イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

後宮の烏:第9話『水の聲』感想

 死者の声を聞くのは生者のみにあらず……霊的叙述トリックが冴える、後宮の烏第9話である。
 人との出会いや大きな感情的変化が続いてきた話を一旦落ち着かせて、オーソドックスな霊能探偵物語……と思わせておいて、異能を誇る烏妃にも解決できぬ長年の妄念が事件の奥に潜む、というお話。
 可憐な若姫から呪われし亡者まで、人間の様々な顔を一人で演じ分けた釘宮理恵が圧巻の役者ぶりであり、エンドクレジット見るまでどの役やってるか分かんなかった。
 流石や……。

 

画像は”後宮の烏”第9話から引用

 やはり美術の良い作品で、老女の後悔が眠る岸辺には霧がかかり、彼岸と此岸の境界は、大変分かりにくくなっている。
 楽土に導くべき幽鬼はどこにもおらず、依頼人自体が妄念に囚われた幽鬼だった……という構造は、これまで現世の因縁と死者の無念を掬い上げてきたお話のスタンダードから少し離れて、いかさま寂寥と無力感を残すものだ。
 残念晴れぬ悪霊と断じて消し去ってしまうことは容易いといいつつ、寿雪は後悔の念に呪われた幽鬼が現世に迷うことを許し、水の癒やしがその迷いを断ってくれることを願う。
 地獄の閻魔のように魂の軽重を問い、判決を下し行き先を定めるのは、烏漣娘娘をその身に宿す烏妃でも分を超えたものと、今回も寿雪は誠実に判断する。
 この驕らなさが、衣斯哈を引き受けてますます家庭的な色合いを増していく夜明宮に、人が惹きつけられる大きな理由なのかもしれない。
 前回地に伏して赤心を述べた温螢に、烏妃の側仕えとして心なしか距離が近づき、立ち居振る舞いに熱がこもっているような描写があって、変わりゆく寿雪の世界が静かに描かれている感じがした。

 

 人としての分を厳密に守りつつ、人としての喜びを小さく積み重ねていく寿雪の暮らし。
 新月の夜、身に宿した烏漣娘娘が飛び立ち身を引き裂かれるような超越的苦悩は、それと対比されつつ同居している。
 宿命に身を捧げた自由なき生贄であり、優れた魂を持つ一個人でもある寿雪は、人間が人間である業に呪われ、どこにもない言葉を聞いてしまった幽鬼を祓う術を持たない。
 それこそが彼女が生身の人間である証明で……さて、神としての視界に割り込んでくる”梟”は、いったい何を望むのか。
 皇帝の横槍を受けて歴史の表舞台に出てきた冬宮と合わせて、また一つ大きく物語が動きそうでもある。

 ”梟”は一度烏妃が跳ね除けた死者の復活を、難しいことではないと嘯く。
 それは今回、残るべき魂と消えるべき魂を分けなかった寿雪の謙虚さと、真逆の傲慢に思える。
 人の身が扱いきれぬ節理を、自在に操る異能の術式。
 それに長ければこそ歴代の冬の王は歴史の奥に己を沈め、人間のありようから己を遠ざけて生きていたのだろう。
 先代に文字を教わり、衣斯哈に手習いを教える寿雪は、正しくその教えを継いでいる。
 それが悲愴で不当だと感じるから、高峻は触れ得ざる秘史に深く潜り、冬の王を後宮から解き放てる社会体制を手探りもしている。

 人を幽鬼に変えてしまう、あまりに重たい業と思い。
 皇帝たるもの、異能を繰る冬の王たるもの、その全てを飲み込んでなお毅然と、謙虚でなければいけない。
 しかしそれは、人の身に余る重荷なのではないか。
 そんな実感と予感を、ひっそり思わせるエピソードでした。
 寿雪が己の身に余ると、滴る時と水に解決を委ねた結界を”梟”は破った。
 それは幽界と現世、神と人の境界を破る傲慢の産物なのか、はたまた未だ図り知れぬ謎を抱えているのか。
 次回、後宮に迷った”梟”の羽ばたきが何をもたらすか……大変楽しみです。