イマワノキワ

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ヴィンランド・サガ SEASON2:第16話『大義』感想

※お知らせ
 TwitterAPIの仕様変更に伴い、ツイートをまとめて掲載する形で感想を書くのが難しくなりました。
 今後”ヴィンランド・サガ SEASON2”の感想は、ブログへの直書きへと移行させていただきます。

 

※本文

 愛を抱えて嵐の中へ、更にもう一歩。
 主人不在のケティル農園で展開する人間模様は、遂に”蛇”とトルフィンの衝突へと発展していく。
 ヴィンランド・サガSEASON2、第16話である。

 かつて一度は同じ食卓で夜を共にした者たちが、剣を構えて向き合う。
 世にありふれていて、耐え難い世知辛さに満ちた対峙に至る道程は、このアニメらしくどっしりしている。
 各キャラクターの抱えた苦悩と決断を色濃く刻み込み、コクのある顔面作画をたっぷり味合わせる中で、浮き彫りになってくるそれぞれの思いと事情。
 隣人への、惚れた相手への愛ゆえに背中に庇うものと、身内を獲られた重さを剣に宿すもの。
 暴力を看板に出している以上譲れないメンツがあり、殺戮の過去ゆえに退けない理由があり、灰色の亡霊がひっそりと、決断をうそぶく。
 さて運命の決着は……って温度だけども、ケティル一族とレイフおじさん、クヌート王とその軍勢がここに戻ってくんだよな。
 農園が焼け野原になる大嵐を前に、奴隷と戦士の互いに譲れぬ対峙が燃え上がるその先に、どんな運命が待つのか。
 全く目を離せない、緊迫感が肌にヒリヒリ心地いい。

 

 

 

画像は”ヴィンランド・サガ SEASON2”第16話より引用

 アルネイズを囮に、身内を殺された落とし前をつけようと待ち構える”客人”にとって、奴隷二人は名前も出てこないハズレである。
 しかしスヴェルケルを介して縁を繋ぎ、同じ釜の飯を食った”蛇”は彼らの名前をしっかり覚えている。
 人間扱いしている、ということだ。
 その名と顔と思いを知った上で、剣に預けた自分たちの稼業と、流された身内の赤い血を天秤にかけ、殺しもやむなしという冷徹な判断を下している。

 万人が平和に暮らす夢が砕けるのは、身を焦がすほどの憎悪よりもむしろ、奪われた愛と釣り合うだけの暴力を、天秤に載せざるを得ない共同体意識ゆえなのだろう。
 生きてていいやつと死ぬべきやつ、俺たちと奴らを冷たく切り分けられる選択性の共感能力こそが、身内のため、国のため、名誉のために死ねる狂気を人に宿し、英雄を生み出す。
 野蛮と崇高は、常に背中合わせなのだ。

 影の奥色濃く匂う暴力の気配に、歴戦の勇士であるトルフィンは気づいていて、元農夫のエイナルは知らぬまま……というのも、お互いに刻まれた個人史が濃く出てたよかった。
 家探しの背景に感づくのもトルフィンだったし、直感を研ぎ澄まさなければ生き残れない戦場に身を置いていた事実は、それを忌避しても消えない。
 同じく身に染み付いた戦の作法を、誰かを守り誰かを殺すために再び抜くのか。
 お話は、そういう方向に加熱していく。

 

 

 

画像は”ヴィンランド・サガ SEASON2”第16話より引用

 嵐をやり過ごす理性的結論を、一度は出しておいて背を向けた理由を問われ、アルネイズは魂を絞り出すように慟哭する。
 解っていても諦められない儚い夢に、すがって進む先はどうにも暗い。
 方法も解らぬまま、エイナルもまた惚れた女のために熾火に身を投げていって、その決断はしかし、灯火を宿さない。
 トルフィンが顔を上げて、策を講じて活路を開こうとする時、ようやく微かに光明が画面に宿る。
 友愛と連帯は、出口の見えない闇の中でも眩しく光る。
 それは魂を焼き尽くす炎とは、違った色の光だ。
 だから、何も出来ぬままに弱いのか。
 それはこの後、状況が動きだした後で解る。

 

 

 

画像は”ヴィンランド・サガ SEASON2”第16話より引用

 ”蛇”もまた剣を抱えたまま闇の中にいて、暴力家業を続ける限り手放せぬ重たさを、苛烈に睨みつける。
 それは強さの証明というよりも不自由な鎖に見えて、捨てる強さを知る老人は、血の繋がらぬ息子に道を諭す。
 その時節くれだった拳は強く握りしめられて、聖人の清らかさよりも農夫のたくましさが色濃い。

 複雑な人生を歩んでこの土壇場に流れ着いた”蛇”は、抜くべき時に剣を抜いて力を知らしめることが、無為に死ぬ命を最小化出来るという、冷たい方程式をよく知っているのだろう。
 無論操を立てた騎士さまではないので、酒もかっ食らえば人も殴り、ハッタリとメンツで飯を食うヤクザな稼業ではあるけども。
 獣を引き付ける富を蓄え、それを追っ払って平和を作ってきた立場は、農場を維持するための必要悪として、節度と野蛮を同居させている。
 そういう男が、一歩も引かずケジメを付けなければ立ちいかないと判断し、剣を固く握りしめる状況は、簡単には揺るがない。

 剣を投げ捨て虚栄に背を向け、土を耕し地道に生きる。
 すべての人がそう生きられるのならば平和で平等だが、他人が腰曲げて刈り取った麦を暴力で奪い取る活き方が、そうして奪ったもので身内を飢えから救う定めが、世の中にはあってしまう。
 人がみな満たされて生きれるほどには、豊かではないこの神なき地上で、それでも人らしく生きていくために握られる剣すらも、退けるべき悪なのか。
 老人の提案とそれを跳ね除ける”蛇”の表情には、人間が生きることの根本的な難しさが、色濃く宿っている。

 

 

 

画像は”ヴィンランド・サガ SEASON2”第16話より引用

 そういう困難が、硬い質感でぶつかり合う場所。
 トルフィン発案の詐術を冷静に見抜き、馬の足音で気取られぬよう歩行で近づく”蛇”

の冷静こそが、巧みに変化する剣先よりも強く、戦士の資質を示しているように思う。
 そしてお互い必死に相手を出し抜き先を読み、自分の大事な願いを果たそうと追いすがってる切迫感が、最高の戦闘作画と噛み合ってバリバリ体温上げてくる。
 油断なく死力を尽くしている感じは心地よい緊張感をドラマに宿すが、相対するのが一度は腹の底を見せあい、同じテーブルで飯を食った同志だと思い出すと、興奮ばかりもしていられない。

 誰かを守るために必要な暴力を構える時、トルフィンに囁くのはアシェラッドであってトールズではない。
 故国を守るべく必死にあがき、剣を捨てて人として生きる道を何処かに夢見つつ、剣の狂気に殺された男。
 復讐に滾りつつその背を追った日々は、確かにトルフィンに深く染み込んでいて、熟考を許さない決断の瞬間に、まるで優しき父のように、悪魔の誘惑のごとく問いを投げかける。

 知恵にも剣技にも長け、退けない理由を総身にみなぎらせた戦士を前に、戦わなければ守るべきものが殺される。
 この極限的状況の中で、トルフィンはかつてと同じくニ刀を構えるが、その両手は空だ。
 復讐に突き動かされてきた時は感じなかった……感じないように心を殺さなければ、魂を燃やす炎をどうにも出来なかった、刃の犠牲となる人の顔。
 スヴェルケルの家で肩を並べた時間は、己の罪にうなされた悪夢の夜は、汗を流し土に向き合った日々は、トルフィンに目を開かせる。

 眼の前にいる全ての人が、生きるべき理由と難しさを抱えて、己の前に立っている。 そんな当たり前の真理を実感した時、もはや刃はあまりに重い。
 しかしそれを振るわなければ、出口のない闇の中顔を上げて、それが自分の光なのだと信じたモノは守れない。
 ジレンマである。
 アシェラッドの幻影は、その苦しさから顔を上げて楽になりたいという、”父”にすがるトルフィンの心が、生み出しているのかもしれない。
 やっぱトルフィンにとってアシェラッドは間違っていて優しい父で、トールズは厳しく正しい父なんだな……。

 

 刃なき構えで立ちふさがっては見たものの、戦いを前にトルフィンの心は揺れている。
 それでもなお”蛇”変幻の刃をしのぎきり、背骨に電流を流す実力を、あの血と炎の日々は鍛え上げた。
 己の正しさを握りしめて、誰かを守る勇者……あるいはかつて忌避した”ヴァイキング”となるか。
 それとも、剣を捨ててなお勝利する真の戦士へと、進み出せるのか。
 事態は暗い闇と燃える炎、微かな光を交えて複雑に、激しく駆け抜けていく。
 まさに運命の正念場ながら、二転三転の気配も描かれ、固唾を飲んで見守るばかり。
 次回も楽しみです。