ゴア色絵の具のリリカル満艦飾、チェンソーマン第3話はパワーちゃんとデンジの青春よろめき旅である。
スーパーアニメーター、田中宏紀がコンテ演出原画と大暴れし、繊細な髪の毛の表現、重力を感じる歩き、実在感のある芝居……作画パワーは相変わらず全開だ!
同時にアニメ特有のしっとりした味わいも随所に感じられ、乳揉みてぇだの猫助けてぇだの、ちっぽけで切実な妄念に踊らされる魔人達の人生が、パワフルに描かれた。
画面全体の情報量や物語全体のBPM、風景やモブの質感などが、漫画からアニメにメディアが移って大きく変わっているので、やっぱかなり印象が異なる”アニメ化”だなぁ……って思うね。
俺は結構このしっとり重た目な質感、好きだな。
というわけで、前回に引き続き目のアップが印象的なアニメである。
内眼角まできっちりリアルに美麗に……ある種グロテスクに書き込む筆先に個性が出ているが、魔人も含め人の目にはそれぞれの意思や個性が宿り、目は口ほどに物を言う。
こういう人間性表出機関(マキマの場合は、半分以上”非人間性”だけど)としての眼球にクローズアップするほどに、オードブルが詰まった餌場としてしか学校を見てない蝙蝠の悪魔の目は、その異様さを際立たせる。
こんな眼で世界を見てるやつと、マトモに暮らせるわけねぇだろ。
優しき復讐鬼であるアキくんの意見はもっともであり、しかしデンジくんはポチタとの思い出が心臓となって自分を生かしている以上、悪魔が本当に隣り合うことが出来ない怪物なのか、常時問い続ける必要がある。
貧血になるし血みどろベトベトで最悪極まるが、デンジくんが悪魔であること、なおかつ人間でもあることは事実で、ここにケリを付けなければ自分が何者であるか、答えを出すことは出来ない。
それは”自分探し”なんて富者の贅沢ではなく、もっと血みどろで欲塗れの、切実で生臭い青春の旅路である。
作品世界が大変ロクでもないので、その過程は暴力にまみれ浅はかで、静かな切なさに満ちている。
マキマの圧にマジビビりしつつ、これ以上の失態は避けたい四課の犬二匹。
デンジくんは『ジュースを飲める』という人生最大の幸福をたっぷり味わいつつ、パワーちゃんとの距離を詰めるつもりは(この段階では)無い。
バリッバリにキマったレイアウト、細やかな仕草と表情、色んな質感の光がハイクオリティに踊っていて、それに酔っ払って溺れそうな危うさもかすかに香るが、この質感は美麗に細やかに、魔人と悪魔混じりの似通った部分、異なった部分を照らしていく。
僕はデンジくんが何かとオッパイを揉みたがるのを、彼が借金のカタにキンタマ取られる最悪の環境でなんとか生き延び、『まともな男というものは、どうやら女に欲情するものらしい』ってことを実感込めて受け止めれるほどに成長できた証として、結構ガッチリ受け止めている。
ご飯をくれて抱きしめてくれたマキマへの慕情を、生まれた時から欠けていた母性への渇望とまとめてしまうのも、ちゃんとチンポコがおっ立つ歳になってるデンジくんの衝動に失礼な感じがするし、読者が望むものを差し出すサービスへの切符として”とりあえず”で置かれているにしては、そこに宿る体温は高いと思っている。
同時に他人や異性(の形をしたもの)への優しさがない……というか、優しさの使い方を学習するチャンスが極端に少なかったのも事実で、パワーちゃんのオッパイに向けられる視線はその身体をモノ化する。
かつてクソヤクザ共が、あるいは現在進行系でマキマとその上層部が自分に対して取っていた、使い捨ての態度。
そっから離れたマトモな人道はデンジくんには縁遠く、『許せねぇよなクソ悪魔!』と吠えるのはオッパイ揉むための嘘……だけじゃないことは、後半じんわり見えてくる。
上層部の釘刺しに返事しないマキマも、パワーちゃんを言外に脅し支配する『怖い女』以上の、どこかズレた価値観をそのグルグル眼に宿らせて、謎めいた仕草で立ち続けている。
この底の見えなさはデンジくんが初恋として必死に追いかけ、その表層を欲望で撫でさすりつつも奥底の真実にはたどり着けない歩みの、どす黒い呼び水にもなっている。
よく分かんないものだからこそ、追いかけたくもなるのだ。
そんな女が意味深に、窓枠が作る十字架の影に対峙している様子は第2話以来共通して切り取られていて、第1話で描かれたピエタの似姿と重なりつつ、マキマの印象を複雑に照らす。
聖母か、悪魔か。
デンジくんがデビルハンター稼業を続ける限り、マキマのオッパイに包まれたいと願う限り、そんな問い掛けが長く、女の形をした謎には伸びていく。
マキマが宿す宗教画めいた崇高な遠さに対して、パワーちゃんとの距離感は(絵画めいた異様な美しさを宿す、空と家に確かな迫力を宿しつつも。……美術と撮影良すぎるこのアニメマジ)即物的でシンプルだ。……シンプルなはずだ。
殴り殴られ、利用し利用される。
お互いをモノ化する欲望はその裏に、小さな命との確かなやり取りを共有していて、『シンプルで乾いた現実』と切り捨てるには、感情的で感傷的にすぎる。
やせ細ったミャーコを掴むパワーちゃんの、遠慮のない手付き。
どうでもいい他者の命を奪って、愛するものを肥え太らし身近に抱いていく心地よさと、そこに震える己の心。
女のオッパイを揉むより早く、デンジくんは胸から伸びたへその緒を握りしめて己を励起する。
ポチタを探し回って不安に怯え、愛を抱きしめて眠った幼い日を思い出しながら。
そこには、誰かをモノにする”まともな男”らしい視線より、柔らかなものが確かに息づいて、蝙蝠の悪魔に飲まれたパワーちゃんと自分を繋いでいく。
裏切られミャーコを飲み込まれ初めて、パワーちゃんは大嫌いなはずの人間/=悪魔の気持ちがわかる。
打算と欲望でしかつながっていなかったはずの相手の痛みと体温を、デンジくんは荒廃した表層を貫通する痛みでもって確かに受け止め、卑劣な怪物をぶっ殺せる自分へのスイッチを入れる。
キンタマ蹴り飛ばしオッパイ揉み、きったねぇ仕草でメシを食うこのお話の、はしたない人間の生き様がどこから生まれ、どういう脈を打っているのか。
猫と犬の思い出、それで繋がる人と悪魔は、そういうモンを良い作画で浮き彫りにしていく。
この後の最高バトルの派手さに目を奪われがちだけども、痩せて太る生物としてのミャーコ、それを撫でるパワーちゃんの情感と実感が、スーパーアニメーター起用の真骨頂だとは思うね。
とかスカした事言いつつ、凄すぎ作画に脳天痺れて絶頂なんですけどね~~~!
いやー、マジですげぇ。
街ぶっ壊しながらの大立ち回りは作中初めてになるので、付随被害甚大バトルをぶん回し、敵も味方も血みどろな凄惨戦闘は大変ショッキングで大迫力、目が離せない。
アニメで主役周辺の解像度がガン上がりしているので、破壊されていく街並みも、そこで蕩尽される人命も、『メシさえ食えればなんでもいいぜぇ!』とか吠えてるヤバ少年が思わず目を留めて、名前も顔も知らねぇけど見捨てられねぇ大事なものだと見つめてしまう人間の表情も、大変いい具合で切り取られる。
ド迫力の大虐殺のオマケとして、芝刈りの芝のごとくチェンソーでぶった切られる宿命のモブ達を、しかしデンジくんは見捨てられない。
凶暴な牙をむき出しにした、瞳なき”チェンソーマン”のアップにはしかし、描かれていないはずの人間性表出機関が、確かに存在してしまっている。
それは目の前で起こっていることを見据えて、見て見ぬふりが出来ない心の窓であり、敵を睨みつけ殺意を外に飛ばしていく出口でもある。
チェンソーマンは確かに、何かを見つめて何かを睨んでいる。
そう思える演出になっているのは、すっごい良い感じだと思う。
画面を立方体がビュンビュン飛び交うど迫力バトルの中で、デンジくんは蝙蝠の悪魔の紫の血にも、自分が流す赤い血にも酔わない。
求めて届かぬオッパイには滾るが、ネクタイを引きちぎりシャツを荒らげ、世の中が押し付けてくるモノから自由になりながら、デンジくんはチェンソーで切り裂いて助けたいモノを見失わない。
戦いの中でぶっ飛ぶネクタイが、マキマが締めてくれた犬の首輪であることを思い出すと、『ぜってぇ仲良くなれねぇ』と毒づいていた女を助ける(そして正統な報酬として、約束通りオッパイを揉む)ための戦いが、何を求めて血みどろなのかは良く分かるだろう。
デンジくんが本当に欲しいのはジュースでもオッパイでもないとは思うが、それが何なのか彼自身解らず、知らず、識るための”まともな”方法なんて誰も教えてはくれぬまま、血みどろの戦いが目の前に立ちふさがっている。
それを引き裂く時、チェンソーマンが赤子のように血みどろに毎回生まれてくるのが、泥まみれに掠れたこの作品独自のヒロイズム……そしてロマンティシズムの表出として、とても好きだ。
キメッキメな叫びの作画は、その手触りをアニメ独自の筆で……そして原作に同じく宿っている血と同じ色で、しっかり書いた感じした。
ハチャメチャな戦いに平和で”まとも”な日常(デンジくんがいつも遠目に見て、遠いままなもの)を巻き込んだり、悪魔の姿でそれを遠ざけ護ったりしながら、デンジくんは欲しい物を叫び、引き裂いて掴み取っていく。
その戦いは非情で理不尽で実りがなく、楽勝な蹂躙ばっかで終わりはしない。
それはヒーロー演劇ではなく、彼が泳ぎ溺れていく現実そのものなのだから。
しかしクソ女に騙され裏切られ殺されかけ、解りあえないと遠ざけてなお、不思議と通じ合うものを心臓の奥に確かに感じながら。
まだバタバタした等身大の荒っぽさを残して描かれるチェンソーマンの戦いに、宿るものが確かにある。
それをしっかり切り取ってきた、良いバトル回だと思いました。
この血の池から見えてくるものは、一体何か。
次回描かれるものも、とても楽しみです。