちくわのような勢いで老犬を追い抜いていく姿を見つめながら、その少し痩せてたるんだだろう皮膚を撫で、ちょっと喘鳴が交じるかもしれない呼吸を掌で感じて、皮膚の下で確かに揺れている血流の熱さを、細く小さく頼もしい骨の奥で脈打ってる心音を、自分の中に刻みつけようとしてるのだと、僕はあの散歩のシーンを見ました。

恵那は微笑んであんま自分を主張しない、穏やかで楽しい人なわけですが、そんな彼女らしい穏やかな散歩の情景には、作中最も色濃く老いと死……時の流れの暗い側面が宿っていて、なおかつそれに屈せず恨まない、避け得ようのない宿命を自分たちの敵ではなく味方にしていく静かな決意が、力強くみなぎっているように思えた。
それを見せる、描くためにかなり時間を使って、丁寧に余韻を残して老犬と飼い主の描写を入れてくれたことが、この映画の評価を自分の中で決定ずける、すごく大事な瞬間でした。
ちくわはその小さな体で、色々変わっていって大変なこともあるけど、それでも成長しより善くなっていけるという優しき幻想を維持するべく主役には背負えない大荷物を、全部背負ってくれた。
そうやってひと足早く、時の流れに身を任せていくちくわへの感謝と愛おしさを、恵那はけして忘れてないし、忘れないために、負けないために、時を恨まないために、微笑みながら『ゆっくりでいいよ~』と言ったのだと、僕は勝手に思っています。
それは凄く、靭やかで優しい情景だなと思ったんです。
そういう形で老いと死に、やがて来る離別とこれまでの愛しき日々に、全身で向き合える人物に、斉藤恵那という人間は成長したのだということ……そういう時の流れが、野クル全員に確かに流れていたのだと確認するためには、一旦夢のようなキャンプ場再生の現場から離れ、黄金期の酩酊ではなく現実の切なさと愛しさに向き合う時間が、必要だったのだと思います。

 

んで、こういう歩みは日本で一番高い露天風呂に、女二人で挑むようになったなでしことリンちゃんにも、しっかり宿っている。
というかそれを確かめるべく、相変わらず妹とその友達が大好きな桜さんの助けを受けて、今や”熟練者”と”キャンプに不慣れな存在”が入れ替わった二人は、忙しい日々に疲れた身体にじんわりと染みる温泉を、一緒に味わう必要がある。
なでしこと野クルに”キャンプ”を教えたリンちゃんが、職業として野外活動を選ばず、なでしこがそれを生業にしているのもまた、流れていく時が生み出した一つの変化でしょう。
妙に気合が入ったデザインの、あの時の自分たちのような可愛いビギナーを優しく導く立場に、なでしこは自分の人生の手綱を堂々握ってたどり着いた。
キャンプよりツーリングに貴重な時間を使うようになってるリンちゃんと、今のなでしこどっちが偉いとか、そういう話ではなく。
時の流れはそういう場所へと、かつて女の子だった存在を連れてきている、という話です。

なでしこの”仕事”も優れた通奏低音として、作品の中で豊かに響いているわけですが。
彼女は顧客が最高のキャンプ体験をすることを最重要視し、リーズナブルな他社の商品を勧め、客を逃してしまう。
そうやってキャンプの裾野を拡げ、目先の銭金よりより豊かな体験を掴み取ることを肯定してくれる上司と職場に、今身をおいているわけです。
そうやって入り口を作り、間口を拡げ、より楽しいキャンプ体験を教える側になったなでしこは、中止の方に凹むリンちゃんを雪深い山渓へと、その先にある最高の体験へと導き、自分もそこで安らいでいく。
お風呂の中で、キャンプ場再生計画がどんなものなのか、キャンプという楽しみに出会う人の入口になることの意味を語らう二人は、”ゆるキャン△”という作品が現実においてどんな事を成し遂げ、どんな価値を持ち得たかを、同時に総評もしています。
いろんな人達をにわかキャンパーに仕立て、その楽しさとアニメどおりにはいかない苦労、でもたしかにそこにある喜びを伝え得た、自分たちという現象の意味と価値。
これを問うには、”ゆるキャン△”が作られ見られ受け入れられ、画面を越えて人を体験に向かって連れ出していく余波をしっかり見据える時間が、どうしても必要だったと思います。
逆に言うとアニメを作ってTV放送から時間が過ぎ、実在のキャンプ場やメーカー、地方自治体などとコラボしながらその影響力を確かめ得たからこそ、『キャンプって、思ってるより楽しいものかもな……』と色んな人に思わせた作品の意味を、この映画版で語りうるのだとも思います。
そういう意味でも、流れていく時は無常なだけでなく、積み重なればこそ意義深いものを生み出してもくれる。

ゆるキャン△”といえばうまそうな飯ですけども、今回キャンプ場で食べるスペシャルな食事だけでなく、仕事の合間にかっ食らう食事も結構顔を出してたのが、強く印象的でした。
忙しさ(時の欠乏)に背を押され、バックヤードで流し込むメシはんじゃあ、キャンプ飯というハレの食事より劣ったものなのか。
年経て身体も無理が効かなくなり、だからこそ命の糧としてしみじみ、食事と酒のありがたさが解るようになった体験と同じように、ケの中で活力を繋ぐために摂る食事にもまた、個別の尊さがある。
味わいや食べる場所、食べる相手は変わったとしても、”食”というのは活力を紡ぎ人を繋げる大事で、楽しくて、美味しい体験として、変わらぬ価値を持っている。
そういうメッセージが、色んな場所で色んなものを食う描写にしっかり宿っていたのも、この映画のいいところだなぁ、と感じました。

TVシリーズとはまた違った、年とったからこその染み方で”お風呂”って体験が書かれてるのも、映画版っぽくてよかったですね。
俺、犬子が顔出して全身が描かれた時、胸がデカくなってるの見て『おっ』って思ったんですよね。
無論助平心もあるけど、すこしふくよかに頼もしさを増して、豊かに積み重なった肉付きで色んな重荷を背負える存在になった犬山あおいの存在感が、あの胸にはあったと思います。
おんなじように、野外で裸になるのをゲゲッとは思いつつ、最高の露天風呂の誘惑には勝てずズケズケ脱いで、堂々裸身を晒すリンちゃんとなでしこに、日々を生き抜いてきたからこその逞しさを感じた。
あんま肉感的にも、エロティックなアピールを込めても描かれない”ゆるキャン△”の裸身ですが、無色透明に脱臭するでもなく、今そこに在る二人の身体をそのまま率直に、大いなく見せてクライマックスに突き進んでいくのは、俺は凄く良いなぁ、と思ったのです。

そこでTVシリーズや原作含めた総論だけでなく、この映画版で時を勧めた意味、そこから見える景色も語られているのが、作品への視力だなと感じました。
大人になっても何でも出来るわけじゃなく、責任が増えて無力を噛みしめること、至らない自分を鑑みる時間は続いていく。
でも確かに、あのときとは違っていること、出来るようになったことも沢山ある。
そんな風に流れていく時間の中でも、野クル的な繋がりと生き方、キャンプをする喜びと意味は確かにあるのだと、キャンプ場再生計画に走り回り、夢が崩れかけてそれでも諦められない自分を知って、感じることが出来た。
リンちゃんの独白は、『そう思わせるために、俺たちはこの映画を作った』という、かなりストレートな告白でもあると思います。
それが上から押し付けるメタメッセージで終わらず、仕事に夢に走り回って、先輩のフォローに気づかない自分に凹んで、それでも譲れない願いを見つけたリンちゃん個人の、血の通った言葉として作中生きているのが、とてもいいですよね。

 

露天風呂での総論感は、大垣部長と野クルの夢を会議に乗せる手作りプレゼンテーションにも宿ってて、キャンプという日常を離れた祝祭的体験にどんな意味があるのか、自分たちが生み出してきたキャンプ場(そこに象徴化されている”ゆるキャン△”というもの)の存在意義を、恵那がうまく言葉にしてくれています。
そこで特別な体験に身を浸せばこそ、忙しさに飲み込まれて見えないもの、時の流れに摩耗して見えなくなっているものを、取り戻し向き合うことが出来る。
そうして新たに蘇った自分を抱えて、より善い日常に向き合い、真っすぐに進むことが出来る。
そういう事を、俺達の作ってきたアニメは扱ってきたし、成し遂げたし、いま時計の針を進めちょっと別の角度から、学生時代はあんま差し込まなかった現実の薄暗さも込みで描いたんだ。
あのプレゼンは、そういう作者達の意思表明にも感じたわけです。

こういう風に、背丈が伸びたからこそ見えてくる新しい景色と、人生の薄暗い重たさを取り込んだのは、無論”劇場版”でしか描けない物語を追い求める劇作上の必要性もあると思うし、”ゆるキャン△”を疫病と戦争が長く影を伸ばす現実に確かにコネクトした物語として、新たに突き刺し直す意味合いが、ちったぁあるのかな、と僕は感じました。
否応なくソロキャンしなきゃなんねー時勢を経験したり、キャンプどころじゃねぇ重苦しさに包囲されたりしながらも、楽しいことはそこに在る(べきで、はずで、そこに向かって物語は伸びていく)もので、過去は消え去るのではなく今正に、新しい形で蘇っていくのだと。
唐突に発掘された新しい存在を、敵として排除するのでも自分の世界から拒絶するのでもなく、より豊かな形で共にある方法を探せるのだと。
そういう結構デカくて普遍的なことを、忙しさにバラバラになりかけてた野クルが、大人になったからこそ使える新しい強さと一緒に、明るく楽しく流れるときと向き合いつつ、新しくて懐かしい夢を掴み取っていくこの映画は、語ろうとしているのではないか。
そういうデカさって、やっぱ”劇場版”だから描けるんじゃねぇかなとも思ったわけです。

そういうものを堂々語りきって、無事新しい形で夢のキャンプ場は形を得て、野クルは大事な家族とそこで笑い合い、あるいは新しい人々との喜ばしいふれあいが生まれていく。
これもまたいつか思い出になって、過ぎゆく時の中新しい難しさとか、気づけば離れていく縁とかに振り回されつつも、その先々に待ってる変化を受け止め受け入れながら、野クルの物語は続いていくのでしょう。
そういう終わりの先にある風景、終わったとしても終わらない、生き生きと変化していく無限のなかに”ゆるキャン△”を進み出させる事が出来たのは、俺は凄く意義深い挑戦だと感じました。
こういう事に挑み、しっかりと描ききって届け得たことには、強い意味があるのだと。
TV版のモラトリアムな匂いを感じる永遠の祝祭は、確かに形を変えてちょっと所帯じみてはいるけど、しかしだからこその確かな手触り、不思議な親近感を込めて野クルと出会い直せた喜びが、しっかりと息づく映画だと思います。

この先にどんな”アニメ・ゆるキャン△”が続いていくのか、あるいはここが一つの区切りとなるかは、僕には予測のつかない所です。
こんだけ自作を総論し、その影響と存在意義を語り通してしまうと、ある種終わり切る覚悟、終わらせる意思というものを感じもするが、それも僕個人の感覚に過ぎません。
しかしどんな道を進んでいくにしても、野クルの面々が流れ行く人生の起伏に振り回されつつも笑って明るく乗り越え、変わっていく自分たちと世界を楽しく寿ぎながら、”キャンプ”をしていくことは間違いないでしょう。
バイクにしろ廃墟にしろ縄文土器にしろジンジャーくんにしろ、あるいは廃れつつある山梨という場所にしても、時の作用に否応なく崩れかける様々なモノを丁寧にリペアし、変化に応じて活用していく知恵と意思の大事さを、しっかりと描いてくれたこの映画は、運命が何かを傷つけるとしても、それが永遠の分断には通じていないという甘っちょろい、眩く綺麗な真実を、静かに見据えてもいます。
そういうことが描ける場所へ、野クルの皆を送り出し、それぞれの今と未来、そのなかで生き続けるあの輝かしき日々を描ききったこの映画は、とても優れた”ゆるキャン△”だと思います。

 

面白かったです、ありがとう。